第9話
さらさらと……優しい風が頬を撫ぜた。
いままで起こった事の全てはまるで夢であったのかと錯覚してしまうほど、とても優しい感覚と美しい景色が目の前に広がっている。
揺れの激しい荷台に肩をすくめ、クローセルは咲き乱れている結晶花が放つ甘い匂いを吸い込んだ。
「良い匂いだ」
「……綺麗」
同じようにして景色を楽しんでいたリエルも、クローセルに習うように胸を膨らませ、ため息混じりにそう呟いていた。
彼等が流れ着いたこの島、セキセイ島は、サウスコースト大陸の大半を占めるロニオン帝国領に属し、クローセルとリエルがであったレイクアッドがあるカルカスト大陸の丁度中間に位置する島であるようだ。
「そんな所から流されて、よく生きておったの」
「……まったくだ。悪運が強いのだけは、自慢できそうだぜ」
航行布を破壊され制御不能に陥ったものの、海面に激突するのは免れたようだ。あのままの勢いで海に投げ出されていては、いくら悪運が強くとも生き残ることなど出来まい。
「……しかし、ヴァラクタめ。レイクアッドまでも襲うとは」
ハンドルを握るペダは、分厚い唇にくわえている煙草から煙を立ち昇らせ、その苦い味を噛み締めるように言った。
「ヴァラクタのこと……知っているのですか?」
「知っておるも何も……十年前、このセキセイ島を海に沈めたのは奴等じゃよ」
「海に沈めた? 島をか?」
声を上げるクローセルに頷くように、ペダは馬車を止めて操縦台から身を乗り出した。
「そうじゃ……アレを、見てみなさい」
節くれだった指が指し示すその先、小さな村を指さした。
「あの赤い屋根の家……あれはな、大結晶が安置されていた祠を守っていた一家が住んでいた家なんじゃ。
十年前、突然この島に現れたヴァラクタは人々を殺し、略奪し……結晶を奪い去っていった。島は当然、海に墜落し……逃げ遅れた多くの人々もまた死んだ」
そう語るペダの瞳は淡々とした口調と同じく乾いてはいたが、言い知れぬ悲しみと悔しさは見て取れる。
「そんな、酷いことをして……なんだっていうんだよ」
空から見たレイクアッドの痛々しい景色を思い出そうとすると、震えるほどの怒りをクローセルは覚える。だから、老人の胸のうちにある悲しみを理解できるような気がする。
「復讐」
ペダは再び馬車の車輪を転がし、視線を前へと向けた。
「復讐……ですか?」
「ヴァラクタの奴らは皆、アスマ鉱山に送られた異能有石者なんじゃよ」
「有色結晶を採掘している?」
「そうじゃ」
振り返ることなく、ただ頷いて。ペダは話を続けた。
「今から十六年前、サウスコーストの最南端、アスマの地にある鉱山の最奥で労働を科せられていた異能有石者達の反乱が起こった。
それが、今のヴァラクタの始まりだったのじゃろうな。
反乱の指導者だったエルモアは、その意思に賛同したものを率いて鉱山を脱走し……発掘途中だった古代船ヴィーグリーズを奪い、ヴァラクタを結成した」
それから、サウスコースト大陸を中心にヴァラクタによる襲撃と略奪が始まったとペダは語る。
「だから、復讐なんですか? だからと言って……あんなこと」
「リエル?」
ペンダントを握り締め、うつむいた彼女の顔は青白い。
「……着いたぞ。あれが、わしの工房じゃ」
「うわ、でかっ」
小高い丘を登った先には、倉庫のような大きな建物とそれに寄り添うようにして小さな小屋が建っていた。大きい方がペダの言う工房であり、小さい方が居住場所なのだろう。
白い柵に囲まれたそこは、まるで牧場のようでもある。
馬車はその小屋の前で停止した。
「掴まって」
「ありがとうクローセル」
先に荷台から降りたクローセルは、リエルに手を貸して草地に降ろしてやる。
「先に行っておれ。この馬車は旧式でな、火が落ちるまで少し時間が掛かる」
「ああ、分かった」
操縦台に座ったままのペダに促され、クローセルは小屋へと足を踏み入れる。
「おやおや、これは。
ペダさんの言うとおり、他にも流された人がいたのか」
「?」
