第五章 楽しかった夏の日の思い出  ──または、不思議の国のバルクホルン

第一話


 それは給料日の夕方のことだった。

 坂本の指導による厳しい訓練を終え、おに向かおうとミーティング・ルーム近くのろうを通りかかった時。


「お、おい!」


 何者かが、背後から芳佳のうでをつかんだ。


「ひゃん!」


 思わず身をすくませた芳佳。

 振り返ると、ものかげひそむようにしてそこに立っていたのは、ゲルトルート・バルクホルンたいだった。


「ど、どうしたんですか、バルクホルン大尉? そんなところに隠れて?」


「しっ! 声が大きい!」


 バルクホルンはくちびるに人さし指を当てて、暗がりに芳佳を引き込む。


「あわわわっ!」


「……お前」


 芳佳の背中をかべに押しつけ、バルクホルンは顔と顔を近づける。


「明日、ひまか?」


「はひ?」


 息がかかるほどのきよでささやかれ、とっさに理解できない芳佳。


「ひ、暇かと言われれば……まあ」


 ネウロイのらいしゆう予定はまだ先。

 早朝は、坂本しようによるごくの特訓が入っているが、午後なら時間がある。


「お昼ご飯の後でしたら」


「よし」


 ホッとしたようにうなずくバルクホルン。


「でも、何でこんな風に隠れて聞くんです?」


「そ、それは」


 バルクホルンはあたりをうかがってから、さらに声をひそめる。


「……うっとうしいのに、見つかりたくなかったものでな」


「うっとうしいの、ですか?」


 だれのことを言っているのか、見当がつかない芳佳は首をひねる。

 だが、その時。


「悪かったね〜、うっと〜しくて〜」


 二人の後ろで、ケラケラと明るく笑う声がした。


「ぬっ! フラウ!」


 り返ったバルクホルンの顔がこおりつく。


「ハ、ハルトマン中尉!?」


「は〜い! 私がうっとうしいので〜す!」


 ハルトマンは手を挙げた。


「き、貴様〜っ! いつからそこに!?」


 バルクホルンは、ハルトマンのえりをつかんでワナワナとふるえる。


「トゥルーデ、さっき、宮藤がもどってくるのを窓からじ〜っと見てただろ〜? そのあと、あからさまに様子が変だったから、あとをつけてみたんだよね〜」


 やれやれという表情のハルトマン。


「……トゥルーデってさ、自分が隠し事に向いてない体質だって、知ってた?」


「ど、ど、どうせそうだ! そもそも、カールスラント軍人たるものが、スパイのようにコソコソなんぞできるかああああっ!」


 バルクホルンは顔を真っ赤にしてる。


「しようとしてたくせに」


「……う」


「で、何の相談、二人して?」


 ハルトマンはバルクホルンと芳佳のかたに手をかけ、二人の顔をこうに見た。


「……まあいい」


 バルクホルンはあきらめて白状する。


「実は、この前、クリスの入院している病院に行った時に、少し、担当医と話をしたんだ」


「クリスちゃんの?」


 と、芳佳。

 クリスというのは、バルクホルンの妹。

 カールスラントてつ退たい戦の時にネウロイのこうげきおおを負い、怪我そのものは回復したものの、ショックで目を覚まさないじようきようが続いているのだ。


