第8話


(――何故だろう)

 手足を絡め取る、不快な倦怠感を振り払うように身じろぎながら、リエルは暗闇に問いかける。

(何故だろう、とても……懐かしい感じがするのは、何故?)

 はっきりとした理由はおろか、何故そう思うのか推測も立たない。ただ、漠然と湧き出てくる感情に、彼女は戸惑うばかりだった。

「――エル、リエル!」

 ぼんやりと、曖昧な空虚を漂う彼女の意識を強い調子の声が引き寄せる。

「……?」

 聞き覚えのある声に、リエルはゆっくりと……重たい瞼を持ち上げた。

「リエル」

「……クローセル?」

「そうだよ」

「あぁ、よかった。生きて……いるんですよね?」 

 強い日差しによる逆光で細部を見ることは出来ないが、リエルは自分を抱きかかえているのがクローセルだと確信して、ほっと息をついた。

 不安を誘うような浮遊感は既になく。その代わりにと、年のわりにはしっかりとした骨格の腕が力の入らない体を支えてくれていた。

「ここは、どこでしょう?」

「分からないな」

 背中を支える腕に頼りながら上半身を起こしたリエルは、静かな潮騒の音に惹かれるように視線を向けた。

「海。それに、海岸……ですか?」

 海岸といっても、体の重心を支える腕は砂や砂利ではなく細々とした草が生える土の上にある。周りの風景も岩場というよりは丘のような感じで、むき出しの地肌はゆっくりと寄せて返す波に浸食されて洞のように抉れている。

