3-8 あきらめ
李 燕華(リー・イェンファ)
レイカの養子になる前の名前だ。
現在は縁藤 燕華(エンドウ・イェンファ)であって”レイカ”は正式な名前ではない。”レイカ”とは初めてイェンファに会った時、優佳が付けた”あだ名”だった。
他愛もない理由だ。
優佳が言葉を覚えたての頃に”イェンファ”を曖昧に”エイファ”と聞き取って、なんとなくレイカに変化し、勝手にそう呼び続けたのが定着しただけである。
だけどそのあだ名はレイカを長く守り続けることになった。子供社会の中で異質なものは、度々いじめや差別の対象となりやすい。ましてや名前の響きが違えば、子供は敏感に察知する。
同い年のレイカと僕は、同じ小学校に入学し、同じクラスになった。
事前にレイカと顔を合わせていた僕は、優佳の付けたあだ名で呼び続け、それは周りに波及していき、イェンファは正式にレイカになった。
その時の担任の先生もいい方で、レイカというあだ名でずっと呼んでくれていた。
翌年には僕と別のクラスになったものの、あだ名を知っている誰かが同じクラスにいた。そうなってしまえば新しい顔合わせがあったとしても、あだ名はその誰かが引き継いでくれる。
けれど、そのあだ名はレイカを守りはしたけど、クラスの中で友達を作るサポートをしてくれるわけではなかった。
言葉の面では問題はなかったが、レイカはどこか自信がないような、遠慮がちな性格も相まって、結果レイカはクラスの中ではあまり喋らない子になってしまった。
休み時間や放課後は僕が声をかけていたので、寂しい思いはさせなかった(と思っている)が、実際のところレイカがどのように考えていたかはわからない。
……それにその頃は、レイカが他の子と喋っているとモヤモヤしたしね。
だが中学時代に入り、レイカはイェンファとして受け入れられる。
そのくらいの歳になれば周りも他国の名前であっても、差別する理由にはならず「面白そうだから話してみよう」という純粋な興味に変わったようだった。
そしてレイカには中学に入り、たくさんの友達ができた。少しばかりやんちゃな友達が多かったようだが、それは内向的だったレイカにとっては、新しい世界で刺激的な毎日だったに違いない。
そうして僕たちとは疎遠になる。
……それは言ってしまえば、小学校の頃の僕は、レイカの可能性を、狭めていただけなのかもしれなかった。
---
「放せよっ!」
レイカは掴まれた手首を振りほどこうと暴れまわる。僕はレイカの後を追って家を飛び出し、数分もしない内に捕まえることができた。
時間差・体力差があるにもかかわらず、僕がそんな短時間で捕まえられたのは、あまりにレイカが力なく走っていたからだ。まるで逃げ場がどこにもないと知っているかのような、無意味で出口のない逃避だった。
「レイカ、戻ろう」
「馬鹿! 諭史に私なんか必要ないんだ、私がどこに行こうと私の勝手だっ!」
大声を上げ、子供のように喚き散らす。
「レイカ、落ち着いて!」
「離せっ! 諭史なんか、諭史なんかっ!」
顔を俯かせ、僕を引き剥がそうと腕を振り回し、掴んだ僕の手に爪を立てる。
「離さないよ、離せない!」
「私なんかどうでもいいだろ! こんな頭のおかしい、狂ったような女なんか!」
「どうでもいいわけなんか、ないだろ!」
「うるさいっ!」
ここだけは譲れない。掴んだ手に力を込め、引き剥がそうと爪を立てるレイカの抵抗にも、歯を食いしばって耐える。
どのくらい時間が経っただろう、レイカが抵抗するに飽きたのか力を抜き「逃げないから、放してよ……」との言葉で、掴んでいたレイカの手を離す。
髪の毛を振り乱し、汗に濡れた額。それらを取り繕おうともしない、自暴自棄になった姿。
「……私なんて、空っぽなの」
レイカは汗で張り付いた前髪を後ろに流し、泣き濡れた顔を隠そうともせずに、そのまま空を仰ぎ見る。
