Case.06-06

「辰巳先生、準備はオッケーですか?」


「あ、あぁ……」


 放課後、僕と辰巳先生は誰もいない教室で、今夜の最終チェックをしていた。

 この日のために仕事を終わらせてきた辰巳先生には、ちゃんと結婚記念日を楽しむだけの余裕がある。

 それに事前にプレゼントも用意していたようだし、この調子なら今夜も大丈夫だろう。


 辰巳先生の顔は緊張に包まれながらも、どこか浮かれているようにも見える。

 それだけ今夜の結婚記念日が楽しみなのだろう。

 これまでにも夫婦仲自体はかなり良くなっているし、今日で決着だ。


 ――――プルルルルルル。


 そんなことを考えていた矢先、辰巳先生の携帯が音を上げる。

 突然鳴り響く携帯音に、僕は肩を揺らす。

 辰巳先生はポケットから携帯を取り出すと、耳元に持ってくる。


「はいもしもし、松本ですが……」


 どんな内容の電話かは分からないが、辰巳先生が話している内容の節々から、どうやら別の先生からの電話だと分かる。

 確かそんな名前の年取った先生がいたはずだ。


「は、はぁ……わ、分かりました……」


 しかし話している内に、辰巳先生の顔色はどんどん悪くなっていく。

 歯切れも悪くなっていき、最後の方は辛うじて頷いているみたいな感じだった。

 ようやく電話も終わり、辰巳先生は携帯を戻す。

 そしてそのまま大きく溜息を吐くと、僕に視線を向けてくる。


「……急な仕事が入った」


「えぇ!?」


 僕は辰巳先生の言葉に驚愕する。

 思わず大きな声を上げ、教室で僕の声が反響する。


「き、今日ですか……!?」


「……今日だ」


「ま、まじですか……」


 僕は突然やってきた悪夢に俯きたいのを堪える。

 今一番そうしたいのは、辰巳先生本人なんだから。

 僕がそれを奪っていいわけじゃない。


「……急いで、やるしかないな」


「僕は、手伝えますか?」


「いや、ちょっと厳しいかな」


「そうですか……」


 もし僕が手伝えるようなことであれば、二人で作業が出来、早く終われるかもしれないと思ったのだが、どうやらそれも無理なようだ。

 となれば辰巳先生がどれだけ早く終わらせられるかにかかっている。


「遅くなるかもしれないから、先に帰っててもいいぞ」


「いや、終わるのを待っておきますよ」


「そうか、分かった」


 もともと僕は今日の結婚記念日の時、先生の家にお邪魔する予定だった。

 といっても僕の場合、薫さんと顔を合わせないで、空き部屋に忍ばせていただくという風な計画だったのだ。


「じゃあ、頑張ってください」


「……あぁ」


 今の時刻は六時。

 結婚記念日が終了するまで、あと六時間を切った。

 間に合う、だろうか。

 今僕に出来ることと言ったら、辰巳先生を信じて待ち続けることくらいだった。


 ◆   ◆


「今日も、残り三十分だけですね」


「……あぁ」


「これじゃあ、厳しいですよね」


「間に合わないだろうなぁ……」


 僕たちは真っ暗な道を急いで辰巳先生の家に向かっている。

 でも僕たちの顔は優れない。


 辰巳先生が急な仕事を受けて終わるまで、かなりかかってしまった。

 それは決して辰巳先生の仕事効率が遅いというわけではなく、任せられた仕事の量が多かったからだろう。

 でもそんなこと言っても結局は今日もあと三十分が残されているだけだ。

 辰巳先生の家の場所を聞いた限りでは、ここからならどうしても三十分はかかる。


「あー……、今年もだめなのかなぁ」


 辰巳先生がぽつりと呟く。

 それは結婚記念日を共に過ごすことが出来ないことに対してなのか、僕にはどうしても聞くことが出来なかった。


 ◆   ◆


「…………」


 僕は少しの間、辰巳先生の部屋の前で待っている。

 本当は家の中に入る予定だったのだが、時間が押していることもあり、僕が部屋の外で待っているように提案したのだ。

 マンションの一室に住んでいる辰巳先生の部屋の中からは意図せずして、部屋の中の声が聞こえてくる。

 若い女の人の泣く声とそれを宥める男の人の声。

 どうやら様子はあまり芳しくないよう。


 ――――バンッ!!


「っ!?」


 突然開かれる扉に、僕は驚く。

 この前のデートの時に一度だけ見たことのあるこの人は、辰巳先生の奥さん、薫さんだ。

 しかし僕が扉の前から少しだけ逸れていたこともあってか、薫さんは僕に気付かない。


「あなたなんかと、結婚するんじゃなかった……っ」


 そして最後、大きな声で一言残していくと、そのまま走り去る。

 扉は開かれたままで、十二時を過ぎた真っ暗な空間を部屋の明かりが照らしている。


「…………」


 次いで出てくるのは辰巳先生。

 その顔はどこか苦笑いに包まれて、無理をしているようにしか見えない。


「いやぁ、盛大に振られちゃったな」


「……辰巳先生」


 僕は、ここでなんて声をかけるのが正解なのか分からず、ただ立ち尽くす。

 そんな僕を知ってか知らずか、辰巳先生は相変わらず苦笑いのままだ。


「まぁ、一回部屋に上がりなよ」


「……はい」


 結局僕はそれ以上何も言えず、ただ辰巳先生に勧められるがままに部屋に上がらせてもらうことしか出来ない。

 玄関には、恐らく薫さんが作っておいたのだろう料理のいい匂いが立ち込めていた。

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