3.それが唯一絶対の真実でなくてはならない⑦

 珀蓮は苛立っていた。

 部屋に準備された浴槽から上がった後乱暴に髪と身体を拭いて服を着る。就寝用の服は早苗の下の義姉が先日購入してまだ袖を通していないというものを借りた。スカートは短いし、全体的にだぼついてしまうが、上の義姉のものを着たら胸がきつくなってしまうので、こちらの方がましだった。

 ただこのセンスにだけは辟易した。ふんだんに使われたフリルはうざいし、色も濃い赤だ。趣味が悪いとしか言いようがない。流行だかなんだか知らないがその服の形は複雑で、最初はどうやって着るのかわからなかったくらいだった。

 全く、機能的ではない。

「まぁ」

 部屋に入ってきた早苗は、髪から水をしたたらせる珀蓮を見て、声を上げた。

 珀蓮が床に投げ捨てたのとは別の新しいタオルを取って、正面から珀蓮の髪の毛を包むようにする。

「駄目よ。きちんと乾かさなくちゃ。風邪をひいてしまうわ」

 世の中には自分で服を着たことがないという王族もいたが、珀蓮は王宮でもそれらのことはすべて自分でやっていた。彼女の後宮にはほとんど女官がいない。父王がそのようにした。

 早苗は珀蓮の髪を優しく拭いた。

 珀蓮は心地よさそうに目を瞑る。

 早苗に触れられると、ささくれ立っていた気持ちが丸くなっていくのが不思議だった。彼女こそが魔女のようだ。優しい魔法を使う魔女。

「あの女共、ものすごく面倒だわ」

 珀蓮は呟くように言った。言ってから、まるで小さな子供の愚痴のようだと珀蓮は思った。

 早苗は困ったように笑う。

「悪気はないのよ」

 彼女はあくまで、彼女の義姉達を弁護した。

「わたくし、もう耳が疲れていてよ」

 昼食を食べた後は気分が優れないからと逃げていたが、珀蓮は仮にも客人だったので夕食の席を一緒にしないわけにはいかなかった。その間早苗の上の義姉はまるで話すことをやめたら死んでしまうのだとでもいうように次から次へと喋り倒したし、下の義姉は晩餐を食べるのに忙しそうだった。

 夕食を作ったのはもちろん早苗で、給仕をしたのも彼女だ。白魚の刺身が最初に出てきて細切り牛ヒレ肉の焼皿グラチネと、海老と帆立貝のスープ。口直しの氷果グラニラはこの季節によく採れる柑利カルリ。パンはもちろん焼きたてで、デザートの焼き菓子も絶品だった。一緒に食事をする相手があの馬鹿女共でなければ、最高の晩餐だったのだ。

「『北の国はお寒いのでしょう? 私達も、何度か行ったことがあるのですよ。ええ。父に連れられてですけれども。父は仕事で。そうです。その縁で、いろいろな方によくしていただいております。そうそう。この間も、西の方に領地をお持ちの男爵様の家に招かれましてね』」

 早苗は珀蓮の髪を拭いていた手を止め、感嘆の声を上げた。

「まぁ。お義姉様にそっくりだわ」

 珀蓮はぎろりと早苗を睨んだ。

「あなたの、その『まぁ』って言う癖、あの義姉共と同じね」

 早苗の義姉は妙に感嘆詞や相槌が多かった。そのせいで話が途切れることなくどこまでも続いてしまう。『まぁ』『そうです』『そういえば』『そうそう』珀蓮はうんざりした。

「もしわたくしの女官だったら、あんな女すぐ解雇しているわ」

 うるさいことこの上ない。ああいう口からは、軽蔑や嘲りが、飾り立てられた世辞と同じように際限なく出てくるのだ。

「にぎやかで、私は好きなのだけれどね」

 早苗は言ってから、珀蓮を窓の横にある鏡台の前の椅子に座るよう促した。

「髪を梳いてあげる。このままじゃあ、綺麗な髪が台なしよ」

 もともと珀蓮はあまり鏡を見ることがなかった。そこには、濡れた黒髪が艶やかな美しい女が映っていた。鏡に映った自分の顔を睨みつける。白雪姫。大嫌いな名だ。そればかりが一人歩きする。雪のように白い肌。艶やかな黒髪。

