1.あるところに一人の魔女がいました④

 なんだ。

 この状況に、ついていけない。

 珀蓮は困惑していた。

 目が覚めたら見覚えのない部屋にいて、ふらふらする身体を叱咤して部屋を出たら階段の下に異国の色を持った下女らしき女とお化けがいた。

 お化けだろう。

 あれはどう見ても。

 だって半透明だ。

 そう思って思わず「お化け!」と叫んだら、『失敬な』とお化けが喋ったので声を失った。

「まぁ、お目覚めになったのね」

 下女が言った。

 違和感を覚えたのは、彼女が発した言葉が聞きなれたこの辺りの国の言葉だったからだ。金髪碧眼は海を越えた向こうの大陸人が持つものなのに。

「大丈夫ですか? 無理をしないで」

 下女が階段を駆け上ってくる。

 珀蓮は必死で頭の中を整理しようと努めていた。

 そもそもなぜ自分はこんな所にいるのだろう。

 あの。

 住み慣れた籠のような王宮の奥ではなく。

 このような。

 場所に。

 その時珀蓮ははっとした。

 記憶が波のように押し寄せてきた。

 あの日王妃が身につけていた首飾り。

 銀色の。

『なんの力もない普通の人間が、魔女に勝るなどあってはならないのよ』

 そう言った。

 魔女。

 闇に捕らわれて。

 そして目が覚めたら森にいたのだ。

 そうだ。彼女は森に放り込まれた。

 そして三日三晩、まるで猿のような生活を強いられた。

 木に登り、木の実を採り、スカートは裂け、夜は獣に食いちぎられる夢を見て怯えた。肌は荒れ、唇はかさつき、髪は艶やかさを失った。

 ああ。なんてことだ。

 そして自分は倒れたのだ。おそらく、空腹で。採った木の実は齧ってみるとひどく苦くて食べられたものではなかったのだ。

 空腹で!

 こんな恥辱があるだろうか。

 この、自分が。

 北の王女たる自分が。

 食べるものがなくて、気を失ったのだ。

 そんなこと。

「大丈夫ですか?」

 階段を上ってきた下女が珀蓮に手を差し伸べる。

 けれど珀蓮はそれをぱしん! と払った。

「ここはどこなの」

 彼女はその怒りのまま、下女を睨んで傲慢に問うた。

 怒りでくらくらする。

 気持ちが悪い。

 下女は手を払われたことに驚いたのか目を見開いている。その様子を見ていても珀蓮は苛立った。

 あんな恥辱、許せない。

 そのままになんてしておけない。

 珀蓮は叫ぶようにもう一度言った。

「ここはどこ!」

 そのような小娘、放っておけばよい。

 今度こそ珀蓮は言葉を失った。

 目の前に、突然、先ほどのお化けが現れたからだ。

 一瞬前までは、階下にいたはずの。

 命の恩人に敬意も払えぬとあれば、そこらの犬畜生にも等しかろ。早苗が心配するほどの価値があるとは思えぬ。

 お化け女は下女を庇うようにその前に立ちながら、冷ややかな視線で珀蓮を見ていた。彼女は年齢的には珀蓮とあまり変わらないように見えるのに、持っている雰囲気はとても落ち着いていて、艶やかだ。

 女の声はひどく冷たく、よく響いた。常人であれば、それだけで震え上がってしまいそうだ。

 けれど残念なことに、珀蓮の矜持は常人よりも遥か高みにあった。

 珀蓮の額に青筋が浮かんだ。

「なんですって?」

 この時点で彼女は相手が『お化け』であることをもう忘れていた。

 カチンときた。今、この女はなんと言った?

 犬、と言ったか?

 このわたくしを?

 目の前の女を睨む。

 その目は射るようだ。まっすぐに。強く。迷いなく。怒気が炎のように彼女を包み込むのが見えるようだった。それが息を呑むほど美しい。それこそ魔法のようだ。

 炎の女神。

「わたくしが、なんですって?」

 珀蓮が問うと、女は嘲るように笑った。

 ―犬畜生と言うた。ああ、それとも小娘が気に入らなんだか?

「わたくしを侮辱する気?」

 真実を口にしておるだけじゃ。いや、そなたと比べてしもうては、犬も失敬だと憤慨するだろうよ。

「わたくしは珀蓮。北の第一王女よ」

 彼女は名乗った。

 そう口にした彼女の声はどこか澄んでいて、空気を震わせるように響いた。彼女は王女なのだ。王の娘。

 そのことに疑いなど抱かせない気高さが彼女にはあった。

 けれど女はどこからか取り出した扇子で口元を隠すと、大げさにため息をついた。

 名を名乗れば跪くと思うてか? それよりもこんな場所で身分を明かすその軽率さを直した方がよかろう。

「たとえどこであろうと、わたくしは、わたくしよ」

 珀蓮は怒鳴らなかった。ただ怒りの籠る声で静かに言う。

 彼女は何よりも、侮辱されることが嫌いだった。

「わたくしは決して身分を偽ったりしないわ。誰が相手でも。どんな時でも。どんな場所でも。それがわたくしのたった一つの持ち物でわたくしの責任ですもの。たとえ一時でも、それから逃げたりなどしない。わたくしを侮辱したことを訂正なさい。それは、わたくしを育てた我が国我が民への侮辱だわ」

