第二話


「じゃ、じゃあ、これはどうです?」


 と、芳佳が次にわたしたのは、『ヘンゼルとグレーテル』の絵本。

 しかし。


「……フラウ、これは完全犯罪だな」


 しばらくして、バルクホルンは絵本を閉じた。


「え?」


 と、ハルトマン。


「いいか、よく考えてみろ。この物語に登場する老婆が、もしもヘンゼルとグレーテルという兄妹きようだいが主張する通りの、悪のじよだったとしたら、行きだおれ寸前のこの子供たちを助けたと思うか? ましてや、きれいにかざられたおの家なんぞに住んでいると? これはきっと、このじやあくな兄妹が、自分たちに好意を示してくれたひとり暮らしの老婆を、財産目当てに殺害し、魔女のめいを着せたにちがいない!」


「い、いくらなんでもそんな……」


 ろうばいする芳佳。


「甘いぞ、宮藤。考えてもみろ。この老婆が魔女だと証言しているのは、このヘンゼルとグレーテルの二人だけではないか? さらにこの二人は、自分たちが老婆をかまどに突き飛ばして焼き殺したと、自ら白状している! こんな犯罪者兄妹を主人公にした恐ろしい話、クリスには聞かせられん!」


「な、何てことを!」


 若い母親が、なみだになった子供をかかえて店からげ出していった。


「……あんたたち、商売の邪魔をしに来たのかい?」


 本屋の主人が芳佳たちをにらむ。


「ご、ごめんなさい!」


 平謝りに謝る芳佳。


「んも〜、じゃあ、一体どんなのがいいんだよ〜?」


 ハルトマンは早くもさじを投げた格好だ。


「それが分からんから、宮藤に見立てをたのんでいるのだ、おろか者!」


 バルクホルンの声は、だんだん大きくなってくる。


「困ったなあ……」


 ほうに暮れた芳佳が、ふと、横に目をやると。


「……あれ?」


 サイドボードの上のランプのわきに、背表紙が緑の、美しいそうていの本が置いてあるのが見えた。


「……『地下の国のアリス』?」


「どうした、宮藤?」


 本を手に取った芳佳に、バルクホルンが声をかける。


「これ、たぶんルイス・キャロルの『アリス』の本だと思うんですけど……私の知ってる『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』とはちょっと違う感じが」


「ん? 『不思議の国のアリス』か? 聞いたことがあるような、ないような……?」


 首をかしげるバルクホルン。


「オクスフォードの数学教授が書いた本だよね?」


 と、のぞき込んだのはハルトマン。

 多少の知識はあるようである。


「気がついたのか?」


 本屋の主人が、丸眼鏡めがねを押し上げ、芳佳に言った。


「たぶん、お前さん方の知っている『アリス』は、ジョン・テニエルのイラストの入ったものだろう? この『地下の国のアリス』は、作者のルイス・キャロルがアリス・リデル、つまり、友人のむすめであり、主人公のアリスのモデルである彼女のためだけに書いた、最初の『アリス』物語だ。この『地下の国のアリス』を原型に、かい稿こうして生まれたのが、『不思議の国のアリス』、そしてさらにその続編が『鏡の国のアリス』ということになる。お前さんが今、手にしてるのは、その『地下の国のアリス』の復刻本だよ」


「最初の『アリス』物語……」


 表紙をながめながら、つぶやく芳佳。


「ああ。字も手書きなら、イラストも、キャロル自身がえがいたものだ」


「復刻本かあ〜。原本だったら、何千ポンドもするんだろうなあ」


 ハルトマンはのん気に言う。


「1928年のオークションでは、1万5400ポンドの値がついておる」


「1万5400……」


 めまいを覚える芳佳。


「……それって、ご飯なんばい分?」


「いや、だからその何でもご飯にかんさんするのはやめておけ」


 とは、この前のおにぎりそうどうのことがトラウマになっているバルクホルン。


「この1886年版の復刻本も、限定5000部のレアものだ」


 店の主人は、少しほこらしそうに口元にみをかべる。


「うう、高そう」


 と、芳佳はふるえる手で本を開いた。

 すると。


「あ」


 最初のページに、一枚の写真がはさまっていた。

 セピアの色のその写真に写っているのは、暗い色のかみをやや短めにした少女だ。


「この写真」


 芳佳は写真を主人に見せる。


「ああ、そいつは、その本が店に持ち込まれた時から挟まっていた写真だな。幼いころのアリス・リデルをルイス・キャロルがったものだ。もしかすると、この本の最初の持ち主は、アリスかキャロルの関係者だったのかも知れんな」


