4.こんな展開は予想してない④

 早苗は、自分は幸せだと信じていた。

 生まれた時には父も母もいた。母は死んだけれど、父は溢れるような愛情をずっと注いでいてくれた。

 父は早苗のために、田舎に越そうと言い出した。

 一度思い込んだら止まらない人で、可愛い娘のためには田舎の環境のいい場所で暮らす方がいいに違いないと思ったらしかった。

 父はそこで美しい人に出会った。

 母が亡くなって十年近くが経っていた。父は新しい恋をして、その美しい人と結婚した。その人には娘が二人いた。

 でも早苗は最初その二人の少女が新しい母親の娘だとは思わなかった。

 なぜなら彼女達はみすぼらしい格好をしていたし、ほとんど召使いのようだったからだ。

 美しい人は、もともと孤児だったその二人の少女を娘として引き取り、召使いの代わりにしているらしかった。父はそれはよくないと言い、二人の少女には早苗と同じように服を与え、早苗と同じように部屋を与えた。

 五人は家族として暮らしたが、継母は家を空けることが多かった。

 早苗は、ただ直感で、自分の『お義母様』が普通の人間でないことに気付いていた。

 なぜならその人は、それほど美しかったからだ。目を奪われるような微笑みに、衰えを知らない白い肌。その人はまるで狡猾な蛇のような甘い声をしていた。

『お義母様』は、あまり子供が好きではないようだった。それは早苗だけではなく、自分が引き取った二人の娘に対しても同じだった。早苗が「お義母様」とその人を呼ぶと、その人は不可解なものを見るように早苗を一瞥した。

 けれど早苗はそれでもよかった。彼女は幼い頃に母親を亡くしてから母というものに憧れていたし、姉が二人も同時にできたのは彼女にとって喜ばしいことだったからだ。

『お義母様』は、子供達にある一つのことをよく聞いた。

「世界で一番美しいのは誰だと思う?」

 これに対する答えは決まっていた。嘘偽りなく、それは『お義母様』だと早苗も早苗の二人の義姉も答えた。

 彼女達のその答えに対して満足気に微笑む『お義母様』は目を奪われるほどに美しく、『お義母様』以上に美しい人などこの世にはいないに違いないと早苗は思った。

 けれどある日、早苗は『お義母様』より美しい人を見てしまった。

 最初、それは絵なのだと思った。

 艶やかな黒髪。吸い込まれてしまいそうな双眸に、整った鼻筋。唇は薔薇のように赤く、肌は新雪のように白い。

 畏怖さえ抱いてしまうほどの美しさだった。

 それは、『お義母様』の部屋だった。

 普段は立ち入り禁止の『お義母様』の部屋で大きな音がしたので様子を見に来たら、嵐が来たかのように散らかった部屋と右上が大きく欠けた鏡があった。

 それが鏡だと気付いたのは、その欠けた部分が床に散らばって、光を反射していたからだ。分厚い本も床に落ちていた。先ほどした大きな音はこの鏡が割られた音なのだと早苗は頭の片隅で理解した。

 けれどそれよりも、鏡の残った部分に映ったその美しい人に目を奪われた。

 明らかに、それは魔法の鏡だった。目の前に立つのは金色の髪を持った娘であるのに、鏡は清廉な黒髪の美女を映していた。

 早苗は気がついたら泣いていた。

 鏡に映った黒髪の美女は明らかに異端だった。

 その人は白雪姫と呼ばれるのだとすぐに知った。

 吟遊詩人が謡う北の王女。

 世界で一番、美しい人。

 他者と違うということは、それは孤独であるのと同義だ。

 早苗はそれを知っていた。

 その孤独は、父や義姉達に、早苗自身が救われた暗闇と同じだった。



「お義母様はそのまま戻っては来られませんでした。そして父が亡くなり、その直後、北に美しい王妃がやってきたと聞きました」

 その時早苗はすぐ気付いたのだ。

 北の王妃となった者が誰なのか。そしてその理由も。

「広兼様」

 早苗は首を傾げて微笑んだ。

 彼女は自分の笑顔がどのように見えるかを知っていた。

 南の王子はまっすぐに早苗を見ている。

 その茶色の双眸は、どこまでも迷いがない。

「私は一度、珀蓮を見殺しにしようとしたのです」

 そうだ。

 あれはそういうことだった。

 自分が世界で一番美しいということに執着していたあの人が、あの美しい北の王女の存在を許すことなどできるはずがなかった。思わず本を投げつけて鏡を割ってしまうほど、あの人は怒っていた。それを知っていれば、あの人が北の王妃となった理由など容易に想像がついたのだ。

