1-2.

 遭遇は唐突で、あっさりとしたものだった。


 それは斥候だったのか見張りだったのかただの散策者に過ぎなかったのか――知る術はないにせよ、一行は丘を越え、平野の片隅に見つけた森に入って数分足らずで三人の男たちと出くわした。

 多分それは相手の男たちにとって不幸な鉢合わせと言えた。彼らは肩を並べてニタニタ下世話に笑いながら――用を足していたところだったから。


 互いに虚をつかれ、一瞬の硬直状態。

 先に動き出したのは三人の男たちだった。股間の粗末な一物もしまわずにきびすを返して森の奥へと駆け出す……まったくもって下世話な話だが尿を撒き散らしながら。


 セシリー――顔がひどく紅潮している――は低く憎悪を込めて呟いた。不条理な怒りとも思えたが、彼女にとって見たくもないものを見せられた無念は魂の根源から爆発的な怒りを引き起こす結果となったのだ。


「……


 男性陣が一斉に内股になった。


 木漏れ日の中、青空を貫くように――笛の音が甲高く木霊こだまする。盗賊一派のものだろう、途端に周囲のくさむらが騒がしくなった。獣道も無く人の手の加えられていない森は笛の音に呼応するようにざわざわと草木を揺らし始める。


「くそっ」


 団員が周囲への警戒を呼びかける。傭兵の男たちは背中合わせになるように、各々の得物えものを構え始めた。ちなみにいずれも内股である。

 リサもルークの背中に隠れた。やはり内股だったルークはいかにも面倒だと言いたげな表情で腕を組んでいる――戦う気は無いらしい。元より彼は戦力として見ていない。ただ自分という個人を評価してもらう。そう考えながらセシリーは剣を抜き放った。


「よく見ていろ。その右目で」


 む、と視界の端でルークが片眉を上げたが、今は意識の外に置く。セシリーは徐々に高鳴る鼓動を落ち着けようと浅く呼吸を繰り返した。


 ――大丈夫だ。


 やれる。自分はやれる。腰裏に吊り提げた柄にそっと触れる。父の形見から力を分け与えてもらうように。やれるはずだと心の中で何度も呪文のように繰り返した。

 風を切るような音が、空中を漂う枯れ葉を粉砕しながら傭兵のひとりの太股に当たった。くぐもった声をあげて傭兵は片膝をつく。太股に突き刺さっていたのは――矢。


「伏せろ!」


 団員のひとりが玉鋼をかざし早口に唱える。霊体へ加護を乞う祈祷文言。すると玉鋼から裂帛れっぱくの疾風が全方位に展開された。一斉に伏せた一同は目をつぶりそれをやり過ごす。風の猛追に草花は千切り飛ばされ木々は大きく傾いだ。

 頭上の木から男が落ちてきた。団員の命令で傭兵たちがまたたく間にそいつを取り押さえた。


「他の仲間は――」


 尋問は獣声に遮られた。それは森の天幕を貫き遠征隊の鼓膜を麻痺させる。びりびりと全身が痺れるような振動が起こり、彼らは苦悶の声をあげて耳を押さえた。その隙を突くように周辺の叢から複数の影が飛び出す――。


 それは三体の獣だった。


 木漏れ日の下、彼らの姿が明らかになる。這うに近い前傾姿勢ではあったが人間のように二足で立ち、ぜっ、ぜっ、と苦しそうに、荒々しく呼吸を繰り返している。全身は黒の体毛に覆われ、前方に突き出された唇からは恐ろしく長い犬歯が覗いていた。太い腕に視界を遮る巨体。大きく見開かれた三白眼に理性の色は無くただただ狂気に彩られ、そのなりは野生の狼が立ち上がったかのような様だ。

 人に近い内臓器官を持ちながら、それでいて人ならざるもの。


「人外』。


 三体の人外は一斉に活動を開始した。

 人の頭ほどはある拳骨が、手近にいた傭兵の顔面を打ち据える。傭兵は後頭部から地面に叩きつけられ失神。人間を一撃で無力化した獣は、その傍らで硬直していた別の傭兵に五指を伸ばし頭を鷲掴みにする。ひいぃという悲鳴とともに下段から斬り上げられた剣はしかし獣の皮膚に弾かれ、それを意に介しもしない獣が傭兵の身体を持ち上げ片手で振り回した。とても人間のものとは思えないような動きで彼の身体は大きく、仲間を助けようと得物えものを振り被っていた傭兵たちを次々と薙ぎ倒していった。


