榎並冴苗のジレンマ

「それでは練習番号Dから、トゥッティで」

「あの! 先生!」


 トゥッティの指示が出され、全員各々楽器を構えた時だった。後ろのほうから声が聞こえて、全員の視線が一斉に集中する。

 部員の視線が集まった先には、右手を真っ直ぐ上に伸ばした長身の女子が起立していた。右手には鈍い銀色の輝きを放つトランペットが抱えられている。


「どうかしましたか? 榎並えなみさん」

「えっと……あたし、体調悪いので早退してもいいですか?」


 理由を尋ねられ、長身の女子――榎並冴苗さなえは一瞬目を泳がせ、二、三度咳をする。頭をかいた手を胸に移動させてさも苦しそうに抑える一連の動作は、演技のようにも見えた。


「どうしても我慢ができませんか?」

「……はい。楽器を吹くのはきついです」

「そうですか。それなら無理はいけませんね。大切な時期ですから、帰ってゆっくり休んでください」

「すみません、ありがとうございます」


 意外にあっさりと了承され、冴苗は頭を下げると急いで後ろにある楽器ケースを掴み、速足で音楽室を後にした。

 ドアが閉まると、室内がざわつき始める。


「榎並さん、昨日も早退してたよね」

「ていうか、最近早退してばっかだよね」

「吹コン近いのにやる気ないんじゃないの?」

「静かに。練習を再開しますよ」


 源内が指揮棒で譜面台をこつこつ叩くと、ところどころで身を寄せ合ってひそひそと陰口を叩く部員たちが一瞬で静かになった。


「榎並ちゃんほんと最近早退ばっかだけど、彼氏でもできたんかな」

「どうなんだろうねえ」


 木管がつかまっている間、訝しげな表情をした鳴海なるみ美琴みことにそんな冗談をぽつり呟いた。美琴は困ったように笑った後、窓の外へ視線を移して表情を曇らせる。


(本当にどうしたのかなぁ、さな)


 さり気なくどうしたのと聞いてみても、不自然に笑ってあからさまにはぐらかされるし、冴苗の一番の親友である美琴はずっと心配していた。



   * * * * *



「先生、あの、今日これから親戚のお見舞いに行かなくちゃならなくて、なので早退させてください」


 その次の日も、合奏が始まってすぐ、冴苗は手を上げた。指揮棒を下ろし、源内はあからさまにため息を吐く。冴苗に向けられる視線も、訝しげなものが多かった。


「榎並さん、今日も早退ですか? 用事があるなら仕方ありませんが、ここのところ毎日早退していますよね? 体調が悪い場合は無理はしてほしくはないですが、あまりにも自己管理がなってなさすぎです。それとも、やる気がないんですか?」

「やる気はあります。……でも、どうしても今日じゃないとダメなんです」

「……分かりました。今日は許しますが、今後も早退を続けるようであれば、大会に出場するメンバーから外しますからね」

「……すみません」


 冴苗は弱々しい声で謝って頭を下げると、昨日と同じく楽器ケースと譜面台を持って、速足で音楽室から出て行った。


 再びため息をこぼして、睨みつけるようにして源内がフルスコアを確認していた時。


「源内先生。私も今日は早退させてください。私、今日は眼科に行かなくちゃいけないんです」


 澄んだ声が音楽室に響いた。源内も含め、視線が一斉に声の主――美琴に集まる。


「そういう理由なら仕方ありませんね」

「すみません。お先に失礼します」


 了承してくれた源内に美琴は深々と頭を下げ、同じ低音パートにもすみませんと小さな声で謝って頭を下げる。


「それではFから一度管楽器だけでお願いします。打楽器は休んでてください」

「はい」


 楽器を持って音楽室の後ろに移動し、管楽器の音を聞きながら、美琴は手間取っているふりをしていつもより少しだけゆっくりと片付けを始める。


 眼科に行かなければならない、なんて嘘だ。吹奏楽コンクールを目前に控えたこの時期が大切だということは、吹奏楽と部活とコントラバスが大好きな美琴だから、もちろん分かっている。