 決して声を荒らげない彼女の言葉は広いホールに響き渡った。珀蓮は怒りを露わにしていたし、手はその怒りで一層白くなり、震えていた。

 女は目を見開いた。

「まぁ」

 言ったのは下女だ。

 なぜか嬉しそうに微笑んでいる。

「まぁ。すごいわ。これは、茨姫の負けね」

 拍子抜けするような、あっさりとした声で彼女が言った。

 珀蓮は眉宇をひそめた。

 何を言っているのか、この娘は。

 けれどその前にいた半透明の女も、次の瞬間にはにっこりと笑った。

 なるほど、妾に非があったようじゃ。申し訳ない。

 女は丁寧に頭を下げた。何色かわからない髪がさらりと揺れる。

 許してたもれ。

 触れたら切れそうだった先ほどまでの女とは別人のように、彼女は柔らかく笑った。

「ば、馬鹿にしているの?」

 珀蓮は、かろうじてそう言った。動揺が声に出ているのがわかって、舌打ちをしそうになった。なんだ。なんなのだ、この女達は。

 自分は王女と名乗ったのに怖れるところがない。

 それどころか、この自分の顔をまっすぐに見てくる。

 そうだ。

 王女付きの下女でさえ造りもののようで恐ろしいと言う彼女の顔を、この二人の女は最初からまっすぐに見ていた。怒りを露わにした彼女には誰も恐ろしくて口答えなどできなかったのに、あっさりと言葉を返し、笑った。

 なんだ。

 なんなのだ。

「あなた達は誰なの」

 珀蓮の怒りはもはやほとんど霧散していた。それよりも困惑が大きい。

 まるで珍獣でも見るように珀蓮が二人の女を見ていると、下女の方が先に声を上げた。

「ああ、そうだわ。ごめんなさい。失礼いたしました。私は、早苗といいます。こちらは茨姫。お化けじゃないのよ。魔女なの」

 早苗は、彼女は主婦なんです、とでもいうような気安さでそう言った。

 珀蓮の思考は一瞬停止したが、すぐに盛大に顔をしかめて聞き返した。

「魔女?」

「そうですよ。だからお化けではないの。安心してくださいね」

 早苗はにっこりと笑う。

 彼女が笑うと、まるで辺りに花が咲いたようになる。この世に何も、問題などないように思えてしまうのだ。

 珀蓮はその雰囲気に流されて「ああそうなの」と言いそうになったが、かろうじて踏ん張った。

「ちょっと、待ちなさい。魔女?」

 早苗。あまりそう、魔女魔女と吹聴するものではないな。

「あら。でももうあなたの姿は見られてしまったんだから、きちんと正直に言わなくてどうするの? 茨姫もお化けだと思われていては嫌でしょう?」

 嬉しくはないが。……いや、不愉快じゃな。

 先ほど珀蓮に指を指されて叫ばれたことを思い出したのか、茨姫は顔をしかめた。

「待って」

 俯いていた珀蓮が顔を上げた。

「魔女? あなたが?」

「そうですよ」

「証拠を見せなさい」

 彼女はまっすぐに茨姫を見ていた。睨むように眉を上げ、真剣な様子で言う。

「いきなり魔女だと言われても信用できないわ。あなたが魔女である証拠は?」

 別に、信じずともよいぞ。

 茨姫は不愉快そうに目を細め、扇子で口元を隠して言った。

 そなたに信じてもらう必要はない。

「あら、私も見たいわ」

 早苗がにこにこと笑って言った。

「私、茨姫の魔法って綺麗で好きよ?」

 早苗。妾の格好がつかないであろう。

 茨姫は扇子を下ろして少しだけ口を尖らせた。その仕草を見て珀蓮は、この女は、意外と幼いのかもしれないと思った。いくつだろう。自分とそう変わらないならば、二十歳くらいだろうか。

「百合と花瓶を元に戻して床も乾かしてくれたら、一石二鳥だと思わない?」

 茨姫はため息をつく。

 そなたには勝てぬ。

 そう言うと、彼女はすっとその指を伸ばして先ほど珀蓮が倒した花瓶と百合を指した。

 珀蓮はそれから何か呪文のようなものを口にするのかと思ったが、茨姫は指をそうしたままちらりと珀蓮を見てかすかに笑った。

 そなたは、魔法がどんなものか知っておるかえ?

