3.それが唯一絶対の真実でなくてはならない⑨

 彼女以上に美しい赤い髪を持つ女性など他には知らない。

 彼女以上に透き通る声を持つ女性など他には知らない。

 彼女以上に甘やかな笑顔を持つ女性など他には知らない。

 彼女は王宮の奥にある後宮の、さらに奥に住んでいた。

 後宮の奥には塔を一つ側に抱えた小さな屋敷のようなものがあって、彼女はたった一人で、その屋敷で暮らしていた。

 生まれてすぐに魔女に呪いをかけられた自分の娘をその両親はどう扱ったらよいかわからないようだった。

 愛して、失うのを恐れていたようだった。

 彼は、そんな彼女の屋敷に、小姓としてやってきたのだった。

「新しい小姓ですわ。姫様」

 女官にそう言って紹介された時、彼は九歳で、彼女は七歳になったばかりだった。小さな彼女は、新しいその召使いをちらりと一瞥しただけで、すぐ手元に持っていた本に目を戻した。

「行けや。妾は忙しいのじゃ」

 年下の主のそっけない態度に、彼は初めこそ不愉快になったが、けれどそれでもその鮮やかな赤い髪から目を逸らすことができなかった。彼は惚れ惚れとして言った。

「きれいな髪ですね」

 そう言った彼を、彼女はちらりと見たがやはりすぐに興味を失ったようだった。

 その日はもう何を話しかけても返事はなかった。

 小姓として彼女に紹介された彼は、けれど彼女の友人になってほしいと王と王妃に言われていた。それが呪われた幼い姫君への、王と王妃なりの罪滅ぼしだった。

 彼は毎日彼女の元へおもむき、話しかけた。

 そしてある日思いついて彼女の名前を聞いた。

 彼はずっと、周囲に倣って彼女を『姫様』と呼んでいた。けれども友人になるのなら、名前が必要だろうと思ったのだ。

 あの時の彼女の顔は忘れられない。

 彼女は、本当に奇妙な顔をして、彼を見たのだ。

「なぜそなたが妾の名を知る必要がある」

 責められているのかと思って、彼は困惑した。

「名前で呼んでほしくないのなら教えてくれなくていいよ。でも、友達の名前も知らないなんておかしいでしょう?」

 彼女は、何かを考えている様子だった。

 少年は彼女が初めて本よりも自分に注意を向けてくれているのが嬉しかった。小さい彼女には大きすぎる魔道書は、彼女の手元から落ちそうになっている。

 そして彼女は、初めて彼に気付いたように言ったのだ。

「そなたは、誰じゃ」

 驚いたことに。

 彼女はこの時まで、この、新しい小姓の存在に気付いていなかったのだ。

 彼が初めてこの宮に来た時に確かに彼を一瞥したが、それだけでもう彼女の記憶から彼は抹消されてしまっていた。ただそれは、彼女が冷たいからではないことに、少年はすぐに気付いた。

 彼女は。

 あまりに一人でありすぎたのだ。

 周囲には職務に忠実な女官ばかりで、皆決して彼女の孤独を癒すものではない。新しい小姓も、彼女にとってはあの大勢いる自分の世話をする者達の一人にしかすぎなかった。だから特に記憶にとどめる必要性を感じなかったのだ。

 そう気付いた時、自分がずっと一緒にいるのだと誓った。

 彼は笑ってもう一度名乗った。

 彼女はもう二度と、彼の名前を忘れなかった。

 小さかった二人は共に成長して、当然のように恋仲となった。

 その頃の王族というのは、皆少しだけ魔法が使えた。それは彼女にとっても例外ではなかったが、やはり潜在的な魔力に違いがあるようで、どれだけ勉強しても彼女は魔女と呼べる存在にはなれなかった。

 東に住む破魔の一族は、いまだ姿をくらましたあの悪い魔女を捕まえられていないという。

 永遠の眠りにつくのだという呪いはたびたび彼女を落ち込ませて、彼はそのつど彼女を慰めた。

「泣かないで。約束するよ。僕が必ず迎えに行くから」

 彼女の涙は透明で、まるでそれだけで不老不死になれる妙薬のように神秘的だった。

「二百年ぞ。誰も生きてはおれぬ。魔女以外は誰も」

「生まれ変わって迎えに行く」

「妾のことなぞ覚えておるまい」

「覚えてる。君の、赤い髪と、そしてこの約束を。そして君の名を呼ぶから」

 彼は彼女の赤い髪に触れた。

 どうして忘れられるだろう。

 君の。

 この鮮やかな髪の色と。

 透き通る声。

 ふと見せる甘やかな笑顔。

 泣きそうにいとおしいのに。

 彼女の名前を呼ぶのは、彼だけだった。

 屋敷にいる女官は皆彼女を姫様と呼び、彼女の名前を呼ぶはずの王と王妃は滅多に屋敷に来

なかった。

 彼が彼女の名前を呼ぶと、彼女はまた涙を流した。

「僕が君の魔法を解く」

 そう言うと、彼女が泣いた。

 嬉しいと。

 いつまでも、待っているからと。

 忘れられるわけがない。

 君がいとおしすぎて。

 泣きそうになる。

 その。

 赤い髪も。

 声も。

 笑顔も。

 すべて。

 僕が愛した君だ。




 目が覚めても王伊はしばらく泣いていた。

 どうして忘れていたのかしれない。

 宝物のようなその名前を。

 彼は何度もそれを口の中で転がした。

 その名を口にするたびに、涙が溢れてきた。

 しらね。

 それが彼女の名前だった。

 今もこの世界で彼を待っている、いとおしい女性の名前だ。

 新祢。

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