後編

「あ、そうだった」

と、しばらく経ってから僕は鞄を漁って、コンビニ袋に入った、ふやけて容器が柔らかくなってしまったハーゲンダッツを取り出した。

「色識さんが好きだと聞いて」

それを見て、色識さんはうふふ、と笑ってから、「せっかく買ってきてくれたんだから食べようか」と言った。

包装を剥がす時に、液体となったハーゲンダッツが流れ出してきて、色識さんは病院のベッドを汚し、僕はデニムを汚して、二人声を出して笑った。

「ところでさ」

「はい」

「それどうしたの」

と、コンビニで貰ったスプーンで僕の顔をーー傷を指した。

最近はこの傷の痛みに慣れてきたのか、それとも傷が治ってきているのからなのかどうもわからないけれど、痛みが薄れてきていた。

「これはですね」

僕は色識さんにいろいろなことを話した。

染井さんとのこと。

染井さんを取り巻いている環境のこと。

染井さんを虐めている人たちとのこと。

僕がこれからどうしたいのか。

「なるほどねえ」

全てを聞き終えた色識さんは深々と頷いた。

「素直さが足りないとか言ってたわたしが言うのもなんなんだけど、誰も傷付かないで解決っていうのはなかなか難しいんじゃないかな」

「それは、思います」

今の今まで必死で考えてきたけれど、未だに誰も傷付かず丸く収める方法が思いつかないのだ。難しいということは認めざるを得ない。

「まあそれは、きみの人の良さ故なんだけどねえ」

「うん? どういう意味ですか?」

「つまりさ。誰も傷付かないというのは難しい。逆に言えば、誰かが傷を負えば事は簡単に済むということだ」

「それじゃあ本末転倒じゃないですか」

難しいから諦めるとは、色識さんらしからぬ言動だった。しかし、そんな僕を見て、不敵に笑った。

「目には目を歯には歯をってよく言うだろう? あれはハンムラビ法典の中の記述だけど、あれはまあ、人のあり方をよく表していると思うんだよ」

「それってやられたらやり返す、みたいな意味でしたよね」

「うん。そう言ってしまうと、なんかすごく器の小さい悪人の台詞みたいだけど、誕生日を祝ってくれた友人には、誕生日を祝い返してあげよう、だったら同じ意味でもニュアンスが全然違って見えるよね」

「はあ、まあ」

何が言いたいのかよくわからない。

「誠実を尽くしてくれた人には誠実を尽くす、良心には恩義を尽くす。これは人間が生きて行く上で最も重要で最も基礎的なことだ。こんなのは幼稚園児でも知っている」

「そうですね」

「だったらその逆があっても、別に変じゃないでしょ?」

「……要はどいうことなんですか?」

「だから、きみの言う、誰も傷付かないの範疇に、染井ちゃんを虐めてきた、そしてきみに危害を加えたそいつらを入れてやる義理はないと言っているんだよ」

やっと理解した。そういうことか。確かに僕は彼らもその範疇に入れていたけど。

「……でも」

「だから言ったでしょ? きみの人の良さが仇となってるんだよ。でもね、この世の中はそうできている。そうやって回っているんだ。わたしたちを守ってくれている警察だってそうだ」

「……」

「それに、やったことをーーやってしまったことをうやむやにするばかりが優しさだとは、わたしは思わない。罪に罰を与えてやるのも優しさだよ」

「それでも、そうだとしても僕は奴らと同じにはなれませんよ」

「あはは、そうだろうね。わたしだって、殴られたんだから殴り返してこいとは言ってないよ。要は、罰をどう与えるかが重要だ」

「どうやるんですか?」

「まあ任しておきなって。こういうのは得意でね」

と、色識さんは目を細めて笑った。




それから少しの時間、色識さんと計画の練習をした。

この話を聞いたときから思っていたことだったのだけれど、僕はこういうのに向いてない。作業自体が苦痛なわけではないけれど、いかんせん人間にはできることとできないことがあるものだ。なんて、この世の酸いも甘いも噛み分けたかのような物言いをしているけど、まずそもそもそんなに嚙み分けてはいない。それに、なによりこれができなければ、計画の根底から考え直さなければならないのだ。向いていようが向いていまいが、できようができまいが、やるしかない。

ようやく形になってきた頃には夕方になっていた。窓の外では夕焼けが、地平線に沈んでいっている。空には紺色と茜色が混沌と整然の中間を漂っていた。

「前にもーー染井さんと遊びに行った日もこういう空を見ました」

「へえ。そういえば、こういう空が見られる時間をマジックアワーって言うらしいよ」

「確かそんな映画があったような……」

「うん。それで言ってた」

「映画の受け売りだったんですか」

「まあね。ただ、わたしがこの空にーーああ、いや違うか。この空が見られる時間を名付けるとしたら」

と、そこで言葉を区切る。

少しの間、手の上でさっきまで使っていたシャープペンを回しながら考える仕草をした。

「ラブラドアワーと言うだろうね」

「ラブラドって、ラブラドライトですか?」

「そう、あの石にこの空は似ている」

と。

そこでふと気付く。

僕も前回これを見たとき、何かに似ていると思ったのだった。そのときはその答えまで辿り着くことはなかったけど、なるほど、言われてみればその通りだった。

「あの空の向こう側に、わたしが行くところがあったらいいな」

そう言って、色識さんは笑うように目を細めた。しかし今回はその猫みたいな目に笑みはない。あるのはただ涙だけだった。

色織さんの口から放たれた言葉の重みに僕は何も言えなくなってしまう。ここで励ましの言葉や同意の言葉を使ったとしても、どれもこれも上っ面だけの嘘になってしまう気がした。

