第11話
彼女と別れてから、さらに季節が過ぎた。夏が終わり本格的な秋がきて、空が高くなった頃。僕はとうとう退院の日を迎えた。
荷物をカバンにつめこんで、入院着を脱ぎ捨てる。久々に袖を通したシャツは、なんだか不格好に思えて。僕は何度も鏡の前で確かめた。
何か月も過ごした部屋はがらんとしている。なんとなく寂しげで、僕のいた痕跡こんせきはひとつもない。まるで、この部屋だけ時が止まったかのようだ。
「こうしてみると信じられないわね。あんたが死にかけてたなんて」
それは姉も同じだったようで。深いため息をつきながら言う。
「うん、そうだね。長い夢を見ていたようだよ」
僕は目を閉じた。
そうだ。もう、ここには何も残っていない。小さな欠片かけらさえも。
あれは夢だったのだ。今まで見たなかで、いちばんやさしくて、愛おしい夢。
僕はこの悲しみを越えて生きていけるだろうか。いや、越えてみせる。でなければ、彼女と別れた意味がない。いつか僕じゃない僕と結ばれ、彼女には幸せになってほしい。彼女から遠く隔たれた、このさいはての地で僕は祈ろう。
「帰ろうか、姉さん」
車いすのうしろに立つ姉を仰いだら、車輪が軋きしんで音が鳴った。
「ええ、そうね。お父さんもお母さんも首を長くして待ってるわ」
姉が車いすの向きを変えて、病室の出入り口へと押し出す。
「僕、重くない? 車いす押すの大変だろう」
「ばかね。よけいな心配をするんじゃないの。軽すぎて空気のかたまりを乗せているみたいよ。家に帰ったら、ご飯を食べないと許さないからね」
「うーん、やばいな。姉さんの料理はこわいからなあ」
僕たちは軽口を交わしながら病室をあとにした。
「いよっ。相田、元気か? おはようさん!」
姉が気を利かせて連絡してくれたらしく。エレベーターでロビーに下りたら、下川が待っていた。しかも大きな薔薇バラの花束を抱えている。
体格のいいスーツ男が花束を持つ姿は、かなり目立っていて。ロビーを行き交う人々の視線を集めていた。
僕はあ然とした。
薔薇だ。真っ赤な薔薇だ。正真正銘の。
香りの強い花は見舞いの花としてふさわしくない。そんな一般常識を忘れるんじゃないよ。
僕は下川をにらむ。
「あらあら、大変ね。わたしは会計を済ませてくるから、どうぞごゆっくり」
茶化すように言うと、姉は窓口のカウンターに向かって歩いていった。
下川は涼しい顔で僕のところへやってきた。
「いやあ、すまん。こんな朝早くから押しかけて迷惑だったかな。会社に行く前に寄ったんだよ。友情に甘んじて許してくれ」
と、車いすの僕に花束を押しつけてくる。
「受け取れるか!」
僕は抵抗して花束を両腕でブロックした。
「お、おまえ! いったい何を考えてるんだ。僕は男なんだぞ。薔薇の花束なんか受けとれるかってんだ」
「あ、そっか。それもそうだな」
下川は花束に一度、目を落としてから、僕の顔を見てニッと笑った。
「その花束は、おまえに渡すものじゃないんだ。彼女へのプレゼントさ。いい年をした男が手ぶらで女に会いに行くのは、かっこわるいだろ。だから俺が用意しておいたんだ」
「それ、どういう意味――」
「おまえの退院祝いは、こっちだよ」
下川はスーツの上着の内ポケットに手をつっこむと、何かを取りだし僕の膝の上に並べた。
それがなんなのか確認できたとたん、僕はハッと息を呑のんだ。
「こ、これは……!」
自分の目を疑った。あの夢の中で僕が撮った写真だったのだ。
「どうして、ここに……」
一枚ずつ手にとって確かめる。
まちがいない。通りのカフェも、街角のたばこ屋も、みんな写ってる。明らかに僕の写真だ。
――ということは……。
震える手で最後の一枚をめくる。
彼女がそこにいた。
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