第7話 感情の化け物


 コーヒーショップライフテクノロジーズから最寄りのJRの駅前に、区画整理に取り残されてしまった所謂いわゆる”横丁”のような、狭い路地に居酒屋が数件軒を連ねる場所がある。昔は何某なにがし横丁という名前があったのかもしれないが、今となってはその一角だけが取り残されたように残っているだけで、常に薄暗く古臭い看板が良くないのか、自治体の運営しているレンタルラボに入っている他の会社で働く人間たちは誰も近寄らない。


 その横丁の一番奥に『あじさい』という店があった。


 店の入り口には看板もなく、それよりも少し前の横丁の入口にひっそりとその名前が見えているだけで、初めてこの付近を通ってもそこが呑み屋だとはたぶん誰も気づかないだろう。カウンターに四人も座ればいっぱいになる店であった。

 そこに、崎村がいた。

「やっぱり、此処か」

 俺は崎村の隣に座る。着ていた上着を脱いで、壁にぶら下がっているハンガーにかけると、「ハタナカ君は何飲むの?」と聞いてくる若い店員に生ビールを頼む。

 それとほぼ同時に、崎村が空いた自分のグラスをカウンターの方に無言で突き出し、ひらひらと揺らす。

「……愛理あいりちゃん、コイツ、何時から?」

「もう二時間くらいかな。焼酎ばっかり、飲みすぎだよ」

 項垂れていて顔がよく見えないものの、おそらくだいぶ酔っているのだろう、ぶつぶつと何かをテーブルに話しかけている。俺はそのまま喋りかけることなく、受け取ったビールを呷ると、付け出しに出てきた山菜の煮びたしに箸をつける。

(そういえば崎村がこんなに酔いつぶれるの、どれくらいぶりだっけ?)

 と、ぼんやりと考えていると、視線をこちらに向けずに崎村が口を開く。


「……負けた」

「負けてはいない。そもそも勝ち負けの問題でもない」

 俺は即答する。

「俺の”読み”が外れたんだ」

「……誰もお前の読み”だけに”賭けて仕事してるわけじゃない。自惚れるな」

 そう言い切ってから残りのビールを飲み干す。

 そのまま店員に二人分の勘定を払って、「帰るぞ」と崎村を外に連れ出す。店に入る前には降っていなかった雨がぽつぽつと夜道を濡らしている。


(ああ、そうか。前の教授の葬式の時以来か)


 そんなどうでもいいことを思い出しながら、駅前を走るタクシーに右手を上げると、崎村はその隣で「次はもっと上手く…」とぶつぶつと呟いていた。




七、 感情の化け物



 その、数時間前――俺達はT大学産学連携プラザの前で、D社の担当者を待っていた。


 メールをもらってすぐにD社に三者共同研究を持ちかけ、山手線沿線にあるD社の研究所の一つで何度か打ち合わせを行い、T大学に持ち込む内容を詰めていく。もちろん、その間にT大学の産学連携課とはやりとりを同時に行い、大学とコーヒーショップライフテクノロジーズの役割分担や費用などの話も進めている。

 意外なことに竹ノ内からの反応は少なく、産学連携課の担当者も特に問題があるようには話していなかった。


 契約案をこちらから提出して先方の法務部で確認する段になって、「T大学との最終的な交渉の場に、同席させてほしい」と連絡があり、少し違和感を感じたものの、断る理由もなく応じることにした。これが二日前のことだった。


「崎村さん」

 女性の声で呼ばれる。振り向くと何度かD社の研究所で会った研究員の女性と、もう一人、白髪交じりの髪をオールバックにまとめた男性が居て、こちらに軽く会釈をする。

「……今日は立川さんではないんですね」

 俺がいつも担当してくれるD社の課長の名前を出すと、安藤という女性研究員が返答する。

「申し訳ありません。立川は急な用事で九州に出張になってしまって。今日は部長の辻井が同席します」

 一瞬、崎村の表情が硬くなる。俺もさっきまでよりも違和感が大きくなるのを感じる。しかし努めてそれを表に出さないようにしながら、名刺を手早く交換し、産学連携プラザの中に入っていく。


 大学側から竹ノ内教授、中村助教、産学連携課の前と同じ職員が二名、コーヒーショップライフテクノロジーズからは崎村と俺、そしてD社からは辻井と安藤という合計八人が席に着いた。

 崎村が紙の資料を取り出して、今回の提案の内容を説明していく。

「私たちが竹ノ内先生と共同研究している生きている細胞の状態を非侵襲で連続的に測定する技術について、新たにD社を加え、三者で研究を行いたいというのが今回の主な提案内容です。

 具体的にはD社が資金を出し、我々が技術者を出し、大学側にはアドバイスを出していただく。F/S(フィージビリティスタディ)としてD社様の提案されている三年間、年間二千万の事業費を、私どもで1500万、大学で500万で分配します――こちらの差は人件費分と考えていただければと思います。