 反吐が出る。

 早苗がその髪に櫛を通した。

 鏡台の前には珀蓮が入浴する前にポケットから取り出した手鏡が置いてあった。赤い宝石のある、魔法の手鏡だ。

「そういえば、あの義姉達は茨姫のことを知らないのね」

 鏡の向こうの早苗が笑った。

「ええ。茨姫があまり義姉達と話したがらないの」

「鏡の中からでも外の様子はわかるのかしら?」

「わかるみたい。だから茨姫は、私にすごくお礼を言ってくれるのよ。屋根裏に閉じこもっているのと、こうして持ち歩かれるのとでは、世界が全然違うのですって」

 珀蓮は軽く目を見開いた。

「屋根裏?」

「そうよ」

 早苗は珀蓮の髪を梳きながら、まるで物語を話すように続けた。

「茨姫の鏡はね、もともと大きな姿見だったの。とても綺麗な姿見よ。銀の枠があって、茨が巻きついたような装飾がされていたわ。中央の一番上に赤い宝石が、そう、これよ」

 珀蓮が鏡台の上の手鏡を手に取ってそこに埋め込まれた宝石を見ると、早苗がにっこりと笑って頷いた。

「これが埋め込まれていてね。たぶん薔薇をイメージして作られたのだと思うの。でもその姿見にはひびが入っていてね、私は一目でその鏡を気に入ったから、父に頼んで手鏡にしてもらったのよ」

 早苗は楽しそうに頬を緩めた。

 目に浮かぶようだ。

 まだ幼さの残る可愛い娘に頼まれて、父は目尻を下げて任せろと言う。それは、眩しいほどの幸せに満ちている。

「茨姫が最初に出てきたのは父が亡くなった時だったわ」

 早苗は声のトーンを変えずに言った。

 彼女は深海の青い目を細めて微笑んでいる。

「父が亡くなって、私が一人で泣いていたら、茨姫が鏡から出てきて抱きしめてくれたの」

 早苗は泣く時は一人で泣いた。

 義姉達の前では決して泣かなかった。心配をかけたくなかったからだ。

「薔薇の香りがしたわ。最初は幽霊だと思った。鏡から出てきた魔女は半透明でとても古めかしい言葉で話したけど、私にとても優しくしてくれた」

「素敵ね」

 珀蓮は本心からそう言った。

 とても辛い時に、誰かが側にいてくれるというのは、本当に心が救われるものだということを彼女は知っていた。

 抱きしめてくれる。

 愛してると言ってくれる。

 それだけで、人というものはひどく救われるものなのだ。

「それで、鏡に閉じ込められた魔女を救うために、王子様を捜すのを?」

「本当はね、茨姫は自分から捜すのが嫌みたいなのよ。待っていると約束したから」

 生まれ変わってでも迎えに行くと、彼女の王子様は言ったのだ。

「当然だわ。本来なら女性にこんな苦労はさせるべきじゃないのよ」

 珀蓮はふんと鼻を鳴らした。

 その時、小さく部屋の扉がノックされる音が聞こえた。ここは三つの部屋が連なっている客間の一室で、廊下に?がっているのはこの隣の部屋だ。おそらく誰かの来訪が告げられているのはその隣の部屋の扉だろう。こういう部屋はノックの音が響いて奥まで聞こえるように設計されているのだ。

「お義姉様かしら」

 珀蓮は思い切り顔をしかめた。

「寝る前のお喋りとか言いださないでしょうね」

 早苗は苦笑した。可能性がないわけではないと思ったからだ。

「見てくるわね」

「くれぐれも、お願いね」

 言外に追い返せと言って、珀蓮は手を振った。早苗は困ったように首を傾げてから部屋を出た。

 一人になると。珀蓮は早苗の梳いてくれた髪を撫でた。まだ少し濡れているが、丁寧に梳いてくれたので指通りが全然違う。

 まだ幼い頃は、父王もこの髪をよく撫でてくれた。

 綺麗だと周囲に褒められる娘を自慢に思ってくれているようだった。

 いつからだろう。

 外は危険だからあまり出てはいけないと注意されるようになり、ついには自分の宮から出るのを禁止された。最初はそれに疑問を覚えなかった。

 この頃には彼女の周囲の人間のほとんどは、あまりに美しく育った少女に対して畏怖に近い感情を覚えるようになっていたし、珀蓮自身もまたそういった視線にさらされるのが苦痛だった。