恐る恐る、質素な室内に入った二人を出迎えたのは緩やかな口調。
視線を向ければ、知的そうな眼鏡をかけ、細い体を強調するような白衣を身につけている黒い髪を肩まで延ばした背の高い男がそこに立っていた。
「はじめまして。
私はジュテルニ。流れの医者をやっていて、今はこの島に居座っている変わり者だ。
ああ、しかし。この島の住人以外の人を見るのは久しぶりだな、実に新鮮だ」
医者らしく、細く長い指を生やした手を差し伸べられ、反射的にそれを握り返したクローセルはその台詞に苦笑をこぼす。
「へ、へぇ……。俺は、クローセル」
「リエルといいます。はじめまして、ジュテルニ先生」
「ああ、よろしく」
戸惑うクローセルをまったく気にすることなく、穏やかに微笑み返したジュテルニは、早速とばかりに長卓の上に黒い鞄をどさりと置いた。
「見た限り、君達の方はそれほど酷い怪我は無さそうだが、一応診察をしておこう。
ヒヨコ頭のクローセル君、まずは君から。その体中の切り傷に、たっぷりと消毒液をかけてあげなければね」
「……いや、いいです。ほっとけば治ります」
鞄の中からそれなりに大きい瓶を取り出したジュテルニの表情はにこやかではあるが、その微笑みは安心させるような類のものではなく、どちらかというと罠に誘い込むような怪しさを感じさせる。
「だめです、クローセル! ちゃんと手当てしないと、もしも傷が膿んでしまったら、大変なことになるわ」
「いや、でも……」
嫌々と首を振るが、背中を押すリエルの表情は真剣だ。
「……わかったよ」
あまり駄々を捏ねるのも格好がつかないので、しぶしぶ頷いたクローセルは側にあった椅子を引き寄せ、ジュテルニの前に座った。
「お嬢さんの方はこちらに来るんじゃ。いつまでも潮まみれにしていては可哀想じゃからの、水で体を洗うといい」
動力馬車の鍵を手にはいってきたペダは、そのまま奥の部屋へと進んでゆく。
「うわ、ずるい。俺も……」
「陸だろうが海だろうが水は貴重品じゃ。お前は我慢せい」
「……そりゃあ、そうだけど」
クローセルの着ている衣服は、特殊な生地を使われているために既に乾いている。潮水にぬれたために髪は多少ごわついているが、いつものことといってしまえば我慢も出来る。
水が貴重品であるという言葉は、船に乗るクローセル自身小さな頃から言い聞かされていることなので我侭はいえない。
「ごめんなさい」
その必要は無いのに謝ってくるリエルに首を振り、クローセルは染みこんでくる消毒液の刺激に口を引き結んだ。
気持ちのいい真水で全身を清めたリエルは、ぬれた髪を拭きながら袖を通した服の柔らかい感触にほっと息をついた。
「すみません、着替えまで借りてしまって」
「年頃の娘に着せるようなものが何一つ無くて申し訳ないがな」
「いえ、そんなことありません。
こんなに綺麗な染物、初めて着ました」
ペダから借りた服は男物とはいえ、裾の長い上着は鮮やかな色と模様で飾られていて、足を通すえんじ色のズボンはとてもはきやすい。
「気に入ってくれて何よりじゃ。連れの手当ても終わったようじゃしの、とりあえずお嬢さんもみてもらいなさい」
「すみません、何もかもお世話になってしまって」
「わしのような老いぼれには、これくらいのことしかできんからな」
そう、少し悲しげに言って。ペダはチェストの上においてある写真立てに視線を向ける。
「それは……?」
古びた……というよりは煤で痛んだ一枚の写真。そこには三人の人物が映っていた。
「娘夫婦に孫……生きていればお前さんと同じくらいだったろうな……」
精悍な顔つきをした男と柔らかそうな金色の髪を持つ女。微笑を浮かべる彼等の間には、幼い子供が座っている。
「十年前に、みんな死んでしもうた……」
積み重なる年月と悲しみにやつれたその声は、とても痛々しい。
「さあ、ここで立ち話をしていても仕方がない、早く戻るとしよう。何も無いところだが、ここで取れた小麦で作ったパンは格別に美味いんだよ」
「……はい、そうさせていただきます」