「これが本当のアリス……」


 芳佳が知っている、テニエルが描くイラストのアリスは、もっと長いきんぱつ

 この本のイラストと見比べても、髪が短い感じだ。


「似ている、クリスに」


 写真を見たバルクホルンのひとみに、複雑な色がぎる。


「ああ、そう言えば」


 ハルトマンもうなずく。


「宮藤にも似ているなあ」


 ハルトマンが、芳佳と写真を見比べる。


「え〜、私、こんなに可愛かわいくありませんよ」


 ちょっと照れる芳佳。


「それもそうだね」


 と、あっさり認めるハルトマン。


「うう」


 芳佳としては、あと一回ぐらいは否定してほしかったところだ。


「……あの、だな、宮藤」


 写真をじっと見つめながら、バルクホルンは言った。


「読み聞かせの、その、練習に、少し、私が読むのを聞いていてもらえないか。クリスの代わりに」


「はい! ……あ、でも」


 芳佳はお店の主人の方を見る。


「構わんよ。どうせほかにお客もいなくなった」


 店の主人はかたをすくめる。


「……あははは」


「いいってさ、トゥルーデ」


「そ、それでは」


 バルクホルンは芳佳から本を受け取ると、少しきんちようした調子で朗読を始めた。



   何かすることがあるではなし。

   土手の上にお姉さんといっしょに座っていたアリスは、だんだんときてきました。

   お姉さんの読んでいる本を、チラリ、チラリとのぞいてみましたが、さし絵も、会話もありません。

   さし絵も会話もない本なんて、いったい何の役に立つの? と、アリスは思います。



 朗読が始まって10分もすると、近所から子供たちが集まってきた。

 決して大きな声ではなかったが、窓から外に声がれていたのかも知れない。

 最初は、二人の女の子。

 次に、男の子も加わり、やがてはその母親たちも。

 中には、さっきおこった顔で出て行った若い母親と、その子供の姿もある。



  「うみがめもどきを見たことがあるかえ?」

   クロッケー・ゲームの手を休め、息を切らせたハートの女王は、アリスにたずねました。

  「いいえ」

   アリスは答えます。

  「海亀もどきがどんなものなのかも、知りません」

  「では、ついてくるがよい」

   と、女王。

  「海亀もどきの、身の上話を聞かせよう」



 おかしなシーンでは声をあげて笑い、こわい場面では身をすくませて聞き入る子供たち。

 芳佳たちもだんだん、バルクホルンの誠実でおおなところのない語りに引き込まれてゆき、時間を忘れる。

 そして……。



   夢の世界にいるアリスのお姉さんは考えました。

   時がち、この可愛いアリスが大きくなったらどうなるかしら、と。

   もちろん、大人になってもアリスなら、小さな頃の、なおで温かな心を失うことはないはず。

   お話をせがむ自分の子供たちに囲まれたアリスは、たくさんの不思議な物語を聞かせてあげて、子供たちは瞳をかがやかせているでしょう。

   物語の中には、たぶん、あの、遠い昔のアリス自身のぼうけんふくまれているはず。

   アリスはきっと、お話に素直に耳をかたむける子供たちと、悲しみと喜びをともにしていることでしょう。

   自分がまだ小さかった頃のことを、あの楽しかった夏の日を思い出しながら。

   アリスのお姉さんは、夢の中で夢を見るように、そんなことを考えるのでした。



 最後の一語を読み終えたバルクホルンは、ゆっくりと本を閉じると、しばらく目をつぶってそのまま動かなかった。

 まわりに集まっていた子供や母親たちが、感きわまってはくしゆをする。


「え?」


 初めて観客に気がついたバルクホルンは目を開くと、ほおを真っ赤にした。


「やるじゃん!」


すごいです!」


 子供たちといつしよになって拍手するハルトマンと芳佳。


「ご主人、この本を買わせてもらおう」


