3.それが唯一絶対の真実でなくてはならない②

 翌朝二人の義姉が戻ってきた時に珀蓮をどうするかは、早苗がテキパキと指示をした。彼女は誰よりも自分の義姉達の性質を理解していたし、そんな義姉達の理解を得るためにはどうするべきかをよく承知していた。

「早苗! 早苗!」

 義姉達は騒々しく帰宅した。

 馬車の中で寝ていたのだろう、二人共髪はくしゃくしゃだし、顔には疲れが見える。外では御者が馬車から荷物を降ろすために悪戦苦闘していた。とても一泊分の荷物とは思えない。はちきれんばかりに中身の入った旅行用鞄が四つあった。

 太陽は中天にある。もう昼過ぎだった。

「早苗!」

 たっぷりと太った下の義姉が倒れこむように玄関口のソファに座る。赤いソファだ。そしてまるでこの世の終わりを嘆くように言った。

「お姉さま、私お腹がすいた」

「まぁ」

 食堂から出てきた早苗は安堵して笑った。

「お帰りなさい、遅かったのね、お義姉様達。パーティはどうでした?」

 メイド姿でパタパタと義姉達に駆け寄ってその上着を受け取る。義姉達は予定では昼前には帰るはずだったのだ。どこかで事故にあったのではと早苗は少し心配していたところだった。

「呼んだら一度で出てきなさいと何度も言っているでしょう! 本当に愚図ね。まず食事の用意をなさい。それから荷物を運んでちょうだい」

 上の義姉は苛立った様子で言った。今日は本当に疲れた。途中で馬車の車輪が外れて立ち往生するし、はめなおした車輪が合わなくて車内はひどく揺れるし最悪だったのだ。身体がいまだに揺れているような気さえする。

「はー!」

 御者はようやく鞄を二つ玄関まで運び入れたところだった。四つを一度には持てなかったようだ。彼は大量に汗をかいていて、肩で息をしていた。あとまだ二つ。翌日の筋肉痛は覚悟しなくてはならないだろう。そもそも車輪が外れたのはこの大荷物のせいなのだ。それなのに二人のお嬢様の機嫌はひどく悪くなるし、御者である彼にとっても最悪の道のりだった。

「何を休んでいるの! 早く全部運んでちょうだい!」

 上のお嬢様に怒鳴られて、御者は飛び上がって再び馬車に戻った。

「もしかしてもう昼食の準備ができてるんじゃない?」

 早苗が食堂から出てきたので、下の義姉が嬉しそうに飛び上がって食堂に駆け込もうとした。彼女は車内にいた時からずっと空腹を訴えていた。

「あ、お義姉様」

 待ってください、と言う早苗を押しのけて、下の義姉は食堂の扉を開いた。

 最初に彼女の嗅覚を刺激したのは彼女の大好きな魚介のあっさりスープの匂いだった。海老や烏賊の入った早苗の得意料理で、香草がアクセントになっている。他にもきのことベーコンのソテーや牛肉の柔らか煮、焼きたてのパン。下の義姉は嗅覚だけでそこに並べられた料理を正確に把握したが、同時に彼女が食べるべきその料理を見知らぬ女が食べていることに気付いて激昂した。

 そう、食堂には女がいたのだ。しかもテーブルの一番奥、本来なら屋敷の主人が座るべき上座に座っていた。料理はすべて彼女の前にあり、女は俯いて牛肉の柔らか煮を切っているところだった。あれは早苗が時間をかけて作るおもてなし料理で、口の中に入れるとほろほろと溶ける最高の料理なのだ。

「ちょっと、それは私のよ!」

 下の義姉はどすどすと音をたててその無礼な侵入者に掴みかかろうとした。食い物の恨みは恐ろしい。しかし、両手にナイフとフォークを持ったその女が顔を上げると、下の義姉は固まって黙り込んでしまった。

「……」

 信じられない。下の義姉は自分の目を疑った。

 女は、彫刻のように美しい容貌を持っていた。テーブル一つ挟んだこの距離からでも、その美しさは匂い立つようだ。艶やかな黒い髪と、暗い色の双眸。完璧な配置の目鼻立ち。まさに完璧だった。人にはありえない美しさだ。息を呑む。

 上の義姉も食堂の入り口にやってきて、その女の美貌に声を失った。

「お義姉様。あの、ご紹介します。珀蓮様という方で、北の国の侯爵家ご令嬢です」

 早苗は困った様子を見せながらも食堂にいた女性を紹介した。

 女性は立ち上がらなかった。

 ただナイフとフォークだけは置いてナプキンで口を拭くと、義姉達ににっこりと上品に微笑みかけた。

「ごきげんよう。ごめんなさい、食事中なので、挨拶は後でもよろしいかしら?」

 下の義姉は目を白黒させた。目の前の美女の無礼に怒るべきか否かはかりかねたからだ。

 侯爵家のご令嬢ともなれば、当然ながら身分はただの商人にすぎない早苗達の遙かに上だ。

 この時の上の義姉の反応はすばやかった。

「まぁ。まぁ」

 上の義姉はとたんに笑顔をつくり、軽やかな様子で食事中の珀蓮に歩み寄った。

「北の国の侯爵様の。まぁ、ええ、そうではないかと思いました。だって、とても、お美しくていらっしゃる。ええ。食事をされているお姿も、もちろん。気品がおありになるわ。侯爵様の。まぁ。そう、そうです。私は、この家の主人ですの。申し訳ございません。何も失礼がなかったら、ええ、いいのですけれども。もっとね、事前にご連絡をいただいていれば、そう、もっときちんと、おもてなしさせていただきましたのよ。ええ。ええと、どなたの、ご紹介で我が家にお越しいただいたのかしら? 湖の近くの子爵様かしら? それとも隣の町の?」

