ハナショウブを忘れずに
槙村まき
第一章 婚約者の秘密
第一章 婚約者の秘密①
リリィ・クロ―リスの姿を初めて目にしたのは、いまからおよそ五年前の、春の祭典「フローラリア祭」でのことだった。
クローリスの町に古くから伝わる、花の女神フローラの衣装に身を包んだ同年代の少女が、照明の瞬く夜の舞台に上がって歌を披露している。
それを、ハイドランジアは遠くから眺めていた。
衣装には、四季折々の造花が本物の花のように咲き乱れている。
春の桜、秋の薔薇、冬の椿、それから彼女の名前と同じ、リリィ――夏の百合も。
その姿は、まさしく古くからお伽噺で語られる女神フローラの姿のようで。特に、彼女の純白の髪の毛はこの町でも珍しく、天使の輪のように輝き。誰もが笑顔に惚れて、透き通る歌声に耳を済ませていただろう。
ハイドランジアもそうだった。
冷酷で冷淡だと恐れられている仄暗い碧の瞳を、呆けたようにあけて彼女を眺めていた。
もし、彼女の本当の姿を見なければ、彼女が本物の人間だなんて思わなかっただろう。
それほどまでにあの瞬間、リリィ・クロ―リスは、花の女神そのものだった。
◇◆◇
ウーゴ・トランダフィルを乗せた馬車が、クローリスの百合の花が施された門をくぐったのは早朝だった。まだ朝日が顔を出したばかりの、薄暗い道を二頭の馬が退く馬車が通り過ぎていく。
早朝から起きて仕事をしている人々は何事かと馬車に目をやり、そして馬車が数々の薔薇の造花で装飾を施されているのに気づくと、思わず目を細め、口々に「トランダフィルの王子が来たぞ」と、お伽噺の王子の到来を周囲に知らしていた。
「王子ねぇ。俺は、ただの華族の息子なんだけど」
馬車の窓から、ウーゴは感情のこもっていない瞳で外を見渡していた。
そんな彼の向かいにいるのは、さくら色のメイド服に身を包んだウーゴよりも幾ばくか幼い侍女。目を閉じて静々と、置物のように座っている少女を一瞥して、つまらなそうにウーゴはまた外を眺めた。
隣町だというのに、この町に来るのはこれで二回目だ。
一回目は、ウーゴがまだ十三歳の時。フローラを祭るこの町特有の春の祭典、フローラリア祭が行われていた時だった。
たまに懐かしく思い出すあの光景に目を細めていると、これからウーゴが住むことになる屋敷に到着したところだった。
クローリスの中でもひときわ異彩を放ち、大きな佇まいの屋敷を前に、馬車は止まった。
御者が降りてくるよりも早く、お付きの侍女が扉を開けて降りていき、ウーゴはそのあとに続いて侍女が開けてくれていた扉から外に出る。
地に足をついてから、ウーゴに向かって頭を下げている侍女に目を向けた。
彼女の名前は、確かウィミィだったか。さくら色のメイド服が良く似合っている。派手になりすぎないように、レースはあまりあしらわれていないものの、彼女の持つ本来の美しさは隠し切れていない。ふと顔を上げた彼女のさくら色の瞳と目が合い、ウーゴは目を逸らした。
彼女も気の毒に。
ウーゴは半ば追い出されるように、トランダフィルからクローリスの家に婿にやってきた。それには色々と理由はあるものの、一番大きな理由は、トランダフィル夫妻に新しい後継ぎが産まれたからだろう。もともと血の繋がりのないウーゴは、それにより用済みとなったのだ。だから、適当な名目でクローリスの家に婿にだされた。ウィミィは彼のお付きとなっていたがために、住み慣れた町を離れて暮らさなければいけなくなったのだ。気の毒だと、思わずにはいられなかった。
その気持ちを知ることのない表情の乏しい侍女が何かに気がつき顔を逸らす。ウーゴも近くにやってくる人物に気がつくと目をやった。
「やあ、待っていたよ、ウーゴ君」
クローリス家現当主のアバント・クローリスがそこに立っていた。
四十代後半だったか。それにしては若く見える顔立ちに、小さな皺を刻んだ人の良さような男性だ。彼の隣には、妻のライカ・クローリスがお淑やかな笑みを湛えて付き添っている。
使用心も数人いるが、肝心の花嫁の姿はないようだ。
「ウーゴ君。こちらに。まだ娘は寝ているからね、静かにお願いするよ」
最初意味が分からなかったが、そういえばここに来る前に読んだ手紙に変なことが書かれていたことを思い出す。
どうやら華族クローリスの領主は子供のような遊び心を持っているらしい。
呆れつつも、そんな素振りを見せずに、ウーゴは彼らの後をついて行った。
◇◆◇
リリィはいつもの夢を見ていた。
見たこともない花園で、男性の姿をした花守の精霊の出てくる夢を。
その花園の名前は、クローリスで昔から語られる花の女神フローラが創り出したとされる、春夏秋冬関係なくいろいろな花たちが咲き乱れる「フローラの花園」といわれているところだ。