「立てるか、リエル?」

 地平線を見つめていたクローセルはやれやれと肩をすくめ、リエルを振り返る。

「はい、大丈夫そうで……」

「……? どうしたんだ?」

 間近で合わさる視線。

 クローセルはじっと見つめてくるリエルの深い色合いの瞳が、己の右目に注がれているのに気づいて、苦笑をこぼした。

「悪い。気持ち悪いだろ、これ」

 右目を覆っていた黒い眼帯は、海に落下した時に外れてしまったようだ。

 細い体を支えていた手を離し、先に立ち上がったクローセルは外気にさらされた右目……色の無い瞳を掌で隠して、左手を座り込んだままのリエルに差し出す。

「……そんなこと、ないです」

「だって、色がないんだぜ? 片方だけ」

 掌の柔らかい感触を握り締めて、彼女を立たせたクローセルは、隠した右目を琥珀の瞳の前に晒した。

 鮮やかな青い左目とは対照的に、まったく色素がない右目は見た目もあまりよくはなく、視力もないので普段は眼帯で隠している。

 異能有石者の特徴と非常に似通っているために、さらしたままでは余計な揉め事に巻き込まれてしまいかねないというのも一つの理由だった。

「銀色」

「え?」

「近くで見ないと分からないけど、銀色に見える……まるで、結晶のよう。とても綺麗な色ですね」

 嘘ではないと。リエルは穏やかな笑みを浮かべ、首に巻いていたスカーフを解いて面食らっているクローセルに差し出した。

「眼帯の代わりに使ってください」

「……ありがとう」

 差し出されたスカーフの、手触りのいい布地を二つに折って右目を覆い、甘い匂いの混じる夏の風に視線を這わせる。

「好き勝手に、やられちまったな……くそっ」

 いくら目を凝らしても空と雲と海が目の前にあるばかりで、襲撃を受けたレイクアッドは影どころか幻さえ見えない。

「あの後……どうなったんでしょうか? まさか、あのまま……」

「大丈夫さ。レイクアッドには空賊がいる。あのまま好き勝手に荒らさせるかよ」

 肩を重くする不安を首を振って退け、嗤う。

「そう……ですね。

 クローセル、あれ……誰かきます」

 潮にぬれてべとつく髪をかきあげ、リエルはこちらへとやってくる影に細い人差し指を向けた。

「……誰だ?」

 リエルを背後に隠すように前に出て、身構える。

「この島の人間か?」

「やはり仲間がいたようだな」

「仲間?」

 のそりと足を動かしてやってきた初老の男は灰色の瞳を細め、クローセルとリエルに視線を合わせて言った。

「誰だ?」

「わしはペダ・ウエンリル」

 立派に蓄えられた髭から僅かに除く分厚い唇から吐き出される声はしゃがれているものの、警戒するような敵意は無く。クローセルはふっと息を吐いて、体の緊張を解いた。

「……俺は、クローセル」

「私はリエルといいます、あの……」

「これは、あんたのじゃろうか?」

 リエルの言葉を押しのけて、ペダと名乗った男はポケットの多い上着から銀の鎖がついたペンダントを取り出した。

「あっ、それは!」

 水晶らしき鉱石をひし形にカットし、鎖と同じ銀の細工が施されているそれは、紛れも無く彼女が首にさげていたものだ。

「ふむ……お前さんのものかね」

「はい。とても大切なものなんです」

「そうか……それは、よかったのぅ」

 ペンダントをリエルに渡し、ペダはあごひげを撫でながら話を進める。

「別の入り江に座礁していた黒い船で、これまた黒尽くめの男と一緒に見つけたんじゃよ。

 女物のようじゃったからな、念のために他に流れ着いている者がいないか見回っていたんじゃよ」

「あぁ……あいつ!」

「ツァリスさん? 助かったんですね、あの人も」

「怪我をしていたようじゃが、とり合えずは安心……としかワシには言えんよ。医者ではないからな」

 表情を明るくさせるリエルに、ペダは少し渋い表情で答えた。

「ほかに仲間がいないのなら、わしの住処まで来るといい。

 黒ずくめの男も、そこにおることだしな」

 そう言って、ペダは無骨な人差し指を自分たちがやってきたほうへと向けた。そこには動力馬車と呼ばれる、馬の変わりに飛行帆船の動力を使って荷台を引く乗り物があった。

「爺の気まぐれに、遠慮することはない」

「ありがとうございます、ペダさん」

 ぺこりと頭を下げたリエルについて行こうと促す視線を向けられたクローセルは、素直に首を縦に振って賛成してみせた。

 見ず知らずの島で、ほかに頼る人もない。今は彼等の言葉に甘えるしかないだろう。

「世話になるよ、じいさん」

「気にせんでもよい。

お前達のような子供が困っているのを、放っておけないだけじゃよ」

 ぽつり……とそう言って、ペダもまた重たい足を持ち上げる。


 ◆◇◆◇


 口の中にたまった唾を吐き出すと、少女はゴーグルを外し、長いまつげに守られた青い瞳を風にさらした。

 開けた視界に飛び込んでくるのは、雄大な空と小さな島の全景……そして緑色の平原と白い花畑。

 素朴……言ってしまえば簡素な景色を見下ろして、ベルデは生乾きの服の感触に表情を濁した。気温が高いのでじきに乾くのだろうが、不快なものは不快だ。

「ここは……」

 咲き始めの白い花が穏やかに揺れる島を見据え、ベルデは体の震えを止めようと拳を強く握り締める。

「よりにもよって、こんなところに流されるなんて」

 吐き捨てるように苦々しく呟いた彼女は、厳しい視線を背後へ向けた。

 その視線の先にある崖の下には、航行布を完全にもぎ取られ、飛行帆船としての能力を奪われた船が土に埋もれるようにして横たわっている。

「航行布だけじゃなく、動力も壊された。これじゃあ、ヴァラクタに連絡も入れられない」

 もし、連絡が取れたとしても自分を助けに来る可能性は限りなく低いが、こんな所でじっとしていたくはなかった。

 一刻も早く、この場から去りたい……いや、逃げたいのか。

「……しかたない、か」

 この事態を打開できるものはないかと視線を動かしていた彼女は、くぼ地にある村があるのを見つけて、大きく息をついた。

 なにか、重要なものを決意するように真摯な顔になって、ベルデは踝をくすぐる草を踏みしめて歩みを再開させる。

 辺りには人影らしい人影は無く、まず、辿り着くまでは余計な騒ぎを起こすことはないだろう。

「アウラグラルスィが……こんなに」

 背の高い草を踏みしめながら、強い風の中に混じる甘い匂いに彼女はゆっくりと首をめぐらす。

「なんて、強い花なの」

 目が痛くなるような緑に囲まれている小さな島……小さな村。そんな質素な景色を補うようにアウラグラルスィ、別名結晶花と呼ばれている白い花弁を持つ花が咲き乱れている。

 耳を澄ませば、夏祭りを行っているのか。妙に浮き足だった音楽がベルデの耳を打つ。

――そっくりだ。

 流れる風も……その甘い匂いも。

 囁く草原の音……青い空に響く歌声。

 まったく同じというわけではないが、それは確かに彼女の記憶の中にある景色を連想させるものだった。

 懐かしい……そう思えるほどの感慨はないが、彼女にとってはここがすべての始まりだったに違いない。




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