なないろ宝石店へようこそ

彩詠 ことは

前編

いつの間にか春が来て、いつの間にか新入生もやって来ていて、そして、いつの間にか僕は進級していた。学校生活なんて僕にとっては所詮そんなもので、そんなものでしかない。日常とはただただ流れていく時間に付随した何か。そんな扱い。

今日も今日とて何事もなくーーいや、実際は始業式があったから普段とは違うのだけれど、それでも特筆して何かがあったわけではなく、こうして午前中に帰路についている。

全てがいつも通り。

僕がしたことも、僕が歩く道も、それ以外の全ても。何も変わらない。変わらないし、変えられない。

今日の晩御飯は何にしようか、ああ、でもその前に昼ご飯か。

バイトのない日はいつもこうして手持ち無沙汰になる。みんなはいったいどうやって過ごしているんだろうな、なんてことを割りかし本気で思ったりする。

僕にだって趣味くらいはある。読書は唯一長年続けてきた趣味のようなもので、没頭し始めた理由は趣味の中に入れてはいけないくらい薄ら暗いものなのだけど、でもまあ、趣味と言ってもいいんじゃないかな。

本の虫には大きく分けて二種類いると思う。

一つは本好き。ただただ本が好きな人種。

もう一つが、読書好き。こちらは本を読むという行為が好きな人種。そして、この人種の嫌なところは、必ずしも読書が『好き』でない者もこの内に入れるということだ。

僕はこの後者に入ると自覚しているんだけど(自覚するのは大事だ)、僕の場合、本を読んでいないと生きていられないというのがある。

つまりは、現実逃避だ。

目を背ける先として本があるというだけで、読書じゃなくとも没頭できるものがあればいい。

そんな前者の方々が、もしかしたら後者の人でも聞いたら、呆れ半分憤慨半分の阿鼻叫喚の地獄絵図に突入させるだろう、恐るべき理由がある。

帰路はやっと半分くらい。距離的には自転車の方がいいんだろうけど、僕はこの徒歩の時間が割と気に入っているので一貫して徒歩通学だ。

道程としては、家から学校までを半分にして、学校側が街で、家側のほうは住宅街ということになるんだろうか。たまに田圃とか林とかがあるくらいには拓けていない。ちょうど今歩いている辺りが、街とそうでないところの境界線なのだけれど、店も疎らで、それに比例して人の数も減っていく。そもそも、平日の午前中なのもそれに拍車をかけているのかもしれない。

しばらく歩いていると、ふと、人がほとんどいないこと以外はいつもと変わらない風景の中、異様なものを見つけた。

それは露天商だった。良くも悪くも滅多に変化することがない我がホームタウンにしては珍しい。

ていうか、露天商って法律的にどうなんだっけ。確かあまり歓迎はされていなかった気がするけれど。しかし、そんなことお構いなしといった風に露天商はふてぶてしくも下駄を履いた脚を組んで新聞紙を読みながら、煙草を吹かしているようだった。断定できないのは、新聞紙で上半身がすっぽり隠れていてその様子は窺い知れないからだ。頭上にもくもくと紫煙(と思しきもの)が上がっている。

売っているのは……アクセサリー類らしい。陽光が直接当たって光が弾けている。

なんてことを考えながらも歩くスピードは変えない。もとより立ち寄る気がないのだから、変に歩みを遅めて声でも掛けられたら面倒だ。双方ともにいい思いはしないだろう。そう思い、僅かながらも割いていた好奇心を軌道修正させて、帰宅意欲に合流させた。

すると。

「きみ」

と、何処からか声を掛けられた。

数瞬前に、声を掛けられたらなんて思考をしていたので幸い驚きはしなかったけれど、いかんせん不意打ちだったもので、何処から、そして誰に声を掛けられたのかわからなかった。

辺りを窺う限り、知り合いはいない。ていうか、僕には偶然会って声を掛けてくるような間柄の人物はいない。そもそも、人自体いなかった。いや、正確には露天商がいるのだけど、相変わらず新聞を読み耽っているので考察の外に出す。

はて、そうすると誰が話し掛けてきたのだろう。

幻聴かな、と自己完結したその瞬間またも、

「きみ、きみだよ」

と、声がする。

幻聴じゃない。それに今度は身構えていたこともあって、声の方向を特定できた。それは露天商の方向だった。

頭部だけを稼働させてそちらを見やる。すると、目が合った。誰と? ここまでくればそれは当然露天商だ。露天商の彼女は新聞紙を組んだ脚の上に畳んで此方を見ていた。

女性?

驚くことなかれ。

下駄を履いていて、煙草を吹かしながら新聞紙を読んでいた露天商は男ではなく、女性だった。それも年頃としては、二十代半ばくらいか。どんなギャップ萌えを狙ったらこうなるんだ。

彼女の表情は妖艶な笑みで、紫煙と相まって妖怪のような雰囲気をしていた。

ぷはあ、と煙草を一吹かししてから目を細めて言う。そうすると猫の目みたいだった。

「きみ、きみきみきみきみきみきみ、きーみ」

何回きみきみ呼ぶんだ。

そこはかとなく嫌な予感がしていたけれど、ここから逃れる術を対人スキル皆無の僕は持ち合わせていなかった。だからせめてもの抗いとして、

「え、僕ですか?」

と、すっとぼけてみた。

それでも「そうそう」と肯定されるだけだったのだけど。

「うちの子達見てってよ」

そう言って、手で商品を撫でた。

見ていけと言われてそれを邪険に出来るほどに神経ができあがっていない僕は、言われるがままに鏃型のペンダントトップを手に取った。

色は黒……いや、ん? 七色に光っている。なんだろう、重量は道端に落ちている石ころと同じくらいなので、ガラスかもしれない。

「うんにゃ、それは鉱物だよ」

「好物?」

「いや、字が違う。鉱物」

よく誤字ってるとわかったな……。

それにしても、鉱物。初めて聞く言葉だった。

「鉱物ってのは……うーん、なんて言えばわかりやすいかな。まあ、石だよ」

いろいろと雑だ。

「へえ。そこら辺に落ちてるやつとは違うんですか」

「あれは岩石。これは鉱物」

よくわからなかった。

猫目の女の人は説明が下手らしく(というか、会話能力自体低そうだ)、しどろもどろになりつつも話してくれた内容を適当に掻い摘んで解読してみた。

「つまり、岩石は混ざり物で、鉱物は混じりっけなしってことですかね」

「そうそう!」

と、やたら嬉しそうに首を縦に振った。

「宝石を思い浮かべたら簡単かも。みんな大好き、ダイアモンド。これは変わらないよね。ダイアモンドはダイアモンド。でもそこに落ちてる石は何が混ざってるかわからない」

つまり不定方程式なのさ、とドヤ顔で言ったのだけれど、たぶん、不確定要素と間違えてる。

僕は手に持っていた七色に揺らめく黒い石を見る。これも自然が創り出した物なのだろうか。

「そだよ」

あの子もこの子もみーんな天然だよ、と言った。

「きみの持ってるその子は、ラブラドライト。和名は曹灰長石(そうかいちょうせき)っていうんだよ」

そうかいちょうせき、の字が思い浮かばなかったけど、きっと思い浮かんだとしてもさして意味があったとは思えないのでそのままにした。

これまた聞き覚えのない固有名詞が出てきてあまりぱっとしない。ただ、こんな光り方をする蝶がいた気がするなとは漠然と思った。

「おお、目の付け所がいいね。その石はね揚羽蝶が閉じ込められているなんていう神話もあるんだよ」

「へえ」

どういった理由でこの摩訶不思議な発光が起こっているのかは計り知れないけど、まさか本当に揚羽蝶が中に入っているわけでもあるまい。それでもーーいや、そんなこと関係なく魅力的であることは間違いなかった。

「その子が気に入ったかい」

猫目の露天商は、短くなった煙草をポケット灰皿に突っ込んで、また新しいのに火をつけた。相当なヘビースモーカーらしい。

「やめたほうがいいと思いますよ」

「うん?」

何を言われたのかわかっていないのか、首を傾げる。

「煙草ですよ」

百害あって一利なしじゃないですか、と知ったようなことを言う。まだ煙草を嗜んだことはないし、これからもきっとないとは思うけれど、それでも授業でやったことくらいは覚えている。

「うん……いや、まあ、そうだね」

と、ここにきて初めて歯切れの悪い返答が返ってきた。てっきりさっきまでの饒舌に任せて言いくるめられると思っていたので、正直肩透かしを食らったような気分だったけれど、いったい僕は何を期待してるんだと思い直す。

まあ、見も知らない輩から知ったような口を叩かれたら反応に困るもんな、たぶん。

一抹の罪悪感と気まずい雰囲気を一蹴すべく、

「これください」

と、見得を切った。すると、

「ん、これはだね……二万五千円だ」

ふっかけられた気がする。

見得を切った手前引き退るのは困難を極めた。商品を置いてダッシュで逃走しようかと考えていると、

「冗談だよ」

と、笑った。笑うとやっぱり猫目になる。さしづめ、妖怪猫露天だ……いや、これだと妖怪が猫を街のど真ん中で売ってるみたいになっちゃうな。

「学生くんには割引してあげよう」

なんで僕が学生だって知ってるんだ、と一瞬身構えかけたけど、考えてみればなんてことはない。今日は始業式で、今はその帰り道だったのだから制服を着ている。そんな単純なことも忘れてしまうくらいには猫露天の鉱物(?)トークに熱中していたらしかった。

露天商の彼女は、奥から電卓を引っ張り出してきて(比喩ではなく本当に引っ張り出してた。どんだけ客きてないんだよ)、ぱちぱちと音を鳴らす。どんな計算をしたのかは僕のところからだと見えなかった。それから少しして、じゃーん、と掲げた電卓には『500』と表示されていた。

「五百円でいいんですか」

さっきのは些かふっかけられた感じがしたけれど、それにしたって、露天商というイメージに引っ張られてである。実際の価値なんてわかるはずもない。宝石と同じだと話していたからこんな手軽に、しかもワンコインで購入できるとは想像だにしていなかった。

「うん。きみにはサービスしちゃうよ」

きみには、という言葉に少し引っかかったけど、良くしてもらえるのならしていただこうではないか。

僕は財布から、運良く入っていた五百円玉を差し出す。

猫目の彼女はそれを受け取って、器用に指の上で転がせた。手品師がやるあれだ。

「まいどありぃ」

にひひ、と笑って言う。

「おっと、忘れるところだった」

営業は苦手なんだよね、と差し出したのは一枚の名刺だった。

「またなんかあったら来なよ」

名刺には、

『なないろ宝石店

店主、色識いろしき なな

と、書かれていた。

名刺を貰うことなんて初めてだったので、どう反応したらいいのかわからず、それでも無言というのも如何なものかと思い、

「なんだか……美味しそうなお名前ですね」

なんて、自分でも何を言ってるのか全くもって意味がわからないことを返しておいた。

「美味しそう? ……あ!きみ、今、ピロシキ思い浮かべただろ」

僕の飛躍ーーというより起爆した発想を物ともせず看破するとは、なかなかどうして、とんでもない洞察力だった。



それから家に帰って、先ほど購入した黒い石(ラブラドライトって言ってたっけ)に通すチェーンを探した。幸い、チェーンはすぐに見つかったのだけど(父親の私物だ)、これを通したら石に傷がつくのでは、と思い至って革紐にしておいた。

頭がぎりぎり抜ける大きさのところで革紐を切って結んでしまえば完成だ。個人的にはもう少しペンダントトップを上げたかったのだけれど、そうすると、今度は頭から抜けなくなるので諦めた。

胸の前で七色に揺れる黒い石。眺めているだけで気分が高揚してくる。自分がこういうのが好きだとは思わなかったので、なんとなく、他人と同じ部屋にいるみたいな変な気分になった。

次の日にはもう授業が始まって通常通りの帰宅となった。帰り道はいつもと同じなので、またあの露天商がいるかも、と思っていたのだけれど、そんなこともなかった。すっぽりと露天商だけが抜け落ちたような光景は、やっぱり夢霞みに消えた妖怪のようだ。あそこに猫目の彼女がいた痕跡は僕の胸にぶら下がっている黒い石と生徒手帳に挟まっている名刺だけ。そのことがなんだか心の中で重い地団駄を踏んでいる。

久しく他人と会話らしい会話をしてこなかった所為なのか、それとも余程露天商との会話が楽しかったのからなのかはっきりしなかった。



次に僕の日常が乱れたのは、始業式から三日経った日の昼休みだった。

僕はこの時間は教室を出ることにしている。基本的には自分の机だけがテリトリーなのだけれど、昼食時だけはあの無駄な喧騒から抜け出したくて、そしてなにより、あの中に一人でいるというのは思いの外精神衛生上良くないのだ。クラスメイトから認識されているかも怪しいけど、それでも僕が存在しないわけではないからイレギュラーも起こり得る。つまり、危機管理しているのだ、と逃げに対しての言い訳を一通り己に言い聞かせながら目的の場所に向かった。

四階階段。

僕の通う高校の校舎は四階建てで、この階段を昇ると屋上に出るのだけど、このご時世に開放しているはずもなく鍵の閉まった扉がその行く手を阻んでいる。加えて、ここは校舎の一番端に位置していて、人が通ることは滅多にない。喧騒を嫌って教室を後にした僕にとっては好条件が揃ったベストなスペースなのだった。

僕はいつものように、階段に置いてある座布団の上に腰を下ろして、登校前に購入した菓子パン(今日はカレーパンとピザパン)と、パックのコーヒー牛乳を広げた。

小説を片手にパンを咀嚼していると、耳慣れない音が聞こえてきた。いや、耳慣れないというのは語弊がある。音自体は聞き飽きたと言ってもいいくらいの日常的なものだったのだけれど、それはこの場所以外での話だ。もう一度耳をすませてみる。やはり、数人の足音がこちらに向かってくる。

こちらにーー校舎の端に位置するこの階段の方向に向かってくるということは、つまり、この階段を目指しているということだ。

とは言っても、先にここにいたのは僕の方で、追い出されるように移動するのは違うだろう。縄張り意識があるわけではないけれど、それでも後出しに易々と譲るほどお利口さんじゃあない。

僕は迎え撃つ意味も込めて廊下に目をやった。

すると。

まず見えたのは、女の子だった。というより、その後から来たのも全員例外なく、女の子だった。総勢五人の女の子。

しかし、女子特有のきゃっきゃうふふなあの感じはない。少なくとも遊びに来たという空気ではないな、と空気の読めない僕が思った。むしろ、雰囲気は険悪とも言えた。一人の女の子に対して、四人が逃げ道を塞ぐように囲んでいる。

こんなのどっかで見た……ああ、ケーブルテレビの動物専門チャンネルでやってた何かの狩りの光景だ。

四人組の一人(茶髪に赤いシュシュ)が口を開いた。

「あんたさあ、最近調子ノリ過ぎじゃない?」

その一言目で僕は自分の置かれている状況を察した。

うん? もしかして、僕気付かれてない?

対して囲まれている女の子は無反応である。無感動に無表情だった。目の焦点は合ってないようにすら見える。

それが気に食わなかったのか、

「おい、聞いてんのかよ」

と、別の女子(茶髪に青いシュシュ)が無反応系女子に掴みかかった。

おお、怖い怖い。最近の虐めは陰険なものが多いと聞いていたけど、まだまだ武闘派の方たちも残ってるんだなあ。

そんなことを思いながら、片手のカレーパンを見ると最後の一口だった。それを口に放り込んで、包装をくしゃくしゃと丸めてコンビニ袋に突っ込む。

すると、その音でやっとこちらに気付いたのか、ぎょっとした顔をして四人組はこちらを向き、無反応系女子は相変わらずの無表情を怠慢な動きでこちらに向けた。揺るぎないアイデンティティだった。

僕は見つかったことを悪びれることもなく(悪びれる箇所がない)、ピザパンを開封して咀嚼した。

少し間が空いてから四人組が退散。それまで無言だったのに逃げ出すタイミングは合致していた。もしかしてテレパシーでも使えるのかな。

無表情っ娘はまだ僕を見てる……うん? あれ、ちょっと焦点がずれてる。その方向に目をやってみると、ピザパンだった。

ピザパンを見てる?

試しに移動させてみる。すると、視線も移動する。完全に追ってますね。

「食べたいんですか?」

訊くと、白濁色に濁ってるんじゃないかと思わせる虚ろな瞳に少しばかり光が宿った気がした。

仕方なく、僕は菓子パンを半分に千切って差し出す。それを見た無表情っ娘は、のしのしという効果音が付きそうな気怠げな歩き方でこちらに来て、無言でパンを受け取ーーん、受け取らない。

「そっち」

と、差し出されたのとは逆のパンを指さす。

どうやら、より大きい方を寄越せということらしかった。どれだけ食い意地張ってるんだ、この人。まあ別にいいけど。

言われた通りに大きい方を差し出すと、今度こそ受け取って、無言で頬張った。

なんだか、餌付けをしている気分だ。

食事のときにはやっぱり水分が必要だろうと、コーヒー牛乳も献上した。ストローは刺さっているけど口をつけていないのでまあ平気だろう。

彼女は待ってました、とばかりにそれを受け取って、二、三口吸ってこちらに返却してきた。

んー……、気にしてた僕のほうが恥ずかしくなってくる。

あっという間に菓子パンを平らげて、ふう、と一息吐いてから、まじまじと観察していた僕の視線に気が付いたのか、

「……あの人たちに弁当盗られちゃったから」

と、相変わらず無表情のまま言った。

あの人たち、っていうのは、きっとさっきのシュシュの色しか違いが見受けられないゲームの雑魚キャラ(絵が同じで色を変えて使い回す)みたいな人たちのことだろう。

「なんでそんなことされてるんですか」

僕は訊く。特に何を意図してたわけではなく、ただ会話をしておかないとこの気まずい雰囲気に圧縮されてしまいそうだったのだ。それでも一応、『虐め』という直接的な言い方は避けた。

そんな僕の問いに、

「虐められるのに理由がいるの?」

と、言った。

この人とは気遣いのポイントがずれているのかな。

「いや、どうなんでしょう。僕は虐められたことも虐めたこともないのでわからないです」

「こんなところで、しかも一人でご飯食べてる時点で似たようなものだと思うけれど」

「あはは」

とりあえず、愛想笑い。大概はこれで逃げ切れる。

そんな逃げの選択をしたら、会話は急展開を迎えた。彼女が話題を変えてきたのだ。

「私と話してるとあなたも虐められるよ」

それもそうですね、じゃあもう会うことはないと思いますけれど、さようなら。なんて言って退散するのも一つの手だったのだけれど、僕はそうしなかった。なんでだろう。

「そうしたら二人で虐められっ子コンビ結成しましょうか」

と、軽口にもなっていない謎の狂言を吐いて受ける。

そして、それを聞いた、無表情っ娘はーー笑った。くすくすと笑ったのだった。

何故だか、僕は、クララが立った!な気分になった。

よく知りもしないーーというか、有体に言って全く知らない人のことで自分の心が動くなんてことは初めての体験だったから疑問よりも驚きのほうが強く前面に出てきた。

「でもそれって考えてみるととても変な話よね」

ふと気付くと、もう無表情に戻っていた。基本はこちらなのだろう。

「それって?」

「虐められている子と話していると虐められるっていうあれよ」

僕は彼女が何を言いたいのかよくわらなかった。

「だって、虐められっ子と話していたからといって、その子が仲がいいとは限らないじゃない。今の私たちみたいに」

ああ、そういうこと。

なるほど。言いたいことはわかった……けれど。

「さっき言ってましたけど、虐めるほうに何も理由なんてないんだと思いますよ」

「それでも彼女たちは自分を正義と信じて疑わないんでしょうね」

「それもどうでしょう。やっぱり背徳感とかはあるんじゃないですか? そうでなければ、人目のつかないここに来た説明がつかないですよ」

「それこそ、理由なんてないのかもしれないわね」

理由なき暴力、か。

いったい、彼女がこれまでにどんな仕打ちをされてきたのか想像もできないけれど、それについて詳しく知りたいとも思わないけれど、今日ここに僕がいなければもっと酷いことになっていたのはまあ確実だろう。そして、それがごく日常的に行われていることも。

