第23話 「使えるものは何でも使う」
二十三の一、 「使えるものは何でも使おう。失うものは何もないんだから」
首都圏生命科学財団の研究費二次審査を終えた俺達は、土日を挟んで、週初めのミーティングをレンタルラボで開始する。今日からまた二手に分かれて、崎村と飯島で公設試での実験を、俺と愛理で営業を再開する予定で、それぞれが一週間の予定を話し、それについて一つ二つコメントをしていく。
いつも通りそれが終わると、新しく入った斎木が「あの」と手を挙げる。
崎村が「何、斎木さん?」と聞き返すと、斎木は自分のデスクから立ち上がり、あの特徴的な意匠の施された眼鏡を中央を指で上げる。
「ちょっと三好さんに聞きながら、この会社の現状を整理していたんですけど……何でT自治体の創業助成事業に申請していないんですか? 何か意図があってのことなら教えて欲しいんですが」
何のことかわからずに、俺も崎村もきょとんとしている。
「……えっと、それって研究費申請みたいなもの?」
そう崎村が聞き返すと、今度は斎木がびっくりしたように「ええっ!?」と驚いている。
「全然違います! 先週社長と飯島さんが受けた二次審査のような研究費の助成事業、それにすでに交付を受けている同じT自治体の研究助成事業はあくまで研究開発費への助成金です。私が言ってるのは、”創業そのもの”に対する助成金です」
斎木はまだいまいち要領を得ない俺達の顔を見て「ええー!!」とまた驚いている。
「……そうか、社長たちは産学連携プラザで開講してた起業論の講義とか受けているわけじゃなかったんですよね……」
はははと何故か照れる崎村が頭を掻くと、いつものように白いフケが舞う。
俺達は元々そのような意志があって準備を進めていたわけでもなく、突然放り出され、やむなく起業したため、その類の知識が丸でない。おそらく起業論の専門家が見れば、クレイジーそのものであるに違いない。斎木は起業論の専門家であったわけではないが、T大学産学連携課の職員として仕事をしているうちに知識を蓄積していたのだろう。自分のデスクの上に置いてあったプリントアウトした資料を崎村に渡し、斎木が続ける。
「このT自治体が持っている創業助成事業というのは、さっきも言いましたけど『創業』ということに関して、申請者が一定の基準を満たしていれば、最大300万円まで運転資金を助成してくれるという制度です」
「研究用のグラントではないから、事務職員の人件費なんかにも使えるってこと?」
愛理が尋ねると、斎木は「そうです」と眼鏡の中央部をもう一度押し上げる。
「研究しない人員の人件費だけじゃありません。例えば、今この会社にはないホームページの開設資金だったり、このレンタルラボやインキュベーション施設のような部屋の賃借料にも使えます」
「おお!! それいいかも。やっぱり営業行くときに、向こうが『コーヒーショップライフテクノロジーズ』で検索して会社のホームページ有るのと無いのでは全然印象違うからね」
愛理がふふんと鼻をならしながら、力説する。
「……で、さっき言ってた一定の基準、というのは?」
今度は崎村が目を輝かせながら、斎木に尋ねる。
「実はこの会社はすでに基準を満たしています。この制度自体はベンチャー企業の創業推進の一環として国が支援して、各自治体がそれぞれの財力や事情に合わせて事業を行っているもので、自治体ごとに基準や助成額が異なります。T自治体の場合は、助成額は300万円で、その基準は『創業者支援制度融資を受けている』あるいは『自治体あるいは中小企業基盤整備機構の運営しているインキュベーションラボに入居している』、『T自治体研究助成事業に採択されている』のいずれかを満たせばいいことになっています」
「いずれか、どころかすべて満たしているな」
俺がそういうと斎木がにこっと笑う。
「そうです、だから申請しない方がおかしいと思いまして」
「申請時期とか、審査とかはどうなってるの?」
今度は斎木の正面にデスクを置いている飯島が尋ねる。
「申請時期は”随時”です。だって、創業自体は4月に集中するわけではないですからね。創業から5年間のいつでも申請できます。それに、審査は書類審査のみで、基準を満たしていれば――というか、T自治体の基準の場合はその基準項目ごとに審査があるわけですから、書類審査は形式的なものだと聞いています」
