おくのほそみち。娯楽における温泉を熱弁する依利江。雫滴る柔肌。
「お腹いっぱいだよ」
「依利江、夕食、まだなんだけど」
「うん、でも、気持ちい。一日の疲れが、じわああっと湯に溶けて流れてく感じ」
「石巻からここまで、充実してたよ」
「エスタでお茶飲んだの、ずーっと昔みたい」
「マンガロード歩いて」
「萬画館行って」
「自由の女神、あれすごかったね」
「電車とBRTを乗り継いで南三陸町」
「ちょっと歩きすぎな気がするんだけど」
「そう?」
「いや、どう考えても歩きすぎでしょ。重荷担いで一時間って、登山かなにか?」
「旅ってこんなもんじゃない?」
「芭蕉じゃないんだからさ……」
もっとのんびりした旅をイメージしてたよ、わたしは。温泉めぐりとかさ。
脳みその緊張がほぐれてくると、狙いすましたようにザア、という波音と、ウミネコの鳴声が耳に入ってくる。目を向けると橙色を帯びた筋が地平が闇のなかに見える。入道雲がシルエットになっていて、影絵芝居の舞台を見ているみたいだった。
志津川湾には養殖浮と羽を休める水鳥が揺らめいている。目下は絶壁で、波が白いあぶくを立てて崩れるさまが見てとれた。
「三ツ葉はよく旅するじゃん。温泉も行くの?」
「んー、あんま行かないなあ。足湯は寄ることあるけど」
「え、入んないの? 露天風呂、有名でしょ、箱根とか、諏訪とか、七沢とか……むしろ七沢とか、温泉以外行くとこある?」
「あのねえ、それはバカにしすぎ。依利江はもっと外出たほうがいいよ。いい風景たくさんなんだから。温泉もさ、そりゃいいけど、浴場って写真撮れないのがね」
とってつけたような言い訳を聞いて、なんだかむず痒い気持ちになった。
「それはもったいなさすぎる。温泉は五感をフルに活用して楽しめる、最ッ高の娯楽でしょ。写真撮れないのは、そうだけどさ、それ理由に敬遠するのはあまりにもったいないし、たぶん三ツ葉だったらたくさんの発見をすると思う」
「そうかな……」
「そうだよ!」
「私、熱いの得意じゃないし、こう……誰かと一緒の風呂って、なんか落ち着かなくて」
歯切れの悪い三ツ葉は珍しように思えた。ずっとはしゃいで三ツ葉を露天風呂まで連れ回してしまったけど、もしかしたら迷惑だったのかもしれない。
「わたしと入るの、ヤだった?」
「あー、そういうことじゃないというかさ……」
三ツ葉は言葉を濁らせ、顎が浸かるくらい身をひそめた。
わたしは身体が温まってきたので、岩垣に座り風に当たることにした。
「ずっと全身浴はよくないよ。身体がほぐれたら半身浴するがいい。わたしならそうする」
岩垣に置いていた手ぬぐいで首を冷やす。
「全身浴は心臓に負担をかける、でしょ? そんくらい知ってる」
三ツ葉は相変わらず湯船から顔だけを出し、潜水艦みたくひっそりと足元に寄る。わたしのことをじっと見上げていた。見つめているのはわたしの顔ではない。四肢から体軸にかけて、部位ごとに視線を移す。胸元を手ぬぐいで覆った。
三ツ葉は不機嫌になって、視線を逸らした。
「依利江ってスタイルいいよね」
吐息混じりの声にどきりとした。
「それ、わたしのこと?」
確認せざるをえなかった。だって、三ツ葉はわたしのモデルだ。三ツ葉を目指して減量中の身としては、複雑な心境になる他ない。
「依利江はあんたしかいないでしょ。勘違いされる前に言っとくけど、嫌味でもないからね。依利江、すごくスタイルいい」
「いや……まさか」
「依利江はもっと自分に自信持ったほうがいいよ」
「わたしの、どこに?」
「どこにって、まさか、本当に自覚ないの?」
「自覚もなにも、摂理でしょ。三ツ葉の隣歩くの、ギリギリセーフくらいかなと」
「それ本当に言ってんの? ああ、そっか、おしゃれとか、髪の手入れとか、考えてない子だったか」
「わたしの身体に魅力なんてない。三ツ葉が言うからやったほうがいいのかなって思うレベル」
「あー、もう、こいつは」
こいつ、と言われた。
三ツ葉は急に周囲を見渡した。室内の大浴場に二人の先客がいたけど、露天風呂には相変わらずわたしたちしかいない。三ツ葉が凝視してきた。意を決した目をしている。
「依利江……ッ!」
三ツ葉は勢いよく湯のなかから立ち上がった。鼓動が強くなる。今わたし、半身浴なのに心臓に負担がかかってる。
「見て、私を」
三ツ葉は片手を胸に添えた。湯煙が昇り、柔肌から雫が滴った。茶色の瞳はブレることなくわたしをとらえている。
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