第26話 希望


 レンタルラボの最寄駅から歩いて五分ほどの三郎寿司の座敷席で、コーヒーショップライフテクノロジーズの全員と、首都圏生命科学グラントの審査員の一人で、D社の研究開発事業部部長だった高井が同じテーブルを囲んでいる。首都圏生命科学グラント、D社ともに俺達の提案が落とされたことを考えれば、異様な風景と言えるのかもしれない。高井は少しの間目を瞑った後で、ゆっくりと話し始める。



 二十六、  希望



「D社の本社と工場があった頃、まだこの辺りの埋め立て地には何もなくてね。昼飯を食うにも難儀をしたものだったよ。いつも家内の作った弁当か、会社の社員食堂の冷えた飯と何の魚かわからないような煮物か焼き物、それに瓶で牛乳がついてきてね。だから、この寿司屋が出来た時は、社内のみんなが喜んだもんだ」

 時折、おしぼりに手をやりながら高井が続ける。

「まだD社の経営もそれほど安定していなくて、給料の遅配は当たり前、酷いときなんか二カ月分まとめて払う……なんてこともあった」

 高井は懐かしそうにそう話すと、何かを思い出したように吹き出す。

「そうそう、一度、夏のボーナスの頃に社員に払う金が無くてね。その時の会長が――もう亡くなってしまった創業者が実家の和装店から、何を思ったのか浴衣を大量に持ってきてね。『金はないから、今年はこれで勘弁してくれ』と会長が社員一人一人に手渡しで渡して回ったこともあったよ。これで勘弁してくれなんて言われても、私も生まれたばかりの娘が居たし、頭に来て会長の頭を叩いてやったんだけど……まぁそんないい加減な時代も、わが社にはあったんだよ」

 高井が湯呑の中の緑茶を口にすると、飯島が「あんな大きな会社が……意外です」と感想を言う。

「もう、ずいぶんと前の……ひょっとしたら君たちも生まれていない頃の話さ。 ……でもね、それからしばらくしてD社にも変動の時代がやってくることになった。元々は大手の自動車会社や造船業の下請けから始まったわれわれの会社も、自社の売りとなる製品や技術を作り出していこう、という感じでね」

 高井はもう一度目を瞑ってから、ゆっくりと一つ一つ思い出すように続ける。

「そして、社内に初めて作られた研究開発部の部長に私が選ばれた時、私は自分の部下として二人の若者を抜擢ばってきした。一人は高校を卒業してからずっとわが社の現場で働きながら、自分で夜間の学校に通い、当時わが社が得意としてきた工作機器の改良のエキスパートとなっていた者、そしてもう一人は都内の私立の難関大学で機械工学を学び、卒業したところを私がリクルートしてきた者……」

 高井は当時を懐かしむように話している。

 その間にランチの飯台が人数分揃い、「食べながら話そうか」と声をかけ、自分も割り箸を手に取る。


「ふふ、当時はまだわが社にも大卒の人間なんて数えるほどしかいなくてね。そのうちの二人を私が独占したものだから、『高井のやつはズルばかりしている』と陰口を叩かれたものだった」


「……それが、久保さんと辻井さんなんですね?」

 崎村がそう言うと、高井は吃驚して箸を止める。


「なんと……そうか、君は気付いていたのか。そう、今、中小基盤整備機構にいる久保君と君たちコーヒーショップライフテクノロジーズの提案を担当した辻井、二人ともかつて私の部下だった男たちだ」

「元々僕たちにD社を紹介してくれたのは久保さんでしたし、竹ノ内の件があった後、タイミングよくこちらに久保さんが来るなんて、誰かD社に近しい人間から話を聞いたとしか思えなかったですし。そうなると、あの件に関わっていて、かつ久保さんと年代的にも近いのは辻井さんしかいませんからね」