 一方的な蹂躙。軍国や帝国から流れてきた名うての傭兵たちが、独立交易都市三番街自衛騎士団の誇りある団員たちが、たった三体の獣に次々と叩き伏せられていく。ほとんど抵抗の余地も無いほどに。

 そして飛び散った血飛沫が、今の今まで立ちすくんでいたセシリーの頬を打った。


 セシリーは茫然と呟く。


「……………………何だ、これは」


 完全に頭が追いついていなかった。出現から蹂躙に至るまでがあまりに唐突過ぎて、セシリーは正しく状況を理解できていなかった。目の前の光景を非現実にすら感じて、見ているしかない。

 戦ってすら、いなかった。


「……あ」


 人外の一体がセシリーを振り返った。

 その野生の形相が、何故か昨日の浮浪者の狂った面と重なった。

 肌が総毛立つ。

 本能的な恐怖が、セシリーを支配した。


「あ」


 気が付けば身体が動いていた。まるで彼女の意思とは別物のように左足が踏み出している。訓練で培ってきた基本の構えや動きを、肉体は奇跡的になぞってくれた。左半身を前に、左方から横薙ぎに斬り込む。刀身は獣の側頭部目掛けて空気を裂き――

 そして紙一重でかわされた。

 獣は下方に深く身体を沈み込め、頭上に剣戟けんげきをやり過ごした。そのうずくまった姿勢から弓を引き絞るように力をためて――解き放つ。セシリーは二撃目として剣を振り被っていたが、それより早く腹部に衝撃を受けて意識が飛んだ。気が付いたときには叢を薙ぎ倒しながら土まみれで地面を転がっていた。


「……っぐほ」


 這いつくばり、咳き込みながらセシリーはようやく認識し始めていた。この状況。


 


 あまりに呆気無く、自分たちはやられようとしている。そして自分が初め動けなかったのは頭が回らなかったのではなく、ただ恐怖で脚がすくんでいたという、ただそれだけのことだった。

 顔を上げるとそこには拳を振り下ろそうとする獣の姿。拳でありながら金槌のように巨大なシルエットが、セシリーの頭上にある。


 ――待ってくれ。


 これではあまりにひどすぎる。初陣でこのていたらく。私はまだ何もしていない。何も成し得ていないのに、誰も守れていないのに――もう終わってしまうのか。

 理不尽にすら思えたが、何もかも遅い。獣の拳が降って来る。セシリーは伏せたまま両腕で頭をかばい、目をつぶった。


 …………。

 …………。

 …………?


 何も起こらない。訝しく思ったのも束の間。

 突然、セシリーのすぐそばに何か丸いものが落ちてきた。反射的に開いた目でそれを見て、喉の詰まったような声をあげる。


 それは――


 遅れて噴出音。セシリーは脳天から大量の液体――恐らく返り血だろう――を浴びた。

 恐る恐る顔を上げるのと、頭部を失った人外が首の切断面から赤黒く濁った血を迸らせながら昏倒するのとは、同時だった。絶命して倒れた肉体は、ずしん、と地響きを起こす。


 ――何が、起こった?


 セシリーは液体まみれの状態で目まぐるしく考える。自分は人外の獣に倒され、とどめを刺されそうになっていたのに――何故その獣の頭が落ちるのだ?

 答えはすぐそばに立っていた。


「立てよセシリー・キャンベル。やっぱり口だけの女だったのか?」


 幻を見ているのかと思った。

 ルーク・エインズワースが、そこにいた。

 彼は身体の正面に剣を構えていた。正眼の構え。右半身を前にし、右手はつばまで深く握り込み、左手は浅く柄頭つかがしらに触れている。

 その剣――降り注ぐ陽光を弾く剣身は、やはりセシリーの目には目新しく映った。反りのある片刃。刀の表面に波打つような紋様。何処か大陸に存在するものとは違う、異国風な存在感がある。

 剣からは、獣のものと思われる体液が滴っていた。

「ルーク……」


 ――彼に助けられたと言うのか。

 一度ならず二度までも。


「出てきたな」


 今の今まで隠れていたらしい男たちが、いつの間にかセシリーたちを包囲する形で現れていた。誰も彼も無精髭を生やし小汚い風体をしている。ざっと見て数は二十弱。盗賊たちは手斧ておのや短剣など各々の得物えものを振りかざし無言で包囲網を築いていた。

 人外の獣でこちらの布陣を砕き、残りは自分たちで一網打尽にでもするつもりだったのか。流れは完全に彼らにあったが、しかしその空気が変わりつつあることに気付いて足踏みしているようだった。