「わたしはここに来るまで死ぬことなんてたいしたことはないと、そう思っていたんだけど。いざ死にかけて、こうしてここに来るとやっぱり怖いものだね」

人の死を経験したことなどなく、ましてや自分が死ぬかもしれない状況になど陥ったことのない僕にはそれがいったいどれ程の大きさで重いのか、想像するしかない。

「わたしがいなくなったら、わたしがいた時間が無くなってしまうみたいで、わたしという人間がいなかったことになってしまうみたいで、わたしは怖いよ」

言葉が口から放たれると、細まった猫目から大粒の涙がーー色識さんの感情がぽろぽろと流れた。

何も言うことができない。僕にはただ想像するしかできないから。想像して得たものは所詮は想像上の産物でしかない。それを現実にぶつけることは、できなかった。

だから、僕はただ、ベッドを握り締めていた色識さんの手を掴んだ。その今にも壊れてしまいそうな手を、そっと包み込んだ。

「怖い、とても怖い。夜も眠れないんだ。このまま死んでしまったらと思うと眠れない……」

「……僕も怖いです。身近な人がもうすぐいなくなってしまうなんて、信じられない。とてもじゃないけれど、受け入れられる気がしない」

「それでも! それでもわたしはもうすぐ死んでしまうんだ……死ぬんだ」

変わらない事実。変えられない現実。

それが重たく彼女の身体を縛りつけている。それが分かっても、僕にどうすることもできないーーいや、たぶん誰もどうすることもできないだろう。

でも、この哀しくて寂しくて怒っていて辛くて混濁としていて辛辣なこれを背負ったまま彼女が死んでしまうなんて、そんなのはあんまりだ。

だから、僕は言う。

これが正しいのかは分からない。

もしも、これが正しくなくても、それでもいいじゃないか。

色識 七が僕の前から去ってしまう前に、かっこ悪く足掻いて、みっともなく悪足掻いてやる。

「……色識さんがいなくなっても、僕が忘れるわけないじゃないですか。家麻さんだって、そうですよ。色識さんにはたくさんのことを教えてもらいました。僕を助けてくれました。僕が変わるきっかけをくれました。あなたのおかげで、僕は今こうしていられるんです。それなのに、忘れるわけがないーー忘れられるわけがないでしょう? あなたみたいな人をいなかったことみたいにできるわけがないでしょう?

あなたがこんなところでいなくなってしまうのは本当に惜しい。この手が届かなくなるなんて寂しい。もっと一緒にいて教えてほしいこともいっぱいあったのに……」

視界がぼやける。世界が歪んで、境界線が曖昧になって、胸がちくちく痛んで、喉が潰れそうに苦しくなった。

「それでもあなたは逝ってしまう! 僕のーーみんなの前からいなくなる! だからーー」



「だから、向こうで待っててください。必ず僕が迎えに行きますから、待っててください。

こっちであったこと、嬉しかったことや楽しかったことーーそれだけじゃなくて、悲しかったことも怒ったことも全部、残さず話に行きますから。それまで僕は一生懸命生きますから。なに、たったの六十年や七十年です。あっという間ですよ」

そう言ってから、僕はポケットから一枚の封筒を取り出した。表には辞表と書かれている。それを両の手で鷲掴みにして千切った。粉々になるまで千切って千切って千切って千切った。

「あなたの歩んだ道は僕が引き受けます」


これが良かったのか、悪かったのか、はたまたそんなものはなくて、何も変わらなかったのか。

それは分からない。

きっとその答えを知ることは一生ないだろう。でもそれでいい。

何故なら。

僕の涙ながらのそれを見て、満足そうにーー本当に満足そうに笑ってくれたから。

それがあれば、あとはどうだってよかった。



地元に帰ってきたのは、その日の夜中ーー時刻は午前二時を過ぎていた。にもかかわらず、家の灯りは点いていて、中に入った僕を家族が迎えてくれた。それは団欒とするほんわかするようなものではなく、憤怒の嵐だった。考えてみれば、早朝に家を出て、それからバスの中で学校に電話を入れてから両親にメールを送って、それから向こうで錦乃さんと電話で話して、その後電源を切ったままだった。家族に送ったメールの内容は、『今日中には帰るから心配しないで』だったのだけれど、「心配しない筈がないでしょう!? 子どもを心配するのが親なんだから!」と、母親に怒られた。父親は「無事ならそれでいい」とだけ言った。

そんな、もやもやとした気持ちを抱えたまま、こんな時間まで寝ずに待っているのだから、親は大変だなと思いつつ、「ごめんなさい。もうやらないよ。待っててくれてありがとう」と言った。



翌週から、学校ではテストが始まった。これが終われば、お待ちかねの夏休みが待っており、しかし、ここで躓けば、夏休み期間中、宿題とは別に補習を受けなければならなくなるので、誰もが必死な思いで臨んでいる。

テストは全五日間で行われて、その全てが午前中で終わる。普通なら午後から次のテストに向けて自宅で勉強するのだけど、今回はそうもいかない。直前まで作戦の練習をするつもりだ。

形になってきたとは言っても、看破されてしまえばそれでお終いなのだ。やり過ぎて困るということもないだろう。

決行はテスト最終日。つまり、今週金曜日だ。その前にやっておくことが幾つかあった。

まずは家麻さんに京都旅行ーーというよりは京都見舞いの報告をする。

ということで、テスト初日の今日、午後に家麻さんと待ち合わせをした。

向こうに行った理由が理由なだけに、お土産を買って帰るのはどうなのかとも思ったのだけれど、今回僕が京都に行けたのは家麻さんあってのことだったのに、錦乃さんに買って家麻さんには買わないほうが自分の気持ちとして収まりがつかなかった。