「やり返したりしないんですか」

しないんだろう。彼女はきっとしない。

「しないわよ。したらあの子たち死んじゃうもの」

私は手加減ができないの、と言った。

そんな戦闘民族には見えなかったので、これまでの鬱憤が溜まりに溜まってしまって一度吐き出したら止まらない、ということなのだろうと解釈したのだけれど、

「私、カポエイラ五段なの」

そう言った彼女はやっぱり無感動で、真偽のほどは知れなかった。

「へえ、すごいですね」

「……流されるとちょっと辛いわ」

冗談だったらしい。

「カポエイラなんて格ゲーの中でしか見たことないもの」

そもそもカポエイラに段なんてあるのかしらね、と無責任なことを言う。

僕にとってもカポエイラという武道(話の流れからして武道でいいだろう)は聞き慣れないものでそれがどういったものなのかも知らないのだ。反応のしようがない。

「あなた面白い人ね」

きみも充分面白いけどね、などとは言わない。

代わりに、僕はコーヒー牛乳に手を伸ばしかけて、それが彼女の飲みかけであることを思い出して手を引っ込めた。その一部始終を見ていた彼女は少しいじけたような口調で、

「私、こう見えても清潔なのだけれど」

と、言った。こう見えてって。

「うん? ああ、いやそういう意味じゃないんですけど」

「ふうん? なら、あなたが特別潔癖性なのかしら」

「違いますよ。ただ、女の子が口をつけたものを男子である僕がはたして口にしていいものなのかなと」

「なるほどなるほど。そういうことなら先に言ってくれればよかったのに。てっきり菌扱いされたのかと思っちゃったわ」

それは被害妄想が過ぎるのでは、と一瞬思ったけれど、思い直す。彼女にとってそれはいたって普通の日常なのだ。

「私は気にしないから、どんどん口にしていいわよ。むしろ口にしてくれないと困るわ。でないと私があなたの飲み物を奪ったみたいじゃない」

「さっき菓子パンを奪ったじゃないですか」

「あれは別よ。不可抗力よ」

どこが不可抗力なんだ。

「それに主は言われてるじゃない。飢えた人がいたのなら菓子パンを分け与えなさいと」

「いや、その頃に菓子パンはなかったと思いますけど」

「菓子パンを持っていたらわたしに分け与えなさいと」

「どこぞやのガキ大将みたいですね」

「ちなみにその主っていうのは、私よ」

あんたがガキ大将か。

いや、でも本当に洒落にならない話だよな。弁当を盗られるのは何も今日が初めてではないだろうし、今日に限った話でもないだろう。成長期のーーいや、たとえそうでなくとも昼食を抜くというのは身体的に相当辛いのではないか。その後何もしなくていいというのならまだしも、昼休みの後にも授業がある。その中には当然体育などの身体に直接負荷を掛けるようなものもあるのだ。こうして、僕から菓子パンを受け取って(奪い取って)いる以上、やはりどうしたって空腹感はあるのだろう。

そんなことをぐるぐると考えていると、予鈴が校舎全体に鳴り響いた。授業開始五分前だ。

「それじゃあ私、行くわ。パン、ご馳走様」

「あ、ちょっと待ってください」

そそくさと帰り支度(と言っても立ち上がって、スカートを叩いただけなのだけれど)をしている彼女を呼び止めると、さっきと同じように、ひどく気怠げな様子で首だけこちらに向けた。

「これ。よかったらどうぞ」

と、学ランのポケットから飴玉を取り出した。

「菓子パン半分じゃ物足りないでしょう? 小腹がすいたときに食べてください」

それを受け取って僕の顔と飴玉を交互に何度も見てから、

「飴ちゃん」

と呟いた。いや、まだ続いていて。

「……ありがと」

やはりというかなんというか、無表情のままにぺこりと頭を下げた。しかし、無表情は変わらないのだけれど、飴玉を抱えて歩いていく彼女の雰囲気は少し嬉しげに見えたのは、僕のエゴだろうか。



その日の下校途中、僕は猫に出会った。ここだけ切り取って言葉にしてみるとなんだか意味深で小説の書き出しのようだけど、なんてことはない。出会ったのはただの猫だった。

順を追ってみると、昼休みに菓子パンを全体の四分の一に当たる量を献上した結果、午後の授業の途中で空腹感を覚えたのだ。一年も菓子パンを買い続けていると、己の胃袋の収容量くらいは把握しているので、そのぎりぎりの量しかなかった食料が減ったのだ。それは腹も減るというものだろう。

学校から自宅までは時間にして、だいたい三十分といったところか。その距離、その時間をこの空腹感と共に歩んでいくのはとてもでないけれど、できそうになかった。

というわけで、僕は学校を出て、家の方向とは少し外れたところにあるコンビニエンスストアに向かった。僕の通う高校は下校時の寄り道を禁止しているので、コンビニの中に生徒の姿は見えない。というか、僕以外の客がいなかった。こんなご時世に閑古鳥を飼っていてやっていけるのだろうかと少し心配になったけれど、だからといって僕が何をできるわけでもない。できるのはただ、少しばかりの金銭を支払い、食料を得ることだけだ。

僕は店内に入ってすぐに、パンコーナーに向かう。

よく議論される題材として、ごはん派かパン派か、というものがあるけれど、僕は断然パン派である。パン美味しい。白米と漬物と味噌汁が最高と聞くけど、僕ほどのパン二スト(パンを愛する者という意味っぽい言葉。今思いついた)になれば、パンで漬物と味噌汁を食す。むしろ、パンを漬物にしちゃう……。だめだ、お腹がすき過ぎて変なテンションになってる。

僕は無造作に一つひったくって、レジに持っていく。会計をしているときに飲み物が無いことに気付いて、ペットボトルのお茶も買った。

それらをレジ袋に入れてもらって、店を出る。正面にある沈みかかっている太陽にコンビニの無人の駐車場が照らされていたので、端のほうに座って菓子パンの包装を開けた。辺りに菓子パン(ソーセージの挟まったホットドッグのようなもの)の香りが立ち込めて、鼻と腹を刺激した。一口咀嚼すると、昼間に会った無表情っ娘のことが唐突に思い出された。

嗅覚は記憶と深い関係にあるとは聞いていたけれど、こんな形で実感することになるとは思いも寄らなかった。

彼女ーー名前も知らない彼女。あの人は何故、ああも頑ななまでに無表情なのか。無感動なのだろうか。もともとの性格も由来しているとは思うけれど、やはりどうしても虐めのことが引っかかる。人の醜い部分、汚い部分を目の当たりにして心を閉じてしまうというのは割とありそうだ。それにしてもあそこまでいくと行き過ぎな、ハイエンドな気がする。いや、でもあれが処世術だったら。あれが彼女が生きていく上で必要不可欠なものなのだとしたら、そうしたら彼女はとても強い。僕なんか較べるべくもなく、彼女は強いのだろう。誰にも頼らず、一人で虐めという現実に受けて立っているのだから。

「びゃあお」

ふと、そんな鳴き声がした。今まで考え事に夢中で気が付かなかったけれど、いつの間にか目の前に一匹の猫がいた。

真っ黒な猫。暗い夜の闇の中でもきっと浮き出て見えるだろう。僕は猫に造詣が深くないので確かなことは言えないけれど、一般的に猫がするような座り方(招き猫の座り方と言えば分かりやすいだろうか)をしていた。眼は閉じているように見えるけど、もしかしたら開いているのかもしれない。猫目と言うくらいだし。はて、猫目といえば、先日会った露天商……色識七さんだっけ、も偶にこんな眼をしていたのを思い出した。

それで、この猫は僕の前に座って何をしているんだろうか。この辺りは野良猫が少なくない。子供の頃は野良猫と遊ぶこともしばしばあった。遊んでいると思っていたのは僕のほうだけで、猫にとってはいい迷惑もこれ極まれりだったのではと思い至ったのはつい最近のことだ。そんな回想をしてみたけれど、よくよく見てみると、この猫首輪をしている。しかし、その首輪がまた少し変わっていた。これも造詣が深くないことから起因する固定観念なのだろうが、猫の首輪といえば、鈴が付いているはずだろう。しかし、その鈴が付いているべきところには一粒の、小指の先よりも小さな深紅色の石が付いていたのである。

「きみ、野良猫じゃあないね」

猫に向けて言ったというよりは、ただの独り言だったのだけど、

「びゃあお」

と、猫が返事(らしきもの)をしたので心底驚いた。猫と話せるようになった、とどぎまぎしていたのだけれど、二足歩行になることも、人の言葉を話し始めたりもしなかった。どうやらタイミングよく鳴いただけだったらしい。

僕は半分くらいまで食べた菓子パンを横に置いて、ペットボトルに手を伸ばした。新品の証である音を立てて蓋を開け、口に持ってくる。冷たい液体が体内を通っていくのを感じながら、温かいのにすればよかったなあ、と後悔。まだ四月頭である。夜に近づけば近づくほど気温は低くなり、春といってもやはり肌寒い。早いところ食べて帰路に着こう。

と、横にあるパンを手に取ろうとしたとき目の前の猫が目に入った。

あれ、首の位置変わってる。なんだかさっきもこんなことがあったな。

恐る恐る、菓子パンを移動させてみると、やっぱりと言うべきか首もそれに合わせて移動する。

今日は餌付けの日か何かなのか?

「きみも食べる?」

「びゃあお」

「え、いらないって?」

「……」

変な猫だった。

ちゃんと意思疎通ができてる気がするのは気の所為だとしても、人間の声に反応して鳴いているのだとしたら、いったいどんな意味があるのか。

僕は一口大くらいにパンを千切って、猫に差し出す。すると、のしっと立ち上がって、右の前脚で大きいほうを要求はせずに、そのまま頭を近付けて口で受け取った。

眼はそのままの状態なので、平常時であの開き具合なのだろう。あれで見えていることにやや驚いた。

そういえば、野良猫に餌をあげるのは駄目とどこかで見た気がするけど、飼い猫に餌をあげるのはどうなんだろうか。もうあげちゃってるから手遅れだけれど。

美味しそうに食す猫を見ながら、僕もパンを咀嚼する。次に千切ってあげたら残りがひどく中途半端になったので、仕方なく全部猫にあげた。

結構こいつに持っていかれた気がする。まあ今日はそういう日なのだろう、と諦めて、なみなみと残った冷たいお茶を鞄に入れる。

「じゃあ、またね」

猫は食べるために伏せていた頭を上げて、

「びゃあお」

と、鳴いた。

僕は、やっぱり変な猫だと確信して、家に足を向けた。



次の日の昼休み、いつものように校舎端の四階階段に来てみると、先客がいた。僕が座る為に置いておいた座布団にスカートを気にしながら三角座りする女の子

ーー昨日の無表情っ娘だ。

「どうも」

と、なんて挨拶したらいいのか考えあぐねた末に素っ気なく言う。

「どうも」

鸚鵡返しである。迷いなく一番反応に困るのをチョイスしてくる辺り、コミュニケーションスキルの不足が見て取れる。とはいえ、発端は僕なのだから人のことは言えないのだけれど。

僕が彼女の横に座ると、おもむろに立とうとするので、一瞬避けられたのかと危惧したけど、どうやら、座布団を返してくれようとしたらしい。

「ああ、いいですよ。使ってて」

そう言って、地べたに胡座をかいた。四月の気温で冷やされた廊下が直接尻に抗議してくる。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

彼女はまたちょこんと座布団の上に座って片手でスカートを抑えながら、コンビニのビニール袋らしきものをもってきた。

中にはおにぎりが四つとペットボトルの紅茶が入っていた。

「それって……昼ご飯ですか?」

無表情のまま、こくんと首肯する。

「死守したの」

なんで、と訊きそうになって、すんでのところで口を噤んだ。

昼飯をやられないようにするのになんでもどうしてもないだろう。

それにしても……。

「ごはん派だったんですね」

「……別に。ただ、被っちゃいけないと思って」

「被る?」

何に? 晩御飯にってことか? いや、でもごはんかパンかなんて主食の問題じゃないか。それを被っているというのなら、だいたいの人は被りまくりだろう。

「きみと、被らないようにしたの」

「うん? 僕と被ったらいけないんですか」

「昨日のお返ししようと思って。でもパンだと同じのになっちゃうかもだから、だからごはんにした」

「ああ……」

そういうこと。僕のことを考えてくれたのか。もしかしたら、彼女はパンよりごはん派で偶々利害が一致しただけのことかもしれないけれど、それでも、その選択の中に少しでも僕が入り込んでいたのだとしたら、それはやはり嬉しいものだった。

「ありがとうございます。とても、本当にとても嬉しいです。でも」

でも、と聞いて彼女の表情が僅かに曇った。基本無表情ではあっても、無感動のように見えても、だけどそう見えているだけでちゃんと受感している。感情が彼女の中で動いているのだ。

「でも、被っちゃいましたね」

と、僕は自分が持ってきたコンビニ袋を開いて見せた。中には……。

「……おにぎり」

「はい。僕はパン派なんですけど、今日もきっとあなたが来ると思って」

今日も昼ご飯を持っては来れないだろうと思って。

「パンよりお米の方が力出るかなと」

袋の中から四つのおにぎりを取り出して広げる。僕と彼女の前には、総計八個のおにぎりが並んでいた。こうして見るとなかなかどうして、圧倒される。幸い、具の被りはないみたいだ。

「そういえば」

と、おにぎりを頬張りながら彼女が言った。

「きみ、学年は?」

「二年ですけど」

「ふうん。それならきみは後輩くん」

「じゃああなたは先輩さん」

そんなあまり意味のあるようには思えない会話をしていると、今気付いたかのように話題の方向転換をした。

「きみは私の学年を知ってたのよね?」

「いえ、知らなかったです」

先輩は、はて、と首を傾げる。もう一つ目を食べ終えたようで(僕はまだ結構な量が残っていた)、次のおにぎりの包装紙を開けている。そのときはどうしても両手を使うのでスカートが無防備になるので、目のやり場に困った。

「でも、ずっと敬語じゃない」

「それは別に先輩だからとかじゃないですよ。基本、僕は敬語です」

「ま、どっちでもいいんだけど」

「……適当ですね」

「適度なのよ」

違いがわからない。

日本語の難しさは置いておいて、僕はおにぎりを食べることに気を向けた。今食べているのはおかかなので、次は梅干しあたりかなと思っていると、ちょうど先輩が梅干しのおにぎりの包装を開けているところだった。

「食べるの早くないですか」

「ん? ほんほふぁほほほほ」

「口に物を入れながら喋らないでください。何言ってるかわかりません」

食べながら次の用意って、すごいマルチタスクだ。

ペットボトルの紅茶で中の物を流し込んでから、

「そんなことないわ。とんだ言いがかりね」

と、言った。

「まるで私が食い意地張った全身胃袋女みたいじゃない」

「そこまでは言ってないです」

ていうか、全身胃袋女って……、妖怪か何かですか。

「食は遅く細そうだなと思ってはいましたけど」

「どうしてよ」

「ん、イメージ?」

「人を見かけで判断するのはよくないわね。私はその真逆を行く女よ」

「やっぱり早食い大食らいなんじゃないですか……」

「そうとも言うわ」

他になんて言うのか教えてほしいくらいだ。

「それにしても、後輩くんはデリバリーがないわね」

「すみません、宅配はしてないんです」

きっとデリカシーと言いたいのだろう。

ということは、僕、何か言っちゃまずいことを言ったのか?

「食のことを女の子に言うなんて駄目よ。そこはデリケートゾーンなんだから」

「その言い方やめません?」

「どれ?」

「言いませんよ」

言葉は完全に変人のそれだったけれど、言っていることは当たっているのかもしれなかった。

やはり話せば話すほど対人スキルの無さが露見する。

「気分を害してしまったのなら、謝ります。悪気があったわけではないんです」

「知ってるわよ。だから気分を害してなんていない」

と、こともなげに言う。無表情に淡々と。これが普通なのだろう。だけど、彼女が言うとなんだか引っかかるものがあった。きっと彼女は自分を虐めている人たちにも同じように思っているのだろうなと。人が過ちを犯したのなら許すのが人情というもので、それが優しさのように語られているけれど、本当にそうなのか。本当にそれが正しいことなのかわからなくなる。

「どうしたの?」

急に黙りこくってしまった僕を覗き込むようにしながら訊いてくる。

「いえ……」

この違和感を言うべきか悩む。いや、言うにしてもなんて言うんだ。虐めている人たちに正義の鉄槌を下しましょう? ただの危険思想じゃないか。結局僕は、

「なんでもありません」

と、言うに留まって、先輩は少し訝しんでいたけれど、深くは訊いてこなかった。



先輩とおにぎりパーティをした翌日の帰り道。

僕はいつもと変わらず、歩きで自宅に向かっていた。傾いて地平線の向こう側に落ちていこうとしている夕陽を背に一人歩いていく。

相変わらず、あれから露天商の姿は見ていない。特にこれといってこちらから連絡するほどの用もなかったので、貰った名刺も未だ生徒手帳に挟まったままである。

そういえば、あの猫目の彼女と出会ってから、僕の身の周りでは変化が多発しているように思う。例えば、このペンダント。僕は基本的にアクセサリーの類いを着けない。着けたこともほとんどない。余分なものが付随しているのが、なんとなく落ち着かないのだ。同じ理由でキーホールダーとかも最低限しか付けない。

そして、あの先輩の存在だ。

友達と呼んでしまっていいのかは分からないけれど、それでも他人と友好的な関係を築いたのは本当に久し振りで、心の中が落ち着かない。

なんだかそわそわしてしまって、修学旅行前日のようだーーいや、実は修学旅行、そんなに楽しみではなかったのだけれど。

そう。

僕は、先輩と会うのがーー会えるのが楽しみなのだ。

あのなんてことのない、言ってしまえば日常とさほど変わらないあの時間が、たまらなく愛おしい。ただの日常では収まりきらない。

空を見上げると、さっきまで茜色だった空が深い紺色に変色していた。紺色の中に散りばめられた星々がきらきらと自己を主張している。

先輩は今頃何をしているだろうか。

この空を、僕と同じように見上げていたりするのだろうか。

見上げているのだとしていたら、いったい何を思うのか。

ふと。

気付けば、頭の中は先輩で埋め尽くされる。そんな自分を他人事のように捉えて、苦笑した。

目の先に自宅が見えてくる……と。

はて、家の前に、何か……何かがあった。

特段に視力が悪いわけではないのだけれど、陽はすっかり沈み、辺りは暗くなっていているからか、よく見えない。

雑誌を縦にしたくらいの大きさのものが自宅の前に鎮座している。帰宅するには、どうしたところであれの前を通らなければならない。

いつまでもここでうろうろしていても仕方がないので、僕は恐る恐るそれに近付いた。

と、数歩近寄ると、もぞっと黒い物体は動いて、そして、

「びゃあお」

と、鳴いた。

咄嗟にコンビニで出会った黒猫を思い出す。

「おまえ……」

黒いそれ、もとい紅い石を着けた黒猫は、立ち上がって、僕の足元までのっそのっそと歩いてきた。その動きはひどく気怠げである。

「おまえ、どうしてこんなところに?」

猫の行動範囲がどれほどのものなのかは知らないけれど、あのコンビニからここまでは割と距離があるーーというのもあるけど、まず、どうして僕の家の前にいたのかが気掛かりだった。

ひとしきり足元で転がっていた黒猫は、唐突に立ち上がり、街の方へ歩いていく。

それを見ていた僕を振り返り、「びゃあお」と鳴いた。

「うん?」

なんだろう? 猫は一度鳴いてこちらを向いたまま動かない。

「ついて来い、ってことなのかな」

「びゃあお」

うーん。

やっぱり変な猫だ。そう思いつつも、僕は猫の後をついていった。



猫に連れてこられたのは、一軒のお店だった。

ぱっと見だと店舗だとは分からないだろうが、店先に『なないろ宝石店』という木でできた看板が立て掛けてあるので、間違いないだろう。

「それにしても……」

こんなことってあるのか。いや、実際今そうなっているのだからあるのだろうけれど、あっていいものなのだろうか。

入っていいのか、そもそも入って何をするのか悩んでいると、カランと鈴の音が鳴って扉が開いた。

「おや、ざくろ。おかえり……それにきみもよく来たね。もう閉店時間なのだが、入ったらいいよ」

と、猫目の露天商ーー色識 七さんに見つかってしまってはもうなす術がない。僕は大人しく開かれた扉に足を踏み入れた。

中は、独特な香りがしていて(お香だろうか)、店の怪しい雰囲気を助長している。

「ざくろが誰かを連れてくるなんて珍しいことだよ」

色識さんが奥で淹れてくれた紅茶を飲んでいるとそんなことを言う。

「ざくろって、あの変な黒猫のことですか」

「変なとはひどい言いようだね。可愛いだろう? ちょっと無愛想だけど」

と、なんてことないように言っているけれど、猫だぞ。猫に連れられてくる奴なんて珍しいどころの話じゃないだろう。

「いや、そうでもないよ。偶にいる」

いるらしかった。

どんな躾をしたら、誰かを連れてくるようになるんだろうか。

「まあ猫なんだけど」

「……」

「人を連れてきたのは初めてだなあ」

あははは、と色識さんは腹を抱えて笑った。

連れてこられた僕としては、結構笑い事ではないのだけれど。

「っと、忘れるところだった」

と。

組んでいた足を正して、僕の方を向いた。

「この間はざくろがお世話になったようだね。ありがとう」

「え?」

「ほら、コンビニで、パンをくれたでしょ?」

「ああ……あれ、え?」

訳がわからない。

全くもって、訳がわからなかった。

いや、黒猫にパンをあげたのは事実だ。だけど。

何故それを、色識さんが知っている?