「大丈夫ですかセシリーさん」


 腹這いのまま凍り付いていたセシリーに、横からリサが手を貸してくれた。


「リサ、これは……」


「もう大丈夫ですよ」リサは場違いに幼い微笑みを浮かべた。「ルークがその気になったみたいですから」


 ルークは剣を地面に対して水平にし、拳でつばを軽く叩いて剣に付着した体液を振るい落とした。


「リサ」


「はいルーク」


 阿吽あうんの呼吸というものか、リサは名前を呼ばれただけで一枚の布切れをルークの左手に握らせた。彼は受け取ったそれで、剣身に残っていた体液を拭う。


「……オイお前ら」


 赤黒く汚れた布切れを無造作に放り投げ――リサがすぐに拾い上げて「ポイ捨て禁止!」と抗議していた――、ルークは盗賊の男たちを見回した。


「逃げるなよ。絶対に」


 盗賊たちの空気がにわかに騒がしくなる。と。

 唐突に獣の咆哮が辺りに轟いた。

 人外の一体が握り締めていた拳を限界まで開く。するとその五指から細く長い爪が飛び出した。獣は腕を鞭のようにしならせ、内側に反る鉤爪を横殴りにルークの顔面に叩きつけてきた。

 ルークは右目を見開き、その挙動を視線で追う。剣の構えを下にし、右下に身体を押し込む。傾いたルークの左肩を削ぎ落とさんばかりの勢いで獣の鉤爪がかすめ通っていった。

 目標を引き裂けずに振り切られた獣の腕。ルークはその真下で旋回。右足を踏み込むと同時に腰を捻り、それに引っ張られるようにして下方から剣筋が上昇する。空間を縦一文字に斬り上げ――そして獣の腕を撥ね飛ばした。


 獣の慟哭が激しい痛みを訴える。獣は大粒の涙をこぼしながら逆の腕を振り回した。ルークは軽く後方に跳んでそれをかわし、着地の直後、再び獣と相見えんと前方に跳躍。不意をつかれる獣。跳躍と同時に横に一閃された刃が、す、と獣の左こめかみから右こめかみへとすり抜ける。傍目はためには本当にすり抜けたとしか思えないような滑らかさだった。


 一体目と同様、二体目の獣もまた頭部を破壊され沈む。そいつは倒れてからもしばらくびくびくとのたうっていた。

 ルークは止まらない。歩数にして一歩。土の地面を穿ち土埃を舞い上げながらルークの右足が踏み込まれ、再び真横に一閃。その先にいた人外の獣の胸元が切り裂かれる。浅い。獣はけたたましく吠え鉤爪の手を突き出す。ルークは数瞬前に振り切った剣を返し逆袈裟に斬り上げる。獣の指が四本、宙を飛んだ。苦痛の咆哮。ルークは頭上に高々と剣を掲げ、一直線に振り下ろす。兜割り。脳天から股間に至るまで刀身が信じられないほどあっさりと滑り落ち――縦に体液を迸らせながら獣は絶命した。


「……すごい」


 セシリーは思わず呟いていた。


 獣の強靭な肉を断ち切る剣の斬れ味は、やはり凄まじい。しかし何よりセシリーが目を見張ったのはルークの動きだ。足捌きや剣筋、肉体の操作――いずれもセシリーの知るどの剣術にも当てはまらない。

 もちろん例外はあるが、大陸の剣術は左半身を前に出し、右に剣を構えるのが基本の型だ。これは左に盾を構えることを前提にしているためである。しかしルークの構えや動きは逆――彼の踏み込みは必ず右足が先、つまり右半身を前に出していたのだ。さらに体移動はすり足――地面を滑りながら行うという変わった歩法。剣筋は全身運動を駆使した身軽なもの。いずれも大陸の基本剣術にはないものだ。


 ――何者なのだ。


 ルークの戦いぶりは一介の鍛冶屋のそれではなかった。歴戦の戦士と言っても過言ではない。

 とにかくこれですべての人外が始末されたことになる。二体目がほふられた時点で盗賊たちは後退を始めていたが、ルークはそれを追う。


 すり足で体を捌き、右、左の踏み込みに合わせ流れるように計二撃を斬り込む。初手で左の男の胸を、二手目で右の男の腿を裂く。三撃目――は別の盗賊によって阻まれた。振り返るルークと出会い頭に盗賊の短剣が突き出されたのだ。ルークは首を傾けるだけでそれを頭の横に流し、男の懐に剣の柄頭つかがしらを叩き込む。前屈みになる男のこめかみに肘鉄を食らわせて吹き飛ばした――が、そのそばから別の男の手斧ておのがルークの首筋を狙う。反射的に膝を落としたルークの頭上を、なびく黒髪を奪い去りながら凶刃が通り過ぎていった。


 下方から股間を柄頭で強打され男は泡を吹きながら悶絶した。そいつを蹴り転がし、ルークはすっと立ち上がる。盗賊たちは彼の立ち回りに完全に圧倒されていた。


 ――ん?


