第2話
「わっ!」
ばさりと耳元で大きな衣擦れがし、すぐに視界が白で埋め尽くされた。
「掴まれ!」
「――っ!」
落下の時に離れたのか、姿は見えないがはっきりとした声に促され、無我夢中で布にしがみ付く。
「た、たすかった」
手を滑らせてしまえば命は無い。下ろしたてなのか、手触りがよすぎて滑る布を必死に掴み。不安定ながらも、とりあえず静止した景色にほっと息をつく。
視線を恐る恐る動かしてみれば、別のワイヤーロープに固定されている水色の布にレイナンが同じようにしてしがみ付いているのが見えた。
「レイナンの奴、無茶しやが――」
無事なことを示すために、悪態の一つでもついてやろうと口を開いた矢先、ぎしっと鉄のしなる不気味な音が体を揺らした。
「へ?」
ぐらりと、再び視界がぶれる。
「クローセル!」
レイナンの声は、弾けるように引きちぎれたワイヤーロープの断絶音によって、かき消される。
(なんだよ、なんだよこれ!)
襲い掛かってくる風圧に声が出せないので胸中で毒つき、クローセルは瞼を閉じることも忘れて足元にある景色をにらみつけた。
突き立つ家々がそれでどいてくれるわけでもないが、今、この状況で目を閉じて竦んでいては、激突死は免れないだろう。
「こんなところで……」
ぎりぎりと奥歯を噛み締め、恐怖に途切れそうになる気力を振り絞る。
「こんなところで、死んでたまるかぁぁぁぁぁっ!」
その叫びに、神という者が答えたのかどうかは分からないが。
夏の生暖かい風が高速船のような勢いでレイクアッドの上空を過ぎ去り、大きな布をもったまま自由落下しているクローセルの体を持ち上げた。僅かではあるが、落下の速度が緩む。
このまま、ゆっくりと着地できれば最高だ。しかし、そうは行かないのが人生というものなのか。
クローセルの体を布ごと持ち上げていた突風は、ほっと息をつく間もなく、吹き始めと同じように唐突に止んでしまったのだ。
そうなれば、当然――
「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!」
ぐんっと増した重力に引っ張られるように、クローセルは手から布を離してしまう。
「――っ!」
最後に見たのは、灰色の大きなテント。色鮮やかな町にはあまり似合わないなと、そんなどうでもいいことが頭を霞め、全身を包むような衝撃にクローセルは息を詰める。
「な、なんだ、貴様!」
聞こえてきたのは、見知らぬ男の声だ。
クローセルは体にまとわりつく分厚い布と割れた板を払いのけ、気絶しなかった自分を内心で褒めてやりながらゆっくりと立ちあがる。
あの高さから落下して助かったのは、頭上に組まれているテントと足元に敷き詰められている毛の長い、悪趣味な虎柄の絨毯のおかげだろう。打ち身はあるものの、骨には異常は無いようだ。
「わ、わりぃな」
体の調子を確かめて、クローセルは狭いテントの中央に立つ男に軽く頭を下げた。状況からして、おそらくはこのテントの持ち主だろう。
「き、きさま……」
小太りの身体をわなわなと震わせる金髪の男は、クローセルの苦笑に正気を取り戻し、側に立てかけてあった剣を取った。
「おいおい、悪かったって言っているだろ? なあ、君からもなんか言ってくれよ」
敵意はないと両手を広げるクローセルは、男の側で呆然と立っている少女に視線を向け……その青ざめた表情に不自然さを感じた。
白い肌に浮かんでいる感情はおそらく恐怖だろう。それはクローセルにではなく、彼と対峙している男に向けられているものだった。
「おい、おっさん。その子……なんで脅えてるんだ?」
「煩い。余計な詮索なんぞしてないで、取り返しのつかない怪我をする前に黙ってここから出て行きな!」
「なんだよ、見るからに怪しい奴じゃねぇかよ」
怒りに顔を赤らめている男は手にした剣を引き抜き、その鋭い切っ先をクローセルへと向けた。冗談ではないその目つきに、腰に下げている自分の短剣へと手を伸ばす。