「そりゃ、この子に聞いたからさ」

と、猫を指さす。

「猫に、ですか……?」

偶にテレビとかに出てくる、動物と話せるとかいうあれ? この人が? でも現に知り得ないことを知っているし、否定のしようがないのも事実。どうしても否定できないものは、いくら非現実的に見えても現実であると何かで読んだ気がする。ならば……。

「あはは、違うよぉ」

一笑に付された。

「でも聞いたって」

「聞いたのはざくろにじゃなくて、この子に」

と、今度は近付いて、指先でそれを触った。僕に示すように。

彼女が指さしたのは、黒猫の首からぶら下がる、紅色の石だった。

「わたしは物心ついたときから石と会話ができたんだ」



「いや、本当に幼い頃からだったものだから、普通なんだと思っていたよ。これが特殊なんだと気付いたのは小学校三年生の頃だったかな」

と、色識さんは少し遠い目をしながら訥々と言った。

「驚いたよ。なんでこの子たちの声が聞こえないんだろうって。こんなにも話しかけてきているのにどうしてってね」

思えば、色識さんは最初から、石をーー商品であるものを、『この子』と呼んでいた。物をそういう風に呼ぶ人も中にはいるから、あまり気にしていなかったけれど。

それにしても、俄かには信じられない話だ。

石と話をする人なんて聞いたことがない。それでも、僕と黒猫しか知らないことを知っていたのも紛れもない真実だ。例えば、こっそりあれを見ていてそれで知っていたとしても、こんな変な嘘を吐く理由はない。

「ま、そんなものを持ってるなら使わない手はないということで、こんな店をやってるってわけさ」

と、空になったティーカップをテーブルの上に置いて僕に言う。

その瞳は、細まっていて、やはり猫目みたいになっていた。こうして見ると、ペットは飼い主に似るというのは本当なんだなと思い知らされる。

「なんていうか、簡単には信じられませんけどね」

「あはは、それでいいよ。否定してくれないだけマシさ」

そう言う色識さんは笑っていたけれど、猫の目のようなそれの奥は、なんだか悲しそうに揺れているように見えた。

人と違うというだけで、ただそれだけのことで、否定する人はたくさんいるのだろう。そして、色識さんはそのたくさんの人と対峙してきたのだろう。

「ただ……本当だったら、面白いなとは、思いますけれど」

それを聞いた色識さんは、一瞬きょとんとしてから、あっはははは、と笑った。今度はちゃんと笑っていた。

「きみ、面白いこと言うね」

「……楽しそうで何よりですよ」

「そんないじけるなよー。褒めてあげてるんだから」

「頼んでないですし、なんか不本意です」

もう一度、くはは、と笑ってから(よく笑う人だ)、「一つ提案なんだけど」と、言った。

また何か冷やかされるのかと思って身構えたけれど、そうではなくて。

「ここでアルバイトしないかい」

と、至極まともな、しかし突拍子のない提案をしてきた。

「え……? なんでですか」

「わたしがきみを気に入ったからだよ」

「でも僕はもう別のところでバイトしてますし」

「それならヘッドハンティングってやつだね」

決して、冗談で言っているようには見えない。本気で僕をここで働かせたがっている。

今の職場に何か思い入れがあるわけじゃない。それでもこんなにも突然に転職するとは考えていなかったから、返答に困る。

すると、色識さんは、悩む僕を、真っ直ぐに見据えて、「頼むよ」と、瞳を猫目にして言った。

「……いろいろ手続きがあるので、すぐにとはいきませんけど、それでもいいですか」

「もちろんだよ」

頭をぶんぶん振って、首肯する。子供みたいな喜び方だ。

「それでは、よろしくお願いします」

「うん、こちらこそね。バイトくん」

そんなこんなで、僕は、なないろ宝石店でアルバイトをすることになった。

ちなみに、黒猫のざくろは副店長らしく、僕の上司ということらしい。



「あのね」

と、改まった風に先輩が言う。右手には卵のサンドウィッチを、左手にはペットボトルの紅茶を持っていた。一緒に昼ご飯を食べるようになって、一週間と少しが経過して分かったことなのだけれど、先輩はいつも紅茶を飲んでいる。そのときの食事が何であろうと、米だろうとパンだろうと、あっさりだろうとこってりだろうと関係なく紅茶を選択するらしい。いや、正確には紅茶にも色々な種類があって、その中から選択しているのであって、いつも同じということではないのだけど、しかし、まあ偏っていることは間違いがない、と片手にパックのコーヒー牛乳を持ちながら思った。

「私たち、そろそろ次の段階に進んでもいいと思うの」

「はあ」

何を指してそれを言っているのか分からなかったので、とりあえず相槌を打っておく。

「だから、次の土曜は空いているかしら?」

「はあ。空いてますけど」

「そう、よかったわ。ならどこか行きましょう」

僕は思考がてら、パックに突き刺さったストローに口をつけた。ズゴゴゴゴ、と音を立てて内容量がもう僅かであることを知らせてくれた。

「誰かに追われてるんですか?」

「黒服の男たちに、ね。私の持つ情報が欲しいのよ……って、私はスパイか」

ノリツッコミもいけるらしい高スペックな先輩だった。終始無表情なのが玉に瑕なのだが。

「違うわよ。私たちの絆を深めに行くの」

「飯綱(いづな)を深めるですか?」

「管狐(くだぎつね)じゃない、それ。絆よ、きーずーなー」

意外とマニアックなネタにもついてきてくれるようだった。

「じゃあ、真面目な話、絆を深めるって何をするんですか」

「さあ?」

「……」

「とにかく友達っぽいことをすればいいんじゃないかしら」

そんなことを言われても友達が壊滅的に皆無な僕には想像もできないことだ。

「私もよく分からないのだけれど、友達というのは、友達の行きたいところに付き合うものらしいわよ」

というわけで、後輩くん。行きたいところは? と、訊いてくる先輩。気付いていないようだけど、交友関係の無い人間にとって、自分の都合に誰かを付き合わせるというのは全然楽しくない。むしろ苦痛ですらあるのだ。なので、卑怯なのは十分承知で、

「先輩の行きたいところに行きましょうよ」

と、返答した。

それに対して、彼女は、ぼうっとした表情をして、んーんー唸りだした。

「行きたいところはたくさんあるのだけど……」

「僕のことは気にしないで、自分のことだけ考えてくださいね」

純粋にそう思っての言葉だったのだけれど、口にしてみて、罪悪感がふつふつと湧き上がってくる。自分のしたくないことを相手に押し付けておいてなんて台詞だろうか。彼女が提案したことではあるけれど、参加する以上、僕にも考案する義務があるんじゃないか。

ということで、考えてみる……が、何も浮かばなかった。いや、実際には幾つか目星はつけたのだが、どれもこれも複数人で行くようなところではなかった(本屋とか図書館とか)。

僕だけだとここらが限界値らしい。なので、やはりどうしても先輩を頼らざるを得ないのだけど。

他人を自分の都合に乗ってもらうときに一番気を遣うのは、相手が一緒に楽しめるかどうかだろう。しかし、その判断は難しいーーというか、不可能だ。そうなると相手とどこまで意思疎通ができているかが重要になってくる。

「なら、各々それを全部書き出してみてください。僕もやってみるので、そこから取捨選択しましょう」

と、言って鞄から筆記用具と紙を取り出そうとして気付く。

ここは四階階段である。鞄など、持ってきていなかった。

「明日までにまとめてくるというのはどうかしら」

という先輩の提案を採用して、明日を待つこととなった。

翌日の約束などいつ以来だろうか。中学生か、それとも小学生か。はたまた記憶の捏造で、本当はこれが初めてだったなんてこともあるかもしれない。

約束という、自分だけで終わらない世界に触れて少しばかり高揚してしまうのだった。



その週の土曜日。

僕は自宅からほど近い駅前の広場に来ていた。まだお昼前ということもあってか、待ち合わせの人が何人かいるくらいで、混み合ってはいない。

先輩が唐突に今回のこれを提案してきた次の日、約束通り、リストを作って四階階段で昼ご飯を食べながら今日の計画を立てた。一応、今日の予定の中にはそれぞれが行きたかった場所が入るように配慮されていて、その甲斐あってか、他人を自分の都合に振り回している感はそれほど無い。

指を栞代わりにして読んでいた文庫本を閉じ、右手の腕時計を確認する。午前十時八分。待ち合わせは午前十時きっかり。先輩は未だに現れていない。遅刻である。

そういえば、先輩の家ってどこなんだろう。何も考えずにこの駅を待ち合わせ場所にしてしまったけれど(どちらが言い出したのかは憶えていないが)、本当によかったのだろうか。自分がそうだから深くは考えていなかったが、徒歩でここまで来られるとは限らないのだ。学校が近くなのだからそこまで遠方とは言わずとも、これは考慮すべき問題だった。

それからさらに数分経ってから到着した先輩は、案の定、息を切らして額には汗が滲んでいた。

「ごめん……ま、待った?」

「ええ、少しばかり」

と、返答すると、苦しそうに歪めた顔をそのまま僕に向けた。

「そういうときは、『ううん、僕も今来たところ』って答えるのよ」

「なんでそんな嘘吐かなきゃいけないんですか」

「悪意の嘘と善意の嘘を見分けるのが大人への第一歩よ」

「僕はピーターパンなので、ずっと子供です」

会話をしつつも、辛そうに肩で息をしている。見渡すとそばにベンチがあったので、

「そこで座って休みましょう」

と、彼女が持っていたショルダーバッグを持つ。予想外の重みがバッグから伝わる。女性は男よりも持ち物が多くなりがちなのは知っていたけど、ここまでの量になるとは思っていなかった。

「ええ、そうね。迷惑ばかりかけてしまってごめんなさい、パンさん」

「いや、ピーターパンはそんな風には分離しないと思いますけど」

「それならターパンさんかしら」

「斬新過ぎるでしょう」

僕は、先輩をベンチに座らせてから自動販売機に向かった。こういうときは何を買って行ったらいいんだろう、と思って見回してみると、缶の紅茶(潤いのレモンティーと書いてある)があったので、それを購入。

「大丈夫ですか」

先輩の隣に腰掛けて、飲み物を手渡した。それを受け取って、「ありがと」と、礼を言ってから缶を開ける。

「ええ、大丈夫よ。なんとか」

「別に走って来てくれなくても、連絡してくれればよかったんですけど」

「私、きみの連絡先、知らないのだけど」

「……そういえばそうでした」

普段、スマートフォンはネットに繋げるか、目覚まし時計にしか使わないから思いつかなかった。

彼女が回復するまでの少しの時間、手持ち無沙汰になってしまう。自分の分の飲み物も買ってくればよかった。

「はい」

と、先輩が声を掛けてきた。この広場に落ちている小石の数を数えていて、決して暇ではなかったのだけれど、それを中断して先輩のほうに目を向けると、僕のスマートフォンが掲げられていたーーというのは勘違いで、ただ単に機種が同じなだけだった。一斉を風靡した(している?)リンゴマークのやつなので被っていても不思議じゃない。

「なんですか」

「連絡先。交換しておきましょう」

掲げられたスマホの画面にはアドレスと思しき文字列と電話番号が並んでいる。

確か、連絡先を交換するときに使うツールのようなものがあると聞いたことがあるけれど、もちろん使ったことなどないので、慣れない手つきで全て手打ちした。そのあと、こちらから先輩宛にメールを送って、完了。

自宅、両親、学校、バイト先のみだった僕の連絡帳に、『せんぱい』が追加された。

と、スマートフォンが手の中で振動し始める。画面には先ほど登録した『せんぱい』と表示されていた。どうやらメールを受信したらしい。

『どうも、私です。これからよろしくお願いします』

続きがあるのかと思ってスクロールしてみるが、これで終わりのようだった。

いったい何のことだろうと思って、先輩に目を向けると、さっき走ってきたときよりも紅い顔で缶に口をつけている。

「顔、紅いですけど、調子悪いですか?」

「いえ、なんでもないわ」

「ふうん? そうですか。それはともかく、このメールはいったいーー」

「間違えて送ってしまったわ。気にしないで」

こんな文面のものを間違えて送らないだろう。ただ、そうだと言うのならそれでいい。深く追求するようなことじゃない。

その代わりに、

『後輩です。こちらこそよろしくお願いします』

と、返信しておいた。



「そういえば、先輩の家ってどこなんですか?」

僕たちは、広場から離れて最初の目的地である、隣町へ電車で向かっているところだ。

「待ち合わせ場所から少し歩いたところだけれど。それがどうかしたの?」

別になんてことはない。ただ、遠くから呼び寄せてしまったのなら、配慮が足りなかったと謝ろうと思っていたのだ。しかし、そうではなかったらしい。

「なんだ、そんなこと。きみが気にするようなことじゃないわ」

「先輩が遅刻なんてしてくるから気にしてたんじゃないですか」

彼女は時間にルーズというわけではないーーのだと思う。昼休みはいつも僕より先に来ているし、昼休みが終わる十分前には帰り支度をしている。

「今日はちょっと……、なんていうか、色々あったのよ」

「色々? 問題ということですか?」

「……問題というわけではないのだけど。いえ、問題と言えば問題かしら」

ますます分からなくなった。

「つまり、問題はあれどそこに付随する感情は好感、というやつよ」

「はあ。まあ悪感情じゃなくてよかったです」

と、曖昧な相槌を打つ。曖昧とか適当とかは僕の数少ない得意技である。多々ある欠点でもあるのだけれど。

それは傍にーーとは言わず、数メートル離れたくらいの位置に置いておくことにした。

「きみは、休日は何をしているの?」

「バイトか読書ですね」

「予想通りね」

「何事も王道が一番ですよ」

「でもそれじゃあ話が広がらないじゃない」

広げようとしてたんですか、とは口には出さない。

「バイトは何を?」

「コンビニ店員です」

「へえ。それはちょっと意外だわ」

「? そうですか」

「私の予想だと、工場のレーン作業員辺りかなって」

「僕はいったいどういうイメージを持たれてるんですか」

「孤高の騎士」

「格好良く言ってますけど、それ、要するにぼっちってことですよね」

「何を言っているの? 初代仮面ライダーをぼっち呼ばわりなんて言語道断だわ」

「なんで初代……」

「初代が一番好きなの」

それこそ正に意外だったのだけれど、それも口には出さない。人の趣味趣向は外見や性格には依らないのだからそんなことを言っても無意味だろう。

代わりに僕も先輩に同じ質問をしてみることにした。実は前々から気になっていたのだ。一緒に昼ご飯を食べるようになっても、ただそれだけで、そこ以外の彼女の姿はほとんど知らない。別段知らなくても特に困ることはないのだけど、ここは知識欲に正直になってみる。

「先輩は休日、何してるんです?」

「ゲームね」

と、端的に言う。これまた意外な返答だったので、反応が一瞬遅れてしまった。いや、最初に会ったときに、格ゲーが何とかって言ってたな。

「似合わないかしら」

「いや、ゲームに似合う似合わないはないんじゃないですか」

「そんなことないでしょう。私なんかより、頭にバンダナ巻いてる人たちのほうが似合うわ」

「頭にバンダナ……スネークですか?」

「違うわよ。むしろゲームじゃない、彼」

「オタクの方々のことを言っているのならそれは偏見ですよ」

確かに似合いそうではあるが、皆が皆ゲーム好きとは限らないだろう。そもそもそんな絵に描いたようなのはいない。

そんなことを話していると、車内にアナウンスが流れて目的の駅に到着した。ここら一帯では最も大きい街なので、降りる人も多い。その波に上手く乗って、駅を後にした。



今向かっているところは先輩が提案した場所で、正直、何故そこなのか分からなかったのだけれどさっきの話を聞いて得心いった。ゲームが好きだというのなら、そこ程相応しい場所はないだろう。

僕たちは、ゲームセンターの前に来ていた。それも普通のではない。超大型と言っていいだろう。建物一つがまるまるゲームセンターだというのだから驚きだ。階層毎にジャンル分けされたゲームが置いてあり、一つ階が違うだけで別世界のようだーーと、先輩は興奮した様子で教えてくれた。

「行くわよ」

緊張した面持ちで言う。そんなに仰々しくならなくていい気もする。

自動ドアをくぐると、喧騒に包まれた。普段生活しているだけでは決して遭遇しないであろうレベルの騒音である。こんな中でゲームをして音は聞こえるのだろうか。ゲームセンターにあるゲームの中には、家庭用機でも発売しているものがあるらしいけれど、もしかしたら家でやっていたほうがいい環境でできるんじゃないか。お金も節約になりそうだし。

「それは、カラオケ好きな人に、『家で歌えばいいのに』って言うようなものよ」

「確かに歌は家じゃ難しいかもしれないですけど、ゲームなら音量を下げればいいんじゃないですか?」

「何を言ってるのよ。問題はそこじゃないわ」

「? はあ」

「両親にゲームをやっているところを見られるの恥ずかしいじゃない」

「……なるほど」

じゃあ僕は、と一瞬思ったけれど、そして訊こうとも思ったのだけれど、それは、「きゃー!」という歓喜の声に掻き消された。

何事かと思えば、一階フロアに所狭しと置かれているクレーンゲームを覗き込んでいる。

「これ、欲しかったやつなのよ!取るわ」

と、言うや否や百円玉を投入。手慣れた手つきで操作し始めた。

その横顔はとても楽しそうで、キラキラと光の粉を振りまいて輝いているようにすら見える。そういえば、一緒に行動するようになって二週間くらいだけど、最初と比べて、表情が豊かになった。もう無表情っ娘ではなく、普通の女子高生である。いや、彼女は最初から普通の女子高生ではあったのだろうけど、それを囲っていたものが、徐々にではあるが解消されていっている。何故だろう。そのことがとても嬉しくて、嬉しくてたまらない。

ガコン、と音を立てて景品が落ちた。

「いえーい」

と、やや感情を噛み殺したような表情で僕に見せつけてきた。恥ずかしいのならやめたらいいのに。

景品は、何かアニメのキャラクターフィギュアなのだが、アニメには詳しくないのでそれがすごいものなのかは分からない。だけど、少なくとも、先輩を喜ばせるに足るものではあるらしい。

「よかったですね。いいのが見つかって」

「うん」

先輩は景品を大事そうに抱えながら、微笑んだ。

きっと、僕も、微笑んでいた。



店員さんが持ってきてくれた手提げ袋に景品を入れて、鞄とかと一緒にコインロッカーに突っ込んだ。

二階フロアにはリズムゲームが、三階には、アーケードゲームが、そして四階にはカードゲームとプリクラがあるらしい。リズムゲームとアーケードゲームはなんとなく分かるのだけれど、カードゲームって、こういうところでやるものだったっけ?もっとアナクロなものしか知らない。

「もちろん、そういうのもあるけど、最近は自分の持っているカードをゲーム画面に投影させたりするのがあるのよ」

「へえ」

カードゲームを題材にしたアニメを観たことがあるが、あんな感じになるのだろうか。

「さ、行きましょうか」

と、先輩に連れてこられたのは、三階のアーケードゲームフロア。

「リズムゲームは見なくていいんですか?」

「うん。私は音ゲーはしないの」

音ゲー、という単語が急に出てきて戸惑ったのだが、格ゲーと同じ風に考えれば、音楽ゲームということなのだろう。

「リズム感無いからああいうのは苦手なのよ」

ここもやはり、所狭しとアーケードゲームが置かれていて、そのほとんどの台に人が座っていた。さすが大型店と言ったところか。

ふと、誰も座っていない台の画面に何やら文字列が流れていくのが目に入った。三文字のアルファベットと何桁かの数字が下から上に向かっている。

「ああ、それはスコアランキングよ」

強ければ強いほどスコアが高くなっていって(本当はもっと細かく採点基準が設けられているらしいのだが、よく分からなかった)、最終的にどれだけ稼げたかで順位をつけているらしい。ここに名前が載っている人らは例外なく化け物なのだと先輩が教えてくれた。