「意識がなくても声は聞こえるそうで、その医者が言うには、本の読み聞かせなどが、その、回復に役立つかも知れないらしいんだ」


 ニタニタするハルトマンをひたすら無視し、バルクホルンは芳佳に説明した。


「それで……宮藤、お、お前にその、本を見立ててもらえないかと……か? ずいぶんときゆうを取っていなかったから、明日、明後日あさつては休めるんだ」


「本だったら、私だって選べるのにな〜」


 ハルトマンは大げさに肩をすくめて見せる。


「貴様のようなずぼらな人間の見立てなぞ、当てになるかああああっ!」


「……こうだもの」


 芳佳に目配せするハルトマン。


「分かりました」


 芳佳はクスリと笑った。



  * * *



 そして翌日。

 基地からそう遠くない街までやってきた芳佳たちは、木骨造りの古い家並みが続く大通りを歩いて、本屋を探していた。


「まったく、貴様のぼうのせいで、ずいぶんと時間がずれ込んでしまったではないか!」


 バルクホルンは、ちゆう屋で買ったジンジャーブレッドマンをほおるハルトマンをにらむ。


「いいじゃん。どうせ午前中いっぱい、宮藤は坂本少佐にしごかれてたんだし」


 口のまわりを菓子のカスだらけにしながら、ハルトマンは肩をすくめた。


「うう」


 全身の筋肉痛が、芳佳にいやでも特訓のことを思い出させる。


「お前がしようしたのは、宮藤の訓練が終わった50分も後だろうが!」


「そだっけ?」


 ハルトマンのすいみん時間は、信じられないほど長い。

 あの、いつも昼寝をしているように見える、ルッキーニさえ敬意をいだくほどだ。


「貴様というやつは、貴様という奴は、貴様という奴は、貴様という奴は、貴様という奴は、貴様という奴は〜っ!」


 こめかみの血管がぶち切れそうなバルクホルン。


「と、とにかく!」


 芳佳は二人の間に割って入った。


「本屋さんに行きましょうよ!」


「う、うん。そうだな」


 芳佳にそう言われ、ほんの少し、バルクホルンの顔がなごむ。

 バルクホルンがこんな表情を見せるようになったのは、ごく最近。

 芳佳が来てからのことだ。

 それまでのバルクホルンは、いききさせないと折れそうだ、とシャーリーが言うくらいにかたくるしい、規律に厳しい典型的なカールスラント軍人だったのだが。


「あ〜、本屋見っけ〜!」


 通りの反対側に小さな本屋の看板を見つけたハルトマンは、両手を飛行機のように広げて走り出した。


「こ、こら、待て! はしゃぐな、ずかしい!」


「あ〜、待ってくださ〜い! あ、あしの筋肉が〜!」


 バルクホルンと芳佳は、あわてて後を追った。



  * * *



 カランカラン。

 本屋のとびらを開けると、小さくすずの音がした。

 表から見るよりも、内側は広い店で、せまい階段を上った二階まで、ほんだなにビッシリと本が並んでいる。

 ほんの少し、ほこりとかびの、それと煙草たばこにおいがする、かんそうした空気。

 どこにどんな本が置いてあるのか、ちょっと見ただけでは分からないが、年代物の古書がほとんどで、新刊はあつかっていないようだ。

 店の真ん中あたりに、山のように本が積まれた大きなデスクがあり、その本の山の狭いすきから顔をのぞかせている、しかめっつらの丸眼鏡めがねの老人が、この店の主人なのだろう。