 誰とも関わらなくてもいいと言われるのなら、それが楽だったのだ。

 ただ父王だけが、宮に来てくれるのならそれで満足だった。

 けれど父王の訪問も、珀蓮が年を経てより美しくなるたびに減っていった。

 珀蓮はもう自分が父に愛されているとは思わなくなっていた。

 愛しているのなら、会いにきてくれるはずだ。そう難しいことではないはず。同じ宮内に住んでいるのだから。

 けれど父王は珀蓮の宮を訪れない。

 そのくせ彼女を外に出すのを嫌うのだ。

 お父様はわたくしを恥じている。

 珀蓮はそう理解していた。

 理由はわかっている。

 北の王は、死んだ王妃の不実を疑っているのだ。

 珀蓮が美しくなるたびに。

 その疑いは王の心を蝕んだ。

 あの妖艶な魔女を新しい妻に娶ったのは、死んだ妻へのあてつけかもしれない。

 どちらにしろ愚かだ。

「馬鹿なお父様」

 珀蓮はそう呟いた。

 その時部屋の扉が開いた。

「お義姉様が飲み物と果物を持ってきてくださったわ」

 早苗は扉から顔だけ覗かせて言った。

「こっちに来て食べてみない?」

「そのお義姉様もそこにいるの?」

「残念ながら、部屋に戻られたわ。やることがあるのですって」

 では本当に、その飲み物と果物を渡すためだけに来たのだ。

「ふうん。意外と気が利くのね」

 そういったことは全部早苗にやらせるのだと思っていたが、早苗がここにいたから自分で持ってきたのだろうか。

 珀蓮は鏡台の上から手鏡を取ってひらひらしたスカートのポケットに入れると、隣の部屋へ行った。

 部屋にはテーブルとソファがある。壁には白い花の絵が飾ってあった。ソファにしても寝室のベッドにしても、珀蓮が使っていたものと比べれば硬いし生地の質もよくなかったが、彼女は特にそういうことに頓着しなかった。あの森での三日間に比べれば天国のようだ。

 テーブルの上には林檎がのったお皿と紅茶が準備されていた。林檎はきちんと切ってあって、赤い皮がついている。皮や実の色を見る限りそれは甘く、美味しそうだった。

「林檎だわ」

「美味しそうでしょう?」

 と早苗は笑った。

「林檎なんて久しぶりよ」

「王宮では出ないの?」

「そうね。あまり覚えがないわ」

「きっともっと高級な果物が出るのね」

 早苗は既にソファに座っている。珀蓮はおや、と思った。

 昨日、珀蓮一人で食事をする時も、早苗は同席をしなかった。珀蓮がどうして一緒に食べないのかと言うと、メイドが一緒に食事をするのはおかしいでしょう? と早苗は言った。珀蓮は早苗がその格好をしている方がおかしいのだと言いたかったが、彼女がそれで納得しているようだったので言うのをやめた。