「そんなわけで、お土産買ってきちゃったんですけど」

と言って、生八つ橋の入った紙袋を家麻さんに手渡した。

「おーおー、気にしなくていいのに」なんて口では言っていたけど、やけにほころんだ頬を見る限り、買ってきておいて正解だったみたいで、ほっとした。

「で、どうだった。言いたいことは言えたか?」

「全然だめだめでした。半分も言葉にできなかったです」

「ま、そんなもんだろうよ」

「そうなんですかね」

「そらそうだろ。てめえの思ってること、考えてること全部言葉にできちまったら、人間いらねえじゃん。もっと人工知能が発達してるぜ」

「極論ですね……」

「かもな。そんなでもよ、半分も言えたってんなら上出来だろうよ……ん? ああ、半分も言えなかったんだっけか。まあ、どちらにせよ、あいつは喜んでたみたいだぜ?」

「色識さんがですか?」

「ああ。てめえがもうすぐ死ぬってんのに呑気なもんだよな、あいつも」

案外死ななかったりしてな、と冗談のようにいう家麻さん。そこがまたらしいと言えばらしいのだが。しんみりするのは柄じゃないんだろう。

「そうそう、あいつの商品は全部お前のものだ。今はうちにあるから適当に取りに来いよ」

「ありがとうございます……そういえば、家麻さんって何のお仕事してるんですか」

「ああ? 言ってなかったっけか。 私は採掘師だよ。普段は外国で鉱物を掘ってんだ。マダガスカルとかが多いな。あいつの商品は殆ど、私が掘ってきたやつだぜ」

「へえ」

男勝りだなとは思っていたけれど、まさか職業まで男勝りだとは思わなかった。

「家麻さんって、格好いいですね」

一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それから、白い歯を見せて笑った。

「なんだ、おべっか使ってもなんもでねえぞ。飯でも食いに行くか!?」

「いや、割と出てきちゃってるじゃないですか」

「酒飲むか?」

「僕未成年ですよ」

「関係ねえって。お前たぶんもう成長しなさそうだし」

何気に酷いことを言う。あと少し身長が欲しいんだけどなあ。

僕は、家麻さんに強引に引き摺られるようにして、少し遅めの昼御飯をご馳走になった。お酒は今後の成長の為に断じて飲まなかった。



例えば、一人の虐められっ子がいたとしよう。

その子は学校で虐められていて、しかも例外なく誰も助けてはくれない。

言わば、学校とは集団生活の練習の場であり、人間関係を学ぶ場である。そういったことは日常茶飯事だ。大人になればなくなるものでもない。きっと何処までいってもなくならないのだろう。

生きているだけで敵を作り、暮らしているだけで争いを産む。それが人間なのかもしれない。

そんな彼もしくは彼女は、事ある毎に罵られ、軽蔑され、事なくともそれは変わらず、全くもって的外れとしか言いようがない罵詈雑言を日々ぶつけられ、人でありながら人として扱われず、見も知らぬ同世代の人間に存在意義を全否定される。そんな学校生活を送っていたとしたら。

普通ならば、逃げてしまえばいいだろう。目を背けて、何もかもを捨て、背を向けてしまえばいいだろう。

しかし、何事にもあるように、逃げるということにも才能がある。個々人で向き不向きがあり、すべての人間が等しく同じように逃げられるわけではないのだ。こういった、忍耐強さとはまた別、ある種の固定観念を持っているとしたら、どうなるのか。

答えは、諦念を抱き適応する、だ。

周りから言われてしまうのは仕方がないと。

不遇を受けるのはやむかたなしと。

ここまで至ってしまうともう悪循環である。ここまで来てしまうともう手の施しようがない。

本人がそれでいいと思っているのならそうなのだろうと納得せざるを得ない。

しかし、考えてみれば、これだって詭弁だ。少し突いただけで崩れてしまうくらいに脆い。

何故なら。

逃げることにーー何事にも才能があるのだとしたら、助けを求めるのにも才能があるということだろう。

才能がなく、それができない人間は助けを求めていないのかというとそれもまた違う。彼もしくは彼女らは、手段を持たないだけで、そういった意思はみな同じように持っているはずなのだ。誰だって辛いのは嫌なのだから。

ただまあ、じゃあここで彼もしくは彼女を助けたとしても、別の被害者が別のところで生まれるだけだ。

学校内にーーいや、学校だけでなく人間社会に巣食っているシステムを破壊しない限り、また新たな虐められっ子が生まれてしまう。

だから僕はここでこの怨嗟の鎖を断ち切る。

自分の矮小さはよく知っている。世界を変えてやろうとかヒーローになりたいだとかそんな大それたことを望んでいるわけではない。

ただ、自分の護りたい人を護りたいと願い、手の届く範囲でいいから平和になってほしいと望んでいる。みながそうなれば、きっと社会は今とは比べものにならないくらい美しくなるだろう。

これが世界が変わる第一歩だと信じて。

僕はこれを果たそう。



水曜日。

次に僕がしたのも、またお土産を手渡すことだった。しかし、今度は錦乃さんに、だ。

こうして話すのは数日ぶりだけれど、体感的にはもっと長いこと直接会って話をしていない気がする。それだけ、僕の中で彼女という存在が大きかったのだろう。

テストが終わるなり、僕は錦乃さんのクラスに向かった。さすがにここにお土産を持ってくるわけにはいかなかった(学校指定鞄に入りきらなかった)ので、放課後一緒に僕の家まで帰ってその後渡すということになった。

二度手間を取らせてしまうので、申し訳ない気持ちで昨日その話をしたら、やたらとテンションが上がっていたみたいだったけれど、そんなに生八つ橋が食べたかったのだろうか。もう少し買ってくればよかったかもしれない。

錦乃さんと合流して僕の家に向かう道中、どうせだからと言って少し遠回りをしてどこかでランチをしようということになった。せっかくだからの意味がよく分からなかったけど、まあ断る理由もなかったので了承をした。

「どんな系がいいですか?」

「痛いのは嫌だな」

「……はい?」

ちょっと分かりづらかったか。

ボケの解説をすること程精神的に抉られる行為はないだろう。かと言って、このままなあなあにするのもそれはそれで気持ち悪い。

そんな風に思っていると、「ああ、なるほど。系と刑ですか……地味な上に分かりづらいですね」と呆れたような口調で言う。

「ごめん」

「そんな本気でへこまないでくださいよ。ただの軽口でしょう」

「ごめん」

「……」

こんな具合で少し錦乃さんを困らせて遊んでいると、ファミリーレストランが一軒見えてきた。他に入れそうなところもなかったので、そこに入る。

平日の昼間の割には客が少ない気がする。競争相手がいないにも拘らずこの客入りは驚愕的だった。ファミレスを利用する人は夜の方が多かったりするのだろうか。あまり利用したことがないので、分からなかった。

