第1話

 真夏の熱気は潮風と混ざり、大きなうねりとなって大海原を流れてゆく。

 世界は青く、白く……眩い。

「もうすぐ、もうすぐ着くんだよな!」

 純白の太陽光に透ける黄金の髪を逆巻く風に流し。白いラインが入った赤い服を身につけた少年は、高揚する気分をさらに盛り上げるように暑い空気をいっぱいに吸い込んで声を上げる。

 足元に広がる海原を見下ろすその瞳は澄んだ青で、子供の殻を脱ぎつつある少年に快活な印象を与えていた。

 残念ながら右の瞳は黒革の眼帯に覆われていてその色を楽しむことは出来ないが、飾り気の無いデザインのおかげか、柔らかな顎のラインを引き締めるようで良く似合っている。

「自分で港に船をつけるこの日が、ようやく来たんだよなっ!」

 空の青と海の青の境界に白い筋を残して滑空する、船底に鮮やかな帆をなびかせる飛行帆船の舵を意気揚々と握り、少年は眼前に広がる赤茶けた大陸の輪郭に歓声を上げた。

「ほらほら、レイナン! 陸だぜ、陸!」

「……クローセル。わかったから、静かにしてくれよ。 

 こっちは二日酔いな上に、新米船長の極悪な操舵のおかげで船酔いを併発しているんだ。

 気分は最悪、わかってんだろ?」

 少年……クローセルの興奮とはうって変わった弱々しい声で返答を返したのは、体の線を主張するような衣服をつけた彼の兄貴分である青年、レイナンだった。

 クローセルよりも頭一つ分くらい高い長身は、気だるそうに丸められ。僅かに首を持ち上げて睨んでくる青い瞳と血の気の引いた頬は、余裕が無いことをしめしている。

「……ったく、なさけねぇな。頼むから甲板で吐かないでくれよ」

 話に乗ってくれない兄貴分へ不満げに言葉を投げて、視線を前方へと戻す。

 港が近くなったということは、自分たちと同じように町に入る船が多くなるということだ。衝突でもすれば、沈むのは小型艇の自分たちの方である。

「そりゃ、お前次第だよ」

 と、言いつつ。ときたま思い出したように不安定に揺れる船体に、こみ上げてくる胃酸を必死に飲み込む。

「なんだよ、それ。

 じゃあ、代わりにレイナンが操舵すればいいだろ」

「小型艇盗む時に、舵を握るのは俺だってせがんできたのは何処のどいつだったかな?」

「……俺」

「だろ? 言ったことはちゃんと責任を取れ。それが、空賊ノルシリータへの第一歩ってわけだ。

わかったか? 半人前!」

 気分の悪さを誤魔化すように声を上げて笑うレイナンに、クローセルはますますその表情を不満げに顰めてゆく。

「ほらほら、そうやってよそ見していると、追突するぞ!

 体当たりしたって、負けるのはこっちなんだ。下が海だからって、この高さと速度じゃ助からないからな、気をつけろよ~!」

「わかってるよ!」

 茶化す声に怒鳴って、クローセルは舵をぎゅっと握り締める。

 レイナンは初の操舵でがちがちに硬くなっているその姿に苦笑して、気晴らしにと視線を大空へと向けた。

 太陽光を反射する透き通った世界には、彼等のほかにも数多くの飛行帆船が港町レイクアッドを目指して飛んでいる。

 個人用の小型や中型。旅客用の大型と種類はさまざまだが、その中でも一際目を惹くものがある。列を成して飛んでゆく飛行帆船を監視するように、少し離れた位置で銀色の船体を持つ船を先頭にして飛行する船団だ。