 崎村がそう答えると、高井は箸を置き、真剣な顔になる。

「……本当にあの件はすまなかったと思っている。ただ、私一人がそう思ったところで組織というものはなかなか方針を変えられないものなんだ。せめて、と思って私はあの発表会を欠席したんだが……結果としては何も変わらなかったな」



「そして、それは君たちが首都圏生命科学グラントを落ちた理由とも重なる」



 俺と崎村が同時に「えっ!?」と聞き返す。高井は驚いている俺達を見てにこっと笑うと、もう一度湯呑の中の緑茶を口に含む。


「あの頃はまだ久保君も辻井も若くて血気盛んでね。なんとも本当に面白い連中だった――」




二十六の二、  二十数年前、居酒屋『あじさい』



「……だから、そうじゃねぇって言ってんだろ、辻井!!」

 言葉の悪い男の方が隣で焼酎をちびちび呑む同僚に怒鳴る。声の大きさに驚いたのか店員の背中におんぶされていた赤ん坊が泣きだす。

「ちょっとアンタたち!! うちの孫娘が泣き出しちゃったじゃないかい! 安酒でいつまでも居座ってるくせに、大声出すんじゃないよ!!」

 恰幅のいい女店主がそうたしなめると、余計に調子に乗ったように作業着の男が言い返す。

「うるせぇ、ババァ! 俺達は明日のD社を背負って立つための議論をしてんだ!!」

 男のけんか腰の言い分に「なんだと、安月給のくせに!!」と女店主が腕まくりする。今にも殴り掛かりそうな二人を、女性店員と男の同僚が「まぁまぁ」となだめる。

「久保、いい加減にしろよ。明日の研究計画コンペで『勝つ』ために、あじさいの『とんかつ』食べに来たんだろ?」

 それに対して、女店主は「誰がこんなヤツに作るか!」と息を巻くが、今度はそれを「ちょっと、かあちゃんもいい加減にして!」と店員がいさめる。両者ともしぶしぶとおとなしくなると、辻井と呼ばれた若者が同僚に向かって穏やかに話しかける。


「……いよいよ明日だな、社内コンペ。俺達みたいな若造の計画でも『役員たちが認める良い計画があれば採用して、新事業として立ち上げる』か。高井部長も思い切ったことをするよな。こんなワクワクするようなことを、入社したばかりでさせてもらえるとは思ってもみなかったよ」

 辻井はそう言うと、グラスの中の焼酎を呷る。

「俺はお前にも負けたくない」

 久保は煙草の煙を吐き出して辻井の顔を見ずに言う。負けず嫌いの久保らしい。若干、呂律が怪しいのだが。

「ははは、もちろん。でも俺の計画もお前のものに負ける気はしない。正々堂々と勝負だ」

 辻井はそう言うとグラスを持ち上げ、久保がそれにカチンと自分のグラスを当てる。

「ああ。どっちが採用されても文句はなし。採用された方の下で採用されなかった方が働く。恨みっこなしだ」

「……まぁどっちも採用されないかもしれんがな」

 そう辻井が突っ込むと「違いねぇ」と二人で笑い出す。採用された経緯も出身も違う久保と辻井は『親友』と呼ぶにふさわしい仲だった。


 この頃までは――




「どういうことですか、高井部長!! これは……これはじゃない!!」

 数日後、研究開発事業部の高井の机の前で辻井が怒鳴る。高井は机の上に両肘をつき顔の前で手のひらを組んでいる。眉間には皺が寄り、高井自身も納得していない様子なのが見てとれる。

「そんなことは分かってる!! しかし……役員の連中が決めたことだ。俺達のような”ただの社員”が変えられるはずがないだろ!」

 高井もまた辻井に怒鳴り返す。その剣幕に部署内の皆がしんと鎮まりかえって、事の推移を見守っている。


 そこにバタンッと派手な音を立てて扉が開く。

 辻井や高井よりもさらに憤怒した様子の久保が無言のまま近づいてくる。高井の席の前に来ると、高井の作業着の首元をむんずと右手で握り、そのまま引きずり出すように久保が引っ張る。それを慌てて辻井が止める。