「せっかくだから、どれかやってみましょう」

「え……いや、僕はいいですよ」

「せっかくだからやりましょう? 私が教えてあげるから」

「うーん」

実は、僕はゲームが苦手だ。というより、同時に幾つかの作業をするのが苦手なのだ。ゲームというのは、十字キーやスティックを動かしながら(移動したりするため)、柄のついたボタンを押す(攻撃したりするため)のだけど、こうして言葉にしてみると、簡単そうに見えるけれど、実際やってみると、なかなかどうして難しい。そしてその作業に加えて、スピードが要求される。格闘ゲームなどその典型だろう。事実、台に鎮座している手練れと思われる人たちの手は、目にも留まらぬ速さで、スティックをさばき、ボタンを打ち込んでいる。

そんな僕の不安げな表情を察したのか、

「心配しなくて大丈夫。上手くなくていいから、下手でいいから、一緒にやりましょうよ」

と、言う。

「……そういうことなら」

「ふふ、ありがと」

僕が承諾すると、嬉しそうに礼を言い、キョロキョロと空いている台を探しだした。



程なくして、先輩がやったことのあるゲームの台に空きを見つけたので、そこを確保した。

台の前に置かれている椅子は二人が座るには十分な大きさだったのだが、どう座っても身体が近付いてしまって、どぎまぎしたのだけれど、先輩はそんなことには全く動じてない様子で、コインを投入した。

「お金なら出しますよ。今回は僕がやるんですから」

格闘ゲームの醍醐味は対人戦なのは、無縁だった僕でも知っていたので、てっきり先輩とは対戦をするのだと思っていたのだけど、

『対戦するよりも、後輩くんがやってるところを見たいわね。そのほうが隣で教えられるし』

ということで、今回プレイするのは僕だけなのだ。

「誘ったのは私なんだからいいのよ」

「でもーー」

と、次の言葉を紡ぐ前に、画面が変わって、大音量が流れる。

「ほら、急がないと」

画面には、二桁の数字がーータイムリミットが提示されていた。

先輩にモードを選んでもらうと(コンピューターと対戦するモードらしい)、今度はキャラクター選択になった。二十人弱の老若男女、中には熊なんてのもいる。熊と素手で闘ったら人などひとたまりもないだろうに。

「ど、どれを選んだらいいんでしょう」

「ここはまあ、フィーリングね」

「はあ」

と言われても、格闘ゲームだけじゃなく、格闘技にも造詣が深いわけではないので、感じるものがいまいち無い。若い女性を闘わせるのは気が引けるので選ばない、というくらいのものだ。

結局、一番初めに目についた、熊のキャラクターを選んだ。

「リーチが短いのが正に短所だけれど、攻撃力と体力値が高いタフなキャラよ」

「それって強いんですか?」

「どのキャラも一長一短だから一概には言えないわね。プレイヤーの腕次第ってとこかしら」

つまりは、キャラクターを挟んだ人と人との闘いということか。真剣な眼差しで画面を見つめる他の人(プレイヤー)を目の当たりにして、対人戦が醍醐味という仰々しいレッテルの理由を垣間見た気がした。



そうして始まった初めての格闘ゲーム。

一回戦は、相手が案山子のようにほとんど動かず、ボタンを連打していれば、突破できるような難易度だった。

しかし、二回戦から相手がきちんと敵となってきて、苦戦を強いられたーーが、ギリギリのところで突破。

三回戦目であえなく撃沈した。

何回戦まであるのかは知らないけれど、僕にしてはいい線までいったんじゃないかな。

というより、時折、先輩の手が僕の手に触れてボタンの押し方やスティックの動かし方を教えてくれて、正直、対戦どころではなかった。僕は、初めて女の子の手に触れてしまった。いや、触れられていたのは僕なんだけれど。薄暗い屋内で尚且つ絶えず所構わず大画面が点滅していてよかった。きっと、僕は顔を真っ赤にしていただろうから。

それからしばらくゲームセンター内を散策してから僕たちは外に出た。

時計を見ると、午後一時半過ぎ。

「少しお昼時からは外れてしまいましたけど、ご飯食べましょうか」

「ええ、そうね。そうしましょう」

僕が今回行きたかった場所、もとい、やりたいことが、屋外でお昼を食べる、だった。いつもの学校の四階階段で食べるのも悪くはないのだが、外の景色を観ながら食事をするのも、偶にはいいだろう。

時期からして桜は散ってしまっているけど、まあよしとしよう。

「じゃあ近くのコンビニに寄ってから公園に向かいましょう」

「……あの」

「うん?」

歩き出した僕を呼び止めた先輩は、もじもじと何か言いづらそうに俯いていた。

もしかして、お腹が空いていないのだろうか。

「その、もし、きみがよ、よければなんだけれど」

「なんでしょう」

「お弁当、食べないかしら」

「へ?」

「だからお弁当。一緒に食べましょう」

「えっと……」

そういう予定じゃなかったのか。それとも、別々に昼ご飯を食べてまた後で合流するとでも思っていたのだろうか?

「そういうことじゃなくてね、お弁当、作ってきたから一緒にどう、かしら」

と、肩に提げていたショルダーバッグを僕に突き出した。

そこでやっと理解した。

やたらと重いショルダーバッグ。

言い出しづらそうな仕草。

「僕の分まで作ってきてくれたんですか」

「ええ。少し、手間取ってしまって遅刻してしまったけど」

「そういう、ことだったんですね」

「……もし、別のがいいならそれでもーー」

「何言ってるんですか。先輩のお弁当がいいです」

「そ、そう」

と、言ってそそくさと歩き出そうとする先輩を、今度は僕が呼び止めた。

「それ、重いでしょう? 持ちますよ」

「重くないわよこれくらい」

「持たせてください。こんなことしかできないんですから」

先輩の肩に提がっているバッグを持ち上げる。僕の言葉が効いたのか、抵抗せず渡してくれた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

と。

僕らは公園に向かって歩き出した。

「きみには、いろいろしてもらってばかりよ」

「え?」

こんな僕が、いったい何をしてあげられたというんだろう。思い当たる節がない。

それを問おうにも、なんだか気恥ずかしくて、それに先輩はもう既に数歩先に進んでいたので、僕はその問いを飲み込んで、それから小走りで追いかけた。



公園に着いたら、まず僕のリュックの中から敷き物を取り出して広げた。小学生のときから使っているやつだったので、柄は年齢不相応だったけれど、まあ敷き物の役割さえ果たしてくれればそれでいい。

「随分と可愛い趣味をしているのね」

趣味だと思われた。

僕は、あははと適当に笑って流して、次いで先輩のお手製弁当を広げる。これまた小学生の運動会でよく見そうな、三段式の弁当箱だった。

上段は唐揚げやウィンナーなどの彩り鮮やかな主菜が、中段にはきんぴらなどの副菜に加えて、デザート用だろうか、フルーツが、下段には、主食となるおにぎりとサンドウィッチが半々に敷き詰められていた。

栄養学とかはよくわからないが、肉と野菜がバランスよく配置されているのは見て明らかだ。

「これ……すごいですね」

すごいものを見て、すごいという感想しか出ないというのはなんとも、僕の語彙力の欠如を如実に表している。

「ふふ、ありがとう」

対して、先輩はそんな感想ともいえない感想を受けて、本当に嬉しそうにはにかんだ。

「これほんとに僕も食べていいんですか」

「私にこれだけの量を全部食べさせる気?」

先輩ならいけそうな気もする。

「いいから。さっ、食べましょう。お腹すいちゃったわ」

「では、遠慮なく」

割り箸を割って、いただきますと手を合わせた。

料理はどれも美味しく、箸がよく進んだ。

「どうかな?」

「とても美味しいです」

「そう、それならよかったわ」

先輩は心底安心したように息を吐いた。

「料理上手だったんですね」

「あら、意外?」

「あ……いえ、そういう意味じゃないんです」

「うふふ、いいのよ。あのね、実はお母さんに手伝ってもらったのよ」

ちょっぴり気合い入れ過ぎちゃったわ、と照れくさそうに言う。

お母さん、弁当というワードに、僕はほんの少しだけ気持ちが落ち込んだ。

こんなに美味しいものを毎日、目の前で捨てられていたのかーーいや、それよりも、そんなことよりも自分のために母親が毎朝作ってくれたものを、粗末に扱われるというのは、業腹だろう。考えただけでも胸糞が悪くなる。

彼女のために何かできることはないのか。

彼女のため?

本当に?

彼女は自分で選んで虐められているわけではないけれど、自分の意思で耐えている。少なくとも今までは。母親に嘘を吐き、周囲に何も感じていないように見せるために無表情を徹底している。

ならば、僕に言えることなど何もないんじゃないか。

僕にできるのは、彼女の意思を尊重してあげることだけなんじゃないだろうか。

彼女の意思を無視して何かをするのは、僕のエゴなんじゃーー

「どうしたの? 後輩くん」

「……え」

「急に黙ってしまったから」

「……いえ、なんでもありません」

「ふうん? そう、ならいいけれど」

お昼を過ぎても、まだ陽射しは暖かかった。きっと、夕方までは僕たちを照らしてくれる。

だけど、僕の心の中は曇り空のように、重く暗く、のしかかってくるようだった。



弁当を食べ終わったあとも、そのまましばらく公園で食休みがてら先輩と雑談に興じた。内容はあまりあったとは言えない。高校生が休日の公園でレジャーシートの上でヒッグス粒子の話を分からないながらもしているのを周囲は奇異の目で見つめていたけれど、それはまあよしとしよう。

空になった弁当箱(重箱?)は僕が引き受けた。持ち帰って、自宅で洗ってから後日返すつもりだ。最初は渋っていた先輩も、最終的には折れて、預けてくれた。

リュックの中に弁当箱を突っ込んでから、ふらふらと街中を散策した。地元とは違って街自体が大きいので、見て回るのには事欠かない。駅ビルだけでも相当な広さがあって、そこを全部見終わる頃にはすっかり陽が暮れかかっていた。

「もうそろそろ帰りましょうか」

「ええ、そうね」

そう言って、僕の少し先を歩いていた先輩が、くるっと振り返った。

「今日は……とても楽しかったわ。ありがとう」

先輩の頬が紅いのが、夕陽の中でもよくわかる。自分で言っておいて紅潮するなんて卑怯だ。僕まで赤面してしまうじゃないか。

それを隠すように先輩から少し視線を外してから、

「こちらこそです」

と、言った。本当はもっと言いたいことがあるのだけれど、今日はこのくらいにしておこう。

紺と茜色が程よく混じった空は、何かに似ている。

身近なものだと思うんだけど、なんだったっけ。

先輩はそんな空の中、「うふふ」と、笑った。

「先輩、よく笑うようになりましたね」

「そうかしら?」

「はい。最初はほとんど無表情でしたよ」

「綾波レイみたいでいいわね」

「僕はアスカ派です」

「どういう顔をしたらいいのかわからないの。こういうとき」

「なんで倒置法……」

「あの人たち学力はちゃんと年齢に追いついているのかしらね?」

「突然リアルな話になりましたね」

「それで、何の話だっけ?えっと、クリオネはどんな味がするのか、だっけ」

「もう僕は訳がわかりませんよ」

「私もよ」

くすくすと先輩は笑って、それを見て僕も笑った。

「それじゃあ、また月曜に」

「ええ、また月曜日。いつもの四階階段で」

そう言って、僕たちは地元に戻るため、駅に向かった。



次の日。日曜日。

僕はこの日、なないろ宝石店へ初出勤していた。少し前からちょくちょく遊びに来てはいたけれど、店員として来るのは今日が初めてだった。

とは言っても、この店は基本的に客が来ない。僕が遊びに来ていたときからそうだったけど、一度も接客をしている、色識さんを見たことがなかった。こんな状態で経営はどうなっているのか甚だ疑問だったが、曰く、「裏稼業があるんだよ」とのことだった。冗談にしろ本当のことにしろそれ以上訊くのはやめておいたほうがよさそうだ。

とにかく。初出勤である。

この店には制服が無い。店指定のエプロンをつけるだけだ。僕は色識さんから渡された真新しいエプロンを私服の上に被った。

「おお、似合う似合う」

紺地に白の太文字で『なないろ宝石店』と書かれただけのエプロンに似合う似合わないがあるのかとも思ったけれど、「ありがとうございます」と取り敢えずお礼を言っておいた。

ちなみに、色識さんはこのエプロンを身につけていない。

「制服というのはね、縛りをつけて結束を固めるためのものだ。わたしは店長だから必要無いんだよ」

ということだった。

結束も何も、店員は僕一人なのだが。

「さて、業務内容だけど」

と、長めの定規を手の上で転がしながら言う。

最初に会ったときにも思ったことだが、色識さんは手先が異様に器用だ。前に、ふとした拍子に手品を見せてもらったことがあるけれど、種を看破してやると意気込んでいたのに見事に騙されたものだ。

「まあ、まずは接客だね」

「それにはまずお客さんが来ないことには……」

「そんな言い方をしたらまるで、お客さんが来ていないみたいじゃないか」

「みたいじゃなくて、そうなんですよ」

「お客さんが全く来ていないみたいじゃないか!」

「みたいじゃなくて、そうなんですよ!」

そんなコントみたいなやり取りをして、疲れた僕と色識さんは一旦腰を落ち着けることにした。ざくろに連れて来られたときに座った椅子である。

そういえば、ざくろはどこにいったんだろう。

「あの子は大半外に出てるよ」

「へえ」

「上級野良猫ってとこかな」

「それってどうなんですか……」

「まあ、何にせよ、帰るところがあるというのはいいものだよ」

「はあ」

何の苦労もなく、それが確保されている僕にとってはいまいち理解しづらい見解だった。

「例えば、セーブポイントが近くにあれば万が一死んじゃってもいいやってなるでしょ?」

それならまあ、分かりやすくはなったけど。

「それにしても色識さん、ゲームとかするんですね」

「うん? まあ少しくらいはするよ。ファミコン世代ど真ん中だしね」

「ファミコンってグレーのあれですか?」

「うんにゃ、あれはスーファミだよ。ファミコンはくすんだ白とくすんだ赤いやつ」

「とりあえず、くすんでるんですね」

「そこがまたいいんだけどねえ」

最近のゲーム機は洗練されたフォルムで、色もてらてらとはっきりしたものが多いと思うのだけど。世代によって好む色が違ってくるのだろうか。

「とにかく、業務内容は第一に接客。第二には愛する子供たちの相手だね」

愛する子供たちというのは、商品であることを僕はこの短い期間に学んでいるけど、その相手をするということになると、色識さんみたいに、石に話しかけたりしなければならないのか。

「いやいや、そういうのじゃないよ。ただ環境を整えてあげるんだよ」

「環境、ですか?」

「うん」

と、色識さんは腰掛けていたウッドチェアから立ち上がって、棚に並んでいる鉱物の一つを手に取った。

青紫色で半透明のそれは、ところどころ人の手が加えられているかのような綺麗な四角い形をしていた。

「この子はフローライトっていうんだ。和名だと蛍石。なんで蛍なのかと言うと……」

言うなり、近くにあったランプを点ける。そのランプは普通の蛍光灯とは違って、青色の光を放っている。

「これを当てると、ほら。綺麗に光るだろう? これが蛍石と呼ばれる所以だよ」

「へえ」

色識さんの手の中で、茫洋と光る石はとても神秘的だった。こんなものが自然と出来上がるなんて信じられない。

「でもこの子はいろいろと敏感でね。例えば、モース硬度が低い」

モース硬度は以前、色識さんに教えてもらったことがある。

石の硬さの基準となる数値で、最高値がダイアモンドの10で、最低値が1だったはずだ。

「うん、よく憶えてたね。そう、モース硬度が低ければ、つまり、衝撃に弱いということだ。他にも、太陽光で退色してしまったりする。水分も厳禁だね」

石というくらいだから、そんなに気にしなくても平気だろうと思っていたけど、そうではなかったらしい。

考えてみれば、ダイアモンドは世界最高硬度を誇る鉱物なのだから、その逆もまた然りであるし、他の特性があっても不思議ではない。

「この子はただの一例で、みんながそうであるわけではないの。フローライトは水分が駄目って言ったけど、逆に水分が少ないと割れてしまう子もいる。だから、その子その子に合った環境が必要なのさ」

なるほど。

思ったより奥が深そうだ。

個体個体でそれぞれ個性があって、それらを把握して立ち振る舞う。そうなると、いよいよ人付き合いに似てくる。

「当たり前でしょ? この子たちはみんな生きているんだから」

と、さも当たり前のことのように言う。

これだけの品揃えを一つとして損なうことなく管理している上に、それらと話せる人からすれば当然だろうけれど、僕にとっては石は石であって、生き物ではない。

「じゃあさ、生き物の定義ってなんだろうって考えたことない?」

「それは……少しくらいならありますよ」

「それで結論は?」

「生命というんですから、やっぱり命がないとだめなんじゃないですか」

「きみに命はある?」

「ありますね。一応は」

「わたしには?」

「実は未来から来たアンドロイドであるとかでなければ、見た感じはありそうです」

「ふうん。なんで?」

「え?」

「なんで、わたしには命があると思うの?」

「な、なんでって……」

そんなの、なんで一足す一はニなの? と同じレベルの質問だろう。

「話しているから? それとも動いているから? そんなの理由にならないじゃない」

くすくすと猫目を揺すりながら言う。

「話さなくたって、動かなくたって命があるものはあるのよ。ちゃんと生きている」

僕は色識さんの話を聞きながら、先輩を思い出していた。昨日、一緒に遊びに行った先輩のことではなく、最初に会った頃の、無表情で笑わない彼女を、思い出していた。

あの頃には分からなかった彼女を、今は知っている。

ちゃんと好きなものがあって、得意不得意があって、失敗もして、そして、心がある。

「そうか……そういうことか」

「ね、わかってくれた?」

「はい。よく分かりました」

よろしい、と色識さんは満足げに笑った。そして、両手を広げて、くるんと一周回った。少し長めの髪が宙を舞う。

「これからこの子たちと仲良くしてあげてね」



五月中旬。

僕と先輩はいつものように四階階段で昼食をとっていた。

五月ともなれば、流れていた冷気は薄まって、過ごし易くなる。

座布団があっても尻が冷凍保存されるんじゃないかと思っていたからなあ。

そういえば、最初の頃は僕の座布団を使っていた先輩もいつの間にか自分のを持ってきている。ピンク地に水玉模様というなんとも可愛らしいーー女の子らしいチョイスで、僕のとは見分けがつきやすいはずなのだけれど、何故か偶に僕のを使っていることがあるから不思議だ。

まあ、ともかく。五月中旬だ。

ゴールデンウィークもなんとなしに過ぎ去って、始業式の日から一ヶ月以上経ってしまえば、慣れない新生活にも真新しさがなくなって、ただの日常へと帰化する。

そんなある日。

「あ、やっと見つけましたよ、先輩」

と、見知らぬ顔と聞き覚えのない声が四階階段に響いた。カレーパンをもっしゃもしゃと食べている途中に声が聞こえたものだから、僕はパンを咀嚼しつつ、唯一外界へと続く廊下のほうに目を向けてしまった。そんな行儀がいいとは言えない僕の行為を目の当たりにしても尚、にこにこと弾けるような笑顔をこちらに振りまいている女の子。

誰? と一瞬疑問に思ったけれど、先輩と呼んでいるのだから僕の知り合いではない。きっと先輩を訪ねてきた誰かなのだろう。そう思って、先輩のほうに目を向けるが、彼女は、恐らく僕と全く同じ表情でこちらを見つめていた。

(きみの知り合いよね?)