「だめ、逃げて!」
瞬間的に高まる緊迫。震える少女の声は戦闘態勢をとるクローセルに向けて放たれるが、それが彼等の動く合図となってしまったようだ。
少女の声と共に、どちらとも無く踏み込んだ彼等の間で鉄と鉄がぶつかり合い、小さな火花が飛び散る。
「見た目と違ってやるじゃねぇか」
短剣を逆手に持ち、距離を取ったクローセルは男を値踏みするように睨みつけ、言った。
「黒の旅団、サイレントを甘く見るなよ小僧!」
「……黒の旅団?」
サイレントと名乗った男は、剣を構えてクローセルに飛び掛る。
――だが。
「人身売買をやっている組織の名前さ」
その剣が振りかぶられるより早く、サイレントの頭部に木片が投げつけられる。予想外の方向からの痛打に、彼はそれを見上げる余裕も無く悶絶した。
「レイ……」
落下の時に開けた穴から、見慣れた兄貴分の快活な笑顔が差し込まれる。サイレントに木片を投げつけたのは彼だ。
「世界を渡り歩いて、孤児を買ったり売ったりしている連中だよ。ったく、堂々とこんな所で商売しやがって」
「ひでぇな。じゃあ、君も?」
「私だけじゃありません。奥にも何人か……」
重たい布を支える梁に手と足をかけて器用に降りてくるレイナンから視線を外し、クローセルは意識を失っているサイレントを呆然と見下ろしている少女に向けた。
「あの……助けてくださってありがとうございます」
その視線に気付いて顔を上げた彼女は、濃い茶系の大きな瞳を見開いてクローセルに向き直る。
肩の位置で切りそろえられている、少し癖のついた赤毛。長い手足に纏いつくような薄い生地を重ねて作られた……まるで歌い手の衣装のような服がよく似合う少女は、首からさげているペンダントを両手で握り、不安げな表情をクローセルに向けている。
「気にするなって。
俺たち、空賊ノルシリータは困ってる女の子は助けるべしっていう大原則が……痛っ!」
「馬鹿、こんな時に名乗るんじゃない。余計な騒ぎになるだろう。
……ってか、なに赤くなってんだよ」
「う、うるさいな」
胸を張って名乗りを上げるクローセルをレイナンは軽く小突いて、少女に愛想笑いを浮かべた。
「オレたちが空賊だってことは、他の奴らには内緒にしてくれよ。その代りといっちゃなんだが……ここの警官に通報しておくから、事情を話して保護してもらうといい」
これ以上の余計な騒ぎはごめんだが、この状況を黙って見過してはさすがに後味が悪い。
一方的にそう決めたレイナンは、不満げに見上げてくるクローセルの赤い上着の襟首を乱暴に掴み、半ば引き摺るようにしてテントの出入り口へと向う……それを耳障りな声が阻んだ。
「おやおやぁ、客にしては随分と荒っぽいことをするぢゃないか?」
「……誰だ?」
足を止め、レイナンは掴んでいたクローセルの襟を放して軽く身構える。
「下がっているんだ」
緊張感がにじみ出る兄貴分の横顔に、クローセルもまた眦を吊り上げて少女を背に庇う。
「誰かと聞かれても、ぼくには答える義務は無いねぇ。さあさあ、ここはお前達のような子供がうろついていいようなところぢゃないよ。
その子は僕が買ったんだから、横取りはいけない」
もそり、もそりと毛足の長い絨毯を踏みしめてやってきたのは、クローセルの半分しか身長の無い、深緑色のタキシードを着た男だった。
ぎょろりとした丸い目は黄土色で、無造作に切られた短い髪は茶色。一度見たらなかなか忘れられそうにはない、奇妙な人間だ。
「どういったやつだか知らないが、そう言われて渡しちまうような、冷たい男に俺たちが見えるか? なあ、おっさん」
「ぼ、ぼくのことをおっさんと言うのかい? なんて失礼な小僧だね!」
とにかく、その子はぼくが連れてゆくんだよ! 邪魔するなら容赦はしてやらないからね!」
「どう、容赦しないんだ?」