「高井さん、どういうことだ!! あの計画は俺が出したやつだ! ……なのにプロジェクトリーダーは辻井だと!? どういうことなんだよ、辻井!!」

 掴んでいた高井を床に乱暴に放り投げると、今度は辻井の襟元を握る。悔しさをかみしめたせいか、久保の口の右端から血が滲む。辻井は無言のまま首を左右に振る。


「……久保、役員たちはお前の研究計画を高く評価していたのは間違いない。わが社の次世代の主力となるだろう、とな」

 床から立ち上がりながら高井が言葉をかける。

「だったら、何で――」

 久保が顔を歪め呻くように言うのを遮って、高井は重苦しく発する。


「学歴、だそうだ。会社の看板になるような研究計画を任せるには、見栄えの良い出自を持った者が良い――だそうだよ」


 その言葉に、久保もそして辻井も言葉を失う。





「そうやって、私たちは……いや、『私は』だな。私は二人の運命を歪めてしまったんだ。久保君には『自分のアイデアや意見が学歴のような些末なことで覆されるという経験』を、そして辻井には『自分のアイデアや意見が学歴なんかよりも価値がないという思い』を与えてしまったのだからな」

「……それで、お二人はどうなったんですか?」

「久保君は業務命令で辻井の下につくように命じられたのを断り、それを機に研究開発事業部から異動になって、しばらく品質管理部や工場のラインを渡りあるいた後に会社を辞め、今の中小基盤整備機構に。

 そして辻井は――それまでとは打って変わって冷徹な仕事ぶりで他者を容赦なく切り捨てるように次々と仕事をこなしていき、最年少で一つの研究開発事業部の部長となった。いずれ研究開発本部長、執行役員、その後は役員にまで登りつめていくだろう」

 高井は湯呑の中の緑茶の水面が揺れるのをぼんやりと見ている。俺も他のメンバーも声をかけられずにいた。

「それで僕たちの落選理由と重なるというのは……?」

 しばらくして、崎村が尋ねる。


「まったく馬鹿馬鹿しいことだがね。わが国の”お偉方”というのは、二十何年も前からちっとも変っていないということだ。君たちの研究開発プランが書類やプレゼンのどれをとってもトップだったのに、君たちに資金と実績……いや、そうじゃないな。著名な大学や研究者、あるいは大企業のビックネームがついていないって、ただそれだけの理由で落とされる」


「そんな……」

 愛理が両手で口を覆う。

「私はそんなものを変えようと思って首都圏生命科学財団の外部フェローになったはずだったのだけれどね……首都圏生命科学財団に参画している自治体や大手企業の大半は『可能性』よりも『リスクの無さ』を選ぶということさ。結局、二十数年前のあの頃から何も――私自身も変わらなかったのかもしれないな」

 自嘲気味に笑う。


「……それで、俺達に”お願い”というのは?」

 今度は俺が尋ねる。


「老人の勝手なお願い、というものでね。エゴと言ってもいい。私はかつて君たちのように自分たちで未来を切り開こうとする若者たちの妨害をしてしまったことを後悔しているんだ。だから、今度は応援する方に回ってみたくてね……君たちの会社に投資したい」

「投資!?」

 飯島が驚いて問い返す。

「俗に言うビジネスエンジェルというやつかな。ただ馬鹿真面目に勤めてきただけだが退職金もある。家内とも相談してね」

 飯島がおろおろとしながら崎村の方を見る。

「俺達はあなたの昔の幻影か何かではないですよ」

 俺は高井の目をじっと見ながら言う。高井も目をそらすことなく「ああ、もちろんだとも」と応える。



「希望、とでもいうのかな。君たちの叩かれても叩かれても這い上がってくる姿を見ていると、私たちがこの埋立地を出ていく時に無くしたものを思い出すようでね。もう一度、それに賭けてみたくなったのさ」




(続く)

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