第二話
「じゃ、じゃあ、これはどうです?」
と、芳佳が次に
しかし。
「……フラウ、これは完全犯罪だな」
しばらくして、バルクホルンは絵本を閉じた。
「え?」
と、ハルトマン。
「いいか、よく考えてみろ。この物語に登場する老婆が、もしもヘンゼルとグレーテルという
「い、いくらなんでもそんな……」
「甘いぞ、宮藤。考えてもみろ。この老婆が魔女だと証言しているのは、このヘンゼルとグレーテルの二人だけではないか? さらにこの二人は、自分たちが老婆をかまどに突き飛ばして焼き殺したと、自ら白状している! こんな犯罪者兄妹を主人公にした恐ろしい話、クリスには聞かせられん!」
「な、何てことを!」
若い母親が、
「……あんたたち、商売の邪魔をしに来たのかい?」
本屋の主人が芳佳たちをにらむ。
「ご、ごめんなさい!」
平謝りに謝る芳佳。
「んも〜、じゃあ、一体どんなのがいいんだよ〜?」
ハルトマンは早くも
「それが分からんから、宮藤に見立てを
バルクホルンの声は、だんだん大きくなってくる。
「困ったなあ……」
「……あれ?」
サイドボードの上のランプの
「……『地下の国のアリス』?」
「どうした、宮藤?」
本を手に取った芳佳に、バルクホルンが声をかける。
「これ、たぶんルイス・キャロルの『アリス』の本だと思うんですけど……私の知ってる『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』とはちょっと違う感じが」
「ん? 『不思議の国のアリス』か? 聞いたことがあるような、ないような……?」
首を
「オクスフォードの数学教授が書いた本だよね?」
と、
多少の知識はあるようである。
「気がついたのか?」
本屋の主人が、丸
「たぶん、お前さん方の知っている『アリス』は、ジョン・テニエルのイラストの入ったものだろう? この『地下の国のアリス』は、作者のルイス・キャロルがアリス・リデル、つまり、友人の
「最初の『アリス』物語……」
表紙を
「ああ。字も手書きなら、イラストも、キャロル自身が
「復刻本かあ〜。原本だったら、何千ポンドもするんだろうなあ」
ハルトマンはのん気に言う。
「1928年のオークションでは、1万5400ポンドの値がついておる」
「1万5400……」
めまいを覚える芳佳。
「……それって、ご飯
「いや、だからその何でもご飯に
とは、この前のおにぎり
「この1886年版の復刻本も、限定5000部のレアものだ」
店の主人は、少し
「うう、高そう」
と、芳佳は
すると。
「あ」
最初のページに、一枚の写真が
セピアの色のその写真に写っているのは、暗い色の
「この写真」
芳佳は写真を主人に見せる。
「ああ、そいつは、その本が店に持ち込まれた時から挟まっていた写真だな。幼い
「これが本当のアリス……」
芳佳が知っている、テニエルが描くイラストのアリスは、もっと長い
この本のイラストと見比べても、髪が短い感じだ。
「似ている、クリスに」
写真を見たバルクホルンの
「ああ、そう言えば」
ハルトマンも
「宮藤にも似ているなあ」
ハルトマンが、芳佳と写真を見比べる。
「え〜、私、こんなに
ちょっと照れる芳佳。
「それもそうだね」
と、あっさり認めるハルトマン。
「うう」
芳佳としては、あと一回ぐらいは否定してほしかったところだ。
「……あの、だな、宮藤」
写真をじっと見つめながら、バルクホルンは言った。
「読み聞かせの、その、練習に、少し、私が読むのを聞いていてもらえないか。クリスの代わりに」
「はい! ……あ、でも」
芳佳はお店の主人の方を見る。
「構わんよ。どうせ
店の主人は
「……あははは」
「いいってさ、トゥルーデ」
「そ、それでは」
バルクホルンは芳佳から本を受け取ると、少し
何かすることがあるではなし。
土手の上にお姉さんといっしょに座っていたアリスは、だんだんと
お姉さんの読んでいる本を、チラリ、チラリとのぞいてみましたが、さし絵も、会話もありません。
さし絵も会話もない本なんて、いったい何の役に立つの? と、アリスは思います。
朗読が始まって10分もすると、近所から子供たちが集まってきた。
