7-20 つぶやき
頭が重い……
どうやらとても深い眠りについていたみたい。
わたしが最後に覚えているのは、サトシに抱きかかえられ、言葉を少し交わしたところ。
……そうだ、レイカとエーコちゃんのケンカに割って入ろうとして、ベランダから落ちたんだ。それでサトシに抱きとめられて……って、あれ? なんであそこにサトシがいたんだっけ?
おまけに気が付いたら自室のベッドに寝かされているし。頭が痛いのは……そっか、わたし風邪もひいちゃったんだっけ。
重い頭と体を動かして、ベッドから抜け出す。
ああ、また汗かいちゃってる。
クーラーくらい入れてくれればいいのに、って風邪引いてるんだからそんなことしないよね。
リビングの明かりがついてる、レイカ?
わたしの足が、そこで一度止まる。
……レイカとは先日、ケンカ別れしたままだ。
あの時はなにも考えず、感情のままにケガまでさせてしまった。
だったら、なんで足なんて止めてるの……?
なんて最低な姉。絶対にしてはいけないことをしてしまった。
レイカに嫌われる、また離れて行ってしまう。そんなの絶対イヤだった。
謝らなきゃ――そう思ったら、躊躇なんてなくなっていた。
「レイカッ!」
リビングに入ると……そこにいたのは予想外のヒト。
「あれ、ゴエンさん?」
「アー!? ゆうかさん、起きましたか!」
そこにいたのはレイカの産みの親、ゴエンさんだった。
「えっ、あれ? わたし起きて、サトシとレイカと……あれ? あれっ?」
「ふふ~、ゆうかさん起きたばかりは少し混乱してます。なにか飲んだ方がいいですよ、入れてあげますから」
「そんな、お客様なんですからダメですよっ!」
「ゆうかさん、風邪ひいた聞いてます。それにセキも治ってないでしょう? 座っててください」
「……はい、じゃぁ、ホットミルクお願いします」
「ハ~イ、冷蔵庫の中、しつれいしますね?」
そう言って、いそいそと縁藤家のリビングを歩き回るゴエンさん。
頭の中はまだ色々とグルグルしているけど、この光景を見ていたら嬉しさが沸々と湧き上がってきた。……だって、これはわたしの願ってきたことなんだから。
お父さんにゴエンさんと仲直りしてもらう。そしてレイカにゴエンさんと会ってもらうこと。
そして今、ゴエンさんはわたしの家で、わたしのためにホットミルクを作ってくれる。
これは紛れもなく願いが叶った結果だった。……あ、少し泣いちゃいそう。
ゴエンさんの横顔にも遠慮や、おっかなびっくりといった佇まいもない。気楽そうにレンジ前でミルクが温まるのを待っている。
ようやく頭が回って来た。
リビングの時計を見るといまは二十一時、結構眠ってたなあ。
レンジでチ……ピーと音が鳴り、ゴエンさんが二人分のホットミルクを持ってきてくれた。
そして二人で一口頂いてから、ようやくわたしは気になってることを一つ一つ聞いていく。
「いまさらですけど、ゴエンさんどうしてウチに?」
「ア~、さとしさん、ワタシを日本に来れるように取り計らってくれました」
「サトシが?」
「ハイ。エンドウさん、ゆうかさんのお父様と連絡を取って、直接日本で会わせてもらう許可頂きました。さとしさん、お父様と仲良しだった」
びっくりだ、サトシがゴエンさんを呼ぶ手引きをするなんて……
あれだけゴエンさんとレイカを会わせることを拒絶していたサトシ。疑っていたわけじゃないけど、サトシの発言は本物だったんだ。
「それで……レイカとは話せました?」
「ハイ、イェンファとはさっきまで話してました」
ゴエンさんは頬に両手を当てて嬉しそうだ。
ちなみにだけど、イェンファをレイカと呼んでいることをゴエンさんは知っている。
あっちにいる時、ゴエンさんの前ではイェンファと呼ぼうとしていたけど、何度も何度もレイカって呼び間違えていた。
そうしたら笑いながらレイカって呼んであげて、って言われたのがきっかけ。
「レイカはいま……」
「ア~それなんですけど」
頬を掻きながら、気まずそうに言葉を考えている。
「少し用事があるって、出かけました」
「そうですか、レイカも大人ですからね」
わたしは言いながら口元に笑みを作り、気にしない風を装う。
……ゴエンさん、なんか隠してるな?
