第一章 婚約者の秘密②

 ウーゴという名前には「聡明で頭のいい」という意味がある。そうなるように親に名付けられたらしいが、それをウーゴはあまり好んでいなかった。聡明だとか、頭の良いだとか、まるで人の良いように操られるようで好きになれない。ウーゴは、この自分の名前が苦手だった。

 だから、あの女は……リリィ・クロ―リスという少女のことは、不可解で不愉快な対象である。

(普通、初めて会った相手を婚約者だとか認められるか)

 おかしい。おかしいと考えていても、それで何かが変わるわけがない。

 クローリスの当主は、本人の気持ち次第だと言っていたが、当の本人は不思議に思いながらも婚約者だという男のことを受け入れてくれた。ほぼ即答だ。

「馬鹿か」

 本心が出る。誰も聞いていなかったのが幸いした。

「ウーゴ様」

 否、彼の背後に静かに佇むウィミィだけが、その呟きに反応した――ように見えたが、単純に用件があり名前を呼ばれただけということに後から気づく。

「なんだ」

「ネクタイがほどけています」

「ああ、これか」

 きっちりとした服はめんどくさいなと思いながらウーゴはネクタイを直そうとしたが、うまくできない。じれったくなり一度ほどくと、もう一度首にかけ直す。

「ウーゴ様。失礼します」

 横から伸ばされた腕を、反射的にウーゴは握った。

 「悪い」といって慌てて手を離す。少女の腕はあまりにも華奢で、ウーゴが力を入れただけで折れてしまいそうで、握っているのが怖くなったわけではない。反射的に出てきた、昔の癖を疎ましく思ったからだ。

 ウィミィは気にすることなく、ウーゴのネクタイを丁重な手つきで素早く巻き直すと、再びウーゴの後ろに下がり静々と置物のように瞑目した。

 食堂の扉が開く。

 悩みの種である、リリィ・クローリスと当主のアバント、それから妻のライカがやってきた。

 大きな食卓で、上座に座ったリリィと、ウーゴは目を合わせる。髪の毛と同じ純白の瞳がにっこり細められた。

「それじゃあ、私たちはこれで失礼するよ」

 アバントがライカと共に部屋から出て行き、ウィミィも静々と部屋を後にする。

 ウーゴはもう一度、リリィの瞳を眺めた。

 蒼く冷淡に見えると昔は恐れられていた瞳だが、リリィには通用しないのかニコニコしながら首を傾げるばかりだ。

 馬鹿らしくなり、ウーゴも自然な笑みを浮かべる。

 昔は不釣り合いだと鼻で笑われた笑みだが、五年も練習していれば自然に見えるだろう。なんとなく鏡を覗いた際、ウーゴが自分の笑みを見て驚いたぐらいには。

 静かな食堂の中。その中心に置かれた長机にあるのは昼ご飯だ。婚約と言っても、大々的にパーティーをするわけではない。ただ、将来を誓いあった恋人が同じ食を共にして、将来について語り合う。たったそれだけのこと。パーティーは、結婚式で行われる。

 因みに、一般的な婚約の場合だとそれだけで終わりなのだが、ここは華族の家である。国に認められ、花の精霊とお伽噺を託された、華の一族の婚約は、ただ食事を食べて将来を語るだけで終わるわけではない。

 ひとつだけ、一般とは異なることがある。

 それは、男性が将来を誓いあった相手に対し、宝物をひとつ与える。それを、結婚式までに返されることなく女性が傍に置いていたら、二人は一生離れることなく寄り添い生きていくことができる。プレゼントした宝物を、もし、結婚式までに女性が手放したり、男性に返したりしたら、二人は一生共になれることはない。そうやって昔から語り継がれるお伽噺を華族は特に大切にしてきた。それが、精霊と共にいる為に大切なことだとか。一応ウーゴも華族なので、お伽噺は大切にしなければいけない。

 少ししてから、どちらからともなく食事は開始された。



 会話という会話もなく、食事は終わった。終わってしまった。

 いったい何のための婚約の食事なのか。

 自ら会話の花を咲かせに行かなかったくせに、ウーゴは無性に苛立ちを感じていた。

 いや、それは会話がなかったからじゃない。

 目の前にいる女――リリィは、何を言ったところですべて受け入れるような、そんな聖母じみた笑みを浮かべているからだ。

 苦手だと、ウーゴは思った。

 この女は、やっぱり苦手だ。

「ウーゴ様」

 リリィが口を開く。

 蒼い瞳でウーゴは見返した。

 どこか不安そうな顔で、彼女はウーゴの顔色を窺うように言葉を紡ぐ。

「お口に合いませんでしたか?」

「いや、十分だ」

「では、どうしてそんなにも険しい顔をなされているのですか」

 言われて、ウーゴは自分が笑顔を消していることに気づいた。

 ただでさえウーゴの瞳は、どこか冷淡に見える仄暗い輝きを秘めているのだ。長らく躾けられてきたのに、生まれ持ったこの蒼い瞳は変わらないらしい。

 人の性格がそう簡単に変わらないのと同じか。

 ため息をつきそうになり、慌ててウーゴは笑顔を取り繕うと、何でもないことのように応える。

「リリィの顔に見とれていたんだよ」

 口から自然に出てくる言葉に、単純なリリィは頬を赤らめた。

「まあ、やはり、トランダフィルの王子さまは、お口が達者なのですね」

(何とも哀れだな)