憤る男に挑戦的な台詞を突きつけるクローセルに、レイナンはため息をもらした。
「クローセル。奴らはオレがひきつけておくから、その子を連れて逃げるんだ。他に仲間がいても、人ごみの中に入ればそう簡単には手を出せないだろうからな」
視線は男から外さず、レイナンはクローセルに囁く。
「何でだよ? 俺、逃げるのは嫌だぜ」
口答えしてくる弟分の軽すぎる頭を小突いて、レイナンは再度言った。
「お前はあの子を助けたいのか? それとも暴れたいだけか?」
「……」
咎めるような口調に、クローセルは舌打ちをして「助ける」と答えを出した。
「なら、決まりだ。
言ったからには、やり通せよクローセル。それが、俺たち……」
「空賊ノルシリータだろ?」
じりっと間合いを一歩縮めたレイナンは、腰に下げていた二本の短剣を鞘から解き放つ。リンと響く金属の音に男と少女に顔が強張る。
「君、名前は?」
背後で固まっている少女へと手を伸ばし、緊張を少しでも緩めることができればと、緊迫したこの場には少々似つかわしくない笑みを向けた。
「……リエルといいます。あの、貴方は?」
乾いた声で名乗った少女……リエルは、伸ばされる手に自分のそれを重ねて、胸にある不安を消すように力強く握り締めた。
「俺はクローセル。あっちがレイナン。
ちょっと本気で走るから、がんばってついてきてくれよ、リエル」
「はい。……でも」
こくりと頷くものの、彼女……リエルは部屋を仕切る薄布に視線を向ける。
「奥にいる子たちは、オレがなんとかしておくよ。
さてさて。まずは、愛の逃避行のために逃げ道を作ってやらなくちゃな」
「な、なんなんだよ! あいのって……!」
「……行くぜ、クローセル」
動揺するクローセルをからかうように笑って、レイナンは両手に持った剣を構えて柔らかいカーペットを蹴った。
「……ったく!」
ちっと舌を鳴らし、クローセルもリエルを連れて駆け出した。
「に、逃がさないよ!」
「退いてないと火傷するぜ!」
宣戦布告とばかりにそう言ったレイナンの右耳に光る赤いピアス……いや、耳たぶに埋まった赤い結晶が淡く輝き、何もない空間に橙色に輝く光が揺らいだ。炎だ。
「な、貴様――何でこんなところにお前のような奴がいるんだよっ!」
火の気の無い空間から突如として生まれたそれは、不思議なことに足元の絨毯を焦がすことなく、動転している男だけを飲み込むような勢いで襲い掛かってゆく。
「あの人は……異能有石者!」
驚いているのはタキシードの男だけではない。クローセルに手を引かれているリエルも、目前で起こった人知を超えた現象に目を見張る。
人の姿をもった、異質の力を持つヒト。体の一部に飛行帆船にも使われている有色結晶を持つ、不可思議の力を操る彼等は、畏怖をこめて異能有石者と呼ばれている。
「説明は後! 今は走る!」
脅えるリエルの手を離さないようしっかりと握り、クローセルは炎にまかれる男を振り返ることなく出口へ向って走る。
「レイナン、無事でいろよ!」
「オレをなんだと思ってるんだ? いいから、早く行け」
いたって軽いレイナンの返答に見送られ、クローセルは太陽の光が眩しい外へとリエルを伴って飛び出す。
広がる景色は、レイクアッドの中心部から少し離れたスラム街。祭りの真っ最中とあって、いつもは閑散としている景色も賑やかだった。
灰色のテントではまだ戦闘が続いているようだが、すぐに興味を示した人々によって中断させられるだろう。レイナンはそうなる寸前まで足止めをし、隙を見計らって逃げてくるはずだ。
「このまま中央広場まで走ろう。そこまで行けば、安心なはずだ」
「は、はい!」
後をついて走るリエルにそう言って、クローセルは小型の飛行帆船がせわしくとびまわる空を見上げた。
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