「特にあれには気をつけるんだな。当て逃げじゃ済まされねぇからさ」

 クローセルはちらりと視線を動かし……彼と同じように苦笑を零した。

「ロンバースか」

 それは、東海と呼ばれるこの空域を根城にしている数多くの空賊の中で最も歴史が古く、規模も大きい空賊の一派だ。

 彼等が身を寄せているノルシリータも東海を縄張りとしている空賊であり、ロンバースとは当然、敵対関係にある。

「当て逃げじゃなくたって、視界に入っただけで絞め殺されちまいそうだ……」

 げっそりと、嫌そうに呟くクローセルにレイナンも同感だと頷いた。

「絞め殺される……って言うよりも、打ち落とされるな。ほら」

 と、レイナンが虚空に向って指を指したのとほぼ同時に、穏やかな空を揺るがす爆音が響いた。レイクアッドに向って飛行していた中型船が、ロンバースの母船ハイサルートの砲撃をまともに受けて、真っ青の空に黒煙を立ち昇らせ海へと落下してゆく。

「うわ……こわっ」

「あれはセッダの船だな。夏季祭の間は空賊の出入りは厳禁だってのに、不用意に近付くから、ああやって打ち落とされるんだよ」

 緩やかな弧を描いて落ちてゆく船を目で追いながら、レイナンはやれやれと肩をすくめた。カルカスト大陸最大の港町であるレイクアッドは、空賊であろうと商人であろうと騒ぎさえ起こさなければ入港に制限をかけない数少ない自由港のひとつだ。

 空賊お断りの港が多い中、補給や取引の場としてレイクアッドは彼等の間で重宝されている。だからこそ、こういった大きな祭りの時はいがみ合う胸中を押さえ、空域の警護を皆でかって出ているのだ。

 古くからのしきたりは、東海の空賊たちの間での統一された暗黙の掟であり。さまざまな人の出入りによって潤う市で抜けがける者がいないよう、夏季祭の期間中だけは空賊の出入りはご法度となっている。

「あんなのをぶち込まれたら、オレ達……粉々になってるよな」

「粉々になるのは船だ。俺達は……跡形も無いんじゃないか?

 まあ、そうビビルなよ。俺達がノルシリータだなんて、まずばれることはねぇから」

 むき出しの肩を軽く震わせて呟くクローセルに、レイナンはけらけらと笑い声を上げて言った。

「まさかロンバースも、こんなへなちょこ運転の船に空賊が乗っているとは思わないさ」

「……む」

 あからさまな悪口にクローセルは頬を膨らませるが、だからと言って、たいした反論も出来ない。

 レイナンの言うとおり、蛇行しながらようやっと前に進んでいるといった様子では、良く見てもそこいらの漁師の子供が祭り見物に繰り出しているとしか思えないだろう。

「そう怒るなって。おまえだって、あんなので打ち落とされたくは無いだろう?

 ジャスティの鉄拳制裁覚悟で船を抜け出してきたんだから、祭りを存分に楽しもうじゃないか、クローセル君。

 ほら、見えてきたぜ」

「あれがレイクアッドか……!」

 乾いて赤茶けた大地の上、巨大な大陸が浮かんでいる。

 彼等が駆る飛行帆船を空に浮かび上がらせているものと同じ白色結晶と呼ばれる、この世界を形作る自然力の結晶を内部に抱いた大陸は、幾つものワイヤーロープによって赤い大地につなぎとめられ、荒れ果てた荒野の上の楽園となっていた。

 それが――港町レイクアッド。

 建ち並ぶ建物の屋根と屋根を結ぶロープに結び付けられている、祭りを彩る様々な色の布が踊り子のようにはためくその景色は、とても幻想的だ。

 耳元で唸る風の中に、人々の歓声が混じって聞こえてくるような高揚を感じさせるほどに。

「よし、一気に行くぜ! 全速前進!」

 クローセルはその熱気に誘われるよう、手元のレバーを掛け声と共に勢い良く押し倒す。

「……ん?」

 レイナンが訝しげに顔を上げるが、クローセルはそれに気づくことなく推進ペダルを踏み込んだ。

「ちょ……お前、今何押した?」

「え?」

 妙に乾いたレイナンの声に不吉なものを感じて、クローセルは倒したばかりのレバーを見下ろして……呻いた。

「緊急脱出……ればー?」

 首を傾げるクローセルを凝視したまま、レイナンの顔が強張ってゆく。

「おまえ、ばっかじゃねーの!」

 レイナンの悲鳴を合図に、制御装置を外された小型飛行帆船は放たれた矢のように大空を掛けてゆく。クローセルが押し倒したレバーは、搭載されている白色結晶を限界まで活性化させて飛ぶ、避難用の緊急脱出装置だったのだ。