 実に鮮やかな手並み。しかしセシリーはルークの顔色を見て意外な思いを抱いた。


 ルークは顔中に脂汗をかき、よくよく見れば荒々しく呼吸を繰り返し肩で息をしていた。とても数秒前まで見事な立ち居振る舞いをしていた人物とは思えないような、切羽詰った様相だった。


「へっ」


 ルークは息を荒らげながらも不敵に笑い、二度盗賊たちと斬り結んでいく。凍り付いていた盗賊たちは慌てふためいたように彼を取り巻き襲い掛かった。中には脇目も振らずに逃げ出す者もいたが。

 多対一の戦闘を前にして、セシリーは不可解に思って呟く。


「何故――」


 あれほどの実力を持ちながら、余裕が無い?


「当然ですが剣は折れるし刃こぼれします。たとえルークの『刀』であろうとも」


 セシリーは横に立つリサを振り返る。リサの視線はずっとルークの挙動を追っていた。


「戦場において得物えものを失うことは死を意味します。だからルークは剣を受けません。鍔迫つばぜり合いなんてもってのほか、常に紙一重でかわす。この意味――セシリーさんにもわかると思います」


 リサの言う通りルークは盗賊たちの剣戟けんげきを必ず鼻先でかわしていた。髪や衣服が切り裂かれようともその下の肌が傷つけられることはない。つまりはそれだけぎりぎりの攻防であり、ゆえに極度の緊張を強いられるということ。

 死線は矢継ぎ早にルークを襲い、しかし彼は次々とそれを越えていく。目前で繰り広げられていたことの真の意味を思い知らされ、セシリーは生唾を飲み込んだ。


「昨日から疑問だったのだが……『刀』とは何だ?」


 それが剣の一種だということはわかる。しかしあのような種類の剣は見たことが無い。


「『刀』とは古来より大陸で用いられていた鍛錬法で作られた剣のことです」


「古い技術なのか」


「はい。私が知る限りですがそれを踏襲している職人は極少数だと思います。セシリーさん、現代の鍛冶鍛錬の基本製法はご存知ですね」


 セシリーは先日、市内の鍛冶屋を訪れたことを思い出した。


「鋳型……」


「そう。鋳型製法による大量生産です」


 溶かした鉄を鋳型に流し込み、一度に大量の数の剣を作る――鋳型製法。

 代理契約戦争ヴァルバニルという巨大な戦を経た大陸が、その需要に則って生み出した生産法だ。

「鋳型製法とは異なり、私たちは一本を時間をかけて丹念に鍛え上げます。『折り返し鍛錬』という特殊な鍛冶工程があるのですが、それも大量生産を必要とされた時代とは馬が合わず廃れてしまいました。……あの、知ったように語ってますけど受け売りの知識ですからね?」

 リサは照れたように笑い、


「鋳型製法により私たちのやり方は廃れ、この技術の存在自体が忘れられてしまいました。でもだからこそ『刀』は他の剣に比べるべくも無く頑丈で、よく斬れます」


 折り返し鍛錬――一体どのような技術なのかは知る由もないが、とにかくその製法があの『刀』の斬れ味を生んでいたのだ。


 ――もしかしたらあの戦い方も。


 右半身を前にした構え、右足から始まる踏み込み、すり足による体移動、先手必勝の攻め。これらはすべて『刀』という武器故の特性なのかもしれない。

 さて、とリサは状況にいささか不釣合いな健康的な笑顔でこちらを振り返った。


「何だかんだでこのままルークに任せていればラクショーなんですけど」


 そっと囁いてきた。



――――「?」



 セシリーは血が沸騰する瞬間を知った。


「私を見てほしい』


 脳裏に昨日の自分の言葉が蘇る。


「私を見定めてもらえないか』


 羞恥心がセシリーの血を逆流させていた。あれほどの大口を叩いてルークを引っ張ってきたというのに――この体たらくは何だ。見てもらうどころか無様に這いつくばり、守るべき市民に守られている。