 どうやら上の義姉は、彼女の知り合いの貴族の紹介で、隣国の貴人が我が家に来たのだと思ったらしい。義姉達の知り合いといえば、田舎に引っ込むしかないような、社交界での地位の低い成り上がりの子爵や男爵家がほとんどである。その田舎貴族達が隣国の侯爵家に?ぎがあるなんていうのは、ほとんどありえない。

「お義姉様。珀蓮様は、領主様のご紹介でおいでになったんですよ」

 興奮した様子の上の義姉の後ろから、早苗はやんわりと話しかけた。

「珀蓮様は今回の舞踏会に出席されるために入国されたんです。本当は領主様のお屋敷にお泊まりになるはずだったんですが、先日お屋敷で不審火があって、お客様にお泊りいただけない状態になってしまったらしいのです。そこで昨日、領主様の使者様がいらっしゃって、うちに、珀蓮様を泊めていただけないか、と。ほら、うちには客室もございますし、森の近くだから空気もよろしいでしょう? 珀蓮様は、お身体が弱いそうですのよ。ですから環境のいい我が家にと」

「まぁ。まぁ」

 上の義姉はさらに顔を輝かせた。

「領主様の!」

 なんてことだろう。

 彼女達の領主様は、東の国の第一王子、つまりいずれ王になるお方なのだ。

 その賓客の臨時の宿泊場所に、我が家を選んでいただいたなんて!

「まぁ。まぁそんな。ああ、ごめんなさい珀蓮様、私達こんな格好で。今、帰ってきたものですから。ええ。今すぐ、着替えてまいりますわ。どうか、ごゆっくり、お食事をなさってね。ええ、その娘は、料理だけは絶品ですの。どうか、ごゆっくり、なさってくださいね」

 ひどくへりくだった様子でそう言うと、上の義姉は下の義姉をせっついて踵を返した。

「お姉さま、でも、私お腹がすいたわ」

「我慢なさい! 今印象をよくしておけば、領主様にもよく覚えておいていただけるのよ!」

 下の義姉をそう小声で諭してから、上の義姉は早苗に向かって言った。

「いい? 粗相のないように。くれぐれも、注意しておもてなししてさしあげるのよ。ああ、それと後で玄関のあの荷物を部屋まで運んでおきなさい」

「はい、お義姉様」

 早苗はにっこりと笑って答えた。

 上の義姉はふんと鼻を鳴らすと、一度振り返り珀蓮にまたにこーっと笑いかけてから、食堂を後にした。

 一拍置いて、早苗は振り向くと笑った。

「素敵なお義姉様達でしょう?」

「どこが?」

 珀蓮は本心から言った。

 あれは、相手が身分あるものだとわかれば、深い理由など考えずにおもねろうとする馬鹿な人種だ。少しでも考える脳みそがあるのなら、仮にも隣国の賓客を、たかだか一商人の家に預けようとするはずがないことくらい、わかるはずなのに。

 珀蓮はパンをちぎった。つい先ほどまで焼きたてで温かかったそのパンは、あの上の義姉の長い独り言のせいで少し冷めてしまった。

「素直で、正直よ。裏表がないの」

「あなた、その言葉の意味をきちんと知っていて?」

 珀蓮は呆れたように言った。

 早苗は。信じ難いことだがこの目の前の女性は本当に、自分の二人の義姉を盲目的と言えるほど慕っているようだった。

 あの義姉達の帰ってきた声はこの食堂の中にまで聞こえてきた。

『呼んだら一度で出てきなさいと何度も言っているでしょう! 本当に愚図ね。まず食事の用意をなさい。それから荷物を運んでちょうだい』

 あの傲慢な言い草。

 珀蓮だったらあんな女はすぐにでも八つ裂きにしているだろう。こんな。馬鹿で、無知で、責任も知らず理不尽なことばかり言う女達には、生きている価値さえあるとは思えなかった。

 誇り高くあるということは、責任を知っている人間のあるべき姿だ。

 王族として。

 民を守る一族として。

 自分を恥じる行為は決して許されない。

 攻撃されて逃げるなどありえない。

「わたくしはああいう女達は大嫌いよ。今自分が持っているものが誰かに与えられたものであるということに気付くこともしないでふんぞり返っている。ああいう人間は弱いのよ。誰からも何も与えられなくなってしまうとすぐに崩れる。一人で生きることもできない」

 珀蓮が吐き捨てるように言うと、早苗は柔らかく目を細めて問うた。

「珀蓮は、一人で生きられるの?」

 早苗はまだ食堂の扉の近くに立っていた。

 上座に座る珀蓮からは遠い。小さな声では届かないくらいの距離だ。

 けれど決して大きくはない早苗のその声は、なぜかよく珀蓮の耳に届いた。

 責めるわけではない。純粋に、疑問を投げかけるように、早苗はもう一度言った。

「一人で生きられるの?」

 一人で。

 珀蓮はすぐには答えられなかった。

 一人。

 珀蓮はそれがどういうことかを知っていた。

 北の王は王女が城から出ることを嫌った。

 人前に出ることを嫌った。

 誰も振り向いてくれない。

 自分を見てくれない。

 誰もいない。

 美しすぎるから?

 人ではないようだから?

 彼女には。

 顔を焼こうと思った時さえあったのだ。

「生きられるわ」

 珀蓮はそう答えた。

 そう、答えなくてはならなかった。

 早苗は微笑む。

 目を細めて。花が咲くように。

 彼女はもう何も言わなかった。

 それが彼女の優しさなのだと、珀蓮は痛いほどわかっていた。

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