ペダは寂しさを振り払うようにそそくさと暖簾をくぐり、奥へと消えて行く。リエルはそれを追うように歩き出し……もう一度、写真へと視線を向けた。
写真立ての側に置かれている小さな花瓶。奉げられているのは、蕾を膨らませた結晶花だ。
幸せそうな家族の瞬間を永遠に留めたその一枚に目頭が熱くなるのは、家族とも言える存在をなくした痛みを自分も知っているからなのだろう。
リエルは零れそうになる涙を押し殺し、写真を手に取る。
「……この子?」
◇◆◇◆
そこには、妙に満足げな表情をしたジュテルニと、長卓に突っ伏すクローセルの姿があった。
「まぁ……クローセル」
「よく耐えた、偉いよ」
「うぅ……」
よほど染みたのか、吐き出す声はうめきばかりで、その強気な視線も今はどこと無く弱々しい。
「さて、次はお嬢さんのほうだな……どこか痛むところや気になるところはあるかい?」
「いいえ、私は大丈夫です。それよりも、ツァリスさんは?」
首を振って、リエルはこの場にいない男の姿を探した。
「彼なら奥で眠っている。
怪我は酷いが、とりあえず今のところは大丈夫だろう。何れ、目を覚ます。
それよりも、キミのそのペンダントなのだが」
「……これ、これのこと何か知っているんですか?」
光の加減によって色が変わるペンダントを凝視しながら、ジュテルニはその表情を僅かに曇らせ、頷いた。
「ヒヨコ頭君から大体の事情は聞いたが……ね」
ふう、と重たげな息を吐いて続ける。
「――ああ、知っているよ。
そのペンダントはサルヴェリオ地方の風習で、契りを結んだ男女に送られるものだ」
「サルヴェリオ……アスマか」
頭の中にある世界地図を開いて、クローセルは苦い声を出す。アスマと聞くと、どうしてもヴァラクタを連想してしまうからだ。
「アスマ王国のサルヴェリオ……有色結晶が取れる鉱山が数多くある場所だ。
サルヴェリオの男たちは皆、鉱山で取れた結晶を首都に運ぶ仕事についていてね。今でこそ飛行帆船が普及しているが、それ以前は難儀な仕事であったと聞いている。
長ければ一ヶ月も家を空けなければならない彼等は、二つに割ったアウラグラルシィの種を結晶の中に埋め込んだペンダントをお互いに持ち合い、再び無事に出会えるようにと誓いを立てたのだな」
ジュテルニは真剣に話しに耳を傾けているリエルに、手招きをしてみせた。
「アウラグラルスシィ……結晶花とも呼ばれているその花の種子の胚はとても美しく、同じ色合いのものは唯一つとしてないと言われている。
君のは――深い藍色をしているね」
「詳しいんだな」
「出身はアスマ王国だからね。サルヴェリオの運び屋達は友人のような人たちだったよ」
ジュテルニは話を切るように、パチンと音を立てて医療鞄の口を閉める。
「だった?」
「……ああ」
言葉の語尾を拾うクローセルに、ジュテルニは余計なことをと舌打ちをする。
「聞かせてくださいませんか?」
……が、その真意を確かめるような琥珀の瞳に見つめられては仕方が無い、渋々ながら切ろうとした話を続ける。
「サルヴィリオの村々は、十六年前……ことごとくヴァラクタの空賊によって滅ぼされたのだよ。
君が持っているペンダントは、その細工からして……おそらくはレディリア村のものだろう。ヴァラクタが操る古代船ヴィーグリーズが見つかった場所だ」
「……ヴィーグリーズが!」
「私が知っているのは、ただ……それだ」
今度は完全に口を閉じ、彼はペダが用意したパンを手に取った。
「とりあえずは食べなさい。落ち着いて、それから考えるのも悪くは無いじゃろう?」
「はい……そう、ですね」
リエルは強張った表情から力を抜き、クローセルの隣に座る。
「……リエル」
見ているこちらが心配になってくる健気さだが、儚い外見と違って多分……彼女は強い。
だから、クローセルは余計な言葉をかけることは無く、用意されたパンを手に取った。
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