熊谷部長の昔話4

 ある日、彼女の病室に行くと彼女の姿はそこにはなかった。退院したのだろうか、一瞬そう思ったけど、そしたら彼女なら、この間のおみまいの時にきっとうれしそうに報告してくれるはず。


 なんだか胸のあたりがざわざわして、それでも勇気を出して看護士さんに聞いてみると、昨日の夜急に容体が悪化して、集中治療室に移動になったらしい。


 看護士さんに案内されて集中治療室まで行くと、たくさんの管につながれている彼女がいた。私の姿を見つけると、弱々しい笑顔と共に手を振ってくれて、私もつられて弱々しく手を振りかえした。

 大丈夫だよ、心配しないで。そう言いたげに微笑む彼女に、私は手を振るしかできなくて、とても歯がゆかった。




 その日から容体は一転して、今度は日に日に衰弱していくのが幼いながらに分かった。

 彼女のあの笑顔を知っているからこそ、弱っている彼女の姿は見たくなかったけど、今日はよくなっているかもしれない、そんな淡い希望を抱いて毎週通っていた。


 しかしそんな淡い希望も叶わず、日ごと彼女は弱っていった。それでも私が来ると笑顔を絶やさない彼女に、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような思いでガラス越しに手を振った。


「これ、あの子から熊谷くんに渡してって頼まれてたの」


 何もできない歯がゆさに、近くにあった椅子に腰かけてランドセルを抱えていると、看護師さんが手紙を手渡してくれた。封筒には、「熊谷くんへ」の文字。手紙には、毎週来てくれてありがとう、私が来るのを楽しみにしている、元気になったらまたいろんな話を聞かせてね、そんなことが書いてあったと思う。今でもその手紙は、最後まで読めてないんだけどね。


 それからすぐだったと思う。集中治療室にも、元の病室にも、彼女の姿がなくなったのは。誰もいなくなった集中治療室を見て、きっと治ったんだ、なぜかそうは思えなくて。


「君が熊谷くんかな?」


 彼女がいた集中治療室の前に立っていると、男性の人が声をかけてきた。その後ろには女性の姿もあって、分かってしまったんだ。この後に続く言葉が。


 そうです、と答えると、私と目線を合わせるように少しかがんだ。


「そうか。いつもあの子に会いに来てくれて、ありがとう」


 後ろの女性の人は泣いていた。男性の人も声が震えて、私の肩に手を置いたまま途中から泣いていた。


「あの子は……昨日、天国へ旅立ったよ。でも、君に会えて、きっとあの子は幸せだったと思う。君の話をしている時のあの子は、いつも楽しそうだった。だから、ありがとう。本当にありがとう」


 気を遣ってそんな表現をしてくれたんだと思うけれど、小学五年生にもなれば意味は理解できる。


 ありがとうと何度も繰り返す彼女の両親の前で、私はその場に立ち尽くすしかできなかった。ショックで涙も出なかった。


 だって、それは彼女が死んだってことで。先週、会いに行った時は少し元気そうだったのに。それは、たった数日前のことだったのに。毎回、そう、あの時も笑顔を見せてくれたのに。


 やっと涙が出たのは、病院を後にした頃だった。誰にも気づかれたくなくて、親にも見られたくなくて、遠回りして帰って、遅くなって怒られたっけ。






「思えばあれが私の初恋だったかもしれないねぇ」


 しみじみ語る熊谷に、音楽室内はしんと静まり返っていた。


「――まあ、そんな過去があったらどうだろうかと思って考えてみたんだけど」

「……え?」

「ということは何? 今までの話、作り話?」

「さあ、どうだろうね」


 涙ぐんでいる響介に、熊谷はくるりと背を向けいつもの特徴的な笑い方で笑う。


「さ、そろそろ午後の合奏の準備を始めようか」


 そう言い終えるか言い終えないうちに、後輩たちの声が近づいてきた。気付けば昼休みが終わる五分ほど前で、午後は合奏の予定だから、その準備――椅子を並べなくては。


 合奏の準備で音楽室がばたばたしている中、ふと熊谷は窓から空を見上げた。

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