逃げた彼女と、ヒモになった僕

遠藤だいず

1章 変わっていく生活

1-1 失踪


「許せない……」


 五年ぶりに聞く、幼馴染の声。

 言い放つその語調には、昔を思い起こす少女らしさは窺えない。


 胸元を強引に引き寄せ、貫き殺さんばかりの視線を僕に向ける。

 その両目に宿る感情は、怒り。


「……アネキとは、最後になんて話をした?」


 そう言われて気付く、怒りの矛先は僕自身ではない。


 覗き込んでくる幼馴染の――レイカの焦点に僕は存在せず、ここにはいない自分の姉へと向けられていた。


 ベランダから差し込む夕陽がフローリングを紅く照らし、胸倉を掴まれた情けない僕と、レイカの影絵を映し出す。


 この部屋はこんなにも西日が通る部屋だったろうか。

 ……違う、カーテンも無くなっているからだ。


「特には、なにも。いつも通りだった。なにも変わったことなんてなかった」


「ウソ! アネキが諭史(さとし)を放って、失踪するわけないでしょ!?」


 その通り、だ。


 レイカの姉――優佳(ゆうか)がいなくなる理由はどこにもない。だから僕は一緒に住んでいた恋人、優佳がいなくなった現実を正しく認識できずにいる。


 この虫食いにあった部屋の中で、優佳の私物だけが綺麗になくなっていた。

 机の上に”ごめんなさい”と丸文字で書かれた、一枚の便箋だけを残して。


「愛想、尽かされたのかな? はは……」


「あのアネキに限って、それはない」


 それは僕の思うところと同じだ。いなくなってしまった現実を前にしても、優佳が人に愛想を尽かすなんて思えない。もし、そうだとしても放ったらかしにはしない。


 射すくめるような視線を向け続けるレイカ。

 ……変わらないな。それが少しばかり面白く思えた。


 だからそんな変わらないレイカを前にして、僕は少しだけ冷静になれた。最後に記憶している頃のレイカと、おんなじだったから。


「なに、笑ってるのよ」


 一層、視線を尖らせる幼馴染。


「なんで、笑ってられるの!」


 今度こそ、僕に向けられる怒り。


「アネキは、諭史を……裏切ったんだよ?」


「そうとは、限らない」


 首元を掴む力が強くなる。


「なに言ってんの、連絡ないんでしょ? それで”ごめんなさい”なんて置き手紙、普通じゃない!」


「僕は、優佳を信じる」


「その結果がこうなってるんじゃない!」


 言葉もなかった。


「それに諭史はアネキの彼氏だろ? 黙って出ていった彼女に、怒る権利のある人間だろ? なんでそんなに落ち着いていられるの!?」


 ……落ち着きもするよ。だって”あの”レイカが、僕の代わりに怒ってくれているんだから。


 逆に、僕から聞かせてくれ。


 僕と優佳から距離を置いたのは、レイカだろ?

 それなのに僕たち二人のことで、なんでそんなに怒るんだ?


 そんな疑問が少しずつ頭を占めるようになったら、感情任せに怒ったり、悲しんだりなんて出来やしない。


「落ち着いてはいないよ。僕だって怒ってるし、途方に暮れてる」


「だったら……!」


 一層強まるレイカの手に体を預けたまま、出来るだけ柔らかく声を絞り出す。


「……だからレイカ、代わりに怒ってくれて、ありがとう」


「っ!」


 レイカの視線が揺らぐ。

 変わらず尖らせていた眼光に、理性の色が戻る。


「馬鹿、野郎」


 僕から手を放し、そのまま膝から崩れ落ちる。


「レイカ」


 努めて平静を装い、最初にかけたかった言葉をかける。


「久しぶり、だね……元気そうでなにより」


「馬鹿!」


 レイカはまたシャツを掴みかかる。

 ……今度は俯きながら、弱々しい力で。


 そのままレイカは鼻をすすり始めた。怒ると泣く――昔のクセだ。

 僕はポケットには忍ばせてあったハンカチを取り出し、顔に当ててやる。


「男のくせに、ハンカチなんて持ち歩くな……」


「近くに泣き虫の誰かさんがいたからね」


「いつの話してるのよっ、馬鹿」


 グシグシと不器用にハンカチを顔に押し当てるレイカ。


 ……世の中、思うようにいかないことばかりだ。

 疎遠になってしまったレイカと交流を復活させたい、僕と優佳はそう望んでいた。


 けれど優佳がいなくなったら、こんなにもあっさりとレイカとの時間が動き出した。その時、一緒にいるはずの優佳は忽然と消えてしまった。


 幼馴染の仲良しが昔のように顔を合わす。

 たったそれだけのことが、どうして僕たちには出来ないのだろう……?


