1.あるところに一人の魔女がいました③
「ありがとう、伊央」
玄関先のソファに女性を下ろし、石でできた床の上に四つんばいになってぜーはーと肩で息をする伊央に、早苗は台所から水を汲んで持ってきた。
「ちょ、待って。早苗、俺、運ぶ。部屋、まで」
途切れ途切れにそう言うと、伊央は座りなおして早苗から受け取った水を一気に飲み干した。
伊央は今年で十二になる。この町に一人しかいない医者の息子だ。
早苗は森で見つけた美女を背負い、伊央の父の診療所に行った。伊央の父の見立ては栄養失調。今診療所の二つしかないベッドは他の患者で埋まっていたため、早苗が件の美女を連れて帰ることになったのだ。
早苗が美女を家に連れて帰るのを手伝うために呼ばれ、早苗が一人で森に入ったことを聞かされた伊央は真っ先に早苗を叱った。
馬鹿じゃないのか早苗。なんでそんな危ないことするんだ。
「十分よ。部屋まですぐそこだもの。それより、荷台から私の荷物を持ってきてもらえると助かるわ。驢馬達も、あのままにしておくと逃げてしまうかもしれないわよ」
早苗がなだめるようにそう言うと、伊央は口を尖らせる。
「だい、じょうぶだ」
まだ少し肩で息をしている。
早苗は笑った。
「ありがとう伊央。でも本当に大丈夫だから。ね」
早苗は手を伸ばして、汗で張り付いた伊央の前髪を払ってやる。彼は心地よさそうに目を細めると、すうと息を吸って、はぁーと大きくため息のような息を吐いた。
そして息を整えて、目の前に階段のある広い玄関を見回す。
「あの、クソ女達はいないの?」
「伊央」
クソ女が誰を指すのかわかったので、早苗は顔をしかめて目の前の少年をたしなめた。
「私の義姉達よ」
早苗の二人の義姉は、今夜隣町の男爵家で行われる社交パーティに出席するために今朝早く馬車で出かけていった。おそらく帰ってくるのは明日になるだろう。
「どこが。あんなん早苗の姉ちゃんじゃないだろ。似てないし、大体、早苗を一人で森に行かせるなんて、馬鹿じゃねぇのか。早苗だって、あの森、普通の森じゃないの知ってるだろ。俺らだって道がある所までしか入らないんだぞ」
伊央は目をつり上げて早苗に詰め寄った。
「早苗が無事出てこられたことの方が不思議なくらいなんだからな。昔あの森に入って、出てこなかった奴が何人もいるって、親父が言ってただろ」
けれど早苗はあら、と反論した。
「でも先生は私が森に入って彼女を見つけていなかったら、彼女はそのまま死んでいたかもしれないともおっしゃっていたわ」
「こんな重い女どうだっていいよ。とにかく、あのクソ女達甘やかすのもいい加減にしろよ。本当なら早苗がこの家の主人なんだから、あんな奴ら追い出してやればいいんだよ」
「お義姉様達をそんなふうに呼んじゃだめよ」
そう言うと、早苗は人差し指を立てて、とても重要なことを話すように「それに」と続けた。
「この人を重い女だなんて言って、後悔するわよ。こんなに綺麗な人、国中探したって他にいないかもしれないんだから」
肌には切り傷があって荒れているし、髪だってごわついてしまってはいるが、すぐ横のソファで眠る女性の美しさはそれによって損なわれるようなものではなかった。伊央の父だって、最初彼女を見た時は息を呑んで、少し見惚れたようになったのだ。
薬を飲ませる時に一度だけ開いた彼女の双眸は綺麗な暗褐色で、光があたった一瞬には青に見えた。早苗の持つ空のような青ではなく、童話の中にある宝石のような青だ。とても綺麗だと早苗は思った。
けれど伊央はふんと鼻を鳴らした。
「綺麗かもしんないけど俺は嫌いだ」
最初に伊央が彼女を見た時に、彼は少し怯えたような様子を見せた。
「だって、変だろ。その女」
今だって伊央は眠る彼女の顔を見ようとはしない。
伊央は敏感な子供だった。
綺麗すぎて怖いのだ。
早苗は困ったように笑うと、「さあ」と言って立ち上がった。
「じゃあ伊央は、私の荷物を持ってきてもらえる?」
「俺が運ぶってば」
慌てて立ち上がった少年に、早苗は悪戯っぽく笑いかけた。
「あら。彼女は私の部屋に運ぶのよ。男性が一人で女性の部屋に入るつもり?」
そう言われて、伊央はたじろぐ。
「別に、そんなん」
「じゃあ荷物をお願いね」
そうしてにっこり笑われると、伊央はもうそれ以上何も言えなくなる。ちぇっと彼は舌打ちをすると、おとなしく荷物を取りに行った。
そんな彼を微笑ましく思いながら見送って、早苗はもう一度女性に目を向けた。
普段は荷物を置いたりするのに使うソファは、赤いビロードで少し手狭だ。その上で身体を折りたたむようにして眠る女性は、女神のように美しい。髪を洗って、肌を整えればきっともっと輝くように綺麗になるだろう。
