榎並冴苗のジレンマ2
しかし今日は冴苗以外の兄弟が全員病気で別の部屋で寝ているため、今だけは冴苗ひとりの部屋。
ほどなくして、オレンジジュースの入ったグラスとクッキーを持った冴苗がやってきた。いつもはおしゃべりな冴苗が、今日はどうぞと美琴にオレンジジュースを手渡したっきり、口を開こうとしなかった。
「最近早退してたのって、弟や妹の看病をするため?」
気まずそうに目を反らしている冴苗に、美琴は早速切り出す。少し間を空けて、冴苗は小さく頷いた。グラスを握る冴苗の手に力が入る。
「みんな一気に風邪引いちゃったの?」
「うん。一週間くらい前に
「……そっか。それは大変だね」
考えて、月並みな言葉しか出てこなかった。
それは誰だってどうにもならない事情だと、美琴は思う。子どもが病気なのに仕事に行ってしまう親なんてどうかしていると怒る人もいるだろうが、それでも仕事を休めない場合だってある。
「どうしてそれを言わないの?」
「だって、言ったらみこに心配かけるし……」
「私じゃなくて、先生に。体調が悪いとか、お見舞いだとか、そんな嘘つくより、兄弟が病気で看病しなくちゃいけないからって素直に言ったほうがあやしまれないし、先生だって許してくれるよ」
「……そうかもしれないけど、部活ができない理由を弟たちのせいにしたくない」
弱々しく呟かれた冴苗の本音に、美琴は言葉を失う。
冴苗が兄弟思いなのは、親友の美琴はよく知っている。美琴と話している時によく兄弟を馬鹿にしているが、本当は弟と妹のことが大好きなのが分かるから聞いていて楽しいし、冴苗も生き生きしている。
「それに、栄一もだいぶよくなってきたし、千佳子は明日か明後日にはもう学校行けるし、虎太郎とうららも熱下がってきたし、来週になればみんな元気になると思うからもう少しの辛抱だよ」
「でも、このままじゃコンクールに出られなくなるかもしれないんだよ? 今週って言ってもあと三日も出られなかったら、メンバーから外されちゃうかもしれないよ?
「そりゃあ、出たいよ。……出たいけど、だからといって弟たちを放っておくわけにもいかないじゃん。お母さんも今忙しくて帰ってくるの夜遅いし、ただでさえあたしがいつも遅くまで部活やってるから迷惑かけてるんだし」
冴苗は自分が毎日遅くまで部活をやっていることで母親に迷惑をかけていると言っているが、母親はきっとそんなことは思っていないはずだ――と、美琴は思うが、実際に冴苗の母親と話したわけではなく憶測でしかないので、簡単に言っていいことではない。
こればっかりは、美琴にはどうしようもできない問題だ。どうにかしてあげたいのに、どうすることもできない。歯がゆかった。
「やっぱり素直に話そうよ。そしたら先生も分かってくれるから。それからみんなにも謝ろう? ちゃんと理由があるのに、さなが悪く言われたり、コンクールに出られなくなるの私嫌だよ」
できることと言えば、先生に素直に理由を話すことをすすめるくらいしか美琴には思い浮かばなかった。いくら大会を間近に控えていて大切な時期だといっても、事情があるのであれば源内先生だって多少は考慮してくれるはずだから。源内先生の反応がよくなくても、観田先生がそれなら仕方ないと言ってなんとかしてくれるだろうから。
今は練習に参加するのが難しいけれど、大会のステージには乗せてほしいだなんて、自分勝手なのは冴苗も美琴も分かっている。けれど、どうにもならない事情があるのなら、それを素直に話せば分かってくれるかもしれない。
「……あたしは……別に」
「さながよくても私が嫌なの。一緒にコンクールに出たいの」
美琴の真っ直ぐな思いに、今度は冴苗が言葉を失う番。
冴苗だって、コンクールに出たい。美琴と、
「おねえちゃん、ラッパ、きらいになったの?」
俯いてお互い押し黙っていると、突然聞こえたか細い声。同時に顔を上げると、ドアのところに泣きそうな顔をした一番下の妹が立っていた。
「うらら! あんた熱あるんだから起きてきちゃダメでしょ!」
「最近やけに早く帰ってくると思ったらやっぱそういうことかよ。ほんっと、ねーちゃんって嘘つくの下手くそだよな。ばればれだったっつーの」
「お姉ちゃん嘘ついてる時すぐ分かるよね、栄一兄ちゃん」
「え、栄一に千佳子まで……」
その後ろには中学生の栄一と、小学生の千佳子、それに虎太郎。
栄一が美琴に向かって小さくこんにちはと挨拶すると、それにならって千佳子と虎太郎とうららも元気に挨拶をしてくれた。美琴も挨拶を返すと、栄一は顔をしかめてそっぽを向いた。その耳はほんのり赤い。
「千佳子と
「私ももう元気だし、虎太郎とうららの面倒は私も見るよ。学校も終わったらすぐ帰ってくるから」
「おれだって、自分のことくらい自分でできるし……」
「うららね、ラッパふいてるおねえちゃんだいすきだからね、がんばってね」
「……俺らのせいで大会出られなかったりしたら最悪だからな」
「栄一兄ちゃん照れてるー!」
「う、うるさい! 黙れ千佳子!」
弟たちの思いやりに美琴がほっこりしている隣で、冴苗は両手で顔を覆って泣いていた。冴苗が泣いていることに気付いたうららも泣きそうな顔で冴苗に駆け寄り、その背中をぽんぽんと叩いた。おそらく、うららが泣いた時に冴苗がいつもやってあげているのだろう。
「だからさ、家のことは俺らにまかせて、部活に行けよな。早退してきたら家に入れてやらねーし。あと先生とかに俺らが病気だったってのもちゃんと説明しろよ」
「栄一、あんたってほんっと素直じゃないよね」
「……泣くか笑うかどっちかにしろよ」
泣きながら笑う冴苗を見て、栄一は姉には言われたくないという買い言葉はのみこんだ。
冴苗の周りにわらわら集まる兄弟たちを見て、美琴にもいつの間にか冴苗の涙が伝染していたようで、気付かれないようにこっそり涙を拭った。
「部活頑張ってね! 冴苗姉ちゃん! 美琴お姉ちゃんも!」
「また途中で戻ってきたら家に入れないからな」
「おねーちゃんたちファイトー」
「ラッパ、がんばってね!」
「ありがとう。行ってきます……って、私が言うのおかしいかな?」
「いんじゃない? じゃ、行ってきまーす。いい子にしてるんだぞー」
弟と妹たちに見送られ、二人は冴苗の家をあとにする。冴苗も一緒に家を出たのは、これから学校に戻るためだ。夏が始まったばかりの外はまだ明るい。今から戻っても充分間に合う。
「兄弟がいるっていいなぁ。私兄弟いないからさなが羨ましい」
「いいでしょ?」
いつもだったら、あんな弟くれてやるとでも言う冴苗だが、今日ばかりは素直だった。
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