 セシリーは腰に提げた柄――父親の形見に触れた。鎖がこすれて響く。


 ――今の私は騎士として胸を張れない。


 その資格が無い。


――――「それでいいんですか?』


「…………良くない」


 いいはずが無い。


 。歯茎が軋むほどの力で歯を食い縛る。胸の奥底から湧き上がるこの感情は何だ。怒りだ。自分への怒り。憤怒。


 ――許せない。


 私はこんな私を許してはいけない。


 怒りは興奮へ。興奮は恐怖を捻り潰す活力へ。あり余る力に剣の柄を痛いほど握り込む。片膝をついていたセシリーは爆発的に地面を蹴り上げ、駆ける勢いのままルークと盗賊たちの混戦の輪に飛び込んだ。


 こちらに気付いた盗賊のひとりが手持ちの剣を振るってくる。凶刃の軌跡を視界の端に捉えながらセシリーは思考した。自分に、ルークのように紙一重でかわせるような技術も経験もないことは知っている。だから欲張らずにやれることをやる。セシリーは盗賊の刃を剣の腹で受けて弾き、返す手で相手の脇腹を斬り捨てた。


 剣から腕へ伝う、肉を断つ手応え。

 生々しい感触――人を斬る感触にセシリーは怯みかけた。だが高らかに吼えることでそれを心の内に閉じ込める。今はただ、がむしゃらに立ち向かうことだけを考えろ。

 こちらの闖入に、ルークにかかりきりだった盗賊たちが何人も振り返った。セシリーを無遠慮に射抜く複数の視線。恐れるな。正面の盗賊と剣と剣を合わせ、つばを絡めて横に受け流しつつブーツの爪先で相手の向こう脛を蹴り叩いた。つんのめるところを突き飛ばすと、男はその向こうにいた仲間ともつれ合って転倒した。


――――「っ」


 横手から振り下ろされた手斧を寸前で剣のつばで受け止めた。衝撃に腕が痺れ、セシリーは顔をしかめる。相手は自分よりも体格の大きな巨漢で、血走った目でぎりぎりと手斧を押してくる。ふるふると震える両腕を不甲斐無く思いながらセシリーは血のにじむほど唇を噛んだ。


 怒れ。怒れ。怒れ。


 足りないなら、感情で補え。


「オ」


 セシリーは両脚を開き、低く落とした腰を強引にねじっていく。鼻息も荒い。


「オオオオオオオオオオオオッ」


 手斧の男は驚愕に目を剥いた。彼よりもひと回りも小さい女が鬼の形相で、力で競り合おうとしているのだ。そして実際――男はじわじわと押し返されていた。


「馬鹿な――」


 とうとうセシリーは剣を振り切った。力のベクトルを横に受け流され男はたたらを踏み、そこをセシリーが肩口から斬り伏せた。赤い液体が宙に舞う。


「次っ」


 間髪を入れず背後の気配を知覚した。剣を振り被るシルエットが、セシリーの影に重なっている。舌打ち。彼女が振り返るより早く、それは振り下ろされ――

 ――るより早く、そいつは背中から斬撃を受け、顔面から転倒した。


「ルーク……」


「意外に暑苦しい女だな、セシリー・キャンベル」ルークは刀を振って血糊を払い、「乙女のたしなみとやらを忘れてるぜ」


「無駄口を叩くな。まだ終わっていない」


 セシリーは剣を構え直し乱れた呼吸を整える。全身が汗で濡れていた。疲労より緊張の度合いの方が大きいのだろう。だからこの緊張感に慣れろ。そうすればもっと戦える。訓練通りの、いやきっとそれ以上の動きができるはずだ。遠巻きに盗賊たちを睨み据えながら、胸中で強く己に言い聞かせた。


「おい男女」


「しつこいぞ。なんだ」


「あそこに頭にバンダナ巻いてる男がいるだろ。頬に傷跡がある奴」


「……いるな」


「奴がこいつらのボスだ。さっき指揮ってやがったから間違いない。奴を潰せ」


「あなたに命令されるのは気に食わないが、いいだろう。――!?」

 突然の激昂に、さしものルークもびくっと肩をすくめた。


 セシリーは叱咤した。


「いつまでそこで見ているつもりだっ?」傷つき膝をつく団員や傭兵たちを顧みて。「己の仕事と正義を果たせッ!!」


 一同はぽかんと間抜け面をさらしていたが――真っ先に正気を取り戻したのはやはり独立交易都市騎士団の団員たちだった。表情がまたたく間に引き締まり、むしろそれまで動けずにいた自分たちを恥じるように舌打ちして散開、盗賊の群れへと猛進した。比較的傷の浅かった傭兵たちもそれに続く。団員の男が叫んだ。