 けれど、冴苗のことも心配だった。一日二日ならまだしも、一週間も早退するだなんてあやしすぎるし、体調不良を理由に早退する時の演技はわざとらしいし、体調不良を理由に早退した次の日は、部活に来るまではぴんぴんしているのだ。自分には元気なことくらいしか取り柄がないと本人も言っていたことを踏まえると、いろいろと不審だ。


 楽器を片づけて急いで昇降口へ向かうと、冴苗はまだ学校から出たばかりだった。冴苗が校門を通り過ぎたのを確認して、美琴は昇降口を出る。


(こんなこと、本当はよくないのは分かってるんだけど……)


 直接聞いても話してくれそうにないから、あとをつけて理由を確かめよう。昨日の夜に美琴は決心した。嘘をついて早退したのも、わざとゆっくり片付けをしていたのもこのためだ。


 理由を話してくれないということは言えない事情があるのだろうし、それを無理に聞こうとも思わないが、源内先生も言っているように、この時期に部活を何度も途中で抜けるのを繰り返せば、部員からの風当たりが強くなるし、最悪コンクールに出場するメンバーからも外されるだろう。そうなったら美琴も嫌だし、冴苗もそれは望んでいないはずだ。冴苗だって、トランペットが大好きなのだから。毎日嘘をついてでも早退しなければならない、何かのっぴきならない事情があるに違いない。


(やっぱり病院じゃないんだ)


 途中、冴苗はバス停を通り過ぎ、真っ直ぐどこか――美琴の予想ではおそらく自宅に向かって歩いていた。何度か家に遊びに行ったことがあり、家までの道はなんとなく覚えている。


 それから数分後、美琴の予想通り冴苗が真っ直ぐ向かっていたのは家だった。玄関が閉まる直前、「ただいま」と冴苗の声が聞こえたことから察するに、家族はいるらしい。

 これまた申し訳ないと心の中で冴苗と家族の人に謝りながら、こっそり敷地内に侵入する。冴苗の家は平屋だから、回り込めばどこからか中の様子が見られるかもしれない。


「もう! ちゃんと寝てなって言ったでしょ? 薬は? 飲んだの?」


 半周ほどしたところで、近くから冴苗の声が聞こえた。身を屈めて、目と鼻の先にある窓からそっと中を覗く。


「ご飯食べて薬ちゃんと飲まないと、治るものも治らないし学校にも行けないよ! おかゆが嫌なら、何なら食べられそう? プリン?」


 真っ先に見えたのは、制服のまま部屋の中を慌ただしく右往左往している冴苗。部屋には布団が敷かれており、冴苗の台詞から察するに、誰かが風邪でも引いているらしかった。


「栄一! あんたちゃんと妹たちの面倒見ててって言ったでしょ!?」

「ちゃんと食えって言ったし飲めって言った。つか俺も病人なんですけど」

「そうだけど、あんたが一番お兄ちゃんなんだからしっかりしてよ。あたしは元気だから学校休むわけにはいかないんだからさー」

「行っても行かなくても同じような頭してるじゃんね」

「うるさい!」


 聞こえてきた弟とのやりとりに思わずほっこりしていると、不意に一人が体を起こした。布団は窓、美琴がいるほうに足がくるように敷いてあり、つまりはそこに寝ている人が起き上がれば、自然と中を覗いている美琴と目が合うというわけで。


「あれ、誰か外にいる」

「え? 外?」


 見つかった、まずい、隠れなきゃ、とっさに頭ではいろいろと考えたのだが、突然すぎて体が動かなかった。冴苗がこちらに振り向いて、美琴と目が合ったのはその約一秒後。


「みこ!?」

「や、やっほー、さな」


 窓を挟んで中にいる冴苗に、美琴の弱々しい声が聞こえたかどうかは分からない。美琴も自分の口からどんな言葉が飛び出たのか、よく分かっていなかった。ひらりとなぜか振ってしまった右手がむなしい。


「……なんでいるの?」

「最近さなの様子が変だったから、気になって」


 冴苗が窓を開ける頃には平静さを取り戻していて、冴苗の目を見て真っ直ぐ美琴は答えた。その視線に一瞬怯んで目を泳がせた後、諦めたようにため息を吐いた。


「見られたら仕方ないか。上がってきて。みこには話すよ」

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