テーブル横にあるメニューを取って一つを錦乃さんに手渡した。

「ありがとうございます」

四ページ程度のメニュー表には多くの料理が載っていて、目移ろいしてしまうくらいだった。しばらく悩んだ末に、僕はピザを、錦乃さんはハンバーグ定食を頼んだ。

「それで、京都には何をしに行ってたんですか?」

「知り合いのお見舞いに行ってきたんだよ。急いで会いたくてさ」

と、詳細は省いて大筋だけを伝える。

錦乃さんはふうん、と小さく頷いてから、「京都はいいですよねえ。これぞ日本って感じがします」と言った。

「でも、東京とか秋葉原だって外国人観光客には人気らしいよ?」

「あれはまた別物でしょう。観光客っていうより買い物客という印象が強いですね」

「ああ、うん。それはあるかも」

事実、街を歩いていれば、外国人旅行者対象の免税店など多く見かけるようになった。

「それに対して京都は、日本の歴史です。みなさん風情に惹かれてやってくるのですよ」

「なるほどね」

「なんかさっきから他人事みたいに聞いてますけど、先輩だって中学のときに修学旅行で行きましたよね」

「実はあんまり憶えてなくて。この間行ったときも思い出そうとはしたんだけど、無理だった」

「修学旅行の思い出がないなんて、悲惨です」

確かに修学旅行は学校生活で最大のイベントと言ってもいいくらいなのに、それの記憶がすっぽりなくなっているというのは、自分の記憶力の乏しさを差し引いても奇妙な話ではあった。

「でもほら、憶えていないってことは憶えていたくななかったってことなんじゃないのかな」

「そんなに嫌な何かがあったんですか?」

「ううん」

「じゃあ嫌いな人と同じ班だったとか」

「いや……ていうか、憶えていないんだってば」

「へえ? 先輩は不思議な人ですね」

「自分が不思議ちゃんだとは思わないけれど。どうして?」

「だって、楽しかったにしろ辛かったにしろそれはそれで記憶には残るものじゃないですか?」

「んー。いや、どうだろう。やっぱり人は嫌なことは憶えておきたくないでしょ」

「だとしてもですよ。そうだとしても憶えてしまうのが脳ですよ。忘れたければ忘れたいほど、それは印象的だということですから」

「なるほど」

と、僕が頷くと同時に注文した料理をウェイターさんが持ってきてくれた。辺りに食欲を誘ういい香りが漂う。

鉄板の上で音を立てるハンバーグを頬張りながら、錦乃さんは、「実は私、ブロッコリーが苦手なんですよ」と言った。

リスのように頬を膨れさせた錦乃さんはフォークで、それを指した。

ハンバーグの副菜にブロッコリーが二つ転がっている。

「なんていうか、この、森っぽいところが駄目です。自然をそのまま食べているみたいで」

「野菜なんだから自然でしょ」

「まあそうなんですけど」

「突然どうしたの……ああ、もしかして、いらなってこと? 好き嫌いはよくないよ」

「先輩に食べてもらってもいいんですけど、嫌いと言っても食べられないくらいではないんですよ」

「ふうん? それじゃあどういうこと?」

「ふと、先輩には嫌いな食べ物とかあるのかなあと」

「ないよ」

と、即答した。

これは自分でも誇れる数少ないものだと思う。好き嫌いをしないというのは、家の中だけだと、それを食べなければいいだけなのでたいしたことはないのだけど、外に出ると意外と不便だったりする。

「ですよね」

「なんで、そんながっかりしてるのさ」

「なら逆に好きな食べ物はありますか?」

「……」

僕は言葉に詰まってしまった。

嫌いなものがなかったから苦労せず何でも食べてきたので今まで気にすらしなかったのだけれど、僕には、特段これと言って好物がなかったのだ。

「好き嫌いが多いのも考えものですけど、好き嫌いがなさ過ぎるのも、考えものですね。嫌いなものがほとんどなくて、好きなものがあるのならそれは素晴らしいことだと思います。ぐうの音も出ないでしょう。しかし、先輩のそれは決していいものではないです」

似たようなことを、前にも言われた気がする。既視感があった。

「偏食主義者という人がいます。ある食べ物に異常なまでの執着を見せる人です。先輩のそれはその逆、博愛主義の対立、すべてのものに無関心ーー無関心主義です。だからいろいろな記憶がない。記憶するだけの価値がないからーー無関心だから」

「そんなことは……」ないよ、と言いかけてやめた。あまりにも説得力に欠ける。それは自分が一番よく分かっていた。

「先輩にとっては嬉しさも、悲しみも全部同価値に価値がないんです。そう思い込んでいる。正直なところ、少し羨ましくもあります。傷つけられたことに無関心になれたならどんなにいいことかと、そう思います。けど、それ以上にとても怖いことだと思います」



僕らは午後二時半にファミレスを出た。一時間少しいたことになる。

再び、僕の家を目指して歩き出した。

「先輩、さっきの話なんですけど」

「うん」

「話ちゃんと分かりましたか?」

「どういうこと?」

「私がどうしてあんな話をしたのか、理解していますか」

「うん……いや、ごめん。よく分からなかった」

「私が嫌な女だってことです」

「うん? ますます分からなくなったよ」

「先輩。私はこう思っています。先輩がこれからしようとしていることはやめたほうがいいと。そう思ってますよ」

何のことかは訊かなくても分かった。確証があったわけではなく、直感で理解した。

だから、僕は「どうして?」とだけ返す。

「だって、先輩は染井先輩の所為で酷い目に遭ったんですよ? それなのに、どうしてまた先輩がそんなことをしなきゃいけないんですか」

「染井さんが悪いわけじゃないって言ったでしょ。それに成功すれば危なくはないよ」

「先輩が何をしようとしてるか詳細なんて知りませんよ。ただ、危ないことはしてほしくないんです。どちらかを選ばなきゃならないのなら、私は先輩を選びます。先輩は私の特別ですから……染井先輩には申し訳ないですが、先輩を選びますよ。だから、お願いです、もう染井先輩には関わらないでください」