二人で我武者羅に走り抜けてきたその場所は、先日ブランコに乗って笑いあった、ロケット公園の入り口前。
「ぜんぶ、佳河の言う通り」
こちらに目を向けず、レイカが独白する。
「私にはやりたいことがないから、諭史を好きになろうとしてただけ」
投げやりに、もうどうでもいいと言うように。
「私はね、諭史のことなんか、きっと好きじゃなかった」
背を向け、公園の中に入っていく。
「なんの夢もない、やりたいことのない私は、諭史と一緒にいることで、空白の時間を埋めようとしてた」
僕はなにも言わず、黙ってレイカの後に続く。
「利用してただけ、きっと誰でもよかった」
頭の後ろで手を組み、もう終わったことだと、いまは思い出語りの時間だ、と明るい声で相手を突き放す。
「あのとき、諭史から声をかけてもらって、嬉しかった」
こうして心の内を明かすのは、果たして誰のためだろう。
「だから、あんたに決めた」
自分がすっきりしたいだけなのか、それとも僕を諦めさせたいだけなのか。
「それだけ、それ以上に深い意味はない」
「……そっか」
「そうだよ。だから、これでおしまい」
「……」
「とんだ茶番に付き合わせた、ごめん」
レイカはぶっきらぼうに、それだけ口にした。
東の空には薄っすらと天の川が見えていた。
七夕にはまだ早い、六月の終わり。
僕達のことはいざ知らず、空には満天の星空が広がる。
今年は五年に一度の、晴れになるはずの年だったはずだ。
だけど彦星でも織姫でもない僕たちには、なんの影響も及ぼすことはなかった。
――結局、僕とレイカってどんな関係だったのか。
友達?
家族?
親友?
幼馴染?
恋人?
……どれも、しっくり当てはまらない。
そもそも、そんな枠組みに無理やり押し込める必要があるのだろうか。
人と人との関係なんて千差万別なのに、わざわざ人前で説明できる関係を、作らなければいけないものなのか。
そうしなければならないルールなんて、きっとない。でもそういう枠組みに組み込まれたりすることで、安心することは間違いなくある。
自分は誰だって一人でいたくないのだ。
家族という繋がり、学校に通っているという事実、部活動に属して仲間と切磋琢磨すること、どこそこの会社に雇われお金をもらうこと。
そしてその枠組みに組み込まれて、安心するのであれば、人と人との関係に名前を付けてしまうのは、確かに一つの手であることを認めなければいけない。
……華暖、ごめん。
嬉しかった。親友って言ってくれて。
僕と優佳を応援するとまで言わせてしまって、本当に言葉もない。
そのためにレイカに歯向かうことだって躊躇わなかった。
本当に優柔不断だったのは、僕なのに。
そこまでしてもらって、本当にごめん。
こんな僕のために精一杯味方になってくれて、ありがとう。
そんな華暖だったから、僕は君にすべてを相談しようとさえしていたんだ。
……でも、同時に僕は思ってしまったんだ。
僕は華暖という存在に頼ることができた。そしてそんな人がいてくれるという事実だけで、どれだけ心が楽になったかがわかる。
だから僕が甘えるわけには、いかなかった。
だって僕がそれに甘えたら、レイカはどうなるっていうんだ?
レイカは……また独りに戻ってしまう。
また、国道沿いのベンチで車を眺める日々を過ごさせてしまう。
そんなこと、もう見過ごすわけにはいかないんだ――
「レイカ、聞いてくれ」
レイカは僕を、誰でもいい内の一人だと突き放した。
自分の人生を彩らせようと、手慰みに引き寄せようとした魔女だったと言った。
それを額面通りに受け取る、それは本当の意味でレイカをわかっていないヤツがすることだ。
だってそうだろう? 本当に僕を暇つぶしにするつもりだったのなら、それを正直に告げてしまうことに、なんの意味があるって言うんだ?