「……」

 珀蓮が答えずにいると、さして気に留めず茨姫は続けた。

 魔法は、誰にでも使えるというものではない。魔女になれる者とそうでない者は生まれ落ちたその瞬間から決まっておる。

 珀蓮は少し鼻を鳴らした。

 薔薇の香りがする。薔薇の花が、近くに生けてあっただろうか。

 もちろんその才能を持って生まれた者でも、魔女にならないという選択をすることはできる。そして魔女になりたいのなら、一つその力の媒介を決めなくてはならない。

 媒介。

 あの女が、魔法を使う時常に側に置いていたもの。

 ここで茨姫は、はっきりと微笑んだ。

 妾は、薔薇じゃ。

「なっ」

 珀蓮は鼻をおさえた。

 突然弾けたように、薔薇の芳香が彼女の嗅覚を刺激した。驚いて彼女は目を瞑り、そして次の瞬間には目の前に大きな薔薇の花が咲いていた。

 珀蓮は一歩後ろに下がった。

 それは大きかった。

 花の部分だけだというのに、珀蓮の背の半分ほどもある。まるで中に人が入っているような大きさだった。そして鮮やかに赤い。それは、その姿を一瞬もとどめておかなかった。

 まだ咲ききっていなかった花弁が見る間に開いていく。完全に咲いたところを過ぎて、今度は外側に開いて枯れていく。

 珀蓮は息を呑んだ。目の前で起こっていることが信じられなかった。

 花弁は外側から枯れていき、枯れた花弁はその見苦しい姿をさらすのを嫌ってか消えていく。一枚一枚と花弁が剥がれ消えていく姿は、女性が服を脱いでいるように艶かしく見えた。

「……」

 珀蓮は何も言えなかった。

 すべての花弁が消えた後には、台座の上に戻され白百合が生けられた花瓶と、乾いた床が残っていた。

 ただ残った薔薇の香りだけが、先ほど起きた不思議を真実だといっている。

 ぱちぱちという拍手は早苗によるものだ。

「ありがとう。綺麗だったわ。いつもより少し派手だった?」

 魔法を披露するための魔法ならば、派手でなくてはなるまい。どうじゃ? 珀蓮。

 呼び捨てにされたことに珀蓮は怒らなかった。

 それどころではなかったからだ。

 彼女は俯き、肩を震わせていた。

「珀蓮?」

 早苗は心配そうに彼女の名を呼んだ。

 少し刺激が強すぎただろうか。また倒れてしまうかもしれない。

 けれど早苗のその心配は杞憂だった。

 珀蓮は突然顔を上げると大きくのけぞり、笑い声を上げた。

 早苗と茨姫は目を見開いた。

「おーほほほほほほほ!」

 見事な高笑いであった。

 彼女はそのまま芝居がかった仕草でびしりと茨姫に人差し指を突きつける。

 北の王女殿下は誰が見ても明らかに興奮していた。頬が紅潮している。目が爛々と光っている。

「あなた、茨姫、わたくしに協力なさい!」

 珀蓮はあくまで高飛車に言った。

「もちろん無償とは言わないわ。何が欲しいの? 言ってごらんなさいな。お金? 家?」

 茨姫は困惑した様子で眉間に皺をよせる。

 彼女は珀蓮が、恐怖で青ざめるか、現実逃避して叫びだすかすると思っていたのだ。だからこそあんなにも派手な演出をした。

 なのに。

 これは予想外である。

 そんな茨姫の様子を無視して、珀蓮はうっとりと言った。

「ああ、こんなにも運命的に、あの女を滅ぼす対抗手段を手に入れることができるなんて、やっぱり日頃の行い? というのかしら? ねぇ、ところで、他にはどんなことができるのかしら?」

 珀蓮は両手を胸の前で組み、夢見る乙女のように聞く。

「あの薔薇に包んで、少しずつ老いさせたりできる? ああ、でもそれではあの女の顔が絶望に歪んでいくのを見られないわね。あの薔薇で包むしかないのかしら? 他に方法はない? 必要なものがあるなら言って。なんでも揃えさせるわ」

 北の王女殿下は白百合のように美しく微笑んだ。

「それは取引ということかしら?」

 聞いたのは早苗だった。

「そう考えていただいて構わなくてよ」

 珀蓮は台座の上に戻った花瓶を撫でて答える。

「まぁ。駄目よ珀蓮」

 早苗が、めっ、とでもいうように人差し指を立てて眉間に皺をよせた。そしてまるで道徳とか倫理観を説きだしそうだった彼女が口にしたのは、真逆のことだった。

「茨姫と取引をしたいのなら、お金や家じゃ駄目よ。ね。茨姫が欲しいのはもっと他にあるのだもの」

 ……まぁ、そうじゃの。誰も、取引をするとは言っておらぬがの。

「それは何? 言ってごらんなさい」

 珀蓮は促した。

 早苗がにっこりと笑って代わりに答えた。

「王子様よ」

「王子様?」

「そうよ。それもただの王子様じゃ駄目よ。魔法にかかったお姫様を生まれ変わってでも迎えに行くと言うような夢見る王子様じゃなきゃ駄目なの」

 珀蓮は、自信たっぷりに笑った。

「結構よ! あなたのために世界中の夢見る馬鹿王子を集めてさしあげてよ!」

「まぁ。頼もしいわね」

 不安なのは、妾だけかえ?

 早苗は嬉しそうに手を叩き、茨姫は不安そうに眉宇をよせた。

 そうして白雪姫は、茨の魔女を手に入れたのだった。

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