5.そして馬車は動き出した①
物心ついた頃にはもう夢で彼女のことを知っていた。
赤い髪。
笑った顔。
透き通るような声で彼女が自分の名を呼ぶ。
その感覚。
子供の頃は、誰もがそういう記憶を持っているものだと思っていた。
そうでないと知った時に、それは特別なものとなった。
彼女が自分の知る他のどの女性よりも美しいのだと気付いたのは九歳の時だ。絶世の美少女だと言われた北の王女に会った時も、彼は彼女の方が美しいと思った。
夢の中の赤い髪のあのひとが笑う。
そうすると泣きながら目が覚める。
名前がわからないからただ泣いた。
彼女は。
ずっとずっと一人だった。
自分が一緒にいるのだと誓った。
ずっと、一緒にいるのだと。
なのに。
二百年。
彼女を一人にしていた。
新祢。
なによりも大切なその名前さえ長いこと思い出せず。
君を。
ずっと。
新祢。
「おい」
思索をさえぎられて、王伊は不愉快そうに目を開けた。
「何?」
狭い馬車の中でクッションを背にして座る王伊の前に、広兼が座っている。二人とも王子としての正装をしているのは、この馬車が東の国の王宮に向かうものだからだ。おかげで大きな荷物を載せた窮屈なこの馬車の中で、さらに窮屈な思いをさせられている。同乗しているのが美女ではなく見飽きた顔の友人であるのならなおさらだった。
「お前の彼女って、どんな女?」
広兼の言葉に、王伊は目を丸くした。
「は? どうしたわけ? 突然」
「別に。ちょっと思っただけ」
広兼は窓際に固めたクッションに頬杖をついて窓の外を見ている。友人の珍しい様子に王伊は怪訝そうな顔をした。
一体どうしたというのか。そういえば、先ほどから妙に無口である。なんだか頬が赤く腫れている様子なのも気になる。
「綺麗な人だよ」
王伊は答えた。
「髪は赤い。あんなに鮮やかな髪はちょっといないよ。優しくて強いんだ。僕は最初から彼女に惹かれてた。正直でね、嘘がつけない。可愛い。頭もいいよ。独学で魔法の勉強をしていた。小さな魔法なら使える」
彼女を賞賛する言葉なら次から次へと出てくる。
「毅然としてる。人の心をよく察して、我慢ばかりしていた」
会いに来ない両親への恨み言をこぼしたことさえなかった。彼女は手に入らないことを嘆いたりしなかったし、手に入れるための努力は惜しまなかった。
「よく覚えてるな」
広兼はいつの間にか窓の外から王伊に目を移していた。
「昨日の夜思い出したんだ。いろいろな事をね」
そう。
思い出した。
彼女に。
魔法がかけられているのだということも。
思い出したのだ。
だから王伊はこうして大人しく東の王宮に向かっていた。
魔女に。
北の王妃に会うためだ。
同じ魔女ならば、何か知らないだろうかと思ったのだ。
かつて、魔女に魔法をかけられた、赤い髪のあの人のことを。
鳥代がもう殺してしまっていなければいいけど、と王伊は物騒なことを憂えてため息をついた。
「君は、どうしたの? そのほっぺた」
さも今気付いたかのように聞くと、広兼は憮然として言った。
「我慢できなかった」
彼は両手の平を上に上げ、わなわなと自分の腕を震わせた。
「だってもう我慢できなかったんだよ。いい匂いはするし顔は赤くなってるし可愛いし柔らかいし可愛いし可愛いし可愛いし」
広兼は頭をかかえた。
「ありゃ犯罪だろ!」
「え、犯罪犯したの君じゃないの?」
「まだ犯してねぇ!」
東の王子はがばりと身体を起こしてガン! と馬車の天井に頭をぶつけた。そのままクッションの上に倒れて悶絶する。
王伊は呆れた。
「わー。もう、信じられない。君。すごいね。恋に落ちた男ってこんなに馬鹿に見えるんだね」
「うぐ。くそ。お前に言われたくねぇ……」
どうやらそうとう痛かったらしい。広兼は涙目で呻いた。
「鳥代もね。完全に馬鹿だよね。あんな面倒なお姫様好きになるなんてさ」
「だからお前さも他人事のように言ってんじゃねぇよ。お前が馬鹿の最たるものなんだよ。キングオブ馬鹿なんだよ」
王伊はにっこりと笑った。
「言っておくけど、僕の新祢に惚れないでね。恋敵を近くで生かしておくほど僕も心は広くないんだけど、友人を殺すのは忍びないし」
「ほざけ」
広兼は吐き捨てた。
「お前こそ、俺の女に手ぇ出すなよ」
「あれ? そういえばその早苗さんって、舞踏会に来るの?」
そもそも早苗に鳥代の婚約者のふりをしてもらうとかなんとかいう話が始まりだったのだ。
「来るよ」
当然だろ?
と広兼は言った。
「早苗にとって、身の内に入れた人間は全部庇護の対象なんだよ」
二年前は、珀蓮は他人だった。
だから切り捨てたのだ。
でも今は違う。
「珀蓮を奪われて、怒ってたのは鳥代だけじゃない。お前にも見せたかったぜ。こう、紅茶のカップを睨みつけて黙り込んだ早苗は、引き込まれそうなくらいに綺麗だったんだからな」
「へぇ」
自慢気に言う広兼に、王伊は笑った。
「なんか、珀御前にしても、早苗さんにしても、僕の新祢にしても、相手が魔女でも物怖じしないよね」
「ああ」
「強い」
「そうだな」
「他にはいないね」
「だから」
「手に入れる」
「逃してたまるか」
「うん」
「当然だろ?」
二人は目を合わせてにやりと笑った。
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