 いかがでしょう、提案としては面白い提案だとは思いますが」

 すでにT大学側とは研究費分配についても折り合いがついているため、形式的に崎村が話す。


 今から考えてみれば、この『事前に話はついている』と思いこんでいたところに俺達の弱さが現れていたのかもしれない――会議室は一人の男の予想外の言葉で凍り付くことになる。



「断る」


 竹ノ内は会議室に入った時から崩していない腕組みをしたまま、鋭い目つきで崎村の方を見据えて言い切る。

「えっ!?」

 それに最も驚いていたのはT大学の産学連携課の職員たちで、「先生、前にご相談したときと対応が…」とあたふたしている。

「この分野にあまり馴染みのないD社が研究資金を出して、新規参入を狙うという提案自体は非常に面白い。だが俺は”この男”の思惑通りに動くのが我慢ならん」

 竹ノ内の横で中村が軽く口に手をあてる。俺はその口角が微妙に上がっているのを見逃さなかった。

 嵌められた――そう思った瞬間にはもうD社の担当である安藤の顔が引きつって、額から汗が滲んでいるのがわかる。自分の背筋にも大量の汗が湧いてくる。

「辻井…さん、でしたっけ? あなたがどんな経緯でコイツらのことを知ったのかはしりませんけど、コイツらはうちの研究室を解雇になったような連中です。

 もし本当にこの分野に新規参入したいと思っているなら、我々と直接契約するべきですな」

「……しかし、先生。これだけの実験内容を実施するには、現在の研究室のメンバーではいささか無理があるのではないですか?」

 絶句したままだった崎村がやっとの思いで言葉を絞り出す。

「今から新しいポスドクを探すにしても大変でしょうし、僕らの提案に乗った方が……」

 そう続けた崎村を竹ノ内が切り捨てる。


「だから何だ、さっきも言っただろう。俺はこの件に関して、お前の提案は受けん」


「なっ!?」

 もう一度、崎村が固まる。俺は竹ノ内と中村を睨みつけるくらいしかできないでいる。しばらく沈黙が続いたところで、辻井が小さく息を吐いて、口を開く。


「……竹ノ内先生のお考えはよくわかりました。どうやらコーヒーショップライフテクノロジーズさんの準備不足のようですね。それぞれの考えをすり合わせる必要があるようですし、今回は一旦お開きにしませんか?」

 辻井は表情を崩さずに冷静に話す。

「そうですね。こんな会社を介さずに、御社が直接共同研究するなら受けましょう」

 竹ノ内が嫌らしい笑いを浮かべて応える。

「ええ、その点もしばらく考えさせて下さい……コーヒーショップライフテクノロジーズさんもいいですね?」

「はい……」

 崎村が力なく答えると、嬉々とした顔で竹ノ内と中村が引き上げる。その後で残されたT大学産学連携課の職員から何度も釈明を受けたが、どれも俺達の耳には残らず、そのままふらふらと産学連携プラザを後にする。



「崎村さん、畠中さん、少しお時間ありますか?」

 正門の近くの喫茶店のあたりまで来ると、それまで無言だった辻井が俺達に声をかけてくる。

「え、ええ」

 これからの話の展開を予想してか、崎村がうろたえながら答える。

 人数分の珈琲を受け取ってテーブルにつくと、安藤という女性の研究員が「どうなってるんですか?」と攻め立てるようにこちらに尋ねる。辻井はそれを「ちょっと待って」と制すると、さっきと同じように穏やかな調子で話し始める。


「……さて、と。なかなか難しい展開になりましたねぇ」

「すいません――」

「こんなはずじゃなかった、かな?」

 辻井はそう言うとふうと息を吐き、店内の壁掛け時計を指さす。

「17時30分過ぎたね。僕や安藤は仕事は終わって直行直帰の予定だし、少し砕けて話をしてもいいかな?」

 崎村が無言で頷く。

「こちらの出したF/S案件を、すでに自社と共同研究しているT大学と同時に受けて、持ち出しを抑えながら実施するってプラン、なかなか筋はよかったよ――考えたのはどっちかな?」

 俺が崎村を指さす。

「なるほど。弊社の思惑の想定も、大学側の事情の読みもいい……じゃぁ、崎村君に聞こうか。今回の件は、何で”失敗”したのかな?」

 崎村は頭の中で答えをまとめている最中のか、言葉を出せないでいる。

「立川君から送られてきた資料を見たところ、君たちは竹ノ内研をやめた後で、すぐにコーヒーショップライフテクノロジーズを設立して、今のところ七人で活動している……」

「部長、失礼ですが彼らは私たちよりも帰りの移動距離もありますし、端的にお話になった方がよろしいのでは?」

 本筋には関係ないと思ったのか、安藤が辻井の話を遮る。少なくとも安藤の方は、自分の仕事にケチをつけられたと思っているのか、よほど俺達との話を早く切り上げたいらしい。