 バルクホルンは本屋の主人に向かって言った。


「いや。お代はらんよ」


 主人は首を横にった。


「え?」


「本というのは、おもしろいもんでな。時おり、本のほうが読み手を選ぶことがあるのさ」


 店の主人は『地下の国のアリス』の表紙をコツンと人さし指の先でたたく。


「こいつは、あんたを選んだ。それだけのことだ」


「しかし」


「次来た時には」


 丸眼鏡の奥の瞳が微笑ほほえんだ。


「高い本を買っておくれ」



  * * *



「本が……私を選んだ」


 店を出たバルクホルンは、胸にギュッと『地下の国のアリス』をめながらつぶやいた。


「私のような人間を? この愛らしい本が?」


「いいじゃん。得したんだし」


 頭の後ろでうでを組んだハルトマンは、歩きながらニッと笑う。


「とても素敵でした。バルクホルンさんの朗読」


 と、感動覚めやらぬ様子の芳佳。


「楽しかった夏の日か……」


 バルクホルンは、こんじきに染まりつつある雲を見上げた。


「私の故郷は、夏は日が長くてな。クリスにせがまれて、ずいぶんとおそくまで外で遊んだものだった」


 バルクホルンの故郷、カイザーベルクはカールスラントでもかなりの東方。

 厳しい冬が長い分、夏はびやくに近い。


「どこにあるんだろうな。アリスが訪ねていった国は……」


 写真のアリスと、病院のベッドでねむるクリスの姿が、バルクホルンの中でひとつに重なる。


「クリスも今、アリスと同じように、こことはちがう世界にいる。そんな気がするんだ」


 つぶやくバルクホルン。


「帰ってきたくないのかもな。いつまたせんに巻き込まれるかも知れない、こちらの世界になぞ……」


「そんなこと……ないです」


 芳佳はこぶしをギュッとにぎりしめて、バルクホルンをまっすぐに見た。


「絶対に、ないです!」


「宮藤?」


「アリスだって、最後にはお姉さんのところに帰ってくるんです! クリスちゃんもきっと、バルクホルンさんのところにもどってきます!」


「……そうか。そう信じたいな。そう信じれば、戦える」


 バルクホルンは赤いしの中、目を細めてうなずいた。



  * * *



「じゃあ、これを持って、明日行ってくる」


 基地まで戻ってきたバルクホルンは、芳佳に告げた。


「はい。クリスちゃんによろしく」


 ペコリと頭を下げた芳佳は、食堂に向かおうとする。

 夕食の準備をしているリーネの手伝いに行くのだ。


「み、宮藤」


 トトトッとけ出そうとする芳佳に、バルクホルンは声をかけた。


「あ〜、あ、あ、あ………………ありがとう」


 そのとなりで、や〜っと言ったよ、という表情を見せるハルトマン。


「い、いいえ! 私、大したことしてませんから!」


 芳佳は真っ赤になって両手を大きく振り回す。


「本当に感謝している。それで……妹が目を覚ましたら、友だちになってくれないか?」


「もちろんです!」


「約束だぞ」


「はい!」


 芳佳は笑顔で答え、走って行った。


「いい子だね〜、宮藤って」


 芳佳の背中を見送りながら、ハルトマンは笑顔になる。


「ああ」


 頷きかけたバルクホルンはせきばらいをして、ハルトマンに厳しい表情を向けた。


「あの半分でも、フラウ、貴様が早起きで、なおで、純真で、働き者で、で、時間に正確で、片付け上手であればだな」


「あ〜、それじゃ退散〜」


 お説教はごめんと逃げ出すハルトマン。


「こら待て! まだ話は終わっていないぞ! そもそもカールスラント軍人としての心構えというものを、貴様は……!」


 照れくささをかくすように小言を続けるバルクホルンは、本人も気づかぬうちに、変わりつつあった。


 それでも、きっと忘れないだろう。

 今日、この楽しかった夏の日の思い出は。

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