第17話 グラント締め切り二日前


十七、  グラント締め切り二日前


 その日は一日中雨で、T産業技術センターで首都圏生命科学研究グラントに応募するプランで使う予定の機器を崎村と飯島が確認に行くと、レンタルラボには俺と愛理だけになった。昼過ぎには風が出てきて、レンタルラボの窓を雨粒が叩く。


「ほい、これ。郵便ポストに入ってたよ」

 一階のこのインキュベーション施設を運営している自治体外郭団体の事務室に用事で席を離れていた愛理が、何かの封筒をいくつかの葉書を手渡してくる。一枚の葉書はお世話になっている税理士の先生からの事務所移転のお知らせで、それ自体はメールですでに知っていたため、特に気を留めずに次の郵便物に目を通していく。その他の葉書も、ベンチャー向けのサービスなどを謳うダイレクトメールだった。

「その封筒って……」

 愛理も気になったのか、それについて尋ねてくる。

「ああ、朱書きで『履歴書在中』ってあるから、たぶんこの間の事務職員の募集のやつだろうな。崎村のデスクに置いといてくれ」

 そう言って、封筒を愛理に戻す。わかった、と受け取り崎村のデスクに向かうと、愛理は何かを思い出したように、こちらを振り返る。


「……そう言えば気になってたんだけど、ハタナカ君とサキムラ君って、その竹ノ内って教授の研究室出身なんでしょ? これまでの経緯は聞いたつもりだけど、何でそこまで仲が悪い――というか、目の敵にされてるの?」


「なんだよ急に」

 本当に何の脈略もない質問で、俺はびっくりしてそう答える。

「いいでしょ、別に。今日はあの公募書類につける会社紹介も、直近の経営状態の書類も終わって、後は税理士の先生のチェック待つだけなんだし」

 確かに首都圏生命科学研究グラントの応募に関しては、俺達で出来るパートはすでにほぼ終わっていて――崎村達ももうほぼ終わっていて、今日の使える機器の確認が終われば、実験計画のスケジュール表を埋めて完成の予定なのだが――すぐに出かけなくていけない営業先があるわけでもないし、一息つける。

「……まぁ、いいか。俺も全部を知ってるわけじゃないけど」

 愛理が「おっ」と興味深々な様子で自分のデスクに腰を掛ける。



「話は竹ノ内の前の教授――俺達が博士後期課程で学生だった頃の細胞機能学講座教授が肺癌で亡くなるところから。その日もこんな風に昼から強い雨だったな――」




十七の二、  三年前。国立大学法人T大学近くの居酒屋。



「しっかりしろ、”セイ”、アパートに帰るぞ」

 半年前に肺癌であることがわかって、そのまま急に亡くなった田中政明教授の葬式に出席した俺達は、まっすぐアパートに帰る気になれず、立ち寄った居酒屋で黙々と酒を飲んでいた。同席していた学部からの同期が、酔いつぶれてテーブルに突っ伏している崎村に声をかける。ぐにゃぐにゃと何かをつぶやいている崎村の頭をぱしんっと叩くと、その叩いた手の軌跡の延長上に白いフケが舞う。

 俺やその他の同期、それに一人、二人ついてきた後輩たちもぐでぐでになった崎村を見ながら、内心、自分も酔っぱらってしまいたいと思っていたに違いない。そのくらい、”田中のじいさん”は学生に慕われる人だった。

 講義こそ少し難解で一部の単位マニアの学部生――特に目的や興味があるわけでもなく、取れそうな単位を片っ端から取っていくタイプの学生――には不評だったものの、バイオエンジニアリング専攻に行くような学生たちには特に苦も無く、実習の指導も的確だった。それに自身も研究活動で忙しいにも関わらず、メンターとして学生の相談にのることも厭わずにこなし、その温和な口調と、ダメな部分にはしっかりと釘を差すところも、学生に厳しいだけ、あるいは優しいだけの多くの教員とは違って人気があった。

「……”次”は竹ノ内になるのかなぁ」

 誰が最初に言ったのかわからなかったが、その言葉を聞いた途端、全員が顔を曇らせる。俺達がその日酒に飲まれたいと思っていた理由の多くは、もちろん田中のじいさんの死を悲しんでのことだったのだが、たぶん、全員がその一割くらいの大きさで『竹ノ内が教授になるかもしれない』という不安でそう思っていたに違いない。俺もそうだった。

 俺達が修士二年の春に新しい准教授として着任した竹ノ内は、田中のじいさんとは正反対で、何よりも自分のことだけを考え、指導している学生の実験の進みが遅いとところかまわずに怒鳴り、自分の仮説とは違う結果が出ると、結果をもって相談しようとする学生を無視したりと、傍若無人な態度が目に余るような人物だった。実際に、竹ノ内が指導していた博士前期課程(修士)や学部の学生が何人も転属したり、退学していったため、学内でも噂になっていた。背が高く釣り目で痩身の竹ノ内を指して、『性悪キツネ』とバイオエンジニアリング専攻のほとんどの学生が陰で言っていたくらいだった。

「……竹ノ内の仕事がしたくて、細胞機能学選んだわけじゃないんだ……」

 崎村がうわ言のようにそう言うと、俺を含めた学部からの同期が一瞬で真面目な顔になる――皆、そう思っていた。

「そろそろ帰るか」

 俺がそう言うと、後輩が全員から集めた金をレジに持っていく間に、俺ともう一人で崎村に肩を貸して立たせる。勘定を済ませて店の外に出ると、もう一度崎村が同じことをつぶやく。

「俺は竹ノ内の仕事がしたくて、細胞機能学選んだわけじゃないんだよ……」

 俺達はそれに反応するわけでもなく、ずぶ濡れになりながらアパートまでの道を歩いた。




「……そんなに嫌われてたんだ、その竹ノ内ってヒト」

「ああ。だからアイツが前の教授の後釜として教授になるって時には、何人も学生が細胞機能学講座から出て行った。元々大所帯だったところで、教員が一人減ったという理由もあるけどな」

 愛理は帆杖をつきながらこちらを見ている。

「……でも、君たちは出て行かなかったんだね」

 続けてその理由を尋ねてくる愛理に、俺は「ああ。もう博士論文の目途も立ってたしな」と答えると、唐突にを思い出す。おそらくあの事件がなければ、少なくとも崎村はここにはいなかったのではないか――時々そう思うこともある。崎村のキャリアを歪め、そして俺がアカデミアに対して不信感を抱くようになったのもそこからだ。



「竹ノ内が教授になって、俺達が博士後期課程の最後の年に、同じ講座で教員の……助教の公募があったんだ。そこで、崎村は――――」




(続く)

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