3.それが唯一絶対の真実でなくてはならない⑧
「あたしの勝ちよ!」
力を失って床の上に横たわった珀蓮を前にして、早苗の姿をした魔女は高笑いをした。
魔女は勝利を確信した。
邪魔な女は排除した。
これでもう憂いはない。
しかしその時、ぶわりと下から吹き上げるように薔薇の香りがして、魔女は驚いて後ずさった。
そして目を疑った。
ひどく大きな薔薇の花が、床から咲いていたのだ。魔女は、それが珀蓮の身体があった場所から咲いていることにすぐ気付いた。
「なに? あの女、何を……」
その姿はお前にはふさわしくないの。
すぐ背後から声がしたので、魔女は驚いてその場を飛んで離れた。壁を背にとり、腰を低くして着地する。髪がふわりと揺れる。そして魔女は、そこに立つ女を、眉間に皺をよせて睨みつけた。誰だ。
その女は、半透明だった。幽霊だろうか。床にまで届く長い髪を持っている。それは絹糸のようにすべらかで、柔らかく波打っている。すらりと背は高く、感情のあまり見られない顔立ちではあったが、今は明らかに怒りを露わにしていた。
本性を現しや。お前ごときが早苗を騙るなど、二百年早い。
声はまるでこの部屋全体から響いてくるようだった。
その時魔女は、ひらめくように思い出した。
「お前……!」
目をつり上げて低く唸る。
魔女はその女を知っていた。
もうずっと忘れていた女だ。
そしてその女はこんな所にいるべき存在ではなかった。
ずっと昔。
自分が。
鏡に閉じ込めた女だからだ。
そうだ。
かつての王族。
この国々を支配していた、あの愚かな王族の王女。
魔女が国を支配するべきだという言葉に耳を貸さず、自分を排除しようとした。
だから呪った。生まれたばかりの王女を。
生まれてすぐどうこうしても面白くないと思った。
いつかお前を永遠に目覚められなくしてやると呪い、恐怖に怯えさせてこそ意味があると思った。
そして王女が成人すると、呪い通りにその意識だけを鏡に閉じ込めた。身体の方は眠ったようになって邪魔なので、森の中に隠したのだ。
しばらくはその鏡で女をからかって遊んでいたのだが、すぐ飽きてどこかにやってしまった。
それが。
なぜこんな所にいるのか。
違う。
そもそもどうして。
まだ生きているのだ。
意識を切り離しただけで、身体は時間経過と共に老いていくはずだった。身体が死ねば、そこに宿るべき意識も消える、もしくははっきりとした形を保てなくなって、空気の中を漂う結末になるはずだった。
ありえない。
魔女でなければ、こんなに長生きできるはずがない。
そうだ。
魔女でなければ。
「どうして」
魔女は床に咲いた薔薇に目を走らせた。おそらく珀蓮の身体は、あの中にある。
あれはなんだ。
魔法ではないのか。
薔薇の香り。
魔法?
確かに、この女は、魔法を使えた。
あの頃の王族は皆、小さな魔法なら使えたのだ。ただ決定的に魔力が足りず、せいぜいが花を咲かせるとかその程度にしか使えなかった。
それが。
これはなんだ。
決して小さな魔法ではない。
それどころか、立派な魔女のようだ。
茨姫は魔女の困惑を読み取って言った。ぱらりと扇子を取り出して、口元を隠す。余裕のあるその様子が、魔女を苛立たせる。
お前の魔女としての才能は、なるほど天賦のものじゃの。妾を閉じ込めた森の中にはお前の魔力が充満して、使い放題じゃ。もっとも、お前の魔力を妾のものに変換できるようにするのは、大儀であったぞ。お前の魔力は、あまりに穢れておったからの。
魔女はかっとした。
「貴様!」
それは魔女にとって、恥辱以外の何ものでもなかった。
ではこの女は、自分の魔力を使って生きながらえ、同じようにして自分の邪魔をしているのだ。
「よくも……!」
部屋に圧力がかかる。魔女の、早苗の金色の髪がゆらりと揺れる。魔女の姿全体が歪む。それはまるで蜃気楼を見ているようだった。早苗の格好をした魔女が歪み、形を崩す。
カシャン! と音がした。
部屋中に飽和した魔力に耐えかねて、紅茶のカップが割れたのだ。紅茶がテーブルを伝い、そのしずくがカーペットに落ちるその瞬間には、魔女はもう本性を露わにしていた。
鏡を媒介とする魔女の魔法は、光の反射を利用して他人に化けるものだ。
その魔法を解いた今、魔女は黒い装束に身を固め、胸に鏡のついたペンダントを下げていた。目はつり上がり、唇は赤い。壮絶に美しい女。
「お前が、あたしに勝てると思ってるの? お前の身体は今もあたしの手中にあるし、お前が宿っている鏡を壊すことは、あたしには造作もないことなのよ」
魔女は言った。
そうだ。
女の身体は今もまだあの森にある。
あの森は、魔女の森だ。
誰も踏み入れられない、不可侵の森。
この時初めて、茨姫は微笑んだ。それは見た瞬間魂を抜かれてしまいそうな、ひどく魅力的な微笑みだった。
思ってはおらぬ。だが珀蓮は殺させぬ。この娘の身体は妾の魔法が守っておる。だからお前には殺せぬよ。
大輪の薔薇。
「自分の身を引き換えに、そこの女を守ろうと言うの?」
何を怖れることがある? 妾には、妾を迎えに来る者がおるというのに。
魔女は眉間に皺をよせた。
「残念だけど、そこの娘はもう動けないし、お前の知人は皆既に死んでるのよ。お前を迎えに来る者など誰もいないわ」
言いながら魔女は否、と心の中で否定した。
違う。
そもそもなぜこの女はここにいるのだ。
そして珀蓮を守っている?
まだいるのかもしれない。
誰か。
あの。
金色の髪の娘だろうか。
小賢しい娘。
昔から、生意気だと思っていた。
ためらいもなく自分を「お義母様」と呼んで、いつも満ち足りた顔をしているのが癇に障った。
舌打ちをしたくなる。
なぜこうも邪魔が入るのだろう。
苛々する。
うまくいかない。
「終わりよ」
魔女は言った。
それだけでよかった。
どこかで鏡の割れた音がした。
それだけで、十分だった。
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