だからこそ夢なのだ。フローラの花園は、お伽噺の中にしか存在せず、その姿を見たものはいまの世の中誰もいない。領主である父も、母も、それからリリィも。その姿をその眼で見たことはなかった。
夢は夢のままで、ふと顔を上げた腰ほどまで伸ばした長い髪の男性が囁いた言葉により、リリィは目を覚ます。
『――愛しいリリィ。お客さんだよ』
天蓋付きのベッドの上で、今日で十八歳の誕生日を迎えるリリィ・クローリスは目を覚ました。
カーテンの隙間から覗き込んでくる朝日に目を細める。
ふと、誰かの気配を感じた。
続いて声が聞こえてくる。
「やあ、お目覚めか。花嫁様……いや、花嫁は早いか」
花嫁? と疑問に思ったものの、聞きなれない声の人物を探して視線を彷徨わせると、ベッドの脇から少し離れた扉付近に、見知らぬ青年が立っていることに気づいた。
黒い髪に、どこか冷酷にも見える蒼い瞳が特徴的な青年は、不釣り合いな笑みを浮かべている。
不思議に思いながらも、リリィはベッドから足を出すと、青年に質問をした。
「あの、どちらさまですか?」
「……そうだな。今日からあんた……あなたの花婿になるかもしれないしがない男ですよ」
「花婿?」
「そしてあんたが花嫁」
「花嫁?」
青年を指さして、それから自分を指さして暫く黙考。
そして、意味の重大さに気づき、リリィは驚愕に目を見開いた。
「え、ど、どういう意味ですか?」
花婿や花嫁の意味ぐらいわかる。わからないのは、どうしていきなり花婿と名乗る見知らぬ青年が部屋の中に居て、自分を指さして花嫁と言っているのかということだ。
ぼりぼりとめんどくさそうに頭を掻き、それを自ら咎めるように頭を掻いた手を眺めてから、青年はコホンと咳をして口を開く。
「あー、あれだ。あれです、あんたの父上が、あんたの誕生日に俺を花婿に迎え入れたわけです。だからあなたは俺の花嫁で、俺はあなたの花婿。ここまではおっけい?」
「え、あ、お、おっけい?」
首を傾げる。
青年はますます眉を潜めた。リリィの理解が足りないせいだろうか。
なんだか申し訳なくなり、リリィは俯く。
少し躊躇ってから口を開く。
「意味は分かりました。あなたは、今日から私の旦那さんになられるのですね?」
「……正確には、結婚式は一か月後だから、婚約者じゃないか」
そういえば、数日前から父や使用人が何やら自分に隠し事をしていたような気もしなくはない。大きな広間となっている部屋に入らないように、常に広間の前に使用人が立ってはリリィの顔色を窺ってきたり、料理人の人数が増えているように感じたり、幼馴染で大親友のカエルレアとお茶会を開いた時、カエルレアがどこかそわそわとしていたり。
気になっていたものの、みんなが口々に「お気になさらず」「大丈夫ですよ」「あ、こ、このお茶おいしい! リリィ、大好きよ!」と笑顔で答えてくれたので、それ以上深く聞くのも悪いと思い、それ以上尋ねることはしなかった。何より、信じられる人の言葉に疑問を持つということを、リリィは考えたことがなかった。
ふふっと、思わずリリィは笑みをこぼす。
「お父様ったら、面白い誕生日プレゼントありがとうございます」
いきなり笑い出したリリィを訝しみ、青年がますます顔を険しくさせる。
安心させるように、リリィは彼に向かって微笑みかけた。
「リリィ・クロ―リスと申します。あなたは?」
「……ウーゴ・トランダフィル」
「まあ、トランダフィルといったら隣町の華族の。ふふ、まさしく王子様ですね。それでは、ウーゴ様とこれからお呼びすればよろしいですか?」
「いや、ウーゴで十分だ。俺もリリィと呼ぶからな」
「それではウーゴ。これから、よろしくお願いします」
「……は?」
信じられないと言った顔だ。
リリィは笑顔を絶やすことなく、ウーゴにとって理解できないことを口にした。
「それとも旦那様とお呼びすればよろしいですか?」
◇◆◇
(なんなんだ、あの女は)
理解できなかった。
どうして、寝起きにどこからともなくふって湧いた見ず知らずの男の言葉を信じて、旦那だと受け入れられるのだろうか。というかまだ婚約すらしていないので、旦那という言葉を使うのはそもそもおかしい。いや、それ以前に彼女は余りにも理解が早すぎる。
普通、部屋の中に見知らぬ男がいたら女性は叫びだすのではないか? と半ば冷や冷やしながら彼女が起きるのを待っていたのに、肩透かしを食らった気分だ。
(叫びださなかっただけましか)
ウーゴはため息をつく。
(どうして、あんな簡単に結婚話を受け入れられるんだ)
ウーゴからすると、理解に苦しむ行為である。
前からやってくる人物に気づき、ウーゴは顔を上げた。
「ウーゴ様」
「ウィミィ、どうした」
「これから婚約の準備があるそうです」
「そうか」
暫く迷ってから、ウーゴは応えた。
「わかった」
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