「ふ、古本屋さん……でしたね」


 ぼうだいな数の本に、あつとうされる芳佳。


「ここに置いてある本、いくらぐらいするんだ?」


 かわ表紙が並ぶ本棚をわたして、バルクホルンは芳佳に小声でたずねた。


「古書って、高いものはものすごく高いみたいですよ」


 大きな声を出してはいけないような気がして、同じように芳佳もささやき返す。


「そう言えば、トゥルーデが自分の給料使うのって、ブリタニアに来てから初めてだよね?」


 と、だんと変わらぬ声で言ったのは、もちろんハルトマンだ。


「そ、そうなんですか?」


 家に仕送りをしている芳佳は、おどろきの目でバルクホルンを見る。


「ま、まあな」


 隊にいる限り、衣食住すべて足りているので、現金は必要ない。

 バルクホルンはミーナにもそう告げて、妹のりよう費分以外、給料に手をつけることはなかったのだ。


「……これなどはどうだろう?」


 ざっと近くの本棚を見渡したバルクホルンが、いきなり手に取ったのは、『カールスラントの未来を支える重工業』。

 かなり分厚い、ハードカバーの専門書だ。


「う」


 顔が引きつる芳佳。


「……これ、子供向きの本じゃないって」


 ハルトマンさえ、あきれ果てた様子をかくせない。


「絵はあるぞ」


 パラパラとめくって指し示したのは、ようこうの三面図や、各地域における鉄鋼の生産量のグラフである。


「こ、これを妹さんのまくらもとで?」


 芳佳はおそる恐る尋ねる。


「ああ。妹には祖国をほこれる人間に育ってほしいんだ」


 目的は正しいが、そこに至る行程が限りなく外れているバルクホルンである。


「そして、将来は祖国復興の……」


きやつ〜」


 ハルトマンが両手で大きくバツを作った。


「だから、貴様には聞いていない!」


「あの、この厚さだと、読むのに時間がかかりそうですから、もう少しうすいほうが……」


 やはり、自分が見立てたほうが安全だという気がしてきた芳佳は、なるべくバルクホルンを傷つけないようにしんちように言葉を選ぶ。


「ああ、そうか! そうだな、お前の言う通りだ」


 深くうなずくバルクホルン。


「へえ〜、宮藤の言うことは聞くんだねえ?」


 ハルトマンはからかうように白い歯を見せる。


「あの〜、絵本とか童話って、どこにありますか?」


 店主らしい老人に芳佳が尋ねると、老人は視線で店の奥の方、子連れの母親らしい客がいる一画を示した。


「あった〜!」


 絵本を見て、顔がかがやくハルトマン。


「だから、貴様が喜んでどうする?」


 バルクホルンがっ込むが、ハルトマンは鼻歌まじりで本棚を見て回る。

 意外と、この手の本が好きなようだ。


「妹が見たら喜ぶかな?」


 ハルトマンにしてはめずらしい、少し、考え込むような表情。


「……いや、あいつはもっと小難しいのしか読まないかもなあ」


「妹さん?」


 と、芳佳は尋ねる。


「ん。ふたの妹。無類の本好き」


 そう言いながら、ハルトマンは大判の絵本のたなの前に立った。



「カールスラント人なら、やっぱグリム童話?」


「あ、いいですね」


 芳佳も同意する。


 グリム童話は、芳佳も小さいころ、よく父に読んで聞かされた思い出がある。

 しかし。


「グリム? なんだ、それは?」


 バルクホルンはまゆをひそめた。


「……まさか、知らない?」


「あ〜、あれか、思い出した! 今、思い出したぞ!」


 ハルトマンに聞き返され、こめかみにあせをにじませるバルクホルン。

 戦前から、ずっと軍人として生きてきたバルクホルンには、実はこの手の常識が欠落しているのだ。


「これなんかどうです? あかきんちゃん」


 芳佳は一冊の絵本を本棚からいた。


「赤頭巾……ちゃん?」


「知ってるか〜?」


 と、疑いの目を向けるハルトマン。


「も、もちろんだ! あれは……うん、いい話だ」


 視線をらし、芳佳から絵本を受け取ったバルクホルンは表紙を見て、がくぜんとなる。


「!?」


(う。想像していたのとだいぶちがう! 何だこの、ずか可愛かわいらしいがらは!?)


 タイトルを聞いたしゆんかんの、バルクホルンの想像では、『赤頭巾』とは、赤い頭巾で顔を隠した女けんが悪と戦う、大活劇だったのだが……。


(と、とにかく、見てみることにしようか)


 絵本を開くバルクホルン。

 少しして。


「いかん! これではいかんぞ、宮藤!」


 内容にざっと目を通したバルクホルンは、首を大きく横にった。


「この物語の作者は、オオカミの生態や、かいぼう学上のとくちようがまるで理解できとらん!」


「は、はあ?」


「少なくとも、カールスラントのオオカミのあごの構造では、人間をひとみにはできんのだ! そもそも、オオカミというものはだ、もののどぶえを食いちぎり、腸を引きずり出してうものだろうが! まあ、万万が一、ひと呑みにすることがあると認めたとしても、何時間も胃液にさらされてろうと子供が無事でいる訳がない。呼吸はできず、は胃液の酸でけ落ち、生存の可能性は限りなくゼロに近い。たとえ、命があったとしても、直ちに救命処置が必要なはずだ。この絵のように、老婆とむすめき合って再会を喜ぶことなど、あり得ん!」


「……トゥルーデ、子供がこわがるから」


 自分たちをにらむ母親の視線を背中に感じ、ハルトマンは身をすくませる。

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