そう言う錦乃さんは覚悟を決めた目をしていた。もう後戻りはできないーーいや、しないだろう。彼女は全身全霊で僕を止めにくる。

進むのは怖い。現状という甘い時間をいつまでも過ごしていたかった。けれど、いつかは必ず変化してしまう。いや、させなければならない。現状維持なんて本当の意味ではあり得ないのだ。進むしかない。僕が自分が望んだ方向へ歩んでいくしかない。それで、何かが終わってしまうことになっても。

だから、僕は。

「それはできないよ」

と、言った。

「僕は染井さんを助けにいく。それがどんなに危険でも、この後僕の立場が悪くなっても構わない。彼女は僕にとって大切な人だからこのまま見過ごすことは、できないんだ」

「……それは恋愛感情で好きという、ことですか」

「恋愛感情がいまいち分かっていないのだけど、うん。これは恋なんだと思う。染井さんにも言うつもり」

「……」

「錦乃さんには教えられることが多かった。僕がこうして歩めるのも錦乃さんのおかげだと思う。きみのおかげで僕はいろんなことが分かった」

ここで一息吐く。

そして、錦乃さんとの数ヶ月を思い浮かべながら、僕は言葉を紡いだ。

「僕を好きになってくれてありがとう。でも、錦乃さんの気持ちには、応えられない」

「……そう……ですか」

「うん、ごめーー」

「謝らないでください! こうなることはなんとなく、分かってましたから」

錦乃さんは、目に涙を浮かべつつ無理に笑った。

「だって先輩、染井先輩を見るとき、私を見るときの目と全然違うんですもん。誰だって分かりますよ」

「そうかな」

「はい。違いました……それでも、止められなかったんです。私は、先輩を、好きだったんです。だからーー怪我はしないでくださいね」

僕らは、傷付けて、傷付けられて生きていくのだとしても。彼女の気持ちに応えられないのは変えられないとしても。それでも、やっぱり辛かった。きっとこれは一生記憶に残る。僕という人間を形作る記憶の一部になる。そう思った。



翌日、木曜日。

テストが終わってから自宅に帰って、明日の準備をしてから電話をした。人生初と言っても過言ではない、呼び出しである。急なことだったので、予定が合うのか不安だったのだけれど、幸い、日没後ならということで待ち合わせをした。

指定時刻の少し前にやってきた、染井さんはデニムに長袖のシャツという出で立ちだった。私服姿を見るのは錦乃さんの家に行った以来だったので新鮮だ。

僕はまず、手提げの紙袋を渡す。

「これは?」

「お土産。京都の」

「……ありがとう」

何をしに行ってきたのか訊かれると思っていたけど、それはなかった。たぶんそれよりも、自分が何故呼び出されたのか気になるのだろう。

「もうきみとは会うつもりはなかったのだけれど」

「あはは、そうだと思ってたよ」

「傷、だいぶ治ってきたのね」

「おかげさまで」

染井さんは、よかったわ、と心底ホッとしたように微笑んだ。

「そっちの方は全然よくないみたいだけど」

「そうでもないわよ」

「嘘は吐かないで」

「……」

「あんなことがあった後で悪化しないなんてあるわけがないじゃないか」

人間は良くも悪くも後戻りができない。事が動き出してしまえばそれに乗るしかなくなるのだ。後戻りができないから前に進めるとも言えるけれど、一歩足を踏み外してしまえば、なかなか出られなくなる。そんなどうしようもない人間である僕らの間であんな決定的な出来事があったのだ。必ず環境に変化があったはずだ。

「そう、ね。前より悪くなってるわ」

と言って、シャツの袖を捲ると細い腕に包帯が巻かれているのが見えた。

「机の上に画鋲があったの。私、自分を目敏いほうだと思っていたのだけれど案外気付かないものね」

「ものねって……」

同年代の、しかも同じ学校の同じクラスの女の子にそこまでするのかーーとは思わなかった。むしろ、彼らならやりかねないと得心いってしまった。

「こんな高校生あまりいないとは思うけど、それでも卒業してしまえばみんな同じだもの。あと少し、私はそれまで我慢するわ」

「我慢できたとして……我慢できるとして、染井さんはそれでいいの?」

「別に構わないわ」

と、断言した。

「きみだって今までそうだったでしょう? 孤独に耐えて、全て自分で背負ってきたじゃない」

「確かに僕はそうしてきたけれど、だからと言ってあなたがする必要はない」

「別にきみがやっていたから私もやるんじゃないわよ。あくまでもこれは私の意志」

「そんなのはどうかしている。普段自分が生活をしている場で傷付けられて、迫害されて、そんなのを許容するなんて、どうかしてるよ」

「仕方ないじゃない」

いくらか声のトーンを落として彼女は言った。僕を睨みつけながら。

いいさ。それでいい。自分の気持ちを僕にぶつければいい。それで自分で自分の気持ちを知れれば安いものだ。

「私が何かをしたわけじゃないのにこうなってる。彼らがやることに理由なんてない。結果しかない。そんなの、どうやってやめさせればいいのよ」

理由なき暴力。

そんな話を初対面のときにした。僕はそのとき、手を引いてしまったけれど、今ならその手を差し伸べられる。

「私だって本当は嫌よ。こんな生活。だけど仕方ないじゃない……もう手ごとに負えないところまできてしまっているんだから。私はもう普通の高校生じゃないんだから」

「何でもかんでも納得するみたいなことは、もうやめよう? いいじゃん、普通じゃなくたって。教室で昼休みが過ごせなくたってそれでいいんだよ。それが僕たちなんだよ。そんなの幸せになっちゃいけない理由になんてならない。僕たちは僕たちのままで幸せになれるんだよ。少なくとも僕は幸せだった。満足だった」