「さすが白雪姫ね」
早苗は言うと、外出用の麻のスカートのポケットから、小さな手鏡を出した。
鏡の裏は銀色で、精緻な装飾が施されている。持ち手があって、その柄の部分に赤い宝石が埋め込まれていた。
早苗は慈しみをこめてその手鏡を少し撫でると、おもむろに鏡に向かって話しかけた。
「茨姫」
すると少しして、鏡に映った早苗の顔が歪み始めた。早苗にとっては見慣れた現象だが、何度見ても不思議に思える。鏡の中はまるで子供が水に手を突っ込んだように揺れ、その向こうに木々の茂る森が見えた。そしてやがて歪みは収まり、一つの像を結び始める。
その像が確かな形を形成する前に、声がした。
ほんに、美しいかんばせじゃのぅ。
早苗は笑った。
「開口一番がそれ?」
それは女性だった。
いつの間にか現れ、少し屈んでソファで眠る女性を覗き込んでいた彼女が振り向くと、長い髪がさらりと揺れた。波打つ絹糸のようなその髪は足先までついて、さらに後ろに流れている。顔立ちは整っていて、どちらかというと妖艶と評される雰囲気だ。目元が凜々しく、鼻筋がすっと通っている。着ているのは時代遅れの、胸のすぐ下を縛ったドレスだった。
何より特筆すべきは、彼女が透けているということだ。
彼女は無色半透明で、その後ろにあるはずの花瓶とそこに生けられた花が早苗の位置からでも見えた。
彼女は微笑んでいた。
美しいものを好むのは女の性じゃ。あのような小さな子供にはわからぬだろうがの。
伊央のことだ。
早苗は苦笑した。
「繊細な子なのよ」
そして残酷じゃ。
なんのことを言っているのか早苗にはわかった。でも何も言わなかった。
「茨姫、その人を二階の奥の部屋に運んでもらえないかしら」
おや、そなたの部屋ではないのかえ。
「さっきのは嘘よ」
早苗は笑顔のまま正直に答えた。
ああ言わないと、伊央は頑固に食い下がっただろう。小さい頃からそうなのだ。けれどあんな状態で階段を上ったら二人で転がり落ちてしまうかもしれない。そんな恐ろしいこと、想像もしたくなかった。
茨姫と呼ばれた女性は口元を隠して上品に笑った。
妾は早苗のそういうところが気に入っておる。よかろう。
茨姫はそう言うと、その指先をソファで眠る女性に向けた。
すると、彼女を包んでいたシーツが意思を持ったかのように動き、まるで花弁のように彼女を覆ってふわりと浮いた。
伊央がこの場にいたのなら、驚愕して声を失っていただろう。
それは魔法だった。
魔法。
薔薇の香りがした。早苗は、ああ、あれは薔薇の花弁なのだと思う。あの綺麗な人は今、薔薇の花弁に覆われたのだ。そしてふわりふわりと浮いたまま、玄関の正面の階段に向かった。あれを上がって右に曲がり、まっすぐに行けばつい昨日掃除したばかりの客間だ。
花弁に囲まれた彼女が階段の上の廊下を右に曲がったのを見届けた後に、玄関の扉ががちゃりと開けられた。
「早苗」
伊央だった。
「荷物これだけ?」
彼は外に立ったまま早苗の籠を差し出した。
「ええ。ありがとう。お茶でも飲んでいく?」
「ううん。ちょっと
郷路は八十を越えた老人で、今町の東の方の家で一人暮らしをしている。いろいろな昔話を知っていて、早苗も小さな頃は彼から様々なお伽話を聞いたものだった。今では外を出歩くこともままならないらしく、伊央か伊央の母が定期的に薬を届けがてら様子を見に行っている。
「そう。あ、じゃあね」
早苗は言うと、右手に持ったままだった鏡をポケットに入れて、籠の中を探った。彼女が取り出したのは、大きな葉が三枚ついた紫の花だった。まだ乾いていない土のついた根がある。
伊央は目を見張った。
「
早苗は嬉しそうに笑った。
「二葉のも咲いていてね、そっちはお義姉様達にあげるんだけど、こっちは伊央にあげるわ」
龍枝は春先のある一定の時期にしか花をつけない植物である。正確には、花をつけている間だけ龍枝と呼んで、それ以外の時は
龍枝の葉は肌にもいい。
「郷路のおじい様にも煎じて差し上げてね」
「すげぇ。じいさん踊りだしちまったらどうしよう」
「一緒に踊ってさしあげなさいな」
「やだよ。あ、そうだ」
伊央は思い出したように言った。
「早苗、本当に、森にはもう行くなよな」
彼は眉間に皺をよせ、怖い話をする時のような声で続けた。
「俺、郷路のじいさんに聞いたんだ」
町の子供は皆、あの老人のお伽話を聞いて育っている。
それは国も時代も様々で、早苗は特に、海の向こうの国の話を多くせがんだ。
