4.こんな展開は予想してない③

 時間は少し戻る。


「見てくるわね」

 そう言ってから珀蓮を残して部屋を出て廊下に続く扉を開けても、そこには誰もいなかった。

 早苗は試しに小さく義姉達の名を呼んでみたが、誰も返事をしない。

 早苗は首を傾げた。

 聞き間違いだろうか。でも珀蓮も聞いていたのに。

 廊下は昼間とは違う静けさに覆われて、まるで違う場所のようだ。珀蓮の客間は義姉達とは反対側の二階の角部屋で、廊下の先は折れ曲がって見えない。

 早苗は扉を閉めて、珀蓮がいるはずの部屋に戻った。

「誰もいなかったわ」

 当然そこに答える者がいるものとして発せられた早苗の言葉は、空中で萎むように消えた。

 早苗は眉間に皺をよせる。

「珀蓮?」

 早苗は部屋の中に目を走らせた。

 いない。

 まさか。

 隠れるような場所はない。

 念のため浴槽に近づく。そこにはお湯がたっぷりと入っていて、水面はゆらゆらと揺れて早苗の顔を歪めて映した。

「珀蓮」

 鏡台の上を見る。

 手鏡がなかった。

 早苗は確信した。

 なんてことだろう。

 あの人が。

 魔女が、来たのだ。

 珀蓮を攫った。

 早苗の決断は早かった。

 彼女は踵を返して、部屋を飛び出した。



 上に何も着ないで馬を飛ばしてきたので早苗はひどく疲弊して身体も冷え切っていた。

「申し訳ありません」

 早苗は鳥代にそう言ったが、鳥代は意外なほど冷静な様子で早苗に礼を言った。

「ありがとう早苗嬢。今日はもうここに泊まるといい。明日の早朝、こちらからあなたの義姉君達には使者を向かわせる。俺はこれからちょっと馬鹿女を助けに行ってくるから。あなたはもう何も心配しなくていい。何かあったら広兼になんでも言ってくれ。……貞操の危機を感じたら遠慮なく殴り倒してもらって構わないから」

「おいコラ人聞きの悪いことを言うな」

 文句を言う広兼を無視して、鳥代はすぐに支度をすませた。彼は出る直前に広兼と少し話をしてから、丘の上の屋敷を出て行った。

 早苗は広い応接間のソファに座り、身体に毛布を巻きつけていた。両手に温かいハーブティーが入ったカップを持っている。全部この家の使用人が用意したものだ。彼女の横に立つのは広兼だけで、彼はずっと早苗の横顔を見ていた。

 広兼は早苗の横顔に見惚れた。

 早苗はもうずっと、自分が手に持ったカップの中身を睨みつけるようにして俯いていた。綺麗だと思う。今すぐ抱きしめてしまいたいと思うほどに。

 恋というものは本当に不思議だ。

 これは狂気だろう。

 他のことはすべて些事に思える。

 少し理性のたがを外すだけで、簡単に犯罪者になれる。

 彼女の青い目は、同じ青でもその感情で色を変える。今は深い深い海の青。

 金色の髪が早苗の白い頬を縁取っている。

 それは珀蓮とは違う美しさで、広兼の魂の深い部分を搦め捕るくらいに魅力的だった。

「何も」

 先に口を開いたのは早苗だった。

 彼女は持っていたカップをテーブルに置くと、顔を上げた。

 目の青は晴れた日の空の色に戻っていて、彼女は柔らかく笑った。

 思えば最後に会ったのは、広兼が初対面でプロポーズをした時だった。鳥代に殴られて昏倒するという醜態をさらしたのに微笑みかけてくれる彼女がいとおしかった。

「何も聞かないのですか?」

 広兼は一瞬声を失ったが、すぐに答えた。

「早苗と呼んでもいいか?」

 まさかそういう問いが返ってくるとは思わなかったので、早苗は少し目を見開いた。「まぁ」と彼女は言った。

「もちろんです。広兼様。どうぞ」

 彼女は快諾した。

「他にはないですか?」

「恋人は?」

「いませんよ」

「婚約者は?」

「いません」

「想い人は?」

「いないわ。広兼様」

 早苗は笑った。

「もしかしてこれは貞操の危機ですか?」

「まさか」

 広兼は大げさな仕草で両手を上げた。

「あなたの了承を得られるまでは、あなたに触れない。この理性を保ち続ける」

「安心しました。私では広兼様を殴り倒すなんてできそうにないですから」

「殴り倒す? そんな必要ねぇだろ。嫌いになりますよ、と一言いってくれれば俺はあなたに何もできなくなる」

 広兼は早苗を見て言った。

 そうだ。

 それが恋というものだ。

 早苗は首を傾げた。

「自分の弱みをそんなに簡単にさらけ出すものではありませんよ」

「俺はこれを弱みだとは思っていないからな。早苗。あなたの憂いを当てようか?」

 広兼は一歩早苗に近づくと、彼女の目の高さになるように跪いた。

 早苗は目を逸らさない。

 まっすぐに広兼を見ている。

 射抜かれるようだ。

 心臓がうるさい。

 広兼は、なんでもないふうを装うのが精一杯だった。

「あなたの継母は北の王妃だろう?」

 早苗はまた「まぁ」と言った。彼女は、春の木漏れ日のように笑う。

「面白いことをおっしゃるんですね」

「説明がいる?」

「いいえ。でも、どうやって調べられたのですか? この短期間で」

「少し町で話を聞いたのと、あとはそこから導かれる答えを弾き出しただけだ」

 早苗は笑った。

「素晴らしいですね」

 広兼は身震いをした。

 彼女は。

 おそらくほとんどすべてを予想していた。

 彼女が持っていた情報と条件から、起こりうるあらゆる事象を先に計算していた。

 だから今もこうして微笑んでいる。

 南の王子が彼女の継母の正体をあばくことを、早苗は予想していたからだ。

「素晴らしいのはあなただ」

 広兼は心から賞賛した。

 こんな女性他にはいない。

 頭がいい。

 先の先を見ている。

 彼女は。

 賢者の一族の妻にふさわしい。

「俺はあなたが欲しい」

 広兼は言った。

 彼は鳥代のように遠まわしに女性を口説く術を知らなかった。頭はよくても、恋愛に関しては門外漢だ。

「広兼様」

 この時初めて、早苗は困ったように笑った。

 彼女の笑顔が曇るのは、まるで世界の損失のように思えた。

 彼女が笑わないのなら、他の何にも意味はないのだ。そう思って、昔、兄が恋文にしたためていた文章をふと思い出して苦笑した。

 夢で会えないのなら、生きていても仕方がありません。

 それは、こういう意味なのだ。

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