けど、それは口にしない。
隠されるのなら、わたしを気遣って隠してくれてるからだと思う。それをわたしが引っ掻き回したって、しょうがないもの。
レイカとゴエンさん、どんな話したのかな。
いまの様子を見る限りだと、機嫌も良さそうだし軒並みいい結果になったのだと思う。
でも正直、レイカがこの場にいなくてホッとしている自分がいるのも事実だった。
先日、わたしは姉としては見せてはいけない、剥き出しの醜い感情を晒してしまった。
嫉妬、八つ当たり、挙句の果てに手まで上げて。
血濡れになったレイカの片手を思い出す。あんなことをしてしまって、自分は本当に許してなんてもらえるのだろうか。
……自分のことながら本当に情けない。姉として失格の行いだ。
でも……わたしだって人間だもの、我慢できないことだってある。
サトシのことでイライラが溜まり、体調も崩しがちだった。
それにゴエンさんとのことを取り持ったけど、レイカからは特になにも言ってくれなくて。
別にゴエンさんとのアポイントで恩を押し付けたいわけじゃない。
けど、レイカだってなにか一言くらいくれても、良かったんじゃないか……
わたしが帰ってきてからというもの、家でほとんど会話もなかった。
それはサトシとレイカの現場を見てしまい、お互いに気まずかったからなのだけど。
でもその後が良くなかったんだ。
それからすぐに話し合い……ケンカでもして鬱憤を晴らせば良かったもの、わたしたちはお互いに”触れない”ことを選んでしまった。
だからこその衝突。
わたしも鬱憤を蓄積しすぎて、我を忘れてしまった。
そのことについてはしっかり謝りたいと思ってる。
だけど謝って、レイカにも許してもらえたとして……その後って、どうなるの?
わたしはレイカがサトシのことを好きだと知っている。レイカには否定されているけど。
一度そう思い込んだら、あの子はそう簡単に考えを曲げるとは思えない。あの現場が決定的証拠だとしても、少なくとも私の問いには首を縦に振ることはないだろう。
だったらそれでもいいんだ。レイカとサトシを惹き合わせる原因を作ったのはわたしにある。そしてレイカがサトシのことを好きではないと言って離れるなら、それを信じてしまってもいいのだろう。
見ないふりをする。
レイカもサトシも好きだし、信じてる。
でも二人が惹きあってしまう、引力、本能だけは別の話だ。
わたしはその惹かれ合う力ほどには……二人を信じられていないのかもしれない。
わたしはいまサトシ相手に素直になり切ることができない。
どうしても心の中にいる面倒くさい自分が、サトシが本当に好きなのはレイカで、わたしなんかではないと主張している。
一番の問題は、わたしがサトシを絶対的に信用できなくなっていることなんだ……
それとレイカは今後どうするのかも気掛かりだ。
わたしはレイカと一緒に暮らすことを望んでる。
でも……それより一番望ましいのはレイカ自身が幸せに生きてくれることだ。
だからレイカが求めるなら養子縁組の解除だって念頭に置いている。それは最後の最後となる選択肢で、できるならそうしたくはない。
けど、いまはその可能性も真実味を帯びてきた。
エーコちゃんが口にした”夕霞から出て行って”
これとゴエンさんの再会が重なった時、それは具体性を帯びた選択肢としてレイカの前に現れる。
レイカがそれを受けて、どんな行動に出るかは予測がつかない。
……そして、エーコちゃんがそんなことを口にしてしまった理由、わかってるつもり。
エーコちゃんはわたしの気持ちを慮って、行動してくれたのだ。
でも、やりすぎ。
レイカが出て行って欲しいなんて、そんなこと思っていない。
だからそれは事態の悪化を招いてしまうかもしれなかった。
レイカが自分からゴエンさんと共に帰っていくことを選んだのなら、わたしは名残惜しくも、その選択を最後まで支持できる。
だけどエーコちゃんに言われたことを気に掛け、逃げる選択肢としてゴエンさんと帰っていくことを選ばれたら、昔に逆戻りしてしまう。
延々と車の流れを見つめていた、あの頃の姿に……
「ゆうかさん、まだ少し眠いですか?」
気遣わしげにわたしの顔を覗き込むゴエンさん。
「あっ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしてました」
「眠いなら言ってくださいね? 無理は良くないです」
「大丈夫です、本当に。ありがとうございます」
考えごとをしていたせいで気を遣わせてしまった。話を逸らせないと。
「――レイカ、どうでした? やっぱり思ってたコと違いました?」
わたしの気遣いを悟ってか、ゴエンさんは目だけを天井に向けて考え込み、母性を匂わせる笑顔で、しみじみと口にする。
「イェンファ、ワタシの知ってる大人しい女の子違いました。……少し、さびしいけど、大きくなってくれてうれしいです」
「ごめんなさい。本当はもっと早くにお父さんから許可がもらえればよかったのに」
「そんな! ゆうかさんは悪くない、ワタシはあなたに最大限の感謝をしています!」
立ち上がって本気で慌てた風のゴエンさん。
年上なんだけど、相変わらず子供みたいな振る舞いをする彼女に口元が綻んでしまう。
「そう言ってくれると嬉しいです。……あ、いまさらですけど日本へようこそ」
ゴエンさんは一瞬ポカンとした表情をした後、口元を手で抑えて笑った。