「逃げた盗賊もいる! ひとりたりとも逃すな!」



 終息は早かった。


 セシリーとルークが先陣を切ることで盗賊一派の連携は乱れ、そこを遅ればせながら参戦した団員と傭兵たちが叩く。命こそ取られないまでも盗賊たちは次々と捕らえられていった。

 最後のひとり。尻餅をつく盗賊の首領に、セシリーは剣の切っ先を突きつけていた。完全に息が上がっていたが妙な興奮に気分は昂ぶっている。


「投降してもらう」


 首筋に剣を当てられた首領は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「貴様にはいろいろと聞きたいことがある。構成員の数、今までの強奪物――」


「そしてこの子たちのコト」


 セシリーの言葉を継いだのはリサだった。彼女は人外の獣、その遺体の前に屈み彼らの体毛を撫ぜていた。


「あなたたちはこの子たちを薬物漬けにしていましたね」


「薬物……?」


「一時的でなく定期的に投薬が行われていたはずです。薬でこの子たちの理性を破壊し、

意のままに操作していた。そうなのでしょう? でなければ」


 リサは悲しげに睫毛を伏せた。


「でなければあんなにも悲しい声で啼いたりはしません……」


 セシリーは首領を見下ろす。彼は顔を背けた。


「……ただの盗賊団が人外を飼うなどとは、にわかには信じがたい。何か裏があるな?」


 いよいよ追い詰められたように首領の男は蒼白になり、やがて――

「――――――。――、――――――――。」


 


 聞こえてはいたが、セシリーには意味の理解できない言葉だった。異国の言語のように不可解で――それでいて妙に耳障りの悪い響きをしていた。


 だが傍らで聞いていたリサには理解できたらしく、彼女は絶句したように呟いた。

 どうしてシゴンを、と。


「シゴン……?」


「そいつから離れろセシリー・キャンベル! 巻き添えを食うぞっ!」


 言われるが早いかセシリーは二の腕を掴まれ引き寄せられた。突然のことに無防備にルークの懐に抱き止められてしまう。


「な、何を」


 赤くなって抗議しようとした彼女は、しかし目の前の事態に言葉を失った。

 首領の肉体に変化が訪れていたのだ――。


「よく見ていろセシリー・キャンベル」


 耳元でルークが囁いた。


「あれが『悪魔契約』だ」



 男の肩に、喰い千切られたかのように穴が穿たれた。


 それは正円の空洞だ。

 肩、胸、爪先、脇腹、左目、額と不規則に大小様々な穴が空いていき、その都度「ぼす、ぼす」と気の抜けた音が鳴る。男は痛みを訴えるでもなく白目を剥き、だらしなく唾液を垂らすだけで完全に正気を失っているようだった。穴は男の存在を喰い尽くさんと無慈悲に奪う。


 男の身体は穴だらけになっていく。

 侵食を、セシリーは見ているしかなかった。


「あ……『悪魔契約』? これが」


「お前も知識だけはあるはずだ。代理契約戦争ヴァルバニルについて」


 代理契約戦争ヴァルバニル


 四十四年前、大陸のすべての国が争った戦のことだ。独立交易都市が誕生したのはその戦争からの脱却、独立

に端を発していたということはセシリーも知っている。当時ハウスマンが、難民の受け入れ先を開拓しようとし

て生まれた土地が現在の都市の基盤となった。

 祖父はその戦争の経験者だったらしく、セシリーは父を通じてそれがいかなる争いであったかを聞き及んでいた。いわくあれは地獄だった、と。


 代理契約戦争ヴァルバニルを人々に地獄と言わしめる所以ゆえんはただひとつ。

 今は大陸法で禁呪とされている――


「悪魔契約……」


 契約信仰とはふたつに大別される。『祈祷契約』と、そして『悪魔契約』。

 呟くセシリーにルークが応じた。


「玉鋼を触媒とする祈祷契約とは違い、悪魔契約は人間の肉を触媒とする。悪魔契約ってのは空気中の霊体に肉体を、血肉を得た霊体が悪魔化する現象のことだ。その悪魔を使役し戦場に放ったのが代理契約戦争ヴァルバニル


