低血圧モーニング。朝焼けはわたしと語る。帆布に沁み込ませて。
あの日迎えた朝はどんなものだったんだろう。
それは素朴な疑問だった。わたしは陽が落ちることの失望を知っていた。けれども明けたときの心地は知らない。そもそも、もう何年も日の出というものを見ていなかった。
きっと、眠りは浅かったと思う。脚のむくみは筋肉痛に変わっていた。節々がぎしぎし痛い。
外はまだ暗い。四時半だった。
もう一眠りしようとしたとき、窓からウミネコの鳴声が聞こえた。
変な声を出しながら、這いずるように身を起こす。腰と首が痛む。これは全身がやられてしまったらしい。目をこすり、鳴声のするほうを向いた。
藍色の空に、藤色の海がある。地平がなんとなく白んでいる。そこでやっとわたしの頭は動き出した。もう一度時刻を見る。四時三三分。
日の出まで、まだ時間がある。
「三ツ葉、三ツ葉」
掛け布団を取ると、三ツ葉は妙な体制で眠っていた。背中を丸め、手首足首をそれぞれ交差させ、唸り声を上げていた。無理に起こしてしまったのかもしれない。
「お風呂、行く? 日の出見られるかもよ」
「んん」
顔にシワを寄せ、三ツ葉はうずくまった。掛け布団を奪い取ると、お腹に抱えてさらに丸まる。
「朝、弱いね」
寝癖だらけの髪の毛を軽く撫でた。バスグッズを持って三度目の大浴場へ向かった。
露天風呂は、再び貸切状態だった。
夜明け前の風はしっとり涼しげで、湯船につかる前に一度大きく伸びをした。
爪先から湯気に入る。毛細血管が膨張し、熱い血が全身にひろがっていくのを感じながら、露天風呂の海側まで移動する。
岩垣に手ぬぐいを敷き、その上に肘を置く。あごを乗せて淡い東の空を眺めた。
ひたいから汗が流れだしたころ、心の奥に詰まった苦しいものがうごめいているのが感じ取れた。それはもやもやきりがかったもので、砂時計みたいに刻一刻と胸中に積もっていく。
それが一体なんなのか。
不安?
何度もその言葉に集約しようとした。でもそうしたところで、心が安らいだことは一度もなかった。だからこの心情をその枠に当てはめるのは無意味だと思う。
恐怖?
でもわたしには、恐怖する対象がなんなのか、わからない。まちなのか、津波なのか、三ツ葉なのか。どれもあってるような気もするけど、間違ってるような気もする。
言葉にしようとすると、沼のなかに足を入れるような気持ち悪さが拒絶する。それで足を引っこ抜くんだけど、ぬるぬるした気味悪い感触はずっと付きまとう。
言葉にならないものの不気味さを抱えるってことは、こういうことなんだと思う。
わたしは、この不気味さに、延々付きまとわれるのだろうか。
地平線の一点が朱く染まった。
日の出だ。
世界中で、そこだけが燃えている。
息をするのも忘れ、その姿を見守った。
誰もいない露天風呂。日の出を見るのは、たったひとり、わたしだけ。
依利江は依利江の見たいように見ればいい。
三ツ葉はわたしに、そう言ってくれた。
その三ツ葉はここにいない。
その事実に気付いたとき、ようやく息をすることを思い出した。
言葉にできないものは、なにも気味悪いものだけじゃなかった。
こんな美しい景色ですら、わたしは表現する術を持ち合わせていなかったのだ。
見たいように見る。かつてそんなふうに世界を見たことがあったろうか。
わたしの周りにはいつだって誰かがいて、わたしはその人の為に世界を見ていたような気がする。
この旅でも、いろんな景色を見てきたし、いろんなことを思ってきた。でも隣の人を思うと、そのどれもがかき消されてしまった。三ツ葉の見たいものを見せたいと思ったし、そのために意識を注いできた。
日の出を見ているたった今、隣に三ツ葉がいたら、なにを思っていた?
その横顔に気付いてしまったら、太陽の美しさにすら目に留めず、三ツ葉がどんなことを考えてるのかを考えていただろう。
使命とか、夢とか、わたしにはそんなのなにもない。だからつまり、この旅をとおして、誰かになにかを伝えたいと思うことはないんだと思う。この目で見たもの感じたものを、自分のなかで大切にしたい。だってわたしが大切にしなかったら、誰がわたしのことを見つけてくれるのだろうか。
この温泉で見た朝はわたしだけのものだ。
真っ赤な陽も、海面のかすみも、ウミネコのシルエットですら、伝えられる自信がない。黙々と頭のなかのキャンバスに彩色する。色も、音も、香りすらも、筆に乗せて帆布に沁み込ませる。
ずっとずっと、自身のことなんて二の次にしていた。そんなの、三ツ葉にとっては必要ないことだって思ったから。でも自分にとってはなににも代えがたい大切なものなんじゃないかって、思った。
この絵はわたしだけのものだ。
大切に、大切に心の小箱のなかにしまっておきたい。
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