帆船空族の少年と水晶の少女

南河 十喜子

序章

 それは忌々しい過去……そして、悪夢。

 受け入れざるを得ない現実。

 全てが失われたその日、感じていたのは絶望や怒りといった直接的な感情よりも、失われてゆく己の体温が突きつけてくる大きな喪失感が全てを支配していた。

 鼻につく生臭い血液は濁流のように右腕から噴出し、砂の浮く地面に染みこむことも無く漂っている。

 それを呆然と認識する鈍い脳は、唯一つ、死という単語を目の前に浮かび上がらせていた。

 どうしていいのか分からない。

 何を感じていいのか分からない。

 痛みどころか感情までも停止して、霞む視界は目の前に立つ人影を見上げるばかりで睨みつけることもままならない。

 ……それを悔しいと憤る余裕も無い。

「貴方が悪いわけじゃないのよ」

 何の感情も感じられない女の声は、紫色の唇から漏れる掠れた息にそう答える。やることは成したはずなのに立ち去ろうとしないのは、それが逝く者に対しての、彼女なりのせめてもの礼儀だったのだろう。

 そんなもの、死の縁に立つ男に理解できるようなものでもないが。

「悪いのは私。貴方を騙した私……そして、彼等に力を与えた私。

 だから、自分を責める必要は無いのよ。貴方が彼等を殺すわけではないのだから……」

 すらりとした細い足。

 腰まである長いストーレートの髪。

 酷く寂しげでいて、しかし何者をも噛み殺してしまいそうな狂気をはらんだ意志の強い瞳を併せ持った、ある意味印象深い女。

「……ゆ……るさ、ない……俺は……」

「当然よ。私はこれから、許されるような存在ではなくなるの。でもそれは、私を裏切った彼等……いえ、この世界の全ても同じこと」

 ざりっと砂を踏みしめ、女はきびすを返した。

 あたりに広がる白い花びらを朱に染める血液はとめどなくながれ、男は数分もせずに死ぬだろうが、その最期を看取るまでの趣味はさすがにない。


 それから暫くし……周囲は不気味なほどの静寂に包まれる。


 空は月明かりも乏しく、僅かに瞬く星々の輝きだけでは漆黒の闇に支配された地上を照らし出すことは出来ない。

 色の無い、黒で埋め尽くされる景色。

 あたりに散らばる花弁も黄色く腐り、元の白さを感じさせることはなく。ただ寂しく、甘い残り香を夜気に滲ませるだけだった。

「……」

 その、蹂躙された花畑の中。

 既に肉の塊と化したと思われた男が、その生を確かめるよう僅かに身じろぎをした。

「――あぁ、あぁ――あぁぁぁっ!」

 声は言葉を紡ぐこともできないが、どうしようもない衝動は感情を叫びへと変換して不気味な静けさを保つ空を振るわせる。

 遠く飛び去った彼等に、その声が届くようにと。

「必ず、必ず!」

 ……それは決意。

 奪われたものが己自身に科す呪詛。

 そして、それは彼の生をこの荒れた世界に引き留める衝動となり、眩い光に満たされた惨劇の地に刻みつけられた。


 ――それから、十六年。

 

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