第15話


 吐き出される何十人とも知れぬ吐息で空気はよどみ、日の光を浴びることの無い生き物たちの心は腐っていた。

「よくやった」

 響く声に、少年がゆっくりと振り返る。物心がやっとついたという頃、無邪気というよりは無機質に近い瞳は、周囲に散らばる鮮血と同じ赤い色に染まっている。

 わけもわからず見上げる男の後ろには、さらに大勢の人影があった。皆、労働によって山のように膨れ上がった肩に、爆薬の詰まった金属が埋め込まれている。

 本来なら看守によって管理されているそれは、少年の小さな手に握られている己の短剣によってもたらされた死に無効化され、今は飾り程度の役割しかない。

「これで、空が見れるの――?」

 乱れた衣服はそのままに、きれいな金色の髪にまとわりつく血糊を乱暴に拭って、少年は集団を率いる男に言った。

「共に来るのならな」

 差し伸べられる手は大きく、無骨で雄々しく……そして、震えるほどに凍てついていた。

 それでも、少年はその手を握る。

 病で死んだ母が見たという青く晴れ渡る空を、その目で見てみたかったのだ。

 

 ◆◇◆◇


 銃口から飛び出したいくつかの弾丸は、壁に固定されているパイプの一つ――真ん中にあるもの――を破壊した。

 そして……

「あ、ああ」

 覆いかぶさる、金色の長い髪。さらさらと頬に触れるその束は、見た目に反して心地よい感触をベルデにもたらした。

「どうして、どうして……ファンゼンさま」

 ずるり……と、音を立てて崩れ落ちるファンゼンの背中に、どす黒い血液の染みが広がってゆく。

「案外、卑怯なマネを……してくれますね」

「俺だって意外だ……貴様のような奴が、子供を……かばうとは、な」

「ツァリス!」

 破壊された大きなガラス管から流れ出てくる大量の結晶水が、横たわる二人の男の体を濡らした。

 ばしゃばしゃと足元にたまる結晶水をかき分け、横たわるツァリスへと駆け寄ったクローセルは、その……荒い呼吸を繰り返す襟元を掴み上げる。

 胸を貫いた剣は自分で引き抜いたのだろう、流れ出る結晶水の底に取り落とした銃と一緒に沈んでいた。

「どうして、撃つんだよ! 殺すんだよ!」

「なら、死んでいてもよかったと、お前は思うのか? 甘いことばかりを口走る、青臭いガキめ……それでは何も守れないぞ。お前はこいつらだけでなく、あの男……エルモアにもそうやって語るつもりなのか?」

 口元にこびり付いた血……いや、膜のような結晶が口を開くたびに。小さな音をたててひび割れる。

「……こんな、これが晶化症」

 掴み上げた身体はぞっとするほどに冷たく、素肌は……すでに石のようにひび割れていた。

「エルモア様は、そんな理想が通じるほど……甘くはありません」

「ファンゼン?」

 細かい結晶を吐き出しながら咳き込むツァリスの背中を支え、振り返る。

「どうして、私なんかを……」

「泣くのですか? わたしのために」

 底をつくことを知らない勢いで流れ落ちる結晶水は、仰向けに倒れたファンゼンの血液を薄めてどこまでも広がってゆく。

 それを押し留めようとベルデは急速に冷えてゆく体に覆いかぶさるが、止まることの無い時間は残酷だった。

「誰かに死を見取られるなど……思ってもみなかった。こうして、死す時を自分で選ぶことも」

 少し温かみのある液体から腕を持ち上げ、何かを探るようにふらふらと宙を掻く。

 彼がその体に受けた銃弾は一発や二発ではなかった。流れ出る夥しい血液が、それを物語っている。

「必要なものしか受け入れられない世界には、誰の居場所もない……ですか。あなたの言いたいことは、分かる。争いは争いを、憎しみは憎しみを。分かってはいるが、止められないほどに私たちは愚かなのです。そうならざるをえなかった。あの時、エルモアさまに付き従うほかにあそこから出る道はなかった。たとえ、それがただの駒であったとしても。分かるでしょう? わたし達と接する世界はとても残酷にできている」