と同時に、ゴエンさんはハッとなにか思い出したように手を打った。
「そういえば、ここに来る途中に日本の学生さんに道案内をしてもらいました」
「ホントですか? このご時世に親切な人もいるもんですね~」
「ハイ、自己紹介もしました。名前は確か……じぇいけいさん」
わたしは椅子からずっこけそうになる。
じぇいけい、JK、女子高生、って名前でもなんでもない。
「……その、じぇいけいって、そう名乗ったんですか?」
「ハイ、日本らしくない名前でしたけど、いまはそういう人いっぱいると聞きました。確かキラキラネーム言いますね?」
「ゴエンさん相変わらず、変に日本にくわしいですね」
というか誰なの、自分のことをJKと名乗る女子高生って。
「とても親切な人でした。別れ際にサムズアップして”日本を楽しんでくれよな!”って言ってくれました」
嬉しそうにじぇいけいのことを語るゴエンさん。わたしの知っている日本人女子高生の片鱗も窺えない。
「日本、いいところです。買い物に行ってみたいです、バクガイでスイハンキ欲しいです!!」
「あはは……でもお買い物いいですね、行きましょうよ。案内しますよ?」
「ホントですか、ありがとうございます! あ、でもゆうかさん風邪が治らないと、それにセキも……」
「風邪はすぐ治ります。気管支炎のほうも大丈夫ですよ。明日も、病院で見てもらう予定ですから……ね?」
申し訳なさそうに、目を伏せるゴエンさん。
ゴエンさんはあっちに長期滞在をしたことで、わたしが体を崩したことをとても気にしていた。
日本に帰ってきてからは咳もあまり出ないし、しっかり快方に向かっている。……先日は少しばかり無理をしたけれど。
「無理はしないでくださいね?」
「はい。そういえばゴエンさんはいつまで日本に滞在されるんですか?」
「ハッキリは決めてませんが……居ようと思えば一週間はいられる思います」
「結構長く居れるんですね! じゃあお買い物も、病院終わった後にでも行きましょうか?」
「ン~、でも少し良くなってからいいと思います、ショップは急がなくても逃げませんから」
「わかりました、じゃタイミングのいい時言ってください。えっとメールすればいいですか?」
「その必要ありません。エンドウさん……お父様に、家を空けるからココに泊まっていいって言われました」
「ええっ、そこまでオッケーしてもらったんですか!?」
「ハイ、最初はワタシも驚きました。エンドウさんは今日からもう仕事で海外に戻られた聞いてます」
お父さん……サトシと裏工作するのは良いけど、せめて家族には言ってよ。急すぎだよ、ゴエンさんとサトシに信頼置きすぎだよ。
「はあ、情報共有足りないよ、あなた誰のお父さんよ……」
「ゆうかさん、元気ない?」
「そういうわけじゃないですけど、なんだかなあ……」
でも、ゴエンさんのことはわたしが取り持ったのに、なんかサトシにわたしの手柄……っていうほどでもないけど、横取りされたようでなんか悔しいなあ。
サトシ、どうしてるかな。
わたしのこと、どう思ってるかな。
……まだ少しでも、好きでいてくれてるかな。
ひどいこと言ったのに、わたしのこと助けてくれた。
抱きかかえられた時に触れられた背中や足がじんわり暖かい。
サトシに言ったことは全部本当。
好きであることも、信じられなくなっていることも。
けど、それをなんとかしたいと思ってるのも本当。
でもサトシとレイカが花火の下で、キスしようとしていた光景が頭から離れない。
レイカのことを自然と目で追うサトシ。
いろんな感情がないまぜになって、わたしはわたしに素直でいられない。だからサトシとはしばらく距離を置きたかった。
けど会いたい気持ちも同時に存在して、一度踏ん切りをつけて会いに行ったけれど、結果は散々だった。
だからきっと、彼に会うには時間が必要だ。
……単に問題の先送りをしているだけなのかもしれない。
でも、いますぐにまた顔を合わせてもいい結果にならないのは間違いなかった。
「ゆうかさん、本当に大丈夫ですか?」
わたしはハッとする、またしばらく呆けてしまっていた。
対面に座るゴエンさんは気づかわしげな表情をしていたが、思い立ったように笑顔になり、手にこぶしを作って立ち上がった。
「元気ないのは体が良くないせい。ワタシ、健康にいい中華料理つくりますから良くなってください!」
「……はい、そうします。ありがとうございます」
つられてわたしも笑い顔になる。
あっちにいる時も、彼女の笑顔には何度も励まされた。
ゴエンさんがこんな人じゃなかったから、わたしはお父さんの説得をあきらめていたかもしれない。
なにせ三ヶ月も首を縦に振らない頑固親父だったんだから。
「じゃあ早速作りますね、中華料理二人前!」
「ふふ~おっちょこちょいの、ゴエンさん? レイカの分が入ってませんよ?」
私はからかうつもりで言ったのだが、ゴエンさんは少し気まずそうな顔をし……
「ア~、実はですね」
「はい?」
「イェンファは当分、帰って来ないと思います」
わたしはどうやら本当に、本当に熟睡していた。
この時のわたしは知りもしないのだけれど、レイカとゴエンさんはたくさん話をしていたのだから。
そうして、たくさんの決意が生まれていた。
歯車が勢いよく進み始めたことに、気づかないまま。
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