「そんな幸せも、彼らの所為で壊されたのよ。奪われ、踏み躙られた」

もう何も奪われたくない、と。

そう言った。

壊されたくないのなら、壊されたくないものを持たなければいい。

奪われたくないのなら、奪われたくないものを作らなければいい。

それは、これ以上ないくらいの防御策であるように見える。結果として、奪われないし壊されないのだから。だけれど、そんなのは奪われる前に奪われて、壊される前に壊されているようなものだ。始まってすらいない。そんなのは防御策なんて言わない。

「それが嫌だったら護るしかない。状況を変えるしかないんだ。痛くて辛くて苦しくても、本当に護りたいものを見失っちゃいけない」

「……私はーー」

「僕にとってそれは、きみなんだ。染井さん。格好悪くて死に物狂いでいろいろな何かを捨ててもう引き返せないくらい普通じゃなくなっても、それでも僕がきみを護るから。だから、僕に、あなたを助けさせてほしい」

右手を差し出して、僕はそう言った。

そして。

「私は…………。私を、助けて、零秋くん」

と、彼女は僕の右手を取った。



金曜日。

昨夜はいろいろとあって一睡もできなかった。

失敗はできない、そう思うと脳が眠ることを許してくれなくなって、次から次へと想像を目の奥に投げかけてきた。成功するビジョン、それとは逆に失敗してとんでもないことになるビジョン。それらが交互に浮かんできて、頭の中はてんてこ舞いだった。とてもじゃないけれど、テストどころの話じゃない。

というのが、第一の原因。いや、こっちが第二なのかもしれないけれど。

ともかく、二つ目は、昨夜掛かってきた電話に起因している。

要約するとこうだ。

『もしもし』

「うん。どうしたの、染井さん」

『ちょっと確認しておきたいことがあって』

「なに?」

『私たちって、男女交際することになったのよね』

みたいな感じの電話が、もう寝ようと思っていた時分に来た。もっと詳細に話すのであれば、ディテールもはっきりしてくるかもしれないけれど、今回の場合それは必要ないだろう。こんなのが来ればたぶん、誰だって眠れなくなる。

確かに昨日のあれは完全に告白っぽかったけれど。恋愛感情で好きだ、とか言っちゃったからそれも意識してしまって、変な言い回しになったのも事実だけれども。しかし、時期尚早かと思っていたので、まだ言うつもりはなかったので、そんな風に切り出されて正直困ってしまった僕は、流れに流されるまま、付き合うことになった。流されることに関しては一流なのだ。

とはいえ、これではあまりにも自分が不甲斐なくて、染井さんが不憫なので、後でちゃんと告白するしかない。

そんなこんなで、初っ端から出鼻を挫かれた形になって四苦八苦し、ようやく眠くなってきた頃には、もう支度をしなければならない時間だった。

半分睡眠しているような身体を引き起こして、僕は洗面所に向かった。冷水で顔を洗うと、少しだけ目が覚めたような気分になった。気分だけだけど。それからリビングに向かう。既に朝食の香りが家の中を漂っている。父親は僕が起きるよりも早くに出勤するので、きっとその所為だ。

「おはよう」

と。

リビングに入って、台所にいるであろう母親に向かって言う。

テーブルに座って朝食を待っていると、「おはよう」と近くで言われたので、とりあえずおはようと返す。

「昨日はよく眠れた?」

「いや、全然。一睡もできなかったよ。染井さんは?」

「あら、私? 私は眠れたわよ、ぐっすりと」

「そう。それはよかったね」

「そうね」

「うん…………うん? これは夢?」

「夢じゃないわよ」

「……っなんで! なんでうちに染井さんがいるの!?」

「なんでって、昨日、一緒に登校しましょうって言ったじゃない」

「言ったけど……」

「零秋くんの家で待ち合わせねって言ったじゃない」

「言ったけど、それはうちの中でってことじゃなかったでしょ!」

「だって招いてもらったから」

「招いてない!」

「わたしが招いたのよ」

と、二人分の朝食を持ってきた母親が言う。それを僕と染井さんの前に置いてから、

「だってずっと家の前で待たせてるのも可哀想じゃない」

「ずっとって……え、何時からいたの」

「六時ね」

今から一時間半も前である。待ち合わせの二時間前である。

「……早すぎじゃない?」

「前もって行動するのは人として当然よ」

「限度を超えると何事もよくないってことを知った方がいい」

「あら、いいじゃない。ねえ、晴ちゃん」

「ありがとうございます、お母様」

晴ちゃん? お母様? 何ちょっと仲良くなってるの?

気が合ったの?

「あとでちゃんと説明しなさいよね」

と、耳元で囁いて、母親は台所に引っ込んでいった。

説明も何も、この状況を一番分かっていないのは僕だと思う。

「お母様いい人ね」

「……うん、そうだね」

と、美味しそうに白米を頬張る染井さん。その仕草はあまりに自然でうちにいることの違和感がまったく感じられなかった。

「うちで朝食を食べることになった経緯は分かったけれど、それはなに?」

「どれ?」

「それだよ、それ!」

言いつつ、テーブルの上に置かれた紙袋ーーもとい菓子折りを指差した。

「ああ、これね。これはバームクーヘンといってーー」

「僕が訊きたいのはそういうことじゃなくて、そのドイツの銘菓がどうしてここに?」

「私が持ってきたからよ」

と、少ししたり顔で言う。

「男女交際することになったのだから、ご両親に一言ご挨拶するのは当然でしょう?」

僕は盛大に味噌汁を噴いた。

「…………うん、間違ってない」

さっきの母親の台詞はそういうことか。僕が起きてくる前にそんなことを言っていたのか、この人は……。

なんていうか、この人は本当に。

「不器用だよなあ」

「? 何か言ったかしら?」

「ううん、別に。あのさ、あとで話があるんだけど、いいかな」

ちゃんと告白をしよう。現時点で既に不甲斐ない限りだけれど、それでも面と向かって、言葉にしよう。そう思った。

そして、染井さんは、

「構わないわよ」

と、一言だけ言って、幸せそうに笑った。



正直、少し不安要素もあった。

染井さんを助けることは僕が決めたことで、それについては了承も得ているけれど、これから僕がしようとしているのは孤立の道なのだ。自ら孤独になろうとせん道である。

僕はもともと人間関係を構築できなかったし、何よりそれについて諦めてしまっているから何てことはないけれど、しかしもしも、染井さんがそれを諦めきれていなかったとしたら、まだ普通の高校生になることを望んでいるのだとしたら、僕がすることは逆効果になる。