「ああ、そうだね。では、率直に聞こうか。君たちはこのプランを進めようと思ったときに、『何故上手くいくと思ったのか』な?」


 俺はこの時ほど焦っている崎村を見たことがない。ああ、ううと何か口に出そうとすると唇を咬んでしまっている。しばらく様子を見ていた辻井がもう一度小さくため息を吐いて、話し始める。


「……崎村君は『○○だったら××となる』という条件分岐で竹ノ内教授の行動を予測し、それはさっきも言ったように筋はいい。私はこの分野の事情はよくわからないが、竹ノ内先生の状況も把握していて、すべての関係者にプラスになるように考えられたプランだったのだろうね。

 ――だが、それは失敗した。何故かわかるかな?」

 俺も崎村も無言のまま首を振る。



「感情だよ」

 

「変に難しく考えなくてもいい。竹ノ内教授の話し方は明らかに君たちに感情むき出しだったじゃないか。

 ……ときどき居るんだよ、ああいう『感情の化け物』みたいな人間がね。これはアカデミアだけじゃない、民間にもゴロゴロといる。つまり、君たちの――いやこの場合は特に崎村君の弱さは、『圧倒的な経験値不足』からくる、非合理で感情的な意見への対応が未熟といったところだね」


 辻井は自分のカップの珈琲を一口啜り、それをまたテーブルに置くと続きを話し始める。


「だからと言って、君たちが彼らのように感情的な『ビジョン』とか『熱意』とかそういう言葉で表されるようなものを持っていないと言っているわけじゃない。

 私たちは、目的であるこの分野への新規参入が成功すれば、正直そんなのはどうでもいい。しかし、世の中にはそういう感情的な人間が居る以上、あんな場面への対応は常に折り込んでいないといけないってことだね。

 君たちは大学院を出て、そのままポスドクとして大学院で働き始めたせいか、少しその点が会社勤めをしている人間よりも弱く見えるのは事実だ」


 辻井は項垂れる崎村を見ながら、さらに続ける。


「……しかし、評価できる点もある。あの場で”取り分”の話に持っていかなかったのは賢明だった。

 個人的な感情で約束を反故にするような人間に金の話をすれば、際限なく要求されるのがオチだからね。君たちが、少なくとも最低限の部分で『自分たちの仕事の価値がわかっている』というところは良いね」


 辻井はもう一度壁掛けの時計を確認する。


「そこで本題に戻るわけだけど、当然、私は君たちと竹ノ内教授との確執なんかには

 われわれの目的はあくまで『新規参入事業の成功』であって、しかも、この件はそのための多くのプランのごくごく一部でしかない。端的に言えば、『変につまずくくらいなら、プロジェクトごと切ってしまえばいい』と思っているくらいのね。


 だから、今回の契約案の件については一旦、『保留』とする。


 ただ、君たちが彼らを上手く説得する、あるいは別の方法を考えるなどして、私たちにもう一度提案ができるのであれば、聞くことはできる。もちろん、費用の再見積もりも含めてね。今日はそれで解散としよう」


 辻井はそういうとテーブルの脇に置いてあった伝票を持って席を立つ。そして、つられて立ち上がろうとする崎村の右肩を軽く叩くと、そのままレジに向かう。俺も崎村も追いかけようとしても足が動かずに、その場に留まってただただ彼らの背中を見ることしかできなかった。




「……いいんですか? 部長」

 すぐ後ろを歩いている安藤が口を開く。

「まぁチャンスを与えるくらいならね。彼らはうちのOBである中小基盤整備機構の久保の紹介だし」

「でも、あんな失礼な会議をしたような人たちですよ?」

 安藤はよほど気に障ったのか、まだぶつぶつと言っている。辻井は、それをふっと笑う。

「まぁいいじゃないか。前のプロジェクトを閉じたばかりなんだから。それに、さすが彼の紹介だけあって、なかなか思い切りのいい人物のようだし」

 正門を出た通りでタクシーをつかまえ、そのまま二人とも乗り込む。安藤はまだ納得がいっていない様子でいる。

「安藤君、彼らの提案に出せる予算を年間三千万までにして、その代わり期間を二年か一年半って”線”で交渉するように立川君に伝えてくれるかな?

 ただし、あくまでこちらからその予算の開示はせずに、彼らの積算してきた見積もりを待つように、と」

「は、はい。金額はわかりますけど……期間は短くするんですか?」

 安藤の質問に、辻井は右手で顎をなぞる。


「まぁ、このままだといずれだろうからね。現段階でうちとして待てるのは最大で二年。

 ……今頃、必死で自分たちの価値を見直して、どこに注力すべきか、うちに売る値段をいくらにすればいいかとあれこれ考えているだろう。それが上手くはまれば良し、間違った方向に妥協してしまえば、他の無数のベンチャー企業と同じくただの藻屑と消えるだけだよ」

 安藤は声色も表情も崩さずにそういう辻井に少し怖れを抱く。タクシーのラジオから「夜遅くに関東地方は広く雨となるでしょう」と流れてくると、辻井は「雨か。今日はどこにも寄らずに、家に帰るか」と誰にいうわけでもなく、つぶやいた。




(続く)

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