決して大きな声ではなかったが、窓から外に声が
最初は、二人の女の子。
次に、男の子も加わり、やがてはその母親たちも。
中には、さっき
「
クロッケー・ゲームの手を休め、息を切らせたハートの女王は、アリスに
「いいえ」
アリスは答えます。
「海亀もどきがどんなものなのかも、知りません」
「では、ついてくるがよい」
と、女王。
「海亀もどきの、身の上話を聞かせよう」
おかしなシーンでは声をあげて笑い、
芳佳たちもだんだん、バルクホルンの誠実で
そして……。
夢の世界にいるアリスのお姉さんは考えました。
時が
もちろん、大人になってもアリスなら、小さな頃の、
お話をせがむ自分の子供たちに囲まれたアリスは、たくさんの不思議な物語を聞かせてあげて、子供たちは瞳を
物語の中には、たぶん、あの、遠い昔のアリス自身の
アリスはきっと、お話に素直に耳を
自分がまだ小さかった頃のことを、あの楽しかった夏の日を思い出しながら。
アリスのお姉さんは、夢の中で夢を見るように、そんなことを考えるのでした。
最後の一語を読み終えたバルクホルンは、ゆっくりと本を閉じると、しばらく目をつぶってそのまま動かなかった。
まわりに集まっていた子供や母親たちが、感
「え?」
初めて観客に気がついたバルクホルンは目を開くと、
「やるじゃん!」
「
子供たちと
「ご主人、この本を買わせてもらおう」
バルクホルンは本屋の主人に向かって言った。
「いや。お代は
主人は首を横に
「え?」
「本というのは、
店の主人は『地下の国のアリス』の表紙をコツンと人さし指の先で
「こいつは、あんたを選んだ。それだけのことだ」
「しかし」
「次来た時には」
丸眼鏡の奥の瞳が
「高い本を買っておくれ」
* * *
「本が……私を選んだ」
店を出たバルクホルンは、胸にギュッと『地下の国のアリス』を
「私のような人間を? この愛らしい本が?」
「いいじゃん。得したんだし」
頭の後ろで
「とても素敵でした。バルクホルンさんの朗読」
と、感動覚めやらぬ様子の芳佳。
「楽しかった夏の日か……」
バルクホルンは、
「私の故郷は、夏は日が長くてな。クリスにせがまれて、ずいぶんと
バルクホルンの故郷、カイザーベルクはカールスラントでもかなりの東方。
厳しい冬が長い分、夏は
「どこにあるんだろうな。アリスが訪ねていった国は……」
写真のアリスと、病院のベッドで
「クリスも今、アリスと同じように、こことは
つぶやくバルクホルン。
「帰ってきたくないのかもな。いつまた
「そんなこと……ないです」
芳佳はこぶしをギュッと
「絶対に、ないです!」
「宮藤?」
「アリスだって、最後にはお姉さんのところに帰ってくるんです! クリスちゃんもきっと、バルクホルンさんのところに
「……そうか。そう信じたいな。そう信じれば、戦える」
バルクホルンは赤い
* * *
「じゃあ、これを持って、明日行ってくる」
基地まで戻ってきたバルクホルンは、芳佳に告げた。
「はい。クリスちゃんによろしく」
ペコリと頭を下げた芳佳は、食堂に向かおうとする。
夕食の準備をしているリーネの手伝いに行くのだ。
「み、宮藤」
トトトッと
「あ〜、あ、あ、あ………………ありがとう」
その
「い、いいえ! 私、大したことしてませんから!」
芳佳は真っ赤になって両手を大きく振り回す。
「本当に感謝している。それで……妹が目を覚ましたら、友だちになってくれないか?」
「もちろんです!」
「約束だぞ」
「はい!」
芳佳は笑顔で答え、走って行った。
「いい子だね〜、宮藤って」
芳佳の背中を見送りながら、ハルトマンは笑顔になる。
「ああ」
頷きかけたバルクホルンは
「あの半分でも、フラウ、貴様が早起きで、
「あ〜、それじゃ退散〜」
お説教はごめんと逃げ出すハルトマン。
「こら待て! まだ話は終わっていないぞ! そもそもカールスラント軍人としての心構えというものを、貴様は……!」
照れ
それでも、きっと忘れないだろう。
今日、この楽しかった夏の日の思い出は。
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