 呆れ、その素振りを見せることなく、いまだけはトランダフィルに語り継がれているお伽噺の王子様になりきってみようかと、ちょっと悪戯心でウーゴは言葉を選びながら彼女を口説くことにした。

 どうせもう町に戻ることはできない。

 トランダフィル夫妻は、血の繋がらない息子よりも、新しい後継ぎを育てるので忙しいのだから。あそこに戻ったところで、そこにウーゴの居場所はない。――もともと彼の居場所はどこにもありはしない。

 だから隣町のクロ―リス領で、どうにか居場所を作るしかなかった。

 人の言葉を疑うことを知らない少女が相手であれば、容易くここで価値のない自分の居場所を築くことは可能だろうと、ウーゴは自分を偽ることにした。

「実は、俺はあなたと五年前に会っているんだ」

「それはいつのことでしょうか。その素敵な蒼い瞳は、一度見たら忘れないはずなのに」

「ああ、言い方が悪かったな。正確には、あなたのことを遠目で見たことがある。五年前の、フローラリア祭で」

 五年前、ウーゴはクローリス領で毎年開かれる花の祭典「フローラリア祭」にたまたま顔を出していた。

 フローラリア祭は、花の女神フローラを祭る祭典である。昔、女神フローラの美しい歌声で数々の花が産まれた。同時に、花を守る花守として精霊が。それから花の種を運ぶ役目として妖精――フラワー・フェアリーが生まれた。

 女神フローラは、数々の花と精霊、それから妖精を産み出すと、自らの花園にすべてを隠し自らも花となってその姿を消してしまった。その花園からこぼれ落ちる種により、毎年四季折々の花がこの世界に咲き乱れる。

 クローリスは、その中でも特に様々な花を咲かすことで有名だ。

 春に桜を、夏に百合を、秋に薔薇を、冬に椿を。薔薇は、トランダフィルの方が美しいが、トランダフィルでは他の花は育たない。

 いつしか、クローリスは女神フローラの眠る町として有名になった。人々は自然に、女神フローラを信仰して、フローラリア祭も行われることになった。

 フローラリア祭は主に昼と夜の二部に別れて行われている。

 昼の部は、まだ若い十五歳までの少女がフラワー・フェアリーを模した衣装を纏い、舞台で踊る。夜の部は、その年に選ばれたこの町で一番美しい少女が、女神フローラを模した衣装を纏い、その歌声を披露する。

 五年前からいままで、女神フローラに選ばれ続けているのは、この目の前にいる少女リリィだった。

 彼女の何者も寄せ付けない無垢な白髪。それから気高く高潔にも見える、だけどこか純粋さを含んだ髪よりも透明な白い瞳。それは、お伽噺で語り継がれるフローラそのもので、五年前の彼女もまさしくフローラだった。――そのように、ウーゴ感動した。

「あの時のあなたの姿に俺は惚れたんだ」

「嬉しいですわ」

「だから、今回俺からこちらの婿に迎え入れてもらえるようにお願いした。そしたら余りにもあっさりと受け入れてもらってね、正直これは何かドッキリじゃないかって、いまでもひやひやしているんだけど」

「それであんなにも険しい顔をしていらしたのですね。ですが安心してください。私も、お父様もお母様もドッキリなんて悪ふざけ行いませんから」

 いやふざけているのはあんただ、と言いたい言葉を飲み込み、ウーゴは安堵するかのようにため息をついた。それにあんたの父親はあんたにドッキリと仕掛けたんだぞ。

「嬉しいな、リリィ。あなたは、俺の想像以上に優しい人みたいだ」

「私も嬉しく思います。あなたみたいな素敵な方と一緒になれて。ウーゴ。本当に、私の旦那さんになっていただけるのですか?」

「とんでもない。むしろ俺のほうがまだ不安なぐらいだ。あなたに俺なんかが似合うとは思えないし、何より、ほんとうにまだ夢の中のようで。目が覚めたとき、あなたが隣からいなくなってやしないかと、そんな恐怖まで感じるんだ」

「夢ではありませんよ。その証拠に」

 リリィがいきなり立ち上がると、ウーゴの傍までやってきた。

 細く傷のない細い手を、ウーゴの手の上に置く。

「あなたの手は温かい」

「リリィの手も温かいな」

「ふふ」

「ははっ……」

 ああ、俺は何をやっているんだろう。

 無性に、いますぐこの場を逃げ出したくなってきた。

(くさいな)

 自分の口から出てくる言葉に、怖気しか感じない。

 そんなことを微塵も知らないだろうリリィが、繋いだ手を愛おしそうに眺めている。

 その横顔を見ていると、ちくりと胸を刺すような痛みを感じた。

 奥歯を噛みしめ、いまだけトランダフィルの王子のように、微笑みを絶やさずに見つめ合う。

 なぜか、リリィの瞳を見ていると、全てを見透かされているように感じて、ますます居心地が悪くなり、逃げ出したくなった。

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