「そんなのどうでもいいわよ。私はこれがいいわ」

と、僕の少し前を行く染井さん僕のほうを振り向きもせずに言った。

今は登校中で、同じ制服姿の人がちらほらいる。女の子と一緒に歩き慣れていない僕にこれはなかなか気恥ずかしいものがあった。

そんな邪念というか煩悩というかを振り払うように僕は口を開く。

「でも、よく考えたら、普通に戻れる可能性だってなくはないんだよ?それをみすみす潰すようなことしていいのかな」

「何よ今更」

「今だから思うんだよ。これをしたら、きっと後戻りはできなくなる。卒業するまで異端者みたいな扱いを受けることになる」

「そんなのこれまでだって似たようなものじゃない」

「今までと同じならいいけど」

それ以下ということも十分にあり得るのだ。事が上手くいかないことはもちろん、仮に全てが上手くいったところで、染井さんの周囲を取り巻く人間関係が完全に破壊できるとは限らないのだ。

すると、「でもさ」と言って染井さんがこちらを向いた。

「でも、そうなったとしても、零秋くんは側にいてくれるでしょう?」

「……うん」

「なら、いいわ」

と。

彼女はまたもや断言した。

きっとその言葉に偽りはないだろう。例えば、今と比べて状況が悪化したとしてもそれを嘆いたりは決してしないだろう。側に僕がいたのなら、それでよしとできるのだろう。

僕は、ずっと疑問だった。

何故彼女が、虐められなければならないのか。

何故染井さんが、こんな扱いを受けなければならなかったのか。理由が分からなかった。だから、理由がないと思った。彼らの行動には理由がないと、そう思った。しかし、本当にそんな事があるのだろうか? 何かをするときに、理由が必要のない人間なんているのだろうか、と疑問だった。意識しているしていないは別として、理由は必要なんじゃないか。

そして、今、分かった。

彼女がやられてしまう理由が、今はっきりと分かった。

彼女は強い。そして、眩しいほどに真っ直ぐだ。

僕らみたいな人間には目が眩んでしまうほどに。

それは本来ならば、長所として重宝して然るべきもので、周囲から潰されるような代物ではないのだけれど、それに、理由があったところでその行為が肯定できるものでもないけれど、それでも僕は得心いった。

これなら全力でぶっ壊せる。

理由のよく分からない得体の知れない相手じゃなくてよかった。

理由がちゃんとある屑みたいな人間が相手でよかった。

「染井さん」

「ん? なに?」

と、またこちらを振り向いた。

僕が好きな染井さん。

輝いていて、眩しくて、けれど、触れていたい陽だまりのような、僕が好きな染井さん。

それをそのまま言葉にするのは些か恥ずかしかったのもあったけれど、例え言葉にしたところで、思ってること全てを伝えられるとは思えない。「染井さんはあれだね」と少しもったいぶったような言い方になってしまう。逡巡して、しっくりくる言葉を探して、そして。

「ラブラドライトみたいな人だね」

と、だけ言った。

きっと伝わらないだろう。けど、それでいいと思った。一言で全部を伝えようなんていうほうがそもそも間違いなのだから。これから時間をかけて、少しずつ僕の気持ちを染井さんに渡していければ、それでいい。

彼女はやはり想像した通り、目を点にして小首を傾げている。

「…………犬?」

「それはラブラドールレトリーバーだよ」

「ふうん? それじゃあ、どういう意味なの」

「僕が染井さんを好きっていう意味」

すると、またーーいや、さっきとは比べものにならないくらいの驚き様だった。

「……驚いた。零秋くんはデレたりしないと思っていたわ」

「まあ、最初くらいはね」

だから、と僕は言う。

「だから僕と付き合ってよ、染井さん」

なるべく感情を込めずに、フラットに。こんな会話など日常の一つであるかのように、言った。

日常であったなら、きっとこれからも変わりなく続いていくだろう。今までの僕がそうであったように。

この時間が、終わりを知らない日常に溶け込んで欲しい。

そんな僕の願いを知ってか知らずか、染井さんはいつもの笑顔で、「いいわよ」と言った。



夏は暑い。今年は特に暑い、そんな毎年恒例の台詞を呟く。

すると、僕の隣で、「暑い暑い暑い暑い暑いーー」と念仏のように唱えていた晴が、

「そうだ、じゃんけんをしましょう」

と、言い出した。

「なんで?」

「敗者にはコンビニでアイスを買ってくる権利を与えるわ」

それはいいアイデアだとは思ったけれど、ここから一番近いコンビニでも、買って帰ってくる間にアイスが溶けて、アイスではなくなる。

「それなら、ホームセンターでクーラーボックスを買って、コンビニにーー」

「どんだけアイス食べたいんだよ」

「食べたいわよ、これだけ暑いんだもの。むしろこれは、食べたいではなくて、食べないと死んでしまう、ね」

僕は必死に晴を宥めて、取り敢えずのところは自動販売機の冷たいもので我慢してもらった。この灼熱地獄の中、ホームセンターからコンビニをはしごするのはごめんだったし、アイスを食べないと死ぬとまで言っている人に買って帰ってくるなんてことができるわけがない。