 捧げた肉は当然ながら元には戻らない。悪魔を作り出すには犠牲が要る。


 しかし当時、目先の勝利に狂った国々は悪魔の戦力を高く買い、末期には正規の兵士だけでなく兵役に駆り出された一般国民にまで契約を強要した。戦地では何処の国のものかもわからない悪魔たちが入り乱れ、国境の街を破壊し尽くした。「人間でなく悪魔に戦わせる」という性質から、その戦争は『代理契約戦争ヴァルバニル』と呼ばれた。


 終戦を迎え大陸ではこの契約は禁呪とされた。以後大陸の国々は自国の建て直しに腐心し、さらに悪魔契約に代わるものとして当時は辺境でのみ用いられていた祈祷契約を多用した。大陸を崩壊寸前まで追いやった悪魔契約はこうして消滅した――はずなのだが。


「悪魔契約には引き金になる文言が必要だ。それが『死言』と呼ばれる死の言葉。……ああ、くそがっ」ルークは苛立たしげに吐き捨てた。本当なら肉体の一部を捧げる契約なんだが。あの野郎、自棄になって制御を放棄しやがった。忌々しい」


「し、しかし悪魔契約は大陸法で」


「禁止されていようがいまいが事実今そこで契約されている。現実を見ろ」


 セシリーはむっとして言い返そうとしたが、ルークを振り返り息を飲んだ。

 ルークはじっと首領の変化を睨み据えている。彼の右目には何かどす黒い感情の波が渦巻いていた。憎悪? 怒り? わからない。とにかく一言で説明できない何かがその目に込められていたのだ。


 ――そういえば。


 ルークは何故、こんなにも悪魔契約について詳しいのだろう?


「来るぞっ!」


 見ると空洞はとうとう首領の肉体を喰い尽くした。

 そして一時の静寂を経て。

 爆発。

 膨れ上がった白光が視界を塗り潰した。悲鳴もどよめきも爆音に喰われる。全身を叩く烈風は意外にも冷たく、撫で切るように素肌の上を滑っていった。

 セシリーは頭をかばうので精一杯だった。爆発の瞬間に正常な思考回路は吹き飛び、咄嗟に手近なものにしがみついた。その『手近なもの』は意外にも力強く彼女を抱き寄せてくれた――。

 爆発の余波は、


「っ――――……」


 発生時と同じくらい唐突に、あっさりと消えた。


「…………あっ」


 セシリーはゆっくり瞼を開き、ほとんど額をくっつけるような形で接触していた『手近なもの』――ルークの胸板を反射的に突き飛ばして退けた。すぐに失礼なことをしてしまった、と後悔したが彼の右目はこちらを見ていない。

 その視線の先を追い、呼吸を止めた。首領の男がいたはずの場所に巨大なクレーターができていたのだ。草も木も花も近辺にあったものは根こそぎ消し飛び、地面はなだらかな坂ができるほど抉られていた。クレーターの中央からはもうもうと白煙が上がっている。


「っ! 無事かリサ」


「な、なんとか」


 リサは地面に顔面から突っ伏した状態で手を上げた。足元に生えていた草を掴んで衝撃をやり過ごしていたらしい。ぐるぐると目を回しながら立ち上がる。他の団員や傭兵たちも呻きながら起き上がり、何が起こったのかと辺りを見回していた。


 とりあえず皆無事のようだ。ほっと息を吐いて――セシリーはに驚愕した。

 ぶるるっ、と身震いをする。。空はあんなにも晴れ渡り太陽が輝いているというのに、吐息は白く、肌寒さを覚える。よくよく見ると森も霧がかったように虚ろに白くにじみ始めていた。

 肌寒さを感じたのは無論セシリーだけではなかった。団員や傭兵が異変に気付き口々に困惑の声を漏らす。


「セシリー・キャンベル。避難だ」


「ど、どういうことだ。これは一体」


「いいから黙って従え!」ルークはクレーターの中央を見つめながら叫んだ。「。全員ここから逃げろっ!」


 結論から言えば手遅れだった。


 クレーター中央の白煙が突然の強風に霧散する。うねりを上げる霧の渦に目を細めながら、セシリーはそこに現われた『モノ』をしかと目撃した。


「……………………なん、だ。あれは」


 四つん這いの獣――いや獣と呼んでもよいものか。それを獣と呼ぶには生命の温もりや鼓動といったものが一切感じられなかった。

 何故ならそれは、だったからだ。


 獣の形をした、氷。

 数百本もの氷柱を組み合わせてできた模型のような構成物。全体的なフォルムは鋭角に尖り、円錐状の四肢を地面に突き刺して身体を支えている。その突き刺された地面には四肢から浸食されたように氷の膜が張っていた。「フー、フー」という呼吸音が響き、その度に緩く寒波が吹きすさぶ。