 北の王妃となってすぐ手を出そうとしなかったのは、そうすることはつまり自分の敗北を認めることだったからだろう。それほどにあの人の矜持は高かった。

 でもそれでも、いつかあの人は北の王女を損なうだろうと知っていた。

 魔女だから。

 その激しい気性はきっと許せない。

 自分より優れた者を。

 そのままにはしておかない。

 でもその時の早苗には、そんなことに関わっている暇はなかった。

 父が亡くなって、商売はすぐに傾いた。家の世話をしてくれていた人に支払う手当さえも出せなくなり、全員に暇を出した。

 早苗はドレスを売り、メイド服を着た。

 その間遠い国の王女の安否など気にもしなかった。

 早苗は。

 自分の手でできることの限界を承知していた。

「そのことを今も後悔していません」

 たとえ他の何かを犠牲にしても、自分の大切なものが無事であればいい。

 そういう利己的な人間なのだ。

 自分は。

 微笑んで。

 そういうことをする。

 これは。

 秘密だ。

 義姉達には、絶対に話さない。

 嫌われたくないから。

 だって。

 家族に嫌われたら、本当に一人になってしまうから。

「幻滅されたでしょう?」

 自分のことばかり考えて、それを省みようとはしない。

 それを間違いだと思っていない。後悔していない。

「なんで?」

 広兼は言下に答えた。

 早苗は目を見開いた。

 南の王子は少しも表情を変えずに続けた。

「なんで俺がそんなことであなたに幻滅するんだ。言っただろう、俺はあなたが欲しいんだ。珀蓮なんてどうでもいいし、他人を助けようとして自滅する馬鹿なんかにゃもっと興味はねぇよ」

 言ってから、広兼は早苗の手を取ってぐいと引っ張って立ち上がった。突然のことに抵抗する間もなく彼女はよろめいてソファから離れ、広兼の腕の中に倒れこんだ。

「てゆうか、もろ俺好みだ」

 広兼の右手は早苗の手首を持って引きつけ、左手でその頬をなぞる。

 早苗はまだこぼれそうに目を見開いている。

 それがとてもいとおしいのだとでも言うように、彼は悪戯っぽく笑った。

 こんなところ、鳥代や王伊が見ていたら思わず噴き出していただろう。南の王子殿下は、目の前の金髪の女性に、完全にいかれてしまっているようだった。

「あー今超接吻したい」

 早苗はしばし目を瞬かせてから、「まぁ」と言った。

「こんな展開、予想してませんでした」

 どうしましょう、と早苗は言った。

「予想ができないのが恋でしょう」

「そうなのですか? あの。ちょっと」

「どうした? 顔が赤いけど」

「その、離していただけませんか? ちょっと」

 早苗は混乱していた。

 彼女は本当に、こんな展開は予想していなかった。

 おかしい。

 どこで間違ったのだろう。

 いや、今回は、こんな間違いばかりだった。

 最初に森で北の王女を見つけた時に、彼女が王妃に殺されかけたのだとすぐわかった。その瞬間にあらゆる展開を予想した。

 家に連れ帰る。今なら、うちで守れる。簡単だ。王妃は、鏡を媒介にする魔女だから、家の鏡すべてに茨姫の魔法で罠をかけるのだ。そうすれば王妃が王女を殺しにやってきても、必ず罠にかかるはずだった。 

 でも実際は王妃は湯船にはられた水を媒介にして屋敷に侵入した。

 誤算だった。王妃の媒介は、鏡ではなく光を反射するものならなんでもよかったのだ。

 これは致命的だった。

 珀蓮を攫われただけではなく、茨姫も奪われた。

 茨姫は。

 鏡に封印された姫君だ。

 おそらく、早苗の継母であり、北の王妃でもある、《赤い森》の魔女の手によって。何百年も前に。

 それには気付いていた。ずっと前から。

 もし王妃を罠にかけることができたら、茨姫の封印についても問いただそうと思っていた。

 でも彼女の封印を解くことができるのは彼女を迎えに来る王子様だけなのだと、茨姫はいつも言っていた。

 たった一人。

 彼女を助けに来る人がいるのだと。

 恋しい人が、来るのだと。

 恋。

 恋?

「『ちょっと』、何?」

 広兼はまだ笑っている。

 早苗は頭に血が上ってうまく物事を考えられなかった。

「離してください」

 早苗はかろうじてそう言った。

 心臓がうるさい。

 これはなんだ。

「やだ」

 彼はまだ早苗の頬をなぞっている。

 触れられた部分が魔法をかけられたかのように熱い。

 嘘のように身体が動かない。

 心臓は破裂しそうだ。

 これはなんだ。

「早苗」

 名前を呼ばないでと叫びそうになる。

 さっきは呼んでもいいと言ったのに。

 おかしい。

 自分はどうかしてしまったのではないか。

 さっき。

 あの瞬間から。

 彼が。

 なんで? と。

 言った瞬間から。

「早苗」

 耳元で声がする。

 ああ。

 もう駄目。

 がきん!

 早苗は、生まれて初めて手を上げた。

「ごめんなさい!」

 そして脱兎のごとくその場を逃げ出したのだった。

 これはなに?

 これはなに?

 これはなに?

 早苗は半泣きだった。

 顔が熱い。

 心臓がうるさい。

 こんな展開は予想してない。

 だって。

 これではまるで、茨姫が言っていたことそのままだ。

『奴に触れられると、身体中が熱を帯びる。見られるだけで、心臓が早鐘のようになる。気付いた最初の頃は、生きた心地がせなんだぞ。妾はこのままこいつに殺されるのだと思ったものじゃ』

 ああ。

 なんてこと。

 やられたわ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る