そんな風に目が語っている。

僕は、(違います)と、目で返しておいたけれど、伝わったかは分からない。

「お食事中すみません、先輩」

そう言って、僕の前まで来る女の子。いや、来ただけじゃなく、僕を見ていた。

「え、僕?」

僕、きみの先輩じゃないよ、と言おうとしてはっとする。

今まですっかり忘れていたけれど、僕、進級したんだった……。後輩との繋がりが皆無だったので、先輩と呼ばれることに対応しきれていなかったのだ。つまり、彼女は僕の後輩、この学校の一年生ということなのだろう。

それにしても。

「あの、どこかで会いましたっけ?」

「ええ……酷いですね。私です。錦乃にしきの 円実まどみですよ。ほら、同じ中学の!」

同じ中学のと言われても、憶えがない。これっぽっちも思い出せなかった。

「んん? 委員会で一緒だったとか?」

「いいえ、先輩は委員会とかやらなかったじゃないですか」

「……。じゃあ部活動で一緒でした?」

「やだなあ、先輩は部活とかやらないじゃないですか」

「僕のことをよくご存知で……」

ここまで、僕のことを把握されているということは同じ中学なのは間違いなさそうだ。

「なら、僕ときみ……えっと、錦乃さんのーー」

「円実でいいですよ」

と、色識さんや先輩とは違った天真爛漫そうな笑顔で言った。ザ・前向きって感じだ。

「……、僕と錦乃さんの接点はいったいどこです?」

自分の提案が無視されたからか、口を尖らせながら、「私、先輩とお話したことないです」

「え?」

「だから、先輩からすれば初めましてですね」

「ちょ、ちょっと待って。え、僕にとってはってどういうこと?」

思考が会話に追いつかない。

すると、今まで放ったらかしにされて黙々とコンビニのおにぎりを食べていた先輩が横から口を出してきた。

「つまり、後輩くんは知らないけれど、錦乃さんは知っていたってことではないの?」

「えっと……先輩の彼女さん、ですか?」

どうしてそうなる。

「どうかしらね」

どうしてそうなった……。

なんかやけに喧嘩腰じゃないか?

「ややこしい話を余計にややこしくしないでくださいよ」

「嘘は言っていないわ」

「本当のこともね!」

今気付いたけど、先輩、また無表情っ娘に戻ってる。緊張してるのかな。

「二人はお付き合いしているんじゃないんですか?」

「してませんよ」

「へえ……」

と、錦乃さんは微妙な反応をした。煮え切らないというか。いや、違うな。安堵したかのような、そんな反応だった。

「じゃあ別にいいですね」

「? なにが?」

「私が今から言うことを、耳の穴かっぽじってよく聞いてくださいね」

「先輩に対する物言いじゃないですよね……」

「いいですか?」

「はあ」

錦乃さんは、仰々しく一息ついてから、真っ直ぐ僕の目を見ながら言った。

これでは僕は勘違いすることもできない。錦乃さんが僕に向けて放った言葉なのだと否が応でも認識させられてしまう。

とにかく。

同じ中学校出身の後輩、錦乃 円実さんは僕に、

「ずっと好きでした。私と付き合ってください」

と言った。

対して、僕の反応はというと。

「……はい?」

だった。なんていうか、情けない。



依然、錦乃さんは僕を見つめたまま止まっていた。心なしかその頬は紅みを帯びているように見える。

どう見ても、冗談や冷やかしの類いではない。彼女は本気で僕に交際を提案しているのだ。だから僕も茶化したり誤魔化したりしてはいけない、そう思った。

ここまで踏み込まれたのだ。こちらも腹の内を晒さないといけないだろう。

「ごめんなさい。僕はきみとは付き合えません」

と、僕にしては珍しく、虚飾なしのそのままの言葉を返した。

それを受けた錦乃さんは、俯いたまま動かなくなってしまった。

傷つけてしまったか? だとしたら、ここで修正するべきか。 いや、これをどう取り繕ったところで回答は変わらないのだから仕方ない。例え、これで嫌われたりしても、それはそれで受け入れるしかないのだろう。

そう覚悟を決めたとき、

「……ふふふ」

と、笑い声が聞こえた。

どうやら錦乃さんが俯いたまま、くつくつと笑っているらしかった。

許容量を超えた出来事があると笑ってしまうというあれか?

「だ、大丈夫ですか?」

すると、伏せていた顔をいきなりこちらに向けて、さっきと変わらない天真爛漫そうな笑顔をこちらに向けて、

「やっぱり先輩は私の思った通りの人でした」

と、言った。

「思った通り? きみを拒絶することがですか?」

「はい。だって考えてみてもくださいよ。私は先輩をずっと見てきましたけど、先輩にとって私は見ず知らずの自称後輩なんですよ? そんな子にいきなり告白されてほいほいついていくなんてあり得ません」

「はあ」

「ここでオーケーを貰えるっていうのも私的には全然有りなんですが、私が好きな先輩はきっと断るだろうなと。それも正面から断ってくれるだろうなと」

「なんか、随分と高く買ってくれてるみたいですね……。でも多分それは過大評価だと思いますよ」

「そんなことありませんよ。私はそんな先輩だから、ずっと見てきたんですから」

そんな、冗談みたいなことを平然と言う彼女は、やはり冗談を吐いている気配など微塵もなく、そして、その言葉には重さがあった。

重いけれど、不快ではない。真実のみが持つ重みだ。

僕が背負うことをやめた重み。

やっぱり彼女は僕のことを過大評価している。

だって、僕は、今この場から逃げだしたいとすら思っているのだから。

「言っておきますけど、これは先輩への通達ですからね」

「通達?」

「はい。私が先輩を好きだっていう通達です。お前に恋しちゃってるぜ、です」

「ず、随分力押ししてきますね……」

「あったり前じゃないですか。もう後悔するのは嫌なんです」

「……」

「だから私が動くんです」

と、毅然と言い放って見せた。

後悔なんて誰だってしたくはない。だけど、後悔をしない為に努力をしている人は意外と少ない。僕も含めて、大半の人は漠然と『後悔は嫌だ』という願望を持っているだけだ。

でも彼女は、そうじゃない。

そうならない為に努力をしている。そうならない為に工夫をしている。

幸せとは、錦乃さんみたいな人間のところに来るものなのだろう。

「だから、先輩。明日からはお昼をご一緒させてくださいね」

「えっ!?」

と、素っ頓狂な声を出したのは僕ではない。

犯人は後ろの方で黙々と食事をしていた、無表情っ娘こと、先輩である。しかし、その表情は無表情からは程遠く、驚きという色を持っていた。

「だめでしたか?」

「だ、だめではないけれど……」

「そうですか。それなら明日からよろしくお願いしますね、先輩」

「……え、ええ」

なんだか、あまり歓迎していなさそうな感じだけれど、やっぱり人見知りしているのだろうか?

「では、また明日」

と、嵐のように場を荒らした錦乃さんは、颯爽と立ち去っていった。

なんていうか、すごい人だな。

やっと平穏が戻った僕は、食べかけだったカレーパンを頬張って、次の菓子パンに手を掛けた。

すると。

「あの……」

「ふぇ?」

口の中いっぱいに広がるパンをなんとか喉の奥に押しやる。

「どうしました?」

「その、なんていうか……」

歯切れが悪い。こんなことがこの間もあったな、と思い出した。

「あれよ、まだ私の名前を言っていなかったと思って……、ほら、錦乃さんはきみのことを先輩と呼ぶし、ややこしいかなって」

なるほど。それは確かに一理ある。

現に僕は最初、錦乃さんは先輩に声を掛けたものだと勘違いしていたからなあ。

「私の名前は……」

重大発表でもするかのように緊張しているのが目に見えて分かる。

「私の名前は、染井そめい はる、です」

と、先輩はーー染井さんは、名乗った。

顔を真っ赤にして自分の名前を言うので、なんだか可笑しくなって、笑ってしまった。

「な、なんで、笑うのよ……」

「くくく、すみません。なんか面白くて」

さっきまでの無表情っぷりは何処かへ消えてしまったみたいに、恥ずかしがる染井さん。

アドレス帳の先輩を、染井さんに変えておかなきゃ。

そんなことを思った。

そして、僕は、名乗らなかった。



「へえ、そんなことがあったんだ」

「はい……錦乃さんにはびっくりさせられましたよ」

相変わらず客入りの無い、なないろ宝石店の今日の業務は、色識さんと雑談することだった。いや、今日のではなく、ほぼ毎回なのだけど。

「あらら、それはライバル出現だねえ」

「うん? いったい何のライバルですか?」

「さて、なんだろうね?」

こうやってはぐらかしてくるときは、いくら訊いても教えてくれないのでそのままにしておくしかない。

「それにしても、きみはそういうタイプには見えなかったけどなあ」

「はい?」

「いやほら、錦乃ちゃんの告白に対してだよ。きみだったら曖昧にして曖昧なまま自然消滅させられただろうに」

「僕もそう思ってたんですけどね」

「漢見せたじゃないの」

「そんなのじゃないですよ」

僕はただ怖かっただけだ。

あの場を逃げきるだけの度胸が、僕にはなかっただけの話だ。

「いやいや、それでもたいしたもんだよ」

「買い被り過ぎですよ」

「人間大事なのは行動さ。思っていてもやらなければ意味が無いように、考えていてもやらなければいいんだよ」

と、火のついた煙草を口にやって、すぱあっと吸った。

「完全な善人なんていない。ただそうあろうとする者が善人なんだ」

「そんなの偽善みたいな気がしますけど」

「偽善でも善は善さ。本物か偽物かなんて関係ないんだよ。要はそれがどう見えるかだ」

色識さんは、短くなった煙草を灰皿に押し付けて、また新しいのに火をつけた。

「身体壊しますよ」

「んん? 生きていれば自然と身体は壊れていくものさ」

と。

目を細めて笑った。

また屁理屈を……。そうかもしれないけれど、わざわざ壊すようなことをしなくてもいいのに。

「あはは、そんな怒るなよ」

「怒ってませんよ」

「怒ってるって、その顔に書いてあるよ」

そう言って、僕の顔をーー指さした。

「屁理屈はわたしの得意技さ」

「……」

「まあ、安心しなよ。そんないきなり死んだりしないって」

「当たり前ですよ。不謹慎なこと言わないでください」

「なんだよ、お堅いなあ」

「色識さんが軟派過ぎるんです」

「ミスター軟派と呼んでくれ」

「なんでミスターなんですか……」

「おっと間違えた。ミセス軟派と呼んでくれ」

「いつの間に結婚したんですか!」

「旦那さんは、きみだ!」

「なんですかこれ」

とそこで、ふと思い至る。

鉱物と会話ができるというのなら、僕の着けてるラブラドライトとも会話ができるんじゃないか、もしかして全部筒抜けなんじゃないか? 僕はその石と会話というのがあまり明確なビジョンとして持っていないので、ついついこうして今日あったことを話してしまったけれど、それ以前に色識さん対ラブラドライトで話しているのではないだろうか。というようなことをこれまた懲りずに訊いてみることにした。

「うんにゃ、それはないよ」

「そうなんですか」

「人のことは勝手に語らないよ、この子たちは。わたしがそうお願いしているんだ」

「お願い? どうしてですか、便利そうなのに」

と、僕はたいして考えもせずに言った。

だってつまり、それは相手の心の中を知ることができるってことだ。ただでさえ難しい人間関係を円滑にするのにこれ以上の武器はない。

そう思ったのだけれど、色識さんは、

「そんなことはない」

と。

きっぱりと言ってのけた。

「親しき仲にも礼儀ありと言うでしょ? それは親しい仲じゃなくても言えること。人はある程度のプライバシーが必要なんだ。ある種のパーソナルスペースってやつかな。それが無いと、人は不安に、不安定になる」

「不安……」

「そう。人間というのは、不変を嫌うけど、しかし激動もまた嫌う。だから安定しないものを安定させようとする。そして原因を排除しようとする。つまりこの場合はわたしだね。きみはわたしのこれを便利だなんて肯定的に取ってくれるけど、わたしはこれを呪いだと思ってる。こんなもの無ければよかったと、そう思っているよ」

「……」

正直言って、色識さんの話の大半が僕にはぴんとこなかったけれど、それでも、パーソナルスペースというのは分かる気がしたーーいや、きっと他の誰より理解しているんだろう。

だって。

そのパーソナルスペースを守るために躍起になっていたのだから。

自分の内面を見せてはいけない。

己の本質を理解されてはならない。

ずっとそう思ってきた。そして、きっと、これからもそうだ。

僕は、変われない。

「さ、辛気臭い話はこれでおしまい。やーめよやめよ」

と、色識さんが言う。

「そうですね」

時折、彼女が見せる悲しげな表情の片鱗を、僕は見た気がした。



「へえ、先輩って染井さんっていうんですか」

「あら、私、自己紹介していなかったかしら」

「してませんでしたよ」

と、錦乃さん。

「してませんでしたね」

と、僕。

「そうだったかしら」

今日も今日とて、いつも通り、四階階段で昼食をとっているのだけれど、僕一人の頃に比べるとかなり賑やかになった。ていうか、狭い。

最初は、地べたに座るなんてなんか不良みたいですね、なんて渋っていた錦乃さんだったけど、僕が使っている座布団を差し出したらすんなりと座った。地べたとたいして変わらないんじゃないかとも思うけど、錦乃さんがよければそれでいいだろう。

僕はコンビニで買った菓子パン。染井さんは同じくコンビニで買ったであろう、おにぎり三個。そして、錦乃さんは、手作り弁当をそれぞれの前に広げている。

「先輩と染井先輩ってどうしてこんなところでお昼食べてるんです?」

「成り行きですかね」

「成り行きかしら」

と、僕と染井さんは異口同音に言った。

「ふうん? 冬とか寒くないですか? ていうか、今もちょっと寒いんですけど」

「私はもう慣れたわ」

「え、女の子って寒さに強いんじゃないんですか?」

そう言うと、染井さんと錦乃さんは(何を言ってるんだ、こいつは)という目でこちらを見た。

「だって、真冬でも脚、晒してるじゃないですか」

「あれは可愛いから我慢できるんです!」

「これは?」

「ただただ寒いです。あ、でも先輩といられるから我慢できます」

「あ、ありがとうございます……」

取り敢えず、お礼を言っておいた。

本当、いきなりぶっこんでくるから油断できないな。

紙パックのコーヒー牛乳を勢いよく吸い込んでいると、「ここで、私から提案があります」と、錦乃さんが手を挙げた。

「再来週、何があるか先輩方はわかりますか!?」

「うん?」

なんだろう? 再来週といえば、六月に入っている。つまり、今年が始まって半分がに到達したということだ。だからなんだ。

染井さんに目を向けると、彼女も同じように悩んでいるみたいだった。

「ふふふ、答えはですね……三連休があるんですよ!」

「へえ」

「えぇ、反応薄くないですか?」

「だって、三連休なんて週末の休みが一日増えただけじゃない」

「なんですか、その非リア充な発言は!三連休とあれば、土日だけじゃ時間が足りなくてできなかったことをやる絶好のチャンスじゃないですか」

「やるって何を?」

「あれじゃないですか? ほら、海外旅行とか」

「そんなブルジョワな高校生いませんよ……」

それならなんだろう。

二日じゃあできなくて、三日ならできること。んー、なんかなぞなぞみたいになってきた。

「それで、何をするのよ」

「ふふ、よくぞ訊いてくれました」

「言い出したのは錦乃さんですけどね」

「三人でお泊りパーティしましょう。うちで」

「……お泊まりパーティって何をするの?」

「さあ?」

僕に訊かれても困る。知っているはずがないじゃないか。

「いろいろですよ、いーろーいーろー」

パーティというくらいだから、何か催し物とかをするだろうか。人生ゲームとか。

ここで人生ゲームくらいしか思いつかないことに軽くショックを受けながら、

「いいんじゃないですか。 あ、でも、週末にお邪魔しちゃって大丈夫ですかね」

と、言った。

「平気です平気です。気にしないでどしどし来ちゃってください」

「そんなご応募お待ちしてますみたいに言われても」

「ましまし来ちゃってください」

「そんなラーメン頼むみたいに言われても……」

「きゃあ、先輩、つっこみのセンスも抜群なんですね」

錦乃さんは変な人なんですね、とは言わなかった。

「それなら、お言葉に甘えてお邪魔しようかしら」

「はい!是非是非」

と、錦乃さんは屈託なく笑った。



錦乃さんのお宅は、一軒家だった。それも相当大きい。豪邸とまでは言わずとも、立派な邸宅であるのは間違いなかった。

「あなた、もしかしてお嬢様なのかしら?」

「そんなことないですよ」

なんてことない風に言いながら、正門を開ける錦乃さん。

普通はその門すら無いと思うんだけど。

玄関を入ると、奥の居間(リビング?)から、錦乃さんのご両親が出迎えてくれた。

僕は、来る前に染井さんと一緒に買った菓子折りを渡す。そんな気にしなくてよかったのに、と言う錦乃母はとても優しそうな人だった。錦乃父も、威厳のある、立ち振る舞いの中に優雅さを感じさせる。なんていうのか、別の世界の住人のようだった。

僕たちは、ご両親に挨拶をしてから、二階にあるという錦乃さんの部屋に向かった。

「どうぞ」と、案内された部屋は綺麗に整頓されていて、女の子の部屋という感じがする。なんかいい香りがするし。

そういうのは、そんなに詳しくないのだけれど、おそらく、六畳くらいの部屋だと思う。勉強机と本棚ーー内容は参考書や図鑑などの勉学のものと漫画や小説などが所狭しと置かれている。僕の読んだことのある本もあって、話が合いそうだ。それにベッド。僕は布団派なので、ベッドが置いてある部屋というのはなんだか落ち着かない。あとは、テレビや音楽を再生する機器があった。

「僕、人の部屋に入るのって初めてなんですけど」

「先輩の初めてゲットですね!」

「うん……うん? まあとにかく、女の子の部屋ってもっとこう、アイドルのポスターとか貼ってあるイメージだったんですけど」

「ああ、確かにそういう人もいますけど、人それぞれですよ」

「私の部屋にもそんなものは無いわね」

「そんなもんなんですか」

「男の子の部屋には必ずあるものってあるんですか?」

「エロ本かな」

「ああ……」

「つっこんでくれないと寂しんですけど」

「いやあ、本当ありそうなんで」

まああるけどさ。

そんな会話をしながら、錦乃さんが用意してくれた座布団に腰を下ろした。

「それで何するんです?」

「人生ゲームとかテレビゲームとかをするのもいいんですけど、ここではちょっと変わったゲームをしましょう」

そう言って、錦乃さんは、数十枚の紙を持ってきた。それを三等分にして、僕と染井さんに配る。

「これは?」

「それに自分以外の二人に訊きたいことを書くんです」

「なるほど」

「どんな質問でもいいんですか?」

「いいですけど、紙は回収して全ての中からランダムで引くので、自分で書いたものを自分で引くなんてこともあるかもしれませんから、その辺は考えてください」

つまり、リスクマネージメントをしっかりしておかないといけないということか。とは言ってもそんなに変な質問はもとよりする気がないけれど。

それから僕たちはしばらく、紙に質問を書いた。結構な量の紙だったから埋めていくのに苦労した。やっとの思いで書き切ると、他の二人は既に終わっていて、僕を待っていた。



三人分の質問カードは箱に入れられてシャッフルされた。入り口は手がぎりぎり入るくらいの広さで、中身は見えない。

「さて、誰から引きますか」

「じゃんけんで決めましょうか」

と、じゃんけんをする。

結果。

錦乃さん、染井さん、僕という順番になった。じゃんけんってなんで言い出しっぺが負けるんだろうか。

「じゃあ早速」

と言って、錦乃さんは箱に手を突っ込んだ。がさごそと漁ってから一枚の紙を取り出す。

「なになに、『好きな教科は』……? なんか普通ですね。これ、先輩が書きましたね」

「なんでバレてるんですか」

「うーん、好きな教科ですか。勉強自体あまり好きじゃないんですけど。まあ強いて言えば、現代国語ですか」

「へえ、意外ね。現国なんて嫌われる教科の代名詞じゃない」

「好きっていうか、得意ってだけなんですけどね」

「そういえば小説も多いみたいですし」

「それは……」

と、少し恥ずかしそうにする錦乃さん。

それを見て、僕は、しまったと思った。

本棚はその人を表すという。何を読んで、何に影響されて、何が好きなのかが一目瞭然だからだ。つまり、本棚を見るということはその人の内面を見るということと同義。それを他人に見られたら恥ずかしいに決まってる。

