1.あるところに一人の魔女がいました②
その女は、二年前に、突然北の国に現れた。
王が狩りに出た際に連れ帰り、そのまま王妃となった。母を亡くしてもう十年近くが経つので珀蓮としては父王の再婚に反対などしたくはなかったが、この女はあまりに怪しすぎた。
妙齢の、妖艶な美女であった。
長い睫が影を落とす双眸は曇った空の色で、肌は透けるように白かった。出るべき所が出た豊満な身体は、男が一度は手に入れてみたいと思う類のものだ。
また、美しいだけではなく、知識も持っていた。特に歴史や、様々な国の事情に詳しかった。
当然だ。
女は魔女だった。
それは周辺の国々でまことしやかにささやかれる噂であったが、珀蓮はそれが事実だということを知っていた。
数百年前にはそれなりの権威を誇っていた魔女も、今ではその数も減り、伝説に近い存在になっている。魔法も同じだ。文献はあれど、一般的な人々にはそれはお伽話の中の方がなじみのある種類の言葉だった。
けれど、北の王妃となった女は魔女だった。珀蓮はそう確信していた。
それはただの勘ではあったが、彼女は自分のその勘を何よりも信用していたし、王妃が自分の部屋で何やら鏡に話しかける怪しい場面も目撃している。
だから珀蓮はずっと、この新しい母親をどうしても好きにはなれなかった。正体がわからぬ者を好きになれという方が無理というものだ。彼女は二年間ずっと、この外見だけは若すぎる継母と距離をおいていた。けれどその日、話しかけてきたのはその継母の方だった。
「殿下」
後宮の中庭に面した場所にクッションを敷き、読書にふけっていた珀蓮を後ろから呼ぶ声がした。振り向くと、王妃が立っていた。
王妃はその豊満な胸を強調するような黒いナイトドレスを身にまとっていて、首から大きなペンダントをさげている。丸い銀で、中央に赤い宝石が埋め込まれていた。
清廉な美しさを持つ珀蓮とは違い、王妃には貪欲な人間らしい美しさがあった。凄絶で、現実的な美しさだ。
彼女は珍しく供の者を誰も連れていない。珀蓮は立ち上がり、礼をした。
「これはお義母様。ごきげんうるわしく」
形だけだ。
珀蓮は自分が王妃を信用していないことを、隠そうとはしなかった。
むしろあからさまに、それを表現していた。
「何かご用ですか?」
珀蓮は聞いた。
王妃は微笑んだ。
「物語を、ご存知?」
珀蓮はあからさまに眉宇をひそめた。
「唐突ですわね」
王妃は彼女の言葉を無視して続けた。
「かつてこの地には一つの大きな国がありました」
王妃の声は。
まるで楽器のようだった。単音、和音。色鮮やかな鍵盤で作り上げられたような声。
王が彼女の声を絶賛しているのを珀蓮は知っていた。けれど彼女はこの声があまり好きではなかった。
何か。
引きずられるようだ。催眠術をかけられているよう。
王妃は微笑んでいる。
目を細めて。
首にさげた、赤い宝石が血の固まりのように見える。
「その国にはすべての英知を得て魔法を操る魔女達と、その魔法を破る破魔の一族と、勇猛な軍人の一族と、知略に長けた賢者の一族がいたのです。四者は皆均衡した力を持っていました。けれどその国で一番強いのは魔女達でした。なぜなら、彼女達は多くのことを知っていたからです。世界の理。世の輪廻。あるべき姿。天と地。流れ」
それは吟遊詩人も謡う物語だ。
一つの大きな国とは、ここより南方にある三国のこと。《赤い森》を囲んだ三つの国は、かつて一つの国だった。これは、史実だ。
有名な話だった。
「魔女は万能だった」
王妃が言う。
「敬われ、畏れられるべき存在だった。そうね。神のように。崇められるべき存在だったの」
彼女は謡うように言う。
「昔、あるところに一人の魔女がいました」
珀蓮は一歩後ろに下がった。
王妃が、一歩足を前に出したからだ。王妃は彼女のその、無意識と思われる後退を見て笑った。珀蓮は舌打ちをしそうになった。
「彼女は魔女が、人間達と同等に扱われている王国を憂えていた。本来一番に扱われるべきは魔女なのに、一番は国の王だった。愚かだとは思わない? 血筋だけで連綿と続く一族よりも、真実能力を持つ者の方が優秀なのは誰の目にも明らかなのに」
「無条件に行使できる力を持つ者が頂点に立つことこそが愚かですわ。それはただの独裁にしかなりえないもの」
珀蓮はかろうじてそう言い返した。
彼女も、王族だ。
王の仕事を理解している。それは民を導き、守る。決して力でおさえつけるようなものではない。王は国のために存在するのではなく、民のために存在するのだ。
「弱者の考えね」
王妃は無知な者を見るように憐れんだ様子で言った。
「殿下いえ、珀蓮。そうね。最後くらい、母親らしく、一つ、教えておいてあげる」
最後くらい?
珀蓮は目だけですばやく周囲の様子を確認した。
背後は中庭だ。扉は王妃の後ろにある。この場から逃げ出すには、中庭を突っ切り、開け放たれた窓を越え、外庭から回っていかなければいけない。彼女は頭の中で最もふさわしい経路を探索した。
王妃は。
既に、その正体を露わにしていた。
別にその姿形が変わったわけではない。
けれど。
その。
雰囲気が。
ひどく気持ち悪い。
吐き気がする。
王妃ではない。
人ではないのだ。
貪欲で、強欲で、美しい。
人の形をしたもの。
「なんの力もない普通の人間が、魔女に勝るなどあってはならないのよ。吟遊詩人が謡う、白雪姫」
まるで世界の理のように言う。
「あなたは、誰なの」
珀蓮は誰何した。その声が震えなかったのは、彼女の矜持だ。
すると、女は哄笑した。
「まぁ。聡明なあなたともあろう方がとんだ愚問だわ」
女は右手で首にさげたペンダントを撫でた。
銀は月に通じている。月には魔力を高める効力がある。
「あたしはね」
なんて。
不思議な。
声だろう。
「魔女よ」
この時、珀蓮に躊躇はなかった。本能ともいえる反射神経で、踵を返してその場から逃げようとした。
しかし遅かったのだ。
彼女の背後で、魔女がペンダントの裏を掲げた。
それは鏡だった。
第三者がそれを見ていたら自分の目を疑っただろう。逃げる北の王女の背を映した鏡が突然歪み、波打った。そして次の瞬間には、黒い何かが鏡を飛び出していた。
鏡の中から出てきた黒いどろどろとしたものが珀蓮を捕らえる。囲い込む。
「安心なさい。殺しはしないわ。直接はね」
魔女が哄笑した。
けれどそれももう珀蓮には聞こえなかった。
ひどくツンとしたにおいと暗い闇に搦め捕られる感覚に背筋が凍る。
もはや彼女は闇の中にいた。身動きがとれない。意識が遠のく。
珀蓮は、自分があまりに美しすぎるせいでこれらの災厄がまいこんだのだと承知していた。頭のいかれたあの王妃はいつも自分の持っている鏡にこう話しかけていたのだ。
鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰?
例えば珀蓮が確信していたように、あの女が人間ではないのなら。そう、魔女、であるのなら。
鏡はなんと答えただろう。
珀蓮が王妃に勝っているものといえば、その美しさだった。
成長して、大人の女性となった北の王女は、誰もが息を呑む美しさを持っていたのだ。
鏡は答えたに違いない。
北の国の王女が一番美しい。
世界で。
もっとも。
一度も、それを望んだことはないのに。
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