自分のことしか考えていないやつが、するようなことじゃない。
そして、僕はそんなレイカのことを……放っておけるわけがない。
だから、僕は……
「僕は、優佳に捨てられたんだ」
……言った。
背を向けたまま、なにも言わなかったが、レイカが僕の言葉に耳を傾けているのが、わかる。
「僕はね、優佳に愛想を尽かされて捨てられたんだ」
「……」
「……おしまい」
それが僕の、決定だった。
レイカにすべてのチップを賭けるための、僕の宣言。
もう、後には戻れないと自分を追い込むための儀式。
「そんなわけ、ないじゃんか」
レイカは、それを否定する。
「違わない、優佳は僕を捨てた。いま僕の隣にいないことがその証拠だ」
「……きっと、なにか理由がある」
あの時と、反対だった。
僕が優佳を否定し、レイカが優佳を肯定している。
「レイカ、約束したのを覚えてる?」
「約束……?」
「僕の部屋を引き払わないのは、三ヶ月待ってからだって」
「…………ああ」
それはレイカが強引に引っ越しを取り決めた時の約束。
約束と言っても、あの時は優佳が帰ってくることを信じて、ただ単に未練を、決定を、先延ばしにしただけに過ぎない。
「……時期が来た、僕はあそこを引き払う」
「引き払わなくていい、あそこにアネキは帰ってくる」
「帰ってこない。それに帰ってきたとしても、もう僕は」
「それ以上は、言わないで……これ以上、私を惨めにしないでよ……」
レイカが力なく僕の言葉を遮る。
僕の言いたいことが分かってしまったのだろう。
僕がいま、優佳に捨てられたと決めつけただけだと。
そうしてレイカと一緒にいる理由を作り上げているのだと。
でも、僕はそんなこと認めない。
僕にとっていま一番大事なことは、レイカを守ること、それだけなのだから。
「ねぇ、レイカ」
一呼吸置き、僕は未だ背を向けたままのレイカに呼びかける。
「もう話すことなんてない、聞くこともない」
レイカは突き放す。
自分をこれ以上傷つけないために、期待しないために。そして僕をこれ以上傷つけないようにと、また自分の殻に閉じこもろうとする。
……なんて面倒くさい女のコだ。離れれば寄ってきて、寄ろうとすれば離れていく。
ここ最近なんてひどいもんだった。
暇があればベタベタ寄ってきておいて、ちょっと拗れたらすぐこれだ。
だから僕は言ってやる。
「ば~か」
「……え?」
「レイカ、って本当にばかだね」
「な、なにを……」
「こんな時にこういうのもアレだけど……レイカ。君は本当にばかだと思う」
「……全然、意味わからないし」
レイカはそう言ってようやく、体を斜めにしてこちらに顔を向ける。
「自分の言ったことに責任持てないし、本当にどうしようもないばかだね」
「言ったこと……? 責任? いったいなんの話を……」
「私を見捨てないで、って言ったのはレイカじゃん」
「……ぁ」
レイカが少しのあいだ思考をめぐらせ、熱に浮かされていた日のことに思い至る。
「あの時に僕は決めたんだよ、もうレイカを放っておかないって」
「ちがっ、あれは」
暗闇でもわかるくらい、レイカが狼狽する。
「違わないっ」
僕は足を踏み出して、レイカの手を強引に掴む。
「レイカはいっつも捻くれてばっかりだ」
僕はレイカの瞳を覗き込む、レイカは視線を逸らせない。
そのまま手を引き寄せ、両肩を掴み、鼻が触れるほどの距離まで寄せる。
「あんまり僕を困らせないで」
「勝手に、困るなぁっ……」
レイカは目を逸らし、いやいやをするように肩を揺らす。
でも、そんな力じゃ僕の手が剥がせないことなど分かってる。
「レイカに振り回されるのは嫌いじゃないけど、不安にはさせないでよ」
レイカは本当は嫌がってるわけじゃない。
きっと、どうしていいか分からないのだ。
「不安な時は、僕が側にいるから」
陳腐な言葉しか出てこない自分に嫌気が差す。
それでも、そんな言葉でもいいから、少しでも伝わればいいと口にして、余計な考えを頭から吹き飛ばす。
レイカは伏し目がちに、僕の顔を覗き込む。
「僕はもう、レイカを見捨てたりしない」
そこから視線を逸らさず、言い聞かせるように。
レイカは瞬きもせず、僕の言葉をゆっくり飲み込んでいく。
「でも、私、諭史のそんな気持ちを利用して……」
「レイカ」