「先輩が何を読んでるのか気になっちゃって」

「え?」

もう一度本棚に目を向ける。さっきは流しながら見ていたから気付かなかったけれどーーいや、僕が読んだことのある本があるな、くらいには思っていたけれど、こうして改めて見てみると。

「ほとんど僕が読んでたやつじゃないですか」

「ごめんなさい、気持ち、悪いですか?」

「いや……」

確かに、こそばゆい感情はある。けれど、不快なものじゃなかった。

「そんなことないですよ。どの本を読むかなんてその人の自由ですし」

すると、唐突に、カシャーという音がした。その方向を見やると、染井さんがスマートフォンを掲げていた。一瞬、何をしているのかわからなかったけれど、どうやら、写真を撮ったようだった。そして、

「私も読むわ」

と言った。

錦乃さんは何が可笑しかったのか、あははと一頻り笑ってから本棚に向かって数冊取り出して、それを染井さんに手渡した。

「これとこれがおすすめですよ」

「あ、ありがとう」

「染井先輩が読み終わったら、三人で感想戦しましょうよ」

「戦っちゃうんですか……」

感想戦はともかくとして、三人で同じ小説の内容を語り合うのはやってみたいと思った。

これは僕の交友関係が破綻しているのが理由では決してないと思うのだけど、小説の内容について語り合うというのは、実はなかなかないのだ。

「そういうことなら、僕もそれ、読み直してきますよ」

「おお、珍しくやる気ですね」

確かに珍しいかもしれない。

惰性ではなく、進んで何かを読むなんて久しぶりだ。

そんなことを思った。



次は染井さんが質問カードを引く番だった。

錦乃さんがしたように、手を突っ込んで一枚引っ張り出す。その紙には、『趣味はなんですか』と書かれていた。

「あ、それ私が書いたやつです」

これは僕が引かなくてよかった。趣味は読書です、なんて言っても話は広がらなかっただろう。

「趣味……そうね、趣味はゲームかしら」

「へえ、なんか意外ですね」

と、さっき染井さんがした反応と全く同じな反応をした。

僕も最初にそれを聞いたときは同じように思ったもんなあ。

「そうかしら?」

それに対して、染井さんは小首を傾げた。

「ちなみに、どのジャンルを?」

「一番好きなのは格ゲーかしらね」

「かくげー……?」

錦乃さんは、格ゲーの意味が理解できなかったようで曖昧な反応をしていたので、

「格ゲーっていうのは、格闘ゲームって意味ですよ」

と、教えてあげた。

「ははあ、なるほど、格闘ゲームですか。昇竜拳とかですね」

「それは技名なのだけれど」

「俺を倒すとは……しかし俺はーー」

「それは四天王最弱の台詞ね」

「むむ、染井先輩も、つっこみ上手ですね」

と、よく分からないところで感心していた。

「それにしても先輩、よく格ゲーの意味知ってましたね。ゲームするんですか?」

「いや、染井さんとやったから知ってただけですよ」

「へえ、染井先輩と……ですか」

「うん。少し前に。ゲームセンターに行ったんですよ。思ってたより難しくてすぐやられちゃったんですけど」

「二人で行ったんですか」

「そうですけど……」

「そ、それって、デートじゃないですか!」

「うん?」

「ちょ、ちょっと、私たちはただ遊びに行っただけよ?」

「それがデートっていうんですよ……」

染井さんは、しばらく硬直したかと思うと、ぼっと顔を紅潮させてそのまま俯いてしまった。

「私が目を離してるときにそんなことがあったなんて……不覚です」

と、錦乃さんが歯嚙みしていた。



僕は錦乃さんに促されて(ちょっとキレ気味で)、箱の中に手を入れた。一枚を引き出して、それを見る。

『恋バナしてください』

「……」

もはや質問じゃない。

「あ、それも私が書いたやつですね」

「僕、人に話せるような恋愛事情なんてないんですけど」

「じゃあ人に話せないのでいいので」

「そういう意味じゃないです……」

「今まで一度も恋愛をしてこなかったということかしら」

と、いつも通りに戻った染井さんが言う。

「まあ……」

「ええ!そんなことってあるんですか?」

「僕の場合、恋愛云々以前に上手く人間関係を構築できなかったので、そこまで至らなかったといいますか」

「この人と一緒に居たいなとかそういうのもなかったんですか」

「……」

過去を振り返ってみるが、残念ながらそんな人はいなかった。

「これは……なかなか重症ですね」

と、やたら深刻な表情で言う錦乃さん。

「それなら、逆に嫌いな人はいますか」

「いや……」

いない。僕の頭の中には誰も浮かんでこなかった。思いつかなかった。

「でもこれっていいことなんじゃないですか? だって人を嫌うなんてないほうがいいでしょう?」

「それはそうなんですけど……、ちなみに、染井先輩は誰かを好きになった経験はありますか」

「ええ、まあ多いとは言えないだろうけれど、あるわ」

「じゃあ逆に嫌いな人はいますか」

「少ないとは言えないくらいには、いるわね」

そこで、錦乃さんは、僕の方を向く。その表情は、なんだか、いろいろな感情が綯い交ぜになったような、そんな表情をしていて、一瞬、怯んでしまった。いろんな絵の具を混ぜていたら、思いもよらない色ができてしまった、みたいな感じだ。

「先輩のそれは、確かに恋愛とかそれ以前の話ですね」

僕はいったい自分が何を言われているのかわからなかったーーいや、わかりたくなかった。

「先輩の言う通り、嫌いな人なんていないに越したことはないんです。でもそれは、理想的ではあっても、現実的ではないでしょう。普通、生活をしていれば、一人や二人と言わず、何人もそういう人ができる筈なんです。できてしまう筈なんです」

自分に向けられた、真っ直ぐに突き刺さるような言葉を、僕は受け止める。今の僕には、それしかできなかった。

「なぜなら、それは相手を人として見ているからです。人が相手なら、好きも嫌いも出てくる。でも先輩は、そうじゃない。他人を、人間とは見ていないから、誰かを嫌いになることも、誰かを好きになることも、できないんですよ。だから、先輩のそれは、それ以前の話なんです」

「……だとしたら、もし、錦乃さんの言うことがそうなのだとしたら」

と、僕は言う。自分が間違ったことを言おうとしているのを知っていながら、言う。正論をぶつけられた、人でなしの僅かながらの抵抗だ。

「人を嫌いにならない僕は、理想なんじゃないですか? 人を嫌いになる代わりに誰かを好きになるのが現実なのだとしたら、誰も好きにならない代わりに誰も嫌いにならないのは、理想なんじゃないですか」

「そうかもしれないです。でも、先輩はそれで辛くないんですか」

「……」

辛くなんて、あるはずがない。

人を嫌いになるのは気分が悪い。人に嫌われるのは胸糞が悪い。だから、誰も踏み込ませない。そして、誰にも踏み込まない。そう決めたんだ。そう決めた筈なのに、この気持ちはなんだろう。どうしてこうも、もやもやと心が濁っているんだろう。

「先輩、私は……私と染井先輩は、先輩の目にどう映っていますか」

「どうって……」

それは……、それには目を向けちゃいけない。認識してはだめだ。一回認識してしまったら、もう後戻りはできない。

「私、ずっと気になっていたんですけど」

やめろ。やめてくれ。それ以上、僕に踏み込まないでくれ。

「先輩はーー」

「やめてください!!」

と、自分でも驚くほどの大声で叫んでいた。

僕は、はっとしていつの間にか下げていた頭を、上げて、二人を見た。

錦乃さんと染井さんは、僕を見つめていた。怒っているーーのではないことは、一目瞭然だった。二人とも優しげな眼差しで僕を見ていた。

そして、

「先輩は、どうしてずっと敬語なんですか?」

と錦乃さんは言った。

「敬語だと、否が応なく溝ができるからですよね? だから後輩の私にもずっと敬語なんですよね」

「私にも、私が三年生だとは知らないのに、敬語だったものね」

くすくす、と染井さんが笑う。

「先輩」

「はい」

「……先輩」

「はい」

「せーんぱい」

「……なに?」

「誰かを嫌いになるかもーーいえ、なると思いますけど、私たちを好きになってくださいよ。私たちと人間関係を築きましょうよ」

「……でも、でもそうなったら、二人を……錦乃さんと染井さんを嫌うことになるかもしれないんですよ。僕はそんなの嫌です」

すると、染井さんが、ふふふとまた笑って、

「きみは理由なく誰かを嫌いになるの? そうじゃないでしょう? 例えば、私たちが嫌われたなら、それだけの理由があるんでしょう。だから、そのときは嫌ってほしいわ。ちゃんと私たちを嫌って、そして、怒ってほしいわ」

だから、と一息吐いて、

「だから、これからは、敬語は禁止よ。もちろん私にも」

と、染井さんは有無を言わさない、だけれど、とても優しい口調で言った。

僕は、「……はい」と言ってから、すぐに「うん」と言い直した。

これから少しの間は、苦労することになるな、そんな風に思った。

誰かに好かれて、誰かに嫌われて。

誰かを嫌いになって、そして、僕は、二人をーー、染井 晴と錦乃 円実という二人の人間を好きになる。

現実から目を逸らすために読んでいた小説も、これからは楽しむために読むことができる。

そう、思った。



三連休最後となる月曜日。

僕は、三日ぶりとなるなないろ宝石店へ足を踏み入れた。

「おはようございます」

「ん、おはよう……うん? なんか面構えが良くなったね」

「そ、そうですか?」

「この三連休に何かあったね?」

うりうりー、と肘で体を突ついてくる色識さん。その表情は、好奇心で恍惚と輝いていた。

学校指定のスクールバッグを裏の従業員室に置いてから、なないろエプロン(紺色)を被って、色識さんにお泊まりパーティの一部始終を話した。

「ーーふうん、いいお友達じゃないか」

「ええ、僕もそう思います」

「いい人間関係はいい人間を作る。逆に言えば、いい人間にはいい人間関係が築けるということだ」

「僕がいい人間みたいに聞こえますね」

「そう言ってるんだよ」

と、色識さんは目を細くして笑った。

ふと、彼女の目の下にくまができているのに気付いた。昨日の夜は、寝不足でもしたのだろうか。しかし、まあ個人的な理由だろうし、敢えて訊くまでもないだろう。

そんな風に思いながら、色識さんと駄弁っていると、「邪魔するぜー」と、乱暴に店舗の扉が開かれた。

乱暴なその物言いと、乱暴な物の扱いからてっきり男だと思っていたのだけれど、入り口に立っていたのは、黒長髪の

女性だった。

「おお!」

と、色識さんは黒長髪の女性に近付いた。

「だん、久しぶりだね」

「相変わらずで嬉しいぜ、七」

だん、と呼ばれた黒長髪の女性は、僕に気付いて、目を見開いたまま、「あん? なんだ、客か?」と、言った。

「紹介するよ。この口の悪くて目つきも悪いのが、家麻いえま だん。私の高校時代からの友人だ。で、こっちがなないろ宝石店唯一のバイトくんだ」

「はあ!? この店にバイトなんていらねえだろ」

確かに。仕事内容といえば、商品とは名ばかりの鉱物たちの世話と店舗の掃除、それと、色識さんと話をする以外にはほとんどないこの店にはアルバイトの存在意義はあまりあるとは言えなかった。

「まあ、わたしのいつもの気まぐれさ」

色識さんの言う通り、気まぐれを起こすのはいつものことだったようで、だんさんは「ふん」と鼻を鳴らして、「お前も七に付き合わされて、苦労するな」と、惚れ惚れするような男勝りな笑顔で言った。

「なんだよ、それ。それじゃあまるでわたしが自分勝手な人間みたいじゃないか」

「全くその通りだろ」

「酷い!」

そんなやり取りを僕が遠巻きに見ていると、突然、

「ごめん、ちょっとこいつと話があるから、店番は頼んだよ」

と、言って、色識さんはふらふら出て行ってしまった。

店番と言われてもなあ。

一人残されて手持ち無沙汰になってしまった僕は、取り敢えず、誰も来ない店内の掃除をすることにした。



僕は朝から気分が落ち込んでいた。いや、落ち込むというより、億劫というか息苦しいというか。ともかく、そんな類の感情を持っていた。

三連休明けとなる今日、初っ端から数学の小テストがあるからーーではもちろんない。

行きたくないと言えば嘘になる。だけれど、顔を合わせづらい。あんな青春も真っ青な青臭いことをやっておきながら、何事も無かったかのように平然としていられる人間はいないだろう。いるのだとしたら、それはたぶん、何か、妖怪か何かの類いだろう。

そんなことを、午前中悶々と考えて、しかし考えるだけで、時間は無情にも過ぎ去っていった。

そして、昼休み。

僕は、油断すると逃げ出そうとする、己のものとは思えない脚を無理矢理に駆動させて、四階階段へと向かった。いつも三人で昼食をとっている小さなスペースに近付くと、聞き覚えのある声が二つ談笑していた。

どうやら二人とも先に着いているらしい。

最初は不鮮明だった声も近付くにつれて、透明度を増す。

「ーー、ーーしても遅いですねえ。もしかして、先輩、逃げたんじゃないですか?」

「うーん、どうかしらね」

と、二人は僕の話をしていた。しかも逃げたと思われていた。そう思っていたのを悟られまいと、遅くならないようにしていたつもりだったのだけれど、それでもまだ遅かったようだ。

しかし、と僕は溜息を吐いた。

(この状況……余計に出づらくなったぞ)

「先輩が意気地なしで甲斐性なしなのは知っていましたけど、まさかまさかあれの後にこうして逃げ出すとは思いませんでしたよ」

「後輩くんが意気地なしで甲斐性なしの根性なしなのはその通りだけれど、未だに来ないのも全くもってその通りなのだけれど、でもまだ逃げたとは限らないじゃない」

酷い言われようだった。

人の陰口はいけないとご両親に教わらなかったのか?

っていうか、あの二人、悪口言ってるとき生き生きとし過ぎじゃないか。

これじゃあ出づらいどころの話じゃない。出られない。

(参ったな……このまま帰ろうか)

そう思ったとき、「でも」と、染井さんが思考を遮った。

「でも、後輩くんは、きっと来るわよ。それまでお昼は食べないで待ってましょう」

「そうですねえ……仕方ありません。お腹ぺこぺこですが、待ちましょう。待ってあげましょう」

そんなことを言われてしまったら帰れなくなる。行くも地獄引くも地獄である。詰みである。チェックメイトである。

「それにしても遅いです」

「そうねえ、遅くなったお詫びに何か温かい飲み物を持ってきてくれたりしないかしら」

「ああ、それいいですね!私はお汁粉が飲みたいです」

「私はやっぱりミルクティーがいいわ」

手前勝手に意見を主張する二人。しかし、しかしだ。これは逆に好機と言えるのではないだろうか。こうなれば仕方がない。ご所望の物を買ってご機嫌を伺うしかないか……そう思って、自動販売機に脚を向けようとしたとき、ふと、思い至った。

この二人、心なしかいつもより声のボリュームが大きい気がするのだ。そう、言うならば、誰かに聞かせているかのような。そんな話し方。もしかして、二人は僕に気付いているんじゃないか。ここに向かっているときだって、別段隠れていたわけではないし、足音やコンビニ袋の擦れる音なんかで気付かれていてもおかしくはない。

「はあ、ミルクティーが飲みたいわ」

じゃあ買いに行けとつっこみたくなる発言だった。

「早くお汁粉先輩来ないですかね」

待っているのは僕なのかお汁粉なのかよくわからなくなる発言だった。

「まあ、いいわ。先に食べちゃいましょ」

「そうですね!いただきまーす」

「結局待ってくれないんですか!?」

と。

僕はつっこみを入れた。入れてしまった。

それに対して、染井さんは特に驚いた様子もなく、「遅いわよ。あと、敬語禁止だって言ったわよね」と言って、錦乃さんは、「お汁粉は?」と、何食わぬ顔で言ってのけた。

「僕のこと、気付いてたんで……、気付いてたんだね」

「途中からね」

「……どのあたりで?」

「私が意気地なしって言ったくらいから」

「初期の初期じゃないーー、か」

「錦乃さんは本当に最初から気付いていたわよ」

「だって、足音聴こえましたから」

ふふん、とやけに得意顔をする錦乃さん。

「だからここに入ってきやすいように叱咤激励してあげたのに」

「いや、逆に入りづらいよ……」

「でしょうね」「ですよね」

と、二人して可笑しそうにくすくすと笑った。

これじゃあ、午前中本気で悩んでいた僕が馬鹿みたいじゃないか。あのまま僕が帰っていたらどうするつもりだったんだ。

「でも来たじゃない」

「それは……まあ」

「なら、結果オーライよ。良ければ全て終わりよ」

「英語の翻訳アプリみたいになってるよ」

「ヨケレバスベテオワリ」

「英語っぽく言っても日本語なんだから駄目」

そんなどうでもいいようなやり取りを染井さんとしていると、「あのう、先輩」と、錦乃さんが僕の袖をちょいちょいと引っ張った。

「うん? どうしまーー、どうしたの?」

袖を掴んだまま、俯いてもじもじする錦乃さん。

「…………ました」

「え? ごめんよく聞こえなかった」

「……おなか、すきました」

そう呟く錦乃さんの背後の床にお弁当が広げられているのが目に入った。

二人で僕のことを待っていてくれたんだもんな。申し訳ない気持ちを抱きつつも、待っていてくれたことを嬉しくも思った。なんだか複雑だ。

「じゃあ、食べようか」

と、僕が言うと、ぱっと笑顔をはじけさせて、「はい!」と言った



こうして、三人で過ごす昼休みも今や当たり前のことのようになってきている。約束をしていなくても、いつの間にか三人揃っていて、談笑しながら昼食を食べる。

僕はこれがずっととは言わなくとも、まだまだ続くものだと思っていた。努力や犠牲とかはこれっぽっちも必要じゃなくて、ただ惰性のようにのろのろと続いていくんだと思っていた。勘違いしていた。とんだ勘違いだ。

僕は忘れてはいけなかったのだ。

こうなった発端を。

どうしてこうなったのかを。

忘れなかったからといって、僕にどうにかできる問題ではないだろう。だけれど、準備はできたはずだ。心の準備は、できたはずなのだ。

だけど、それは突然にやってきて、僕たちの前に立ちはだかった。大きな障害として。そして小さな死として。

この日常に終わりを告げに来たのだ。

僕たちは、日常から非日常へと、勢いよく倒れこんだ。

終わりは全てのものにやってくる。それは変えられない。原因には結果が不可欠だし、結果には原因がつきまとう。



六月中旬。

僕は、夏休み前に控える学期末テストに向けての勉強をしていた。

時刻は午後九時過ぎ。晩御飯を食べ終わって、そこから二時間ほど無休で、勉学に励んでいたのでいい加減喉が渇いてきたころだった。そういえば、小腹もすいてきた気がする。何かつまめるものでもあればいいけれど、と独り言ちながら自室の扉に手を掛けたときだった。

それまでほとんど無音状態だった僕の部屋に何かが鳴くような音が響いた。それ自体は然程大きくはなかったのだけれど、無音状態だったことと、それが聴き慣れないものだった所為で、ぎょっとしてしまった。

音源の方向に目をやると、今まで僕が勉強していた机の上でスマートフォンが振動していた。また錦乃さんだろうか、と半ば決めつけながら近付いてみる。

と。

ディスプレイに表示されていたのは錦乃さんではなく、これまた見慣れない数列だった。それはつまり、今、僕のスマートフォンを鳴らしている人物とは、僕はアドレスも電話番号も交換していないということである。

これが噂に聞く悪戯電話というやつか。

今までほとんどスマートフォンとしての機能を活用していなかったからか、そういった被害には遭ったことがなかったのだけれど、知識としては知っていたので、それが功を奏した。

こういうのは無視をするのが一番らしい。それをそのまま鵜呑みにして、僕は呼び出しが切れて静かになったスマートフォンをまた机の上に放った。

さて、僕は何をしていたんだっけ……ああ、そうだ、飲み物と食べ物を取りに行こうとしてたんだった。

再び自室の扉に手を掛けようとしたーーが、しかしそれは未遂に終わった。またスマートフォンが着信を知らせて振動したのだ。液晶にはさっきと同じ数列が表示されている。

むう、なかなかにしつこい。このまま放置していてエンドレスに鳴らされ続けるのも困りものだ。そもそもとして、最初から悪戯電話だと決めつけてかかっていたけれど、ただの間違い電話だという可能性だって同じくらいにあるのだ。そして、もしそうなのだとしたら、間隔なく電話を鳴らすくらいには、あちらさんは切羽詰まっているのだ。