「う、うわっ!」

 全身に襲い掛かってくる風圧によろけながらも、舵だけは放すまいと必死に腕に力をこめた。これを手放したら最後、回りを取り囲むようにして飛ぶ大型船に突っ込んで全てが終わる。

「お、おまえはっ……」

 レイナンは暴れる船から振り落とされないよう甲板に両手をついて、後尾へと這ってゆく。

「なにすんだよ!」

「動力を切るんだよ!」

 混乱を隠せないでいるクローセルにそう乱暴に言い捨て、レイナンは鉄板を仕込んだ厳ついブーツの踵を甲板にめり込ませる。

「そ、そんなことしたら沈んじまうじゃねぇか!」

 何度か踵を穿ち、空いた穴に手を突っ込んで強引に板を引っぺがしたレイナンは、クローセルの制止の声に耳を貸すことなく、淡い青色の液体が入っている水槽に入った光り輝く半透明の結晶柱を太陽光に晒した。

 一抱えぐらいあるこの結晶柱は、船に浮力を与えている神秘の石……白色結晶と呼ばれている鉱石だ。その輝きは美しく、思わず見とれてしまうような高潔さを感じるが、今はそんなことに気をそがれている場合ではない。

「オレに考えがある。いいから黙って、舵にしがみ付いていろ!」

 言って、レイナンは穴に上半身を突っ込み、一抱えほどの水槽をとりだした。

 本来は浮力しかない白色結晶だが、結晶水と呼ばれる有色結晶を溶かした液体と反応させることによって推進力が生み出される。飛行帆船の全てはそうして大空を飛び、特殊な力で折られた帆によって制御され、人々の生活の足となっているのだ。

「これを、引き抜けば……」

 水槽がすえつけられている台座から伸びる幾つもの太いコードの中から、レイナンは白い革でまかれたものを掴みあげた。それは、結晶柱から発生した浮力を船全体へと送り込んでいるパイプラインだ。

「クローセル、上昇だ!」

 コードをしっかりと掴んだまま、必死になって舵に噛り付いているクローセルへ怒鳴り声に近い大声を張り上げる。

「わ、分かった!」

 どうしてと、そんなことを問い返している場合ではない。

 考えるよりも先に、クローセルは手元の昇降レバーをいっぱいまで引いた。

「……っ!」

 ずんっ……と両足にかかる重い衝撃とともに、船は指示どおり船首を空へと向けて上昇をはじめるが、速度に乗った船はその心意気とは反して思ったほど上昇してはくれない。

「ちくしょう!」

 舵を握る指先まで白くさせて、クローセルは呻く。

 レイクアッドの艶やかな町並みが、眼前にまで迫ってきていたのだ。

「あぶ――つっ!」

 反射的に目を閉じる。

 あげたと思った悲鳴は舌を噛んだために不発に終わり、上昇しきれなかった小型艇は街に張り巡らされている減速ネットに衝突した。

「うわぁ、ああっ!」

 船舶の安全な停止のために、幾つもの段階で襞状に並べられている目視できない特殊な網に船底を擦りつけながら、その上を滑るようにして空へと駆け上ってゆく。

「……よし、まあまあ上出来だ」

 ものすごい速さで流れてゆく街の景色から一転、彼等の目前に真っ青の空が広がる。

 その美しさに吐息をはく暇も無く。レイナンは引きずり出したコードを、腰に吊っていた短剣で切断した。

「う、うわっ!」

 舵を握る両腕に鈍い重みが伝わる。

 船体を浮かす力を立たれた飛行帆船は、空へ向けていた船首を今度は海原へと落とした。

「落ちる! 落ちる! 落ちるっ!」

 肺を凍らせるような反転に驚いたクローセルは、咄嗟に昇降レバーに手をかけるが、既に限界まで引かれているので、どうあってもこれ以上は動かない。

「停止用の帆を出せ! 滑空するぞ」

 よろよろと頼りない足取りでクローセルの元へとやってきたレイナンは、操舵席についている幾つものレバーから、丸い握りのついたオレンジ色のレバーを引く。がたっと船体がゆれ、両側に淡い色合いの薄布が鳥の羽のように広がった。

