第五章 楽しかった夏の日の思い出 ──または、不思議の国のバルクホルン
第一話
それは給料日の夕方のことだった。
坂本の指導による厳しい訓練を終え、お
「お、おい!」
何者かが、背後から芳佳の
「ひゃん!」
思わず身をすくませた芳佳。
振り返ると、
「ど、どうしたんですか、バルクホルン大尉? そんなところに隠れて?」
「しっ! 声が大きい!」
バルクホルンは
「あわわわっ!」
「……お前」
芳佳の背中を
「明日、
「はひ?」
息がかかるほどの
「ひ、暇かと言われれば……まあ」
ネウロイの
早朝は、坂本
「お昼ご飯の後でしたら」
「よし」
ホッとしたように
「でも、何でこんな風に隠れて聞くんです?」
「そ、それは」
バルクホルンはあたりをうかがってから、さらに声をひそめる。
「……うっとうしいのに、見つかりたくなかったものでな」
「うっとうしいの、ですか?」
だが、その時。
「悪かったね〜、うっと〜しくて〜」
二人の後ろで、ケラケラと明るく笑う声がした。
「ぬっ! フラウ!」
「ハ、ハルトマン中尉!?」
「は〜い! 私がうっとうしいので〜す!」
ハルトマンは手を挙げた。
「き、貴様〜っ! いつからそこに!?」
バルクホルンは、ハルトマンの
「トゥルーデ、さっき、宮藤が
やれやれという表情のハルトマン。
「……トゥルーデってさ、自分が隠し事に向いてない体質だって、知ってた?」
「ど、ど、どうせそうだ! そもそも、カールスラント軍人たるものが、スパイのようにコソコソなんぞできるかああああっ!」
バルクホルンは顔を真っ赤にして
「しようとしてたくせに」
「……う」
「で、何の相談、二人して?」
ハルトマンはバルクホルンと芳佳の
「……まあいい」
バルクホルンは
「実は、この前、クリスの入院している病院に行った時に、少し、担当医と話をしたんだ」
「クリスちゃんの?」
と、芳佳。
クリスというのは、バルクホルンの妹。
カールスラント
「意識がなくても声は聞こえるそうで、その医者が言うには、本の読み聞かせなどが、その、回復に役立つかも知れないらしいんだ」
ニタニタするハルトマンをひたすら無視し、バルクホルンは芳佳に説明した。
「それで……宮藤、お、お前にその、本を見立ててもらえないかと……
「本だったら、私だって選べるのにな〜」
ハルトマンは大げさに肩をすくめて見せる。
「貴様のようなずぼらな人間の見立てなぞ、当てになるかああああっ!」
「……こうだもの」
芳佳に目配せするハルトマン。
「分かりました」
芳佳はクスリと笑った。
* * *
そして翌日。
基地からそう遠くない街までやってきた芳佳たちは、木骨造りの古い家並みが続く大通りを歩いて、本屋を探していた。
「まったく、貴様の
バルクホルンは、
「いいじゃん。どうせ午前中いっぱい、宮藤は坂本少佐にしごかれてたんだし」
口のまわりを菓子のカスだらけにしながら、ハルトマンは肩をすくめた。
「うう」
全身の筋肉痛が、芳佳に
「お前が
「そだっけ?」
ハルトマンの
あの、いつも昼寝をしているように見える、ルッキーニさえ敬意を
「貴様という
こめかみの血管がぶち切れそうなバルクホルン。
「と、とにかく!」
芳佳は二人の間に割って入った。
「本屋さんに行きましょうよ!」
「う、うん。そうだな」
芳佳にそう言われ、ほんの少し、バルクホルンの顔が
バルクホルンがこんな表情を見せるようになったのは、ごく最近。
芳佳が来てからのことだ。
それまでのバルクホルンは、
「あ〜、本屋見っけ〜!」
通りの反対側に小さな本屋の看板を見つけたハルトマンは、両手を飛行機のように広げて走り出した。
「こ、こら、待て! はしゃぐな、
「あ〜、待ってくださ〜い! あ、
バルクホルンと芳佳は、