斎木の答えに、俺も含めた全員が「おお」と感嘆の声を上げる。斎木はデスクの上のペットボトルに入った紅茶で口を湿らせて、さらに続ける。
「こういう書類申請だけで使える助成金や補助金って、皆さんがこれまで進めてきた研究費助成と同じくらいいっぱいあるんですよ。創業したばかりの会社向けの特許出願費用の助成だったり、展示会出展費用の助成だったり――」
「展示会出展費用の助成?」
斎木の話を遮る形で崎村が反応する。
「は、はい。これも創業したばかりの会社向けに、自社製品やサービスの販路拡大を目的とした業界団体や国の機関の主催する展示会に出展する際の費用を、T自治体の場合は150万円まで補助するってものです。ただ、これは『助成金』ではなくて『補助金』で、補助率が二分の一となっているので、実際にはかかった費用の半額が戻ってくるというものですね」
「え、助成金と補助金って違うの??」
愛理が驚いて斎木に尋ねる。
「そうなんです。助成金は設定してある金額の100%が採択された企業に交付されるんですけど、補助金というのは補助率というのが別に設定してあって、事業総額に補助率をかけた金額しか会社には振り込まれません。ですので、この補助金の場合は150万円の展示会出展費用がかかった場合は75万円が戻ってきます。150万円以上の場合でも75万円までで、150万円に満たない場合は、実際にかかった費用の二分の一が振り込まれる――という感じですね」
斎木の説明を聞いて、崎村は腕を組み「うーん」と唸る。
「最初に話していた創業助成ももちろん出すし、半額だけだとしても、展示会にも使える資金がもらえるのなら出してみよう。さっきの三好さんの話じゃないけど、今の僕たちは圧倒的に知名度がないのは、この間の首都圏生命科学グラントの審査会で痛感したからね。それに展示会に出すなら、当然見栄えが良いものにしたいし」
崎村はそう言うと、続けて斎木に向けて「ありがとう、斎木さん。斎木さんの専門的な知識は本当に助かります」と笑顔で話す。斎木は褒められたことにびっくりしたように顔を真っ赤にして、「と、とんでもありません!」と自分の椅子に座る。その両手は膝のところでぎゅっと握られていて、
ひょっとしたら前の職場ではあまり仕事を褒められることがなかったのかもしれない。その様子を見て、崎村はもう一度斎木に向けて笑顔を見せると、今度は全員に向けて話す。
「使えるものは何でも使おう。僕たちには金も力も知名度すらもないんだし、もし落ちたとしても失うものなんて何もないんだから――」
二十三の二、 「使えるものは何でも使うわ。だって失うものは何もないんだし」
T自治体内のとある場所。厚手の遮光カーテンを閉め切った暗い部屋に凝った細工のされた蝋燭の炎が揺らめくと、白い壁に二つの影が重なって動く様子が投射される。部屋のなかは甘ったるい香水の匂いが充満している。
「……産学連携プラザのレンタルスペースに頻繁に行っているらしいじゃないか」
影のうちの一つが低い男の声で話す。
「ええ。一人、使えなくなっちゃったし、残った方にはこれまで以上にいっぱい働いてもらわないといけないでしょ?」
もう一つの影の持ち主がくすくすと笑いながら答える。特徴的な声で、どうやらこちらは女のようだった。
「しかし、誤算だったな。あんな研究もパッとしない連中じゃなく、飯島や戸部、長谷川、畠中あたりを引き抜くつもりだったのに」
煙草に火をつけながら、男の方がため息と同時につぶやく。
「そうねぇ……飯島君と畠中君は予想通りとはいえ、まさか戸部君と長谷川君がD社に引き抜かれるなんて思ってもみなかったよねぇ」
もう一度二つの影が重なると、蝋燭の灯に細くて白い腕が照らされ、それが生き物のように男の頬のラインを這っていく。
「……でも、残った”あんなの”でも、私は使えるものは何でも使うわ。だって、仮にダメになったとしても、彼の仕事のことなのだし、私たちは何も失うものないんだし」
にたぁと女が口角を上げてそう言うと、男はその顔を見ながら「それもそうだな。俺達には何の影響もないことだ」と煙草の煙を長めに吐き出すのだった。
(続く)
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