僕は通話のボタンを押した。

「もしもーー」

『やっと出たな。夜遅くに悪い、私だ、家麻だ』

悪戯電話でも間違い電話でもなかったが、ただ電話の主ーー家麻 だんさんが焦っていたのはさっき想像した通りだった。

『電話番号は七に訊いた。詳しいことは後で話すから今は急いでなないろ宝石店まできてくれ』

口早にまくし立てる家麻さん。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。いったいなんだって言うんですか。何かあったんですか?」

チッと小さく、しかし確実に舌打ちをしてから、『ざくろが消えた』と、短く答えた。

消えた? 消えたってなんだ。

『お前に頼みたいことがあるんだ』

「でも、でもそんなこと言っても、ざくろはほとんど野良猫だったじゃないですか。それなら少しの間帰ってこないくらいーー」

『それでも消えたんだ!』

家麻さんの声が耳をつんざく。しばらくの間沈黙が続いた。僕は自分の耳がさっきので聞こえなくなったんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなく、

『すまん』

と、家麻さんの声が鼓膜を僅かに揺らした。

「いえ……」

「とにかく、店に来てくれ」

そう言い残して、家麻さんは通話を切った。



なないろ宝石店の前に着くと、中から灯りが漏れているのが見えた。そのまま中に入ると、家麻さんが椅子に座っていた。色識さんの姿は見えない。家麻さんは僕に気が付くと、椅子から立ち上がって、「さっきはすまなかった」と言った。

「いえ、気にしないでください」

「短気は損気というからな。自分で戒めてたんだが……まだまだだな」

「色識さんは?」

「七は三時間くらい前に出て行ったっきり戻ってきてねえ。奴にここを任されてる以上、私はここから出るわけにはいかないから捜しにもいけねえ」

なるほど。色識さんは捜索隊、家麻さんは待機して臨機応変に対応できるようにしているのか。ここにざくろが戻ってくる可能性もなくはないのだ。

「じゃあ僕もざくろを捜しに……」

「ちょっと待て、お前を呼んだのは他に頼みてえことがあるからだ」

「他、ですか?」

「ああ」

他にも何か問題があるのだろうか。てっきり僕もざくろを捜しに行くものだとばかり思っていたのだけれど。

「お前にはざくろじゃなくて、七を捜してきてほしい。それで見つけたらここまで連れ帰ってきてくれ」

と言った。無感動に、無容赦に。

「どういう……」

「これは奴の個人的な事情だ。だから深くは聞くな。これから私が言うことが、今、私の言える全てのことだ」

「はあ……」

やけに大袈裟な前振りだ。そう思った。

直後、家麻さんは特に溜めもせず、ただ事実のみを僕に告げた。

「奴は大病してる」

「……え?」

それってどういう意味ですか、と言いかけて口を閉ざした。

言えることはこれで全て、なのだ。

「私は奴と高校の頃から付き合ってる。だから奴の性格も知ってるつもりだ」

そこで、少し間を取った。いや、取らざるを得なかったのだ。家麻さんは、その瞳に、涙を溜めていた。それを零さないように必死に堪えている。

「奴は……七は、絶対に途中で諦めて帰ってくるようなやつじゃねえ。それこそ夜通し走ってざくろを捜す」

「……」

「だから。だから頼む。七を連れて帰ってきてやってくれ。私には七を助けてやれねえ、だけど、お前なら……」

助けてやれる、と確信しているように言った。家麻さんは僕の何にそんなに期待しているのかはわからなかったけれど、しかし、ここでそれを簡単に断ることはできなかった。だから、

「わかりました」とだけ答えた。

「……ああ。七を、頼む」



とは言ったものの、色識さんと外を出歩いたことなどないから、あてはないに等しい。あてもなく当てずっぽうに捜していても、見つけられる可能性は低いだろう。

しかし。

それは色識さんに限った話だ。今、色識さんはざくろを捜して回っているのだ。つまり、ざくろが行きそうなところに色識さんがいるかもしれないということだ。そして、そうなると、僕とざくろには唯一、一箇所だけあてがあった。僕が最初にざくろに会った、学校近くのコンビニエンスストアである。

到着した僕は取り敢えず、店内に入って、ペットボトルのお茶を二本と菓子パンを一つ買った。

腹が減っては戦はできぬと言うからなあ、と独り言ちつつ、以前に座ったところにまた腰を下ろした。

店の前には僕と同じように地べたに座って談笑している中学生くらいの数人の男女がいた。それを横目にパンを開封する。

それにしても、色識さんを助けるなんてやたらと仰々しいことになったものだ。家麻さんに頼まれて、こうして色織さんを捜してはいるものの、僕の意向としては、誰かを助けるなんて大仰なことはなるべく避けていきたい。というか、そんな大層なことを僕に望まれても、正直力不足だろう。手に余りまくるだろう。

人はきっと、自分のことで精一杯なのだ。他人のことを気にかけているだけの容量は持ち合わせていない。少なくとも僕は自分でそうだと思う。己のことでさえ蔑ろにしているのだから、それもやむかたなしではあるのだけれど。

それでも。

できないことなのだとしても、家麻さんがあのとき願っていたのはーー助けたいという気持ちは、本物なのだろう。だからこそ、僕はこうしているのだろう。

風の中には初夏の香りが漂っている。もうすぐ夏がやってくる。去年の今頃と比べると自分を取り巻く環境は劇的に変化した。日常という流れに乗っかっていただけなのだけれど、それでも周りは変わっていた。

友人ができた。次の日を心待ちにできるようになった。他の人から見たらそんな程度と思うかもしれないけど、僕にとっては劇的だった。これ以上ないくらいに、劇的だった。

すると、突然談笑していた男女が騒ついた。

「おい、またあのお姉ちゃん来たぜ」

「ほんとだ」

「なんかキモくない? ていうか、不気味」

と、口々に言っている。

まず、中学生たちの方に目をやる。みな一点を凝視したまま困惑した表情を浮かべていた。

次に、中学生たちが見つめていた方向を見やる。

そこには。

息を切らして、泥と汗で汚れに汚れた白いシャツとデニム姿の女性がーー色識 七さんが立っていた。

「きっと、来ると思っていましたよ」

そう言って、僕は買っておいたペットボトルのお茶を手渡した。

「バイト、くん。どうしてここに?」

「色識さんがここに来た理由と同じですよ。あてを当たっただけです」

「ざくろが……帰ってこないんだよ」

「知ってます。家麻さんから聞きました」

「だから一緒に捜してほしいんだ。行きそうなところは全部捜してーー」

「見つからなかったから心当たりを何周もしている、ですよね」

闇雲に捜すより、心当たりを手当たり次第に捜すほうがいくらか見つけ出せる確率は高そうだ。そう思って、きっとまたここに色識さんはざくろを捜しにくるだろうと、言ってしまえば山を張ったのだけれど、どうやら的中したみたいだ。

「どこを捜してもいない。どこに行っても見つけられないんだ。でも二人なら見つけられるかもしれない」

と、力なく言った。きっと疲れているんだろう。三時間以上も休みなく走り回っていたんだろうから当たり前だ。

でも。

こうして話してみて、確信した。

すみません。家麻さん、僕はやっぱり彼女を助けられそうにありません。でも、それでも必ず連れて帰ります。

僕は意を決して、色識さんがここに来るまでに考えた、考えに考え抜いた末に出した結論を口に出す。

これが終わりの一歩になると確信しながら、声にした。

「一緒には捜しません。一緒に帰るんです」



一瞬、何を言っているんだという顔をしてから、僕を睨みつけた。

「こういうときに冗談を言うなんて不謹慎だよ。さあほら、わたしは向こうを捜すから、きみはーー」

「冗談じゃありませんよ。本気です」

「……そうか、分かった。ならわたし一人で捜す」

そう言って立ち去ろうとする色織さんの肩を掴んでこちらを向かせた。

「そうはいきません。あなたは僕と一緒に帰るんです」

「嫌だ」

「嫌でも帰ってもらいますよ」

「ふざけるな!!」

と、僕の手を勢いよく払い除けて、そして、すごい形相で叫んだ。

「わたしのことなんて何も知らないくせに、分かったような口をきくな!」

「そんなつもりは、ないですけど」

本当にそうだろうか。分かったつもりはもちろんないけれど、しかし、こうして彼女の意思を無視して僕の主張を展開しているのだ。怒るのも無理はないのかもしれない。けれど、ここで退くわけにもいかなかった。

「わたしにとって、ざくろがどんな存在なのかきみに分かるのか!? いや、分からないからそんなことを平然とわたしに向かって言えるんだ」

それは、分かっている。色識さんがどれだけざくろを大切にしているのか、どうやって接しているのかを間近で見てきたのは紛れもなく僕だ。しかし、それは口にはせず、「分かりませんね」と、言った。

「それで、そうだったら何なんですか? 僕が分からなかったら何なんですか」

「分からない奴の余計な口出しは無用だって言ってるんだ」

「はあ」

「ざくろはわたしが飼っていたんだ。わたしの家族なんだ。それを、捜さないで帰るだと? そんなことできるわけがないだろう!?」

「……」

「わたしは自分の意思で決めて動く。わたしはざくろを見つけるまで帰らない。その邪魔を、しないでくれ」

「……なるほど、それなら仕方ないですね。確かにあなたが決めたことなら、僕がとやかく言えるようなことじゃないのかもしれません」

「だったらーー」

「でも、だとしたらですよ? その人の意思を尊重しなければならないと言うんでしたら、尚更色識さんはざくろを捜しちゃあいけないでしょう」

だって、と僕は言う。

なるだけ感情を込めずに。無感動に無感情に無機質に言った。

「あなたの前からいなくなったのだって、ざくろの意思かもしれないじゃないですか」

色識さんが息を呑むのがわかった。目の前にいる女性がみるみるうちに萎んでいくようだった。

「知っているとは思いますけど、猫の習性で、死ぬ直前になると飼い主の目の前から消えるそうですよ。死に際を見せないらしいですよ。もしかしたら今頃もうどこかでーー」

死んでいるんじゃないでしょうか、と言い切る前に僕は頭に衝撃が走って倒れ込んだ。何が起きたのか咄嗟には分からなかったらけれど、目の前に落ちた未開封のペットボトルを見て合点がいった。それが額に直撃したようで、そこから何かが流れ出ているのがわかった。

色識さんは投げた姿勢のまま俯いて動かない。時間が停止したみたいだった。

気付けば、コンビニの前でたむろしていた中学生たちも消えている。

とても静かだ。

ただ、僕は人間関係が崩れる音を聞いた。

「……帰る」

そう言って、色識さんはふらふらと歩き出した。僕はその背中を見つめて、「はい」と、自分にだけ聞こえるように言った。



直接家に帰ったときには、時刻は既に零時を回っていた。

これでよかったのかは分からない。ただ、僕ができることをしただけだ。他に方法は思いつかなかった。

ただ、早く色識さんを帰さなきゃと、それだけだった。

これがエゴなのか。

僕は彼女が諦めてくれて、安心した。

自分の信じていたものを貫いたのだ。結果はどうであれ、人にどう思われているのであれ、それは変わらないのだから、もっと気分は晴れやかでもいいんじゃないのか。そんな考えとは裏腹に、沈み込み、沈んでいった。

善人になりたかったわけじゃない。

善いことがしたかったわけでも、ない。

じゃあどうなりたかったのか。

何がしたかったのか。

もう自分でも分からなくなっていた。

ただ一つ言えることは、もう色識さんと会うことはないだろうということ。

辞表は既になないろ宝石店のポストに投函してある。本当なら直接渡すべきなのだろうけれど、とてもではないけれど、そんな気分にはなれなかった。

きっとこの暗く湿めついた気持ちも時間が解決してくれる。僕はいつだってそうだった。そうやって乗り越えてきた。変わらないーーいや、変われないのなら今回もそれで終わる。全てをなかったことにして、受け入れて、諦めよう。

そう、思って目を閉じた。

意識が闇に溶け、心は暗く砕けた。



次の日、目が覚めて、全く休まっていない身体を無理やりに引き起こした。頭部には鈍い痛みが燻っている。

支度をしようと立ち上がろうとして、今朝、学校に電話を入れて休んだことを思い出した。

時計を見ると、時刻は午後三時過ぎ。 通してではないけれど、約半日ほど寝てしまっていたようだ。その割には、気力も体力もほとんど昨日と変わらないまま並行線を辿っている。

昨日のことが脳内で繰り返し再生されて、気分は最悪である。色識さんの表情、声音、言葉全てが際限なく再現される。なんとか気分を変えようといろいろ試してみたけれど、どれも効果はなかった。

小一時間ほど試行錯誤していると、スマートフォンが振動した。今回は昨日のとは違って一度振動したきり動かない。どうやら、電話ではなくメールを受信したようだった。

液晶を見ると、『錦乃さん』と表示されていた。

メールには『お休み中すみません。今何してますか?』と件名は無く、本文だけが書かれている。

僕は、『特になにも』とだけ打って返信する。

数十秒後、『電話してもいいですか』と返ってきた。了承の返信をすると、すぐに着信があった。

「もしもし」

『あ、先輩。具合はどうですか?』

「たいしたことないから大丈夫だよ」

『そうですか。それならよかったです』

なんとなく、元気がないように思う。他ならぬ自分自身沈んでいるからそう思うのか。

「電話してくるなんて珍しいね。何かあった? ていうか、学校は?」

『学校は今終わったところです』

「ああ、もうそんな時間なんだ」

起きた時間が遅かったからか、時間感覚が狂っているみたいだ。どうにかしないと明日が辛いな。

「それで、どうしたの」

『……染井先輩のことなんですけど』

と、言いづらそうに言葉を紡ぐ。

「喧嘩でもした?」

僕は昨日のことを思い出しながら言った。いや、でもあれは喧嘩じゃあないんだけど。

『いえ、染井先輩とは今日も二人で楽しく、それは楽しくお昼を食べましたよ』

「へえ。楽しそうで何よりだね」

『そう、なんですけど……』

「うん? どことなく不満そうだけど」

『不満っていうか、不問な感じなんですよね』

「なにそれ。ごめん、話が見えないんだけど」

『例えばですね』

と、やはり本題とは違う話をし始めた。

『例えば、トキワの森に野生のバタフリーが出たとしますね?』

「え、なに、ポケモン? しかも初期の?」

『金銀版でもいいですけど』

「あんまり変わらないね……」

『とにかく。そんな序盤にバタフリーが出てきたら是が非でも捕まえようとしますよね。でも、あやつはどくのこなとか使ってくるわけですよ』

「ああ、うん」

どくのこなとか懐かしい。

『で、捕まえようとすればやっぱりどく状態にされてしまうわけですね。それなら先輩はどうしますか?』

「もちろん捕まえられるまで粘るかな。ポケモンセンターあるし」

『ゲームならそうでしょうね』

「これ、ゲームの話じゃないの」

『例えばの話ですって。これが仮に現実だとしたら、あんな奇跡量産施設なんてありえません。どくになればそれ相応の経験と対処をしなければなりません』

「うん……うん? つまり、どくになったらどうすればいいのかってこと?」

『ではなくて、ですね。どくの経験をするリスクとバタフリーを捕まえられるリターンどちらを取るかという話です。どく、と一言に言ってもいろいろありますよね』

「うん」

『対処もなにも、致死率百パーセントのどくなら即死でしょうし、後々に障害が残ってしまう可能性もあります』

「生々しい話だね」

『現実と仮定してますからね』

「なるほど。錦乃さんが言いたいことはなんとなく分かったけれど、それで、これが染井さんとどう繋がるの?」

『私はーー』

と。

電話の向こう側で彼女が何かを言いかけて、それを飲み込んだのが分かった。

『染井先輩がクラスメイトに虐められているのは、知っていましたか?』

今度は僕が言葉に詰まる番だった。

人の口に戸は立てられないとは言うけど、そしてこうなることを懸念はしていたけれど、しかし実際そうなってしまうと、なかなかどうして対応に困る。

僕は逡巡してから、「うん、知ってたよ」と答えた。

『私は今日、クラスメイトに聞きました』

「うん」

『一緒にいると私まで虐められるよって言われました』

「……うん」

それは、染井さん自身言っていたことだ。関わりを持つと、同じように虐められる。事実として、そういう話はよくあることなんだろう。常識と言っていいかもしれない。

『……私は、どうしたらいいんですか』

「どうって、錦乃さんがしたいようにすればいいよ」

『分からないんです。染井先輩はいい人です。大切な友達です……、でも、先輩たちは先に卒業しちゃうじゃないですか。今は三人でやれればいいと思いますけど、ずっとそうなわけじゃないんですよ。私が一人残されたときに独りぼっちなのは、嫌なんです』

ああ。

だから、どくのこな、なのか。

三人でいられれば、僕と先輩は卒業するまで、一人になることはないだろう。でも、錦乃さんは僕と先輩が卒業していなくなってしまえば、孤立してしまうーーどく状態になってしまう。だから迷ってしまうのだ。

僕はもとより、孤立していたからそれに気付かなかったーーいや、知らなかっただけか。

友達のいる場所を知ってしまった今なら、孤独の味もよく分かる。だから、僕は、

「僕はーー」



次の日の昼休み、僕はいつものように四階階段で昼食をとった。

染井さんと錦乃さんは、来なかった。

僕はまた独りになった。



また孤独なランチをすることになってから三日が経った。

染井さんが来なくなった理由は分からない。

何か用事があったのかもしれないし、他に理由があったのかもしれない。

電話もメールも通じなかった。直接会いに行ってみようかとも思ったのだけれど、まず、クラスを知らなかったのと、クラスメイトに虐められているのだから、わざわざ敵地とも言える場所に突っ込んでいくのはどうかと思ってやめた。

そんな折、染井さんからメールが届いた。

『放課後、三年D組に来て』

とだけ書いてあって、すぐに返信はしたのだけど、その後返ってくることはなかった。

微妙な違和感を察しつつも、特に断る理由もなかったので、言われた通りに放課後、三年D組へと向かった。

この学校は学年ごとに階層が分けられている。

一階から一年生と上がっていき、四階は特別教室となっている。

自分の学年以外の階に降り立つことはほぼない。三階に来るのは初めてだったけれど、教室の配置は学年共通らしく、目当ての三年D組はすぐに見つけられた。

中に人がいる様子はなかったーーのだが、教室から机か椅子が倒れるけたたましい音が響いた。

横開きの扉を開くと中には、予想に反して複数人いた。その内の一人は床に倒れ込んでいて、近くに椅子が一つ転がっている。

全員の視線を浴びているのを感じながら、倒れ込む人に駆け寄った。

「大丈夫ですか」

「後輩くん……どうしてここに?」

「どうしてって、染井さんがーー」

「やっと到着か!待ちくたびれたぜ、後輩くん」

と、僕の言葉を遮って、金髪のいかにも不良っぽい男が言った。

金髪の男は、右手を挙げてこちらに何かを振っていて、それには見覚えがあった。

「それ、染井さんのスマートフォンじゃないですか」

「うん? ああ、そうだけど」

「そうだけどじゃなくて、返してあげてくださいよ」

「なに俺に指図するの? それは駄目でしょ、後輩なんだからさ。弁えようぜ」

「これって、先輩後輩の話じゃないでしょう。ていうか、僕のことを後輩後輩言いますけど、あなたの後輩になった憶えはありませんよ。ほんの少し先に産まれたからって、先輩面するのはやめてください」

