嫌いじゃない、けど、好き、とも言えなくて


 トランペットは嫌いじゃない。音楽も嫌いじゃない。吹奏楽も嫌いじゃない。つか、嫌いだったら高校でもわざわざ吹部になんて入らないだろうし。だから嫌いではない……はず、なんだけど。


「ちょ、ちょ! お茶こぼれてる! あずさ! お茶こぼれてるよ!」

「へ? ……うぇ、うわ! やべ!」


 小虎ことらに言われて、手に持っていたペットボトルが無意識に傾いていたことに気付く。慌ててポケットを探って、手あたり次第に出てきた物をその辺にぽいぽい投げたら、机の上にできたお茶の海に入ってしまって余計に自体が悪化した。


「あーあー、何やってんの、梓……。とりあえずハンカチ絞ってきなよ。おれがどうにかしとくから」

「……すまん」


 これ以上、おれがいてもどうしようもならないと思って、小虎にまかせてお茶が染み込んでびちゃびちゃになったハンカチを、床に雫がこぼれないように流しに持って行く。


 ハンカチを洗いながら、ため息が出た。今日は日曜日だけど、吹部に土日とかは基本的には関係ない。ついでにいうなら夏休みも冬休みもちょうど大会がある。

 貴重な昼休みに何やってんだおれは、とまたため息が出た。教室に戻ると、小虎がこぼれたお茶は全部どうにかしてくれたみたいで、まだ完全に乾いてはないけど、元通りになった机と、半分以上中身が減ったペットボトルがその上に鎮座していた。


「悪いな、小虎……ちょっとボーっとしてて」

「いいよ、気にしないで。ティッシュはもう使い物にならないから捨てといたけど、それだけごめん」

「いや、それは全然どうでもいい」

「それで、ボーっとしてたって、何かあったの? 好きな人でもできた?」

「んなわけねーだろ」


 笑顔で聞いてきた小虎に突っ込むと、あはは、と小虎は声を出して笑った。腐れ縁ってこともあって、よく羽柴先輩との仲をからかわれたりもするけど、それは絶対にないから安心しろ。茅ヶ崎先輩――トランペットのほうが、木管に転向するくらいあり得ない話だ。


「それとも何か悩みごと?」


 向かい合わせの机に腰を下ろすと、小虎が両手で頬杖をつきながら聞いてきた。なんつーか、言ったら失礼だから言わないけど、小虎って顔立ちがちょっと女っぽいから、こういうのをあざというとかいうんだろうか。どうでもいいけど。


「まあ……そんな感じ。悩みっていうほど大層なものでもないけど」

「解決できるかはわかんないけど、おれでよかったら話してみてよ。パートのこととか?」

「それもあるっちゃあるけど、今回は別」


 うちのパート――トランペットパートは一言で言えば"自由"だ。高校は中学と違って、1st、2ndが年功序列で決まるわけじゃないっていうのは分かってるけど、茅ヶ崎ちがさき先輩のトランペットを聞かされたら、1stを吹く気なんて失せる。あの人、性格は難ありすぎだけど、技術は本物なんだよな。才能がある分、性格に難ありなのかもしれないけど。


「小虎はさ、確か、もともとホルン希望だったんだよな?」

「うん、まあね。吹部に入る前は存在も知らなかったけど、体験入部の時におもしろい楽器だな~って思って、興味持ったんだよね」

「……新宮しんみやも、成子なるこも、狗井いぬいも、自分で希望して、今の楽器やってるんだよな」

「梓は違うの?」


 うんとも違うとも言えなくて、唸るしかできなかった。そんなおれを見て、小虎はきょとんとした表情を浮かべる。


 そりゃあさ、おれだって最初に憧れた楽器はトランペットとかの花形楽器だったよ。先輩を見て、おれもあんな風にできたらなーとか、そういうのは思った。でも、楽器を決める時に、自分で希望してトランペットになったわけではなかったりする。


「おれはたまたま周りが経験者ばっかりで、たまたまトランペットやってた奴がいなくて、自動的になったっていうか」

「へー、それもなんかすごいね」


 そのことが原因で、未だに羽柴はしば先輩からのおれへの風当たりは強い。羽柴先輩の第一希望はトランペットだったらしいから。でも適正テストみたいなので、トロンボーンになってしまったらしく、そういうのがなかったおれが憎いらしい。


「じゃあさ、梓は、トランペット嫌いなの?」

「嫌い、では、ない……けど……」


 でも好きだ、とも胸を張って言えなくて、言葉を濁す。


 嫌いじゃないんだよ。嫌いではないんだ。好きか嫌いかのどっちかで答えろって言われたら好きなんだよ。でも。


「じゃあ好き?」

「……なんだと、思う」

「だよね」


 小声で言うおれに、小虎はにっこり笑ってほっとしたような表情を見せる。


「いずれは1stも3rdも2ndも4thも、器用に初見でこなせるようになりたいな」


 ――でも、おれにはそういう目標みたいなのがないから。だから胸張って好きだって言えないんだと思う。トランペットは好きだけど、なんとなくで続ける、そんな気がするから。


「梓の目標はやっぱり茅ヶ崎先輩みたいな、ばりばりの1st吹きになりたいとか?」

「いや、そこまでは絶対無理」

「今からでも本気でやればいけるかもよ?」

「無理無理。あの人はなんつーか、特別な気がする」

「あー、分かるかも。なんでうちに来たのかなー、って思うことは時々ある」


 吹奏楽は基本的に団体競技だから、ひとりだけめちゃくちゃ上手くても意味はないんだろうけど、あれだけ上手かったら強豪校行ったほうがよかったんじゃね? とおれも思う時はある。うちも支部大会常連くらいだから、ぎりぎり強豪校なのかもしれないけど、その辺の基準はよく分からん。


「……でも、しいて言うなら」

「ん?」

「安定した2ndになりたいかな」

「2nd楽しいよね。倉鹿野先輩が好きだからあんまり吹かないけど」


 注目されがちなのは、どのパートでもやっぱり主旋律を担当する1stだけど、2ndがいてこそだと思うし、ハモるの楽しいな~って思う時あるし、榎並えなみ先輩が3rd好きっていうのもあるかもだけど、どれが好き? って聞かれたら、おれは圧倒的に2ndだ。先輩たちに挟まれてる安心感、みたいなのもあるかもしれない。


「でも地味すぎじゃね? おれの目指したいところっていうか」

「そう? 別に1stがえらいわけじゃないし、2ndや3rdだから簡単、ってわけでもないし……。まあそこんとこホルンは例外だけど」


 ……小虎の言うことはもっともだと思う。えらいパートも、簡単なパートもないよな。地味なパートはあるけど、そんなこと言ったら低音はどうなるんだって話で。


「あ、もう午後の練習はじまっちゃう。行こ、梓」

「……おう」

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