「じゃあ、僕買ってくるから、そこで待っててよ。何がいい?」

不満そうに口を尖らせて何やらぶつくさ言いいつつも、「レモンティーよ。冷たさ倍増で!」と言った。

「設定温度は変えられないよ……」

と、一応つっこみを入れてから、自動販売機に向かった。

それにしても、今日は本当に暑い。暑過ぎて、もはや熱い。これ、道路に座ったら火傷するんじゃないだろうか。そんなことを思いつつ、レモンティーのボタンを押す。けたたましい音を奏でながら、缶が落ちてくる。それを取ってから、僕は自分の分のコーラを買った。両手が心地いい。これだけでも地獄ともいえるここを歩いてきた価値があったというものだ。

「おかえり」

「ただいま。はいよ」

と、缶を渡す。それを受け取ると、気持ちよさそうに顔を綻ばせて、プルタブを開いた。

「いくらだったかしら」

「うん? ああ、いいよ、奢り」

「あら、太い腹ね」

「その言い方はやめよう」

週末の昼だというのに、人がほとんどいない。こんな暑さだからみんな家に引き篭もっているのだろうか。

「そういえば」

と、缶を口に運んだり、首筋やおでこに当てたりで忙しそうだった晴が言った。

「錦乃さんの結婚式はいつだったかしら」

「再来月だよ」

「ああ。驚きよね……相手の人は外国人さんだものね」

「イギリス人ね。すごくいい人だった」

錦乃さんは、高校を卒業した後、大学に進学してから『私を満足させてくれる男の人は日本にはいません!』と宣言して、大学を中退して海を渡った。そして、それから数年経って、結婚式の招待状が届いたのだ。僕はその前に錦乃さんの相手の方に一度だけ会っているけれど、晴はまだである。

「どんな人なの?」

「うーん……。シド・ヴィシャスとショーン・コネリーを足して二で割った感じ」

「あらいいわね」

「今ので分かっちゃうんだ……?」

晴の驚異の想像力に感嘆してしまう。

僕は、手の中の缶に少し残ったコーラを一気に飲み干し、ふと思い出した。

「再来月といえば、近々家麻さんがこっちに戻ってくるらしいよ」

「へえ……なんでかしら」

「色識さんの墓参りだって。命日に来られなかったから」

「ああ、なるほど」

「僕も一緒に行こうかと思ってるんだけど、晴はどうする?」

「せっかくだけれど、私、先約があるの」

「ふうん? そうなんだ」

「家麻さんと京都を楽しんできて。私は零秋くんのお母様と映画を楽しむわ」

先約って、母親となのか。

高校のときに付き合い始めてからずっと、晴と母親は仲がいい。僕のことはそっちのけで遊びまわっているらしい。父親も、表には出さないけれど嬉しいようで、うちに晴が来ると途端に上機嫌になる。

試しに、「先約が母親となら言えば日にち、ずらしてくれると思うよ」と、言ってみた。すると、「いえ、大丈夫」と、すっぱり断られた。まあ仲がよさそうで羨ましい。

すると、小学生くらいの女の子が突然目の前に現れてーーいや、そんなことはないと思うから、きっと僕が気付かなかったんだろうけれど、とにかく、小学生くらいの女の子が、「これはなに?」と、訊いてきた。

「うん?」

高学年ではないだろうことが容易に想像できる小さな指が、広げていた露店を指差していた。

「ああ。これは鉱物っていうんだよ」

「ふうん?」

少年少女にありがちな感情表現の乏しい曖昧な、気の抜けたような反応をする。まあいきなり鉱物とか耳慣れない言葉が飛び出してくれば、そんな反応にもなるか。きっと僕も最初はそうだったのだろう。

「きみはどの子が好きなの?」

と、僕は灼熱太陽の下に並べてある愛すべき友人たちを指し示した。

少女は、うーんと頻りに首を横に振ってから、「この子」と一つのペンダントトップを手に取った。

僕はそれを見て、思わず笑ってしまった。

その子をそのままあげてもいいのだけれど、突然これを家に持って帰ったら親御さんが心配してしまうかもしれないのでそれはやめておく。

僕は、代わりにごった返した荷物を漁った。

確か、持ってきてたはず……。

「零秋くん、こっちじゃない?」

「いや、そっちには入れてないと思ーー」

「ほらあった」

「…………うん、ありがとう」

晴からそれを受け取って、少女の前に広げる。

手の中には研磨されていない原石の状態のラブラドライトが数個転がっている。

「これ、この子と同じなんだよ」

「……でもこっちのほうが綺麗」

……なんてことだ、原石の素晴らしさが分からないか。

「だったらこっちはどうかしら」

と、晴は少女に小石ほどのビーズを、一粒渡した。すると、少女は今までと明らかに顔を輝かせて、「うん、綺麗」と言った。

やはり女の子同士か、と少量の寂寥感が夏の空気に滲んで、そのまま溶けてどこかにいってしまった。

少女の手の中で、ラブラドライトが七色に光り輝いている。水面に垂らした油みたいな魅惑的なカラーを僕たちに見せてくれていた。

「それ、耳に当ててごらん」

と、僕が言うと少女は素直にそうする。

なにこの子、かわいい。

「何か聞こえる?」

「ううん。なにも」

「本当に?」

少女からビーズを借りて、同じように耳に当ててみる。

日常の音がする。

風が吹く音。木々が身を揺らして唄う声。自動車の走る音。鳥のさえずり。

そして、晴の息遣い。

僕はもっともらしく頷く。

「なるほどねえ。そうかそうか」

「え、どうしたの」

「この子、きみとお友達になりたいんだって。なってくれる?」

「その子が言ったの?」

「そうだよ。きっといいお友達になってくれると思うよ」

「でもわたしにはなにも聞こえないよ」

「大丈夫だよ」

僕にもまだ聞こえないんだ。

「きっといつか聞こえるようになる。その日まで話しかけてあげて。きっと聞いてくれる」

そう言うと、少女は元気に頷いて笑顔を零した。


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