「お前さ……むかつく奴だって言われねえ?」

よく言われますよ、と僕が放つ前に金髪の男が蹴りを浴びせてきた。それが腹部に入って身体が吹っ飛んだ。

「後輩くん!」

と、染井さんが叫んでいるのが聞こえた。

遠退いていきそうな意識を無理矢理捕まえて、呼吸を整える。まだ立ち上がれそうにはない。

「……暴力行為で停学ですよ」

「バレたらの話な」

「バレなきゃいいと思ってる辺り、やっぱりガキですね」

ここ数日で痛い目に遭ってばっかりだ。日頃の行いが悪いからだろうか。

周りで見てる数人ーー四人は今はまだ見ているだけだけれど、ずっとそうだとは限らない。全員が襲いかかってくるようなことになったら、染井さんだけでも逃してやらないと。

取り囲むようにしている内の一人が金髪の男に、「タクト、こいつにいいこと教えてやれよ」と言った。

金髪の男ーータクトは、そうだなと言って嫌な、性格の悪さが滲み出たかのような醜悪な笑みを浮かべる。

「なあ、お前さ。こいつと昼飯食ってるだろ」

「やめてよ、言わないで!」

「染井ぃ、本当のこと教えてやれよ。後輩くんが可哀想だぜ」

「本当、のこと?」

「こいつはな、今までずっと俺らの言いなりだったんだ。何をやっても何も言わねえ、人形みてえな奴だ。いつも無表情でよ、何考えてんのか分かったもんじゃねえしな」

周囲にいる奴らの嘲笑が、妙に耳障りだった。

「でも、三年になってからいきなり、俺らに逆らうようになったんだ。昼飯をお前と食べたいからって抵抗するようになっちまった。それでーー」

「それ以上言わないで!」

「ぎゃははは、本当お前はおめでたい奴だよな。ここでこれを言わなかったからって、後輩くんとの関係がまだ続くと思ってんのか? 続けられると思ってんのか? 笑わせんな!お前のせいでこうなってるんだぜ。まともな思考回路してたらお前とは縁切りだな。なあ、後輩くん」

「……僕は、こんなことで離れたりしませんよ」

「はっ、お前もおめでたい奴かよ。そうそう、抵抗するようになったこいつがどうなったと思う? これまで以上に虐められたんだよ。お前と昼飯を食う為にな!あははは、笑える!こうなったのもお前の所為なんだよ。噂が一気に広がったのも、全部お前の所為だよ、後輩くん」

「……」

染井さんは、虐めがなくなったとは一言も言っていなかった。でもどんどん明るくなっていってたし、そんな素振りを少しも見せなかったから、錯覚してた。何事もなく一日が終わっているものだと、思い込んでいたんだ。

「ねえねえ、染井の虐めに加担した気分はどう? お前の大切なお友達が自分の所為で傷付いてたなんて知ってどうなの?」

「……」

「おい、訊いてんだろ、答えろよ」

「うっせえ殺すぞ」

「はは、言うねえ……二年生がなめんなよ!」

タクトの怒声を皮切りに、取り囲んでいた四人が一斉に襲いかかってきた。



最初の一撃で床に倒れ込んで、その後どうなったのか分からない。

気が付いたら、染井さんが僕を覗き込んでいて、涙が僕の額にいくつも落ちていた。

「……っ」

言葉を発しようと口を動かすけど、上手く音にならず、代わりに痛みと鉄の味が口の中を伝わった。

「ごめんね……ごめんなさい」

と、繰り返し繰り返し謝る染井さんの表情は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「あ、謝らないでよ」

「こんなことになるなんて思わなくて」

「前に話した、虐められっ子コンビ結成だね」

そう言った僕に、染井さんは力なく笑って、そして、首を横に数回振った。

「ううん、それはないわ」

「え、ど、どうして」

理由は分かっていた。一目瞭然だった。けれど、訊かざるを得なかったのだ。認めたくなかった。

「私、もう四階階段には行かないもの。後輩くんとも……もう会わない」

「ちょっと待ってよ。僕は気にしてないから、こんなの気にならないから」

「ごめんなさい、でも私が気にするのよ。きみが殴られているのを見るのはもう嫌なの」

「僕のーー」

僕の意思は無視なの、と言おうとして口を噤んだ。

これはこの間、色識さんに僕がやったことだった。今更、僕がどうこう言える話じゃない。もう、何も言うことはできない。

それでも、

「……そんなの嫌だよ」

とだけ、か細い声で言った。

すると。染井さんはまた、今にも壊れてしまいそうな笑みを浮かべて、そして、泣いた。

「……今まで、本当にありがとう。普通の高校生とは違うけれど、それでも、楽しい時間がーー楽しい日がこんな私でも過ごせるのかもって思わせてくれた。きみのおかげね」

「過ごせるよ……過ごせてたじゃん」

「きみがあの階段でパンをくれたとき、高校に入って初めて人と触れ合えた気がしたわ。ずっと、私を虐める人かそれを見ているだけの人しかいなかったから……。だから虐めが酷くなったことは後悔してない。けれど、きみがこうなってしまったことには後悔しかないわ」

「僕は、僕はそんないい人間じゃないですよ」

「いい人間かどうかなんて私にはわからないけれど、私にとってきみはいい友達だった」

と、染井さんは過去形で言い放った。

「この高校できみに会えて本当に良かった。きみみたいな人間がいることを知ることができて本当に良かった。これなら、生きているのも悪くないと思えるわ」

校舎にチャイムが鳴った。午後五時を回ったらしい。ということは、部活が終わって、この教室にも人が来るかもしれない。長居はできない。

「そういえば、私、きみの名前、知らないんだけれど」

と、ふと思い出したように言う染井さん。でもきっとずっと気になっていたんだろう。

「……零秋(れいしゅう)。素達(すだ)零秋です」

「素達 零秋くんか……いい名前ね」

うふふ、と笑って、そして、

「初めまして、零秋くん……今までありがとう、さようなら」

と言った。

僕はまた、立ち去るその背中を見つめることしかできなかった。



翌日。

顔の傷のことは、階段から落ちたことにして誤魔化した。漫画から引用させてもらった、なんていうか古臭い言い訳だけど、家族も担任も深くは訊いてこなかった。

昼休みになると、いつものように、いつも通りに四階階段に向かった。

もうすぐ学期末テストがあるので、テスト勉強をしなければならないのだけれど、頭の中に入っていかない。

無事、テストが終われば、その後夏休みとなる。

昼御飯の菓子パンを片手に、もう片方の手で小説を持った。パンを一口咀嚼すると、口の中の傷が一斉に騒ぎ出した。そういえば、あの後、家族が心配して、病院に行った。幸い大きな怪我はないとのことだったけど、身体中の痛みは酷いものだった。

また独りか、と余った二つの座布団を見ながら誰ともなしに音を放った。無駄に広くなったこのスペースもここぞとばかりに孤独を強調してくる。

感情に押し潰されそうになる。

こうするしかなった、これしかなかったんだ、と思うのに、どうしてこんなに痛いんだろう。どうして僕はこんなに泣いているんだろう。

色識さんは病気だった。どんなものかは知らないけれど、でも大病と言っていた。

でも、色識さんはざくろを捜すのを諦めなかっただろう。だから誰かが諦めさせるしかなかった、やめさせる役割を誰かが演じなければならなかった。たまたまそれが僕だっただけの話だ。

錦乃さんは怖がっていた。それに近々僕たちにも虐めが到達するのは、錦乃さんが噂を耳にしたことで明白だった。だから僕は彼女を遠ざけた。こんな損な役回りは僕だけで十分だったから。錦乃さんは僕や染井さんとは違う。普通じゃない高校生活で満足しなきゃいけないような人じゃない。彼女は真っ直ぐで率直な普通の女子高校生だ。だから、僕が引き受けただけ。

染井さんは、自分の意思でこうした。本当なら止めたかった。離れて欲しくなかった。でも僕は色識さんとのことで自分がしたことの意味がわからなくなっていた。

自分を主張する意味を。

相手の意思を捻じ伏せる正しさもわからなくなっていたのだ。

だから、そのまま見ているだけしかできなかった。

何が正しくて、何が間違っていて、何をするべきで、何をしないべきなのか。

そんな釈然としない感情が胸に広がっていくのを感じつつ、僕は、泣きながらパンを齧った。



その日、自宅に帰ると、家の前に人が立っていた。その人物は、僕に気が付くと、近付いてきた。

「おい、何だその面は」

と、家麻さんは言った。

そんな変な表情をしていたのかと思ったけど、そうではなかったらしく、「痛そうだな、傷」と顔を歪ませた。

「階段から落ちました」

「おいおい、おちょくってんのか? 人に殴られた傷とそうじゃないものの区別くらい誰だってできる」

「……そうなんですか」

知らなかった。今まで人に殴られた経験がなかったから知る由もないのだけど。

「この間のことを謝ろうと思って来たんだが……何があった?」

本当なら話さなくてもよかった。

それでも話してしまったのは、自分一人で抱えるのが限界だったからかもしれない。辛くて吐き出したかったのかもしれない。

一部始終を聞いた家麻さんは、ただ一言、「お前は本当に不器用なやつだな」とだけ言った。

「器用とか不器用とかそんな話じゃないでしょう、これって」

「いや、そういう話だって。生きるのなんてそれに尽きるぜ」

「僕はやるべきことはやりました。この間の色識さんのことも、今回の錦乃さんや染井さんのことも」

「まあ目的は達したかもしれねえけどよ、ならなんでお前はそんなに苦しんでんだよ」

「それは……」

なんでだろう。確かにそれはこの間から思っていることだった。

「分かんねえだろ。だからお前は不器用なやつだってんだよ」

「分かりませんよ、そんなの」

「いいか? 一つだけいいことを教えてやる」

そう言って、家麻さんは片目を瞑った。

「なんですか、それ?」

「見りゃ分かんだろ。ウィンクしてんだ」

「それじゃあ片目を撃たれた軍人の真似ですよ」

「まあ似たようなもんだ」

「全然違いますけどね」

「とにかくだ。七はお前のことを、こう言ってた。昔の自分に似ている、ってな」

「僕が、色識さんに?」

どこが似ているというのか。違うところだらけじゃないか。

「私もそう思ったんだ。そうしたら、似ているよ、ただ一個だけ違うのは彼には素直さが足りないって」

「どういうことですか」

「あ? まだわかんねえのか?」

「すみません」

「お前は自分から不幸になりにいってるってんだよ。どうしてお前のやり方は、必ず誰かが傷つかないといけないようになってんだ? それで、どうしていつもお前がそれを引き受けなきゃならねえ」

「……」

「誰だって不幸は嫌だろ。痛いのだって嫌だ。だったら不幸になるやつがいなくなるように、みんなが幸せになれるようにすればいいじゃねえか」

「そんな簡単には、いきませんよ」

「だから言ってんだろ。それが簡単じゃねえのは、お前に素直さが足りねえからなんだよ」

「素直さって……、僕は素直にやってますよ!それでこの結果なんですよ」

「ああ? お前は不器用な上に鈍感でその上、馬鹿野郎なのか?」

酷い言われようだ。

「お前の、自分の気持ちを素直に相手に伝えてみろ。それだけで突破口が開けたりするもんだぜ」

「だからそんな簡単にはいきませんって」

すると、家麻さんは、チッと舌打ちをして、

「そうやって、いつもいつも逃げてんじゃねえ!失いたくねえんだろう? 一緒にいるのが楽しかったんだろ? なら、護る努力をしろ! 無理矢理あるもので満足しようとすんな! お前はそんなので満足したくないんだろうが! みっともなく足掻けよ、見てられねえくらいに悪足掻けよ! 何かっこつけて諦めてんだよ!かっこ悪いぞお前、今頃めそめそ泣くくらいなら、最初っから言え!」

と、叫んだ。正真正銘、僕に向けての叱咤だった。

失いたくない。手を離したくない。そう思っていても、それを誰かに打ち明けたことはなかった。仕方ないことだと思った。

だったら僕のその気持ちは誰かに伝わっていたのだろうか。

心の底から思ったその気持ちはいったいどこへ消えてしまったのだろう。このままじゃなかったことになってしまう。

それは嫌だ。死ぬほど嫌だった。

ああ、そうか。今、分かった。

この気持ちは、このもやもやして茫洋としていて、重さで自分が潰れてしまいそうで、気を緩めれば泣いてしまいそうな、耐えられないくらいのこの気持ちは、僕がなりたかった自分の、叫び声だった。

「家麻さん、ありがとうございます。僕、色識さんに会ってきます。会ってちゃんと、話がしたい」

「そうか」

と、出会ったときと同じように、くははと豪快に、惚れてしまうくらいに豪快に笑った。

「酷え面だけど、いい面してるぜ」

「ありがとうございます、行ってきます。あの、あとで、また話聞いてもらってもいいですか」

「ああ、いいぜ。いつでも来いよ。待っててやるよ」

帰る場所があるのはいいものだと、あの日色識さんは言った。僕はその時はその言葉の意味をちゃんと理解していなかったけれど、今なら分かる。

帰って来れる場所があって、帰りを待ってくれている人がいる。

それだけで、僕は、何でもできる気がした。

もう一度家麻さんに礼を行って、なないろ宝石店へ向かおうとすると、「あ、やべえ。忘れてた」と言って封筒を一枚差し出した。

「なんですか、これ」

「七からお前に手紙だ。あいつはーー七はもうここにはいない」



まず、この間のことを謝らせてください。

酷いことを言って、物を投げつけたりしてしまって、本当にごめんなさい。こんな形で謝ることになっちゃって、それもごめんね。

だけどね、正直なところ、わたしは本気できみに怒ってたよ。そんなことを言うような人じゃないと思っていたから、言われた時は本当にショックだった。どうしてって思った。でも、だんから話を聞いて納得した。

病気のわたしを心配して迎えに来てくれたこと。でもどうやったらいいのか分からなかったこと。全部分かった。

きみらしいと言えばきみらしいんだけどね。けど、そんなやり方はよくないよ。誰かを助けるために自分を傷つけるなんてしちゃいけないよ。きみが助けたい誰かだって、きみを助けたいって思ってるんだから。きみが泣くのを見て泣いてる人がいることに気付いてほしい。

だんは、わたしときみが似ているから、すんなり事が進むと思っていたみたい。悪気があったわけじゃないから怒らないであげてね。ああ、でもだんならきっと自分で言うかな。

うん。わたしときみは似てるよ。ほんとそっくりでびっくりしちゃうくらい。最初にきみと会ったあの日から思ってた。ラブラドライトを最初に選ぶところとかね。わたしもそうだったからなんか笑っちゃった。石がねーーあの子たちがきみを見て、騒ぎ出したの。黄色い歓声ってやつ。きみにはきっと聴こえてなかっただろうけど。あんなに石に好かれる人って見た事なかったから驚いたよ。それで、わたし思ったの。

わたしが死んだらこの人にこの子たちを任せようって。

あの時にはもう自分がもうすぐ死ぬって知ってたから、あの子たちを残してはいけないと思って、露店を開いてたんだけど思わぬ収穫って感じだった。

それで、バイトが必要ないうちの店にきみを呼んだの。もちろん、きみが嫌だって言ったらそれまでで諦めるつもりだったから安心してね。これを読んだ後でもやめていいから、その時はだんに言っていろいろやってもらってほしいな。話はしてあるからさ。

辞表は保留にしておくから、よく考えて答えをだして。


中から僕の辞表が出てきた。

○  


次の日。

僕は京都市に来ていた。

一介の高校生である僕には当然のことながら、思い立ったらすぐに京都に来れるだけの資金力はない。ならどうやってここまで来たのかというと、家麻さんが旅費を出してくれたのだった。先日のお詫びだ、とやたら不機嫌そうに言っていたけれど、あれはきっと彼女なりの照れ隠しだったのだろう。

京都は盆地ということもあってか、まだ六月だというのに気温は三十度を軽く超えるらしい。同じ日本列島なのに違う国みたいだった。中学校の修学旅行以来となるこの地ではあるのだけれど、正直、ほとんど記憶に残っていない。あのときはどこを見て回ったんだっけ、と疑問に思いながら市内を目的地に向かって歩いた。平日の昼間だからか、比較的歩き易い。少なくとも東京のあの無駄な雑踏よりは快適だった。

すると、胸ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。錦乃さんから着信だった。

「はい、もしもし」

『先輩大丈夫ですか!?』

と、電話に出るなり、向こう側で叫んでくる。

「何が?」

『この間、先輩ボコボコにされたって聞いて、それで会いに行ったら今日は学校休んでるし……』

ボコボコって、と心の中で苦笑して、「うんまあ、たいしたことないよ」と言った。

『心配させないでくださいよ』

「うん。ごめん」

『……あの、先輩がやられちゃったのってもしかして染井先輩絡みですか?』

「……」

『やっぱり』

「でも染井さんが悪いわけじゃないからね」

『そうですけど、だからって先輩がやられていい理由にはならないじゃないですか。やっぱり先輩がやられちゃうのは嫌です』

「じゃあ染井さんを見捨てるの?」

『それは……、ずるい質問です』

「あははは、ごめん。うん。でももう大丈夫だよ。今度からはみんな傷付かないようにするからさ」

『へえ。どうしたんですか。なんかあったんですか。本当に先輩ですか?』

割と真面目に疑っているようだった。

「心境の変化っていうか、キャラ変更っていうか。まあ、とにかくいろいろあったんだよ。あとで話すけども」

『ふうん? それはとてもいいことではありますね』

「うん。僕もそう思う」

少し気恥ずかしかったけれど、肯定しておく。

そうだ。僕はもう自分の気持ちを声にするって決めたんだった。伝えるんだと。

「錦乃さん、ありがとう」

『はい? なにがです?』

「いろいろだよ。こうやって心配して電話してくれたりさ」

『デレてるんですか』

「どうかな」

これで少しは僕の本心が伝わっただろうか。僕の全てを伝えることはきっとできないけれど、それでも、ほんの少しだったとしても、彼女の中に残ってくれればいいと、そう思った。

『ところで先輩。今どこにいるんです? 室内ではないようですけど』

「ああ、今ちょっと出てて……、あれ、なんでわかったの?」

「そんなの決まってます。今、先輩のお部屋にいるからに決まってるじゃないですか」

と、事も無げに言う錦乃さん。

『ちょっと本気にしないでくださいよ。冗談です』

「怖いよ。笑えないよ」

『車の音とか人の話し声とか聞こえますからね。それくらいわかります』

なるほど、そういうことか。

「うん、野暮用で京都まで来ててーー」

『京都!? 京都って、あの京都ですか? 京の都ですか?』

思いも寄らぬ食いつきようだった。

「そうだけど」

何かまずかっただろうか。やっぱり出るときに話しておくべきだったか。でも別に言うほどのことじゃないと思ったんだけれどなあ。

錦乃さんは少し間を置いて、

『お土産は生八つ橋でお願いしますね』

と、言った。



僕は、錦乃さんに頼まれたお土産を買ってから、目的地に向かう。買い物をしたところからそう遠くないらしいので、歩いて行くことにした。

十五分ほど歩くと、目的の建物が目に入ってくる。両手にたくさんの紙袋を持ちつつ、部屋の番号を訊き、向かった。

横開きの扉を二回ノックすると、中から「はーい」と聞こえたので、何も言わずに入る。

病院のベッドの上には、やつれてしまった目を丸くした色識さんが上体だけ起こした姿勢のままこちらを見つめている。目の下にはやはりくまがあった。

「どうして……」

「どうしてもこうしてもないですよ」

「……学校は?」

「休みました」

「その顔は? どうしたの」

「ちょっとしたトラブルがありまして」

「何をしに来たの? わたしはもうきみとは会うつもりがなかったんだけど」

「謝りたくて」

「……」

「僕が間違ってました。もっとやり方があったのにそうしなかった。あのときはあれが最善だと、そう思ったんですけど、でも、違ってました。すみませんでした」

僕は頭を下げた。そのまま長い間沈黙が続いて、それから色識さんは、「うん」と言った。

「顔を上げてこっちを向いて」

「嫌です」

「なんで?」

「泣いているところを見せたく、ないからです」

「なんで、いいじゃない。男の涙は好物よ、わたし」

と、くすくす笑う。思っていたよりも元気そうで安心した。

「それでも嫌なんです」

「みんな、涙はみっともない、流しちゃいけないんだって言うけど、わたしはそうは思わないな」

「……」

「涙は感情が形になったものなんだから、泣きたいときは泣けばいいと思うし、涙が出そうなら出してやればいいじゃない。そうでなきゃ人間に生まれてきた意味がないと思わない?」

「……感情のある宇宙人だっているかもしれないじゃないですか」

「それでもよ。それでも、人間に生まれなきゃ会えなかった人がいるんだから。だんやざくろや、きみとかね。会いに来るだけで何億光年も掛かってたら待ち草臥れちゃうもの」

僕は仕方なく、顔を上げて色識さんを見た。きっと酷い顔になっているに違いない。対して、色識さんは、喜怒哀楽が綯い交ぜになったかのような表情をしていた。

「酷い顔」

「……でしょうね」

「おいで」

と、色識さんは、両手を広げた。

僕は、迷わず、手に持っていた手提げ袋を放って、その腕の中へ飛び込んだ。子供のように飛び込んで、我慢することなく涙を思い切り出して泣いた。

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