早苗の母の、生まれた所だからだ。
「あの森には魔女がいるんだよ」
「魔女」
早苗は繰り返した。
「そうだよ。嘘じゃないんだ。本当だよ。郷路のじいさんが言ってたんだ。早苗が無事に帰ってこられたのは、きっとたまたま魔女が留守だったんだよ。運がよかっただけなんだ。だから本当に、もう森に行っちゃ駄目だぞ」
伊央があまり真面目な顔をして言うので、早苗は「でも」と言おうとしてやめた。その代わり、にっこりといつのもように笑って、
「わかったわ」
と答えた。
伊央の馬車が町の方へ帰っていくのを庭先で見送ってから屋敷に戻ってきた早苗は、頬に手をあてて首を傾げた。
「魔女って、もしかして一般的に悪者なのかしら」
魔女が皆悪者であれば、今頃この辺り一体は魔女の支配下じゃな。
ソファに座っていた茨姫はそう言って笑った。
彼女を見て、早苗は呆れたような顔をする。
「何も隠れなくても、伊央に紹介してあげたのに」
怯えて逃げてしまうよ。
茨姫はどう贔屓目に見ても普通の人間ではない。今だって、彼女が透けているのでソファの赤い色が見えるのだ。ほとんどの人間が、彼女を目撃したら幽霊かその類のものだと思うだろう。
「うーん。そうね、そんなことないわなんて言えないわね、残念だけど」
正直に言う早苗に、茨姫は笑った。「でも」と早苗は言った。
「でも私は、別に怯えなかったし、逃げなかったわ」
そなたは特別じゃ。妾を幽霊だと思っておったのに、怖がらなかった。
茨姫が自分が幽霊ではないという証拠に初めて魔法を使った時、早苗は目を大きくして聞いたものだった。
『じゃあ魔女は皆そんなふうに透けているの?』
「伊央だってあなたに会ったらわかるのに。魔女が結構いい人だってことが」
さて、どうであろう。
茨姫は妖艶に微笑んだ。
その声は、いつも、歌っているように聞こえる。
人は異端に敏感じゃ。そなたも知っておろう、金色の髪の
金色の髪の
この町で早苗のことを知らない人間はいなかった。それは彼女が町外れの屋敷の娘だということもあるが、何より、早苗のその髪と眼の色のせいだった。
秋の稲穂のような金髪と、晴れた日の空のような青い双眸。それは黒髪と茶系の双眸が多いこの大陸ではひどく目を引いた。今でこそ彼女は町のほとんどの人間とうまくやれているが、中にはまだ彼女を異国の娘だと嫌悪する人間もいるのだ。
「知っているわ」
早苗は首を傾げて笑った。
「けれどそんなことを気にしてどうするの? 人は皆異端よ。同じ人間なんか一人もいないもの」
そうじゃ。けれど、そなたのように強い者は世界には意外と少ない。
茨姫は目を逸らさない。彼女は時々こういう目をする。相手を試すような。その器量を、測るような。
魔女だからだろうか。
ただの人ではない、ひと。
『だって、変だろ。その女』
顔をしかめて少年は言った。
あの時早苗は、少し悲しかったのだ。伊央とその家族は早苗を拒絶しなかったが、そんな伊央が、美しすぎるあの人を拒否したのが、悲しかった。
まるで自分に対してそう言われたように傷ついたのだ。
異端を否定する。
拒否する。嫌悪し、迫害する。
それはあるいは人間の性なのかもしれない。それを早苗は否定できない。
けれど。
「でもそれを克服できるのも、人間の性よ」
早苗は答えた。
当初早苗を嫌っていて、最終的に彼女を受け入れてくれた人もこの町にはたくさんいた。
人は変わる。
冷たかった目が、柔らかく微笑む瞬間を、早苗は確かに見たことがあるのだ。
その時である。
ガタン! という大きな音がした。
見上げると、階段を上がったところに置かれた花瓶が倒れて、飾っていた白百合が床に落ちていた。
そしてその花瓶のすぐ側にある階段の手すりにすがりつくように、彼女は立っていた。
白雪姫。
彼女がそう呼ばれるのは、誰も触れたことがない新雪のようにすべらかな白い肌を持っているからだ。
その肌の中で一際大きく見開かれた双眸は暗褐色の宝石のように輝いていて、軽く開いた唇は鮮やかに赤い。
彼女は奇跡のように美しい。
魔法のように。
誰もが心奪われる。
心惹かれる。
麗しい白雪姫。
その白雪姫はしかし、今は盛大に眉間に皺をよせていた。心なしか、ただでさえ白い肌が今は青ざめているようにも見える。彼女はその白く細い、陶器のような手を伸ばし、階下を、早苗の方を指差した。
麗しい白雪姫は、わななく唇で、悲鳴のように言った。
「お化け!」
「まぁ」
失敬な。
茨姫は顔をしかめた。
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