四角いボトルのなかにいる。嫁いだ先はうおのまち。震えるその予感のひと粒。

 こじんまりとした銭湯を思わせる内装だった。青色のタイルの床に、白モルタルの壁。天井は三メートルくらいあって、換気扇のフチは黒ずんでいて、真っ白い湯気がいっぱいだった。

 四角いボトルのなかにいるような感じがした。


 浴槽は二人で入っても余裕がある。洗い場も複数あるし、自分のがあるので使わなかったけどシャンプーとボディソープも備え付けられている。


 脱衣所は細く急な階段の先にある。階段下の物置部屋のような窮屈さが、秘密基地っぽくて落ち着く。柱には紐で入切する扇風機が付いていた。



 風呂から上がって部屋へ戻るとき、ちょうど女将とすれ違った。女将はにこやかな笑みを浮かべて会釈した。


「湯加減どうでしたか?」

「あ、ええ、とてもよかったです」

 そう答えた。


 たぶん、お風呂が気持ちよかったからだと思う。秘密基地っぽい脱衣所で興奮していたのもあるだろう。

「この旅館っていつごろできたんですか?」

 わたしらしくもなく、女将に尋ねていた。


「いたるとこボロが出ておりまして、申し訳ございません」

「あ、いえ、そういうことじゃないんです。素敵なところで……。お風呂もよかったですし、あの、秘密基地みたいで、ドキドキしちゃいました!」


 心の思うまま褒めたつもりなんだけど、口にするとバカにしてるようにしか聞こえなかった。

 わたしの後悔とは違って、女将はあらあら、と目を細めてありがとうございます、と頭を下げる。


「金港館ができてもう何年なんでしょう。私が嫁いだのは……」

 女将は計算を始めた。

「かれこれ六十年ですか。その頃からもうここはありましたが、私が嫁いだのとほとんど同じころだったかと思います。そのあと二度増築しまして」


「増築ですか」

「ええ、玄関と稽古部屋……大昔、日本舞踊の稽古をしておりまして、奥の間です。旦那がわざわざ造ってね。今はもうやっておりませんが。むかーしからあるのは、ちょうどお客様のお部屋あたりでして。だから、そこだけ漏りがひどいんです」


 女将は困ったような笑みを浮かべた。秘密基地のような気がしたのは、増築して入り組んだ内装になっているからなのだろう。


 十五年前にここを訪れていたら。大人の目を盗んで、旅館中を探検していたかもしれない。



 部屋に戻ると布団が敷かれていた。壁際に寄せられた卓で三ツ葉は書きものをしている。座椅子にもたれかかり、背伸びしたところで目が合った。


「依利江、おかえり」

 頭をのけぞらせたままの体勢でいた。おでこが丸見えだった。


「ただいま」

「どうだった、お風呂」

「最高だった」

「最高とは」

「うん、もっと小さい頃に来ればよかったって思った」


 三ツ葉は口をぽっかり開け、呆けた顔で見つめる。

 すっくと立ち上がると、風呂仕度を始めた。


「なんか、わかりづらいなあ」

「ウソだあ。これすっごい的確なレビューだよ!」

「依利江はレビューがなんたるものか、知らないんじゃない? 私がしたほうが絶対伝わるね」


 むむ、なんか不本意な返り討ちに遭った気がする。子供心に還るこの気持ち、誰もが共感すると思うんだけど。


 三ツ葉は浴室へ行ってしまった。特にすることもなく、掛布団の上から寝転がる。薄くて硬い心地がした。その感触にふふっと笑みがこぼれた。


 それから三ツ葉の体温の残る座椅子に座り、何番煎じかの茶を一杯飲んだ。


 ぱつ。


 視界の上方から下方へ、なんかが通り抜けた。

 卓の隅に小指の爪ほどの雫が落ちていた。またもほほえみが宿る。


 ご飯と風呂の前にこの雫を目撃してたら、きっと嫌気がさしていたと思う。小さな雨粒にすらときめきを覚えるほど、このまちで起こる出会いの予感に心震えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る