「ほら、代われ」

「大丈夫なのかよぉ?」

 経験が少ないために慌てふためいているクローセルを押しのけ、レイナンが変わりに操舵席に着いた。

「そんな情けない声をだすなよ……まったく」

 浮力を得るために両側に広げた帆の角度を器用に調節して、レイクアッドの周りを大きく旋回しながら緩やかに速度を落としてゆく。とりあえず、衝突の危機は免れたらしい……だが。

『そこの船! 今すぐ止まらないと打ち落とすよ!』

「ロンバースかよ!」

 空に響くヒステリックな女の声と、燦々と降り注ぐ太陽に反射する銀色の船……ハイサルートにレイナンは短く舌打ちをし、クローセルは声を裏返らせる。

「どうすんだよ、レイナン!」

「今すぐ止まったら、墜落だ」

「止まらなかったら、弾をぶち込まれるぜ!」

 向けられる砲門にぞくりと鳥肌を立て、クローセルは操舵席のレイナンにしがみ付く。

「後ろには町がある、迂闊には撃てないさ。とはいえ……」

 打てるタイミングを見計らうようにこちらの動きを追ってくる砲門は、威力こそ小さそうだが彼等の命を握る小型船を沈めるにはそれだけでも十分だろう。打ち込まれたら、たまったものではない。

「あそこのおばさんは短気だからな、構わずに撃ってくるかも……」

「うわっ!」

 ごうっ……と、風を切る重たい音が鼓膜に響いたかと思うと、鉛の弾が引き起こした衝撃波に叩かれた船体が大きく傾いだ。

「馬鹿、レイナン! お前がおばさんなんて言うから!」

「お前に馬鹿とは言われたくないぜ! くそっ!」

 船体への損害そのものはまったくないが、弾がかすったのか、左側に広げていた帆が大きく裂ける。そうなれば同然、風に頼って滑空していた船はバランスを失って墜落するしかない。

「落ちる、今度こそ落ちる……!」

 町を掠めて赤茶けた大地を破壊する砲弾の派手な音を聞きながら、クローセルは傾く甲板から振り落とされないようにと固定されている操舵席のシートにしがみ付く。

「ピーピー騒ぐなって」

 これ以上、舵を取っていたところでどうしようもない。

 制御の手を失ってくるくると風車のように回る舵を放って、レイナンは落下の恐怖に涙目になっているクローセルを……おもむろに担ぎ上げた。

「ど、どうすんだよっ!」

 いきなりのことに驚くクローセルを荷物のように肩に乗せたまま、レイナンは眼下に広がるレイクアッドの町を見下ろした。

「こうするんだよっ」

「――ばかやろおおおおおおおおおっ!」

 にたりと。

 不敵に笑ったレイナンは、引きつったクローセルの悲鳴に顔を顰めながら、躊躇うことなく船から飛び降りる。

「――ぁ!」

 奇妙な浮遊感。羽の折れた鳥のようにくるくると回転しながら落下してゆく船を見開いた青い瞳で凝視し、息が凍るような恐怖感が思考を停止させる。

 ……綺麗だ。

 しっかりと鍛えられているレイナンにしがみ付き、恐怖を越した精神は眼下に広がる町並みを少年にそう認識させた。祭りに浮き立つ町を飾る、きらびやかな刺繍を施された布が響く歓声にあわせてゆらゆらとなびき、その下では幾何学模様のごとく建ち並ぶ露店と、その中を行き交う幾万とも知れぬ人々がいる。

 やせた大地の上に浮かぶ楽園は、生命の息吹に満ちていた。

 その熱気の中に飛び込むように、大きな白い布めがけて落下する。

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