 早苗は徹底していた。珀蓮のために風呂を用意し、ベッドメイクをした。鳥代と会った時も、東の王子が勧めるまでソファに座ろうとしなかったのだ。

 だから早苗が先にソファに座っていることに違和感を覚えた。

 だが別にとがめだてすることではない。

 珀蓮も早苗の向かいに座った。

 テーブルの上にはポットがなかったが、紅茶はカップの中でゆらゆらと湯気をたてていた。いい匂いがする。鹿菊だ。

 珀蓮が紅茶に手を伸ばそうとすると、早苗がそれを遮るように言った。

「林檎。食べないの?」

 艶のある声だった。

 珀蓮は顔を上げて早苗を見た。

 彼女は青い目を細めて微笑んでいる。

 珀蓮は少し困惑した。

 この金色の髪の女性は、こんなふうに笑う人だっただろうか。

 なんというか、こう、毒々しいかんじがする。甘すぎる、果実のような。

「きっと、美味しいわ。私が、町で買ってきたものだもの」

 早苗はゆっくりと言う。

 珀蓮は紅茶に伸ばそうとしていた手を、林檎の方に伸ばしてその欠片を手に取った。林檎は冷たかった。 

「そうよ。食べて」

 珀蓮は、早苗のその言葉に押されるようにして林檎を口に持っていった。

 しゃくり。

 と食べる。

 早苗の言う通り、それはこの上なく甘美な味だった。瑞々しく、甘露のような甘みが口全体に広がる。

 けれどそれを認識した瞬間、ほとんど動物的な直感で、珀蓮は林檎を吐き出そうとした。

 そしてそれを、目の前から伸びた手にガッと口を塞がれ止められた。

 珀蓮は目を見開いた。

 早苗はテーブルの上に身を乗り出して珀蓮の口を塞ぎながら、まだ、微笑んでいる。

「駄目よ。はしたない」

 珀蓮はぞっとした。

 これは誰だ。

 早苗の手は珀蓮の顎を掴むようにしていた。

 白い指が珀蓮の頬と顎骨に食い込み、珀蓮はくぐもった悲鳴を上げた。その拍子に林檎が口の奥に転がりこむ。口の中で噛まれて小さな小さな欠片になっていた林檎は、珀蓮の喉に滑り落ちた。

 珀蓮の喉が上下したのを見てから、早苗はゆっくりと手の力を緩め、絹を撫でるように優しく珀蓮の頬を撫でた。

「そう。いい子ね」

 甘い声。

 珀蓮はその声から逃れるようにソファから転がり落ちて激しく咳き込んだ。

 涙が出てくる。

 そのまま右手を口の中に突っ込んで吐こうとしたが、また白い手に止められた。右手をひねり上げられて、珀蓮は今度こそ大きな悲鳴を上げた。

 早苗は口を珀蓮の耳によせ、恋人に囁くように優しく言った。

「無駄よ誰にも聞こえないわ。ここには、あなたと私だけ」

「お前……」

 珀蓮は呻くように言った。喉と顎が痛い。鼻もつんとする。林檎の甘みは、気持ち悪いくらいにねっとりと口内に絡み付いている。

 この時にはもう珀蓮は相手が誰か気付いていた。

 ここで誰何するほど愚かではない。

「貴様……!」

 魔女だ。

 北の国の王妃の座に座る、魔女。

 珀蓮は恫喝した。

「無礼者!」

 魔女は哄笑した。

「ほほほ。威勢がいいこと。でも駄目。完全にあなたの負けよ。あなたは死ぬの。残念ね」

 魔女は優しく言った。

 珀蓮は歯軋りをした。

 眩暈がする。

 口の中が気持ち悪い。

 喉が痛い。

 気分が悪い。

 毒だ。

 死ぬ。

 このままでは。

 そんなこと。

 許されるわけがない。

 わたくしは。

 死ぬわけにはいかない。

 こんなところで。

 だって。

 まだ。

 答えを見つけていない。

 昔。

 父王が珀蓮を宮に押し込め始めた頃。まだ珀蓮が、父王は自分を愛しているのだと疑っていなかった頃。

 あの男は聞いた。

『こんな所に閉じ込められて、生きている意味があるの?』

 あれは、宮に閉じ込められて、でもそれを拒否しない珀蓮を憂えての言葉だった。

 でもそんなもの。

 知らない。

 だって。

 わたくしは世界を全部壊してしまいたい。

 怒りに任せて、全部を。

 この手で。

『珀蓮』

 何かを抑え込むような声で、あの男は言った。

『俺は、一生あんたを愛してる』

 泣きそうになる。

 そう。

 そうだ。

 それだけが真実だ。

 わたくしにとっての。

 唯一の。

「あんたの」

 珀蓮は搾り出すように言った。

「思い通り、には」

 苦しい。

「ならない」

 息ができない。

 魔女は笑う。

「そう? でも残念だけど、あなたはもうここで終わりよ」

 そういう魔女の声さえも遠くに聞こえる。

 珀蓮は、意識を手放す直前に小さな声で名前を呟いた。

 彼女が恋人の名前ではなくその名前を呟いたのは、彼女がどこまでも不屈の精神を持っていたからだった。

 誇り高き北の王女は、決して魔女になど屈しなかった。

 彼女は呻くように呼んだ。

「茨姫」

 彼女のポケットの鏡が鳴る。

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