 霧はどうやら氷の獣を取り巻くように発生しているようだった。身体の芯まで侵さんとする冷気もまた彼を発生源としている。正に氷の――悪魔。


 セシリーは慄然として凍りつく。未だかつてまみえたこともない生物は、表情らしい表情も無くただそこで冷気を放っているだけだったが、それでも彼女は圧倒された。これから何が起こるのか。何が起ころうとしているのか。未知への恐怖に我知らず捕らえられていた。

「何をボサッとしてやがる。早く逃げろ、お前らもだっ」


 ルークの声を遠くに感じる。セシリーの注意は氷の悪魔に縫い付けられていた。

 みし。みしし。悪魔の身体が軋んだ――かと思うと、そこからひび割れるような音が連続し悪魔は背中に無数の氷の柱を逆立てた。

 その柱が一斉に射出される。


「セシリー!」


 セシリーがそれを知覚したのは、後だった。

 全身を丸ごと殴られたかのような衝撃を受け、意識も痛覚も根こそぎ吹き飛ぶ。気が付いたときには地面に転がっており、わずかな時間ながらも気絶していたのだと理解するのに多少の時間を要した。


「あ、ぅ……?」


 何が。

 起こった?


 痛みが微弱な痺れを伴う。濡れた感触に不快感を覚え、あらためると全身が自身の血にまみれ汚れていた。大怪我という怪我では無いが細かい裂傷が多い。微細な粒のような傷を腕や頬に負い、騎士団の制服は所々裂き解れ、さらに凍えるような寒気が肉体の表面を覆っていた。


 ――あの氷の柱、なのか?


 柱というよりは矢に近いかもしれない。悪魔の背中から飛び放たれたそれらに彼女は全身を打たれたらしかった。セシリーだけではない。遠征隊の面子メンツや盗賊たちまでもが巻き込まれ、苦痛にのたうっていた。

 うつ伏せになりながら霧の向こうに目を凝らす。うっすらと氷の悪魔の輪郭が見えた。

相変わらず無機質な呼吸音を漏らしている。心なしかその輪郭が上下しているような。


「来る……」


 凍りついた水溜まりを踏み砕くような音が、ゆっくりとこちらに近付いてきていた。円錐状の四肢を順番に引き抜き、突き刺し、それを繰り返して着実に前へと進んできていた。距離が狭まるにつれて気温は下降の一途をたどり、地面を抉る音が不気味に響く。


 セシリーの見ている霧の向こう、悪魔の輪郭の中で、何かがふたつ輝いた。


 しくもそれは宝石のように美しい輝きを放ち――同時にまったく生命の息吹の感じられない無機質さをも持ち得ていた。


「目……」

 あれは悪魔の右目と左目。

 この世ならぬ双眸がこちらを見ている。そしてこちらの存在を確かに捕捉している。


 がちがちとセシリーは歯を鳴らした。寒さのためでは決してない。恥も外聞も無く彼女は恐怖していた。


 ――くそっ!


 それでもセシリーは立とうとした。立って剣を構えようとした。目前に脅威が迫っている、安穏あんのんと寝ていられない――しかしそうした思いも虚勢に終わった。膝に力が入らず、

立ち上がるそばから崩れ落ちてしまった。両膝が情けないくらいに震えている。思った以上に自分の身体は傷つき、血を失っているらしかった。


 せめて足掻こうと思い剣を前に突き出す。だがすぐに歯噛みした。先ほどの悪魔の攻撃にやられたのか、その剣身は根元から先が砕けて無くなっていたのだ。こうしている間も氷獣の悪魔は近付きつつある。焦燥がセシリーの胸を焦がし、彼女は拳で己の膝を何度も叩いた。痛みで膝の震えを打ち消そうとしたが。

 冷気が頬を叩き、強烈な存在感をすぐ近くに感じた。見なくてもわかる。悪魔はもうすぐそこまで来ていた。凄まじい圧迫感にそれだけで潰されてしまいそうになる。セシリーは思わず目を閉じた――


 金属音が、明瞭に響いた。


 顔を上げたセシリーは瞼を見開く。なんとなく予感はしていた。

 視界を遮りにじませていた霧の渦が、真っ二つに割れていた。縦に引き裂かれたベールの狭間で、ふたつの陰影が重なっている。

 ひとつは言わずもがな氷獣の悪魔。もうひとつは。


 ――これで三度目になってしまった。


「ルーク!」

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