---


 さて――どうしよう。

 レイカは崩した顔を見られたくないのか、トイレに籠ってしまった。


 いま座っている位置は、優佳がクッションを置いていた壁際の特等席。


 勝手に座るといつも怒られていた。

 けどいまはクッションもなく、冷たいフローリングがお尻を冷やすだけ。


 この部屋にあった優佳の物や、空気が、雰囲気が、最初から存在しなかったかのように消えている。


 ぼんやりとどこかで見たSF小説を思い出していた。


 いなくなってしまった人物が最初から存在しなかったように、その人にまつわる物が消え、人の記憶からいなくなり、世界が辻褄合わせをはじめる。


 だが、これはそんな不可思議な話でもなければ夢でもない。


 優佳は僕たちの記憶にあって、その人がいなくなったことに違和感を感じ、ショックで途方に暮れている。


 空っぽの家に帰ってきて、数時間が経った。


 しばらく現実が受け入れられずに呆けていたが、感情を肩代わりされたおかげで、ようやく落ち着いて物事を考えられそうだった。


 ……ただ一口に考え事といっても、十八年の人生経験では僕に思いつく選択肢はほとんどない。


 とりあえずスマホを取り出し、ネットの検索画面を開いてみる。


 ”家出”……と入力し、後ろに”恋人”の文字を追加した。


 そこには無数の件数がヒットする。

 まるで『恋人に家出されることなんて珍しくもない、心配すんな!』と励まされているようだ。


 いろんなお悩み相談、まとめサイト、知恵袋がずらっと縦に並ぶ。

 それを見てると次第に「なんだ、僕の出来事なんて大したことないじゃん」って気にもなってくる。


 詳細こそ読まなかったが、それを眺めてるだけで次第に肩の力が抜けていく。


 そうやって少しでも、前を向かなきゃいけない。考えなければいけないのは、これからのこと。


 それにこの部屋で一人暮らしをしていくということは、優佳に任せっきりだった家賃を、僕が自前で用意しなければならないということだ。


 ――優佳は一つ年上の大学生で、僕たちは三ヶ月前から同棲をしていた。

 ここの家賃、もとい僕たちの同棲生活は優佳の負担によって成り立っていた。


 僕も数か月前までアルバイトをしていたが、今年度に控えている受験勉強に専念するため辞めている。


 本当は勉強と並行する予定だったが『将来、サトシが養ってくれればいいから』と言われ、優佳に依存するようになっていた。


 情けないやら、申し訳ないやら。

 それでも僕たちは上手くやってきた……つもりだ。


 けれどいま、優佳はここにいない。

 手紙を残し、自分の意志で、僕の知らないところへ行ってしまった。


 ……優佳の笑顔が頭をよぎり、目の奥が熱くなる。


 レイカには”信じる”などと言ったものの、帰ってきてくれる保証なんてどこにもない。


 僕の恋人は……失踪してしまったのだから。


---


 ガチャリと音を立て、トイレを長らく占領していたレイカが傍らに腰かける。

 ここに訪れた時の気迫は見る影もなく、目元を腫らして拗ねるような顔をしていた。


「ほら、鼻水出てるよ」


 僕は部屋に転がっていたボックスティッシュを差し出す。


「……ん」


 ひったくるとそっぽを向き、言われた通りに鼻水を拭き始める。

 先ほどの胸倉を掴み、声を荒げていたレイカもいまや借りてきた猫だった。


 いきり立つような逆ハの字になっていた眉も、いまはハの字になりを潜め、切れ長な睫毛を濡らしている。


 また、背が伸びただろうか? 百七十センチはあるように見える。

 平均的な女子の身長より頭一個分は大きいはずだ。


 僕が最後に測った時は百七十五だから、レイカとの目線はほぼフラットである。


 夕日に照らされた栗色のポニーテール。

 モデルのようなスレンダーな脚線に、それを引き立てるストレートデニム。


 男女問わず目を惹きつけるスタイルだが、その双眸から返される冷ややかな視線は、他人を寄せ付けない鋭利な刃物を思わせる。


 全体的に細身ではあるが、肩幅と女性にしては広く、胸元だけは憎々しいほど存在を主張している。


 そして見せつけるかのようにタンクトップを着こなし、袖口から覗く日焼け跡の白さが、また暴力的なまでに魅力を引き立てる。


 五年前の健康的な姿は、大人になるとこうまで変わるのだろうか。


 けれど中身については、良くも悪くも変わっていない。

 感情的になりやすいところなんてそのままだ。


 胸倉を掴み、絞め殺さんと怒りを露わにしていたかと思えば、いまは黙って僕の渡したティッシュで鼻を拭いている。


 花の茎が容易く折れてしまいそうな、そんな危うさがどこかにある。

 体だけ大人になり、心は思春期そのもの。


 これが僕が知っている優佳の妹、同い年で幼馴染の縁藤 レイカ(えんどう れいか)だった。

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