5.そして馬車は動き出した③

 東の国の王宮は慌ただしかった。

 今日入国するのは北の王妃と南の二人の妃である。西の王族は明日やってくる予定だ。王族の来訪なので、それは失礼がないように応対しなくてはいけない。王宮の中央に設けられた広場で、歓待の楽団や警護の軍人達の前に立った鳥代は、まっすぐに入り口を見据えていた。

「お兄様。ねぇ。ずっと、何を怒っていらっしゃるの?」

 同じように隣に立ち、こっそりと鳥代に話しかけてきたのは彼の妹だ。智莢という。十三歳とまだ幼く、身につけたドレスにはレースがふんだんに使われていて可愛らしい。けれど非常に賢く、その機知には時に大人の方が舌を巻くくらいだった。

「怒ってるように見えるか?」

「ええ。とても」

 鳥代は妹を見て片目を瞑ってみせた。

「その通りだ。俺は怒っている」

 智莢は大げさなくらいに目を見開いた。この兄がこんなふうに怒りを表現するのは非常に珍しいことだった。いつもなら怒っている時は真っ赤な顔で怒鳴りつけてくるのに。

「誰に怒っていらっしゃるの?」

「これからやってくる人にだよ」

「ええ? なんですって?」

 これからやってくるのは北の王妃だ。先ほどこの都に入ったという先触れが来たので、もうまもなく王宮に到着するはずである。

 北の王妃はそれは美しい女性である。去年の舞踏会で智莢も挨拶をしていた。におい立つような美女だった。女好きの兄がその王妃に対してこんなふうに怒りを露わにするなんて、理由は一つしか思い当たらない。

「ちょっとお兄様。お相手は他国の王妃様なのよ。痴情のもつれで外交にひびを入れないでね」

「馬鹿かお前は」

 鳥代は呆れたような声を出した。

「あら。違うの?」

「違うよ」

「ならなぜ?」

 大きな目をくりんと見開いた妹姫の柔らかい髪を、鳥代はくしゃくしゃと撫でた。遠くでガラガラと大きな音が聞こえた。

「妹よ。愛とは時に戦って勝ち得るものなのだ」

 智莢は怪訝そうに顔をしかめた。

「お兄様、熱でもあるのではない?」

「失礼な。ほら。前を向け。馬車が来るぞ」

 言って鳥代が示した方から、ちょうど黒い精悍な馬に引かれた馬車が入ってくるところだった。周囲を騎馬隊が固めている。楽団が歓待の音楽を奏で始めた。馬車と騎馬隊は作法通りの距離で馬を止め、そして軽やかに馬から下りた騎馬隊長が馬車の扉を開けた。

 まず肉感的な脚がちらりと見えて、それはすぐドレスの裾で隠された。色は濃い赤だ。白い手がすっと車内から伸び、騎馬隊長が恭しくその手を取った。騎馬隊の一人がさっと黒い日傘を差した。そうしてできた影の下に、北の王妃は現れた。

 間違いなく、文句なしに美しい女性だった。珀蓮の持つ美しさとは質が違う。人を惑わす類の美しさだ。すらりと背が高く、赤い唇が目をひいた。

 鳥代は歩を進めた。傲慢な女王のような王妃の前で、跪く。

「ようこそ、おいでくださいました。北の王妃殿下」

 王妃はにっこりと微笑んだ。

「お久しぶりです鳥代殿下。お元気そうでなによりです」

「いいえ、私の心は先日から曇天です」

 彼は顔を上げた。

 王妃が。

 近くに立っている。

 自分が射抜くような目をしていることを自覚していた。

 きっと、怒りを、露わにしている。

 この。目の前の、毒々しいほどに派手な美女。

「妃殿下。私の雪結晶をどこへお隠しになったのかお教え願いたい」

 王妃は一瞬目を細めただけだった。

 彼女は微笑んで言った。

「大切なものならば、宝石箱の奥に入れて隠しておくのがよろしくてよ」

 よく言う。

 鳥代は答えた。

「隠すにはもったないない至高の宝石です」

「愚かね」

「日の光の下でこそあれは輝きを増すのですよ」

「よく」

 王妃は微笑んだ。

「考えてから、ものをおっしゃった方がよろしいわ。私が誰なのか、ご存知なのでしょう?」

「存じ上げております。けれど、そんなことは、関係ないでしょう。私はただ、私の宝石をこの手に取り戻せればそれでよいのですよ」

 言いながら心の中で笑ってしまう。

 取り戻せればそれでいいなんて嘘だ。

 取り戻しただけでは足りない。彼女に絡みついた枷を外し、自由になった彼女をこの手におさめなければ、満足などできない。

 そのための障害は、すべて潰す。

 恐ろしくはなかった。

 目の前のこの、明らかに人でない美女に恐怖など微塵も抱かなかった。

 鳥代は目を細めた。

「どうか、お返し願いたい」

 ふいに、王妃の雰囲気が変わった。

 全く。そのまとう空気が。ひどく、どろどろとした、押しつぶされるような空気。威圧的で、圧倒的な。怒りだ。これは。きっと。王妃は、魔女だ。この時確信した。疑っていたわけではないが、今疑う余地さえもなくなった。こんなもの、人であるはずがない。こんな、目をした人間がいるわけがないのだ。

「東の王子殿下が」

 魔女は言った。

「こんなにつまらない方だったなんて、ひどく残念だわ」

 鳥代は笑った。

「光栄です」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る