ホテル観洋

気力なきひととき。湯煙で肺を満たす。爪先から湯に浸かる三ツ葉。

 三陸最大規模を誇る、リゾートホテルなのだそうだ。


 北入口の自動ドアをくぐると、真っ白い大理石の床がまぶしく目に入る。額縁に飾られた大きな海の絵。天井にはシャンデリア風の照明がいくつも吊るされ、海側の壁は全面ガラス張りになっており、三陸海岸が一望できる。


 とにかく広い。増設を繰り返してきた館内は、北入口から正面入口脇のロビーまで、歩いて五分はかかったんじゃないだろうか。歩き通しだった身としては、ふらふらくらくらのへとへとだった。ラウンジのチェアに座りこんだ。瞬時に眠れる自信があった。疲労で頭がチカチカと真っ白い。


 受付で手続きを終えた三ツ葉が戻ってきた。隣にフロントマンがいた。スーツをびしっと決めた男性の方だ。荷物を持って先導してくれた。


「きれいな海ですね」


 エントランスから見える海を見ながら、三ツ葉が言った。まだ人と話す余力を残していることに驚きたかったけど、驚く気力すらなかった。

 フロントマンは語る。


「こちらから志津川湾が一望できます。当館ではこの景色を一望できる露天風呂がございます」

「露天風呂、ですか」

 切望するワードが持ちあがったような気がする。


「はい。当館自慢の天然温泉でございます」

 たった四文字の熟語が、立て続けにふたっつ。


「それ、本当ですか!」


 フロントマンに詰め寄った。

 癒しのひととき、天然温泉。

 うるわしの空間、露天風呂。


「はい。夜は深夜一時まで、朝は四時からご利用できます。露天風呂から日の出をご覧になることもできます」


 わたしの胸をときめかせるには、それだけで充分だった。


「三ツ葉、三ツ葉、荷物置いたら行こ! 行こ!」

 もういてもたってもいられなくなる。


「ちょっと依利江、あんた疲れてたんじゃ……」

「疲れてるから行くんだよ!」



 東館二階、大浴場と露天風呂はこの階にある。引きドアを開放すると御影石のモダンな浴室が姿を現した。

 胸を大きく広げ、うっすらと白んだ湯気で肺を満たす。身体が湯を求めうずいてるのがわかる。


「ね、ね、露天行こ、露天、最初!」


 三ツ葉の肩を叩いて誘う。もちろん小声でだ。公衆の浴場で騒ぐのは温泉に対する冒涜である。


「ねえ、ちょっと、依利江さ……変だよ」


 三ツ葉はわたしのうしろで縮こまっていた。手ぬぐいで胸と股を隠し、視線を合わせようとはしなかった。


「ここ着くまで、しょげてなかったっけ?」

「だって、温泉だよ! ほらほら」


 三ツ葉の腕を取って露天風呂の入口を開いた。適度な湿り気を含んだ宵の風が迎えてくれる。誰もいない。貸切状態だ!


「先、身体洗わなくていいの?」

「洗うのは温まってからが玄人流よ。かけ湯してちゃんと汗を流せばいいのだ。かけ湯したげよっか?」

「結構、自分でできます」


 ぶっきらぼうに言い放った三ツ葉は、ちらとわたしを一瞥いちべつしてから湯をかぶった。白い手ぬぐいが肌に張りついた。日焼け跡のくっきりした背中を反らし、茶色い髪を掻きあげた。ムダなものが一切ない、ほっそりとした長身を見て、こっそり自分の肉をつまんだ。

 おそるおそる。三ツ葉の爪先からふくらはぎまでが湯につかる。


「んふ、あつ……」

「どれどれ」


 わたしもかけ湯して入った。

 足先からぷちぷちとさす熱さが脳天までつらぬく。

 心地よい、全身に行き渡る鳥肌。

 最高の湯温。

 呼吸を止める。

 波も音も立てずに肩まで温泉と一体になった。


「ふああ」


 水圧に負けた肺の空気が、積もった疲労と共に吐息となって洩れ出た。



 至福。


 この一言に尽きる。

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