それ以上言わせることになんの意味もない、必要ないことは言わせたくない。
「惨めだとか、利用したとか、好きになろうとした、とかさ。そんなのはもう、どうでもいいんだ」
そう、そんなものはどうでもいい。僕がいまから言おうしてることのほうが、もっと惨めで情けない言葉なんだから。
「何度も言うけど、僕は”彼女”に捨てられたんだ」
彼女という単語を使い、少しでも自分から” ”の距離を遠ざける。
「だから僕は、レイカとおんなじなんだ」
悟られないよう静かに、大きく息を吸う。自分の口が少し震えていることに気づきながら。
「……彼女に捨てられて傷ついてるから、一緒に歩いてくれそうな、女のコに甘えたいだけなんだ」
レイカが僕に言ったことと同じことを。
「だからさ、僕のことを、見捨てないでくれるかな?」
相手に求めるものは、相手が求めたものと同じ――
「レイカのことが、必要なんだ」
そんな最低な、告白。
近づくと離れていくレイカには、寄ってきてもらうしかない。
僕だって本当は、格好良く真正面からぶつかりたい。
でも、やっぱり……拒否はされたくない。
だから……どんなに格好悪くても、レイカが断れない、言葉を、選ぶ。
レイカはその言葉を聞いて、顔を伏せる。
指先の震えを必死に抑え、レイカの言葉を、待つ。
いくらなんでも、マズったかな……と気が気でない。
痺れを切らした僕は、そうっとレイカの顔を覗き込もうとしたところ――
「……ぷっ、なにそれ」
顔をあげたレイカは、未だに鼻声だったけど、瞳の中は星空の明かりを借りて澄んだ色をしていた。
「怒った?」
「怒った……って言うか」
少し唇を尖らせ。
「呆れた」
僕の頬をつねり。
「馬鹿にすんな」
足を軽く踏みつけ。
「でも、うれしかった」
そう言ってレイカは両手で僕の体を引き、首元に顔をうずめた。
「……やっぱ、ここは落ち着く」
レイカは僕の首元で唇を動かす、その感触がこそばゆくて、気持ちいい。
「それは良かった」
「なにが良かった、よ……生意気」
「ごめん」
「甘えん坊の癖に、キザなことばっか言って」
「この格好で、レイカがそれを言う?」
「私は……いいの」
レイカが深く首元に潜ろうと頭を揺らし、唇ごしに僕の首元を甘噛みする。
「くすぐったい」
「うるさい」
僕はレイカの頭を撫で、レイカのさせたいようにさせる。首元に感じる水分はレイカの唾液なのか、鼻水なのか、それ以外なのか。
でもいまはレイカのしたいことを、どんなことでも受け入れてあげたかった。
幾ばくかした後、レイカが顔を離す。
「諭史……ごめん」
「いいよ」
「違うの」
「え?」
「……あの時、ツバ吐いて……ごめん」
「……………………ああ」
いつだったかのベッドシーン……じゃなくて、生活のワンシーンでそんなことがあったような、なかったような。
「引いたでしょ? 女が男の顔にツバ吐きかけるなんて、最低だよ、ね?」
「ははっ、なんで今更そんなこと気にしてるの」
急にピントのずれたことを言いだすので、笑ってしまう。
「なっ、なによ。笑わなくてもいいでしょ」
レイカは顔を真っ赤にする。
「いや、そのことは怒ってないからいいんだけどさ、なんでいま謝ったの?」
「だって……いくらなんでも、あれはヒドかったなって思ったの! あれだけは後悔してたの、ずっと謝ろうとしてたの!」
レイカはここで謝ったのをイジられるなんて考えてもなかった! と、拗ね始める。僕はそんなレイカが可愛くなって、両手で頭をわしわしと撫でてやる。
……もう完成しないピースの欠け過ぎたジグソーパズル。
それでも完成させなければいけないのであれば、どんなに不格好でも代わりのピースを作っていくしかない。
夢があった。
でも夢の半ばで折れてしまった。
けど、夢折れた後に大切なものが見つかったのなら、そこでハンドルを切り直すのは、そんなに悪いことなのだろうか。
例え予定していた完成図と別物になってしまったとしても、本人たちが心からそれでいいと思えるなら、それでもいいのではないだろうか。
本当のハッピーエンドは僕たちが決める。
誰かが望んだハッピーエンドなんて、知ったこっちゃない。
僕はレイカと……一緒に舵を取っていく。
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