* * *
カランカラン。
本屋の
表から見るよりも、内側は広い店で、
ほんの少し、
どこにどんな本が置いてあるのか、ちょっと見ただけでは分からないが、年代物の古書がほとんどで、新刊は
店の真ん中あたりに、山のように本が積まれた大きなデスクがあり、その本の山の狭い
「ふ、古本屋さん……でしたね」
「ここに置いてある本、いくらぐらいするんだ?」
「古書って、高いものはものすごく高いみたいですよ」
大きな声を出してはいけないような気がして、同じように芳佳もささやき返す。
「そう言えば、トゥルーデが自分の給料使うのって、ブリタニアに来てから初めてだよね?」
と、
「そ、そうなんですか?」
家に仕送りをしている芳佳は、
「ま、まあな」
隊にいる限り、衣食住すべて足りているので、現金は必要ない。
バルクホルンはミーナにもそう告げて、妹の
「……これなどはどうだろう?」
ざっと近くの本棚を見渡したバルクホルンが、いきなり手に取ったのは、『カールスラントの未来を支える重工業』。
かなり分厚い、ハードカバーの専門書だ。
「う」
顔が引きつる芳佳。
「……これ、子供向きの本じゃないって」
ハルトマンさえ、
「絵はあるぞ」
パラパラとめくって指し示したのは、
「こ、これを妹さんの
芳佳は
「ああ。妹には祖国を
目的は正しいが、そこに至る行程が限りなく外れているバルクホルンである。
「そして、将来は祖国復興の……」
「
ハルトマンが両手で大きくバツを作った。
「だから、貴様には聞いていない!」
「あの、この厚さだと、読むのに時間がかかりそうですから、もう少し
やはり、自分が見立てたほうが安全だという気がしてきた芳佳は、なるべくバルクホルンを傷つけないように
「ああ、そうか! そうだな、お前の言う通りだ」
深く
「へえ〜、宮藤の言うことは聞くんだねえ?」
ハルトマンはからかうように白い歯を見せる。
「あの〜、絵本とか童話って、どこにありますか?」
店主らしい老人に芳佳が尋ねると、老人は視線で店の奥の方、子連れの母親らしい客がいる一画を示した。
「あった〜!」
絵本を見て、顔が
「だから、貴様が喜んでどうする?」
バルクホルンが
意外と、この手の本が好きなようだ。
「妹が見たら喜ぶかな?」
ハルトマンにしては
「……いや、あいつはもっと小難しいのしか読まないかもなあ」
「妹さん?」
と、芳佳は尋ねる。
「ん。
そう言いながら、ハルトマンは大判の絵本の
「カールスラント人なら、やっぱグリム童話?」
「あ、いいですね」
芳佳も同意する。
グリム童話は、芳佳も小さい
しかし。
「グリム? なんだ、それは?」
バルクホルンは
「……まさか、知らない?」
「あ〜、あれか、思い出した! 今、思い出したぞ!」
ハルトマンに聞き返され、こめかみに
戦前から、ずっと軍人として生きてきたバルクホルンには、実はこの手の常識が欠落しているのだ。
「これなんかどうです?
芳佳は一冊の絵本を本棚から
「赤頭巾……ちゃん?」
「知ってるか〜?」
と、疑いの目を向けるハルトマン。
「も、もちろんだ! あれは……うん、いい話だ」
視線を
「!?」
(う。想像していたのとだいぶ
タイトルを聞いた
(と、とにかく、見てみることにしようか)
絵本を開くバルクホルン。
少しして。
「いかん! これではいかんぞ、宮藤!」
内容にざっと目を通したバルクホルンは、首を大きく横に
「この物語の作者は、オオカミの生態や、
「は、はあ?」
「少なくとも、カールスラントのオオカミの
「……トゥルーデ、子供が
自分たちをにらむ母親の視線を背中に感じ、ハルトマンは身をすくませる。
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