 内臓を焼かれるような憎しみをこえるのは、言葉ほどには容易ではない。理性よりも本能が許すことを拒絶するのだ。それは、クローセルも知っている。

 その後に訪れる、空虚な時間も。

「わたしは既に死んだ人間だ。泣かないでいいんですよ、ベルデ」

 冷たい手が、零れる涙をふき取るようにベルデの頬に添えられる。

「生きる意志を捨てたわたしは消されてゆく側にいる……人間だ。けれど、貴方は違うでしょう? 自由に道を選んで生きる力が……意志がある」

 ファンゼンの疲れた微笑み。ベルデは弱々しく震える手に自分の手を重ね、凍てついた体を温めるように強く握り締める。

「あの時……本当は知っていた。坑道から出たところで、世界は決して色鮮やかではないということを。それでも――」

 それでも、どこかで希望していた……望んでいたのだ。こことは違う、優しい世界を幼いファンゼンは夢に見ていた。

「結晶堂に続く道は開かれている。 君が信じる道を通すというのなら、行くといい。 どちらが正しいかは、誰が決めるものでもないでしょうが……」

 苦しげな息と血を吐き出しながら、泣き顔とも思える笑みを浮かべる。

「信じるか信じないかは……こちら次第。いや、お前次第か」

「ツァリス」

 唇が動くたびに高い音が響き、支えている身体は完全に弛緩してしまっていた。

「急げ……晶化症の進行が、思ったよりも……早い」

 ツァリスは、苦しげに胸をそらす。その反動で表情を覆っていたサングラスが外れ、深い琥珀の瞳が光り輝く水溜りの中にあらわれた。

「後から、必ず、俺も……ゆく。甘言は捨て去れ、大切なものを守るには――力が必要だ」

「人間として……空賊として、俺は誓うよ」

 クローセルは動くのもままならないツァリスを横たえ……立ち上がった。

「エルモアをたおして、この船を沈める。そして……リエルを助ける」

 爆音と共に、船が大きく揺れる。東海の空賊たちの攻撃が始まったのだろう、警報音に加えて荒々しい男達の声がその大きさを上げた。

「でも、それは俺が信じている方法でだ」

 短剣を鞘に収め、クローセルはファンゼンの側で座り込んだまま、動かないでいるベルデを振り返った。

「わたしは……どうしたらいいのか、まだ分からない。行くなら、行けばいい」

 振り返らず、ベルデは視線をファンゼンに向けたまま呟いた。息が絶えるその時までを見守るように、じっと。

「死ぬなよ」

「……」

 返事は無い。

 振り切るように踵を返したクローセルは、真ん中の……ツァリスの銃弾が破壊したパイプラインの前に立った。

「どこまでも、甘い奴だ」

「戦わないとは言ってない……俺だって空賊だ。持っているこの短剣も、意志も、飾りなんかじゃない」

 断線された上部からは、とめどなく結晶水が流れ落ち。結晶堂へと続くという下部は、まるで奈落のようだ。吹き上げてくる風は不気味に唸り、覗き込むクローセルの髪を撫でた。

 選択を間違えれば、行く先の知れぬ底へと延々と落ちてゆくことになる。ぞくりと良くない想像に身震いしながらもクローセルは唇を引き締め、ガラス製のパイプへと飛び込んでいった。


 ◆◇◆◇


「……救う必要など、ない……」

 大きな瞳から涙をこぼし、たくさんの銃創を掌で必死に押さえるベルデにファンゼンは微笑んだ。

「癒せない、わたしじゃ……駄目だ」

 蒼く光る爪先は今までずっと何かを奪うために使われ続けていた。自分に治癒の能力があると知ってはいても、それをどう操るのかは分からず、ただ、徐々に呼吸を浅くしてゆくファンゼンを見ていることしか彼女には出来なかった。

「わたしを救う必要など、ないんですよ。 生きることを諦めている……つまりは、死人のようなものなのです」

 流れすぎてしまった血のせいで思考はぼんやりと……視界すらも霞んでゆき、彼は天井から降り注ぐ明りに眩しそうに目を細めた。

「知れば世界に絶望することを……知っていた。穴蔵から出たところで世界は一つも違わないということも知っていた」

 慰めるように動いていた手は力尽き、淡く光る透明の液体の中に沈む。

「それでも、坑道を出て初めて見た空は……あなたのその瞳と同じくらい青く、綺麗だったんですよ。……美しかった」

 ベルデは唇に犬歯をつきたてる。感情の高ぶりを察して勝手に出てくる涙を拭うことも忘れ、死に逝く哀れな男を見つめた。

「ベルデ。あなたの見上げる空は、今も鮮やかですか?」 

 それは本当に気まぐれだった。生きることをやめる直前に見た、脳裏に焼きついている青。それと同じベルデの瞳を、側に置いておきたかった。

 ただ、それだけだった。

「……はい」

「なら、行くといい。ここでわたしは死にますが、貴方は――生きなさい」

 赤く染まった瞳からゆっくりと、光が消えてゆく。

 あまりにも静かすぎる死だった。まるで始めからそこには誰もいなかったかのように。

「わたしの空は」

 響く爆発音と、悲鳴。そして足音。

 喧騒に満ちた空間の中、ベルデはファンゼンの体をあやすように抱きしめた。

「夕日のように赤い空です、ファンゼン」




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