第4話
「ママ、早く~ちこくしちゃうよぉ~!」
「ちょっと待ってよ守、ママまだ自転車ちゃんと停めてないのよぉ」
「まもちゃんおはよー!まもちゃんママもおはようございます!」
「あ、おはようございます~すみません今日もギリギリで・・・」
「まだ大丈夫ですよ!気をつけて行ってらっしゃい!」
「じゃあ守、今日は帰りはパパがお迎えに来てくれるからね!」
「はーい、いってらっしゃーい!」
慌ただしい朝の変わらない風景。
保育所の前は8時頃になるとたくさんの自転車や車でいっぱいになる。ご近所さんからクレームが来てるとも聞いていたが、母親たちのほとんどは「すぐ出るんだから」と思っていることだろう。私もその一人だった。
共働きの我が家は私が守を朝保育所に送って行き、帰りは祖母もしくは父親がお迎えに行くことになっていた。
私は職場をフレックス制にしてもらったので朝はゆっくり出られるが、その分帰りは遅くなってしまう。父親の保は朝が早いため、送って行くことができない代わりにできるだけ迎えに行くと言ってくれた。
どこの家庭もそれぞれ時間をやりくりして仕事と育児を両立させようと必死だった。
まだ幼い守を保育所に預けることに最初は抵抗があったけど、買ったばかりの新居のローンと車のローン、そして守の将来のために貯蓄もしようと思ったら保の稼ぎだけではきつかったのだ。
私は今の会社で正社員として働き始めてから結婚して、産休、育児休暇を取って復帰したのにさらにフレックス制を申し出るのは心苦しかったのだけど、背に腹は代えられない。
今日も頑張って働かなければ!と自転車のハンドルをぐっと握りしめて気合を入れなおした。
「それじゃ、お願いします!いってきまーす!」
元気よく職場へを自転車を向かわせる。
「伊藤さん?大丈夫ですか?」
彼女ははっとした。
どうやら私は倒れたらしい。気づいたら寝室のいつものベッドに寝かされていた。
鹿野さんの声を聞いたあとの記憶がないので、そのまま気を失ったのだろう。
異変に気づいた鹿野さんが大家さんに連絡して扉を開けてもらい、中に寝かせてくれたそうだ。
「す、すいません・・・ご迷惑をおかけして・・・」
顔を見られない。身体はなんとか起こしたものの、顔はずっと下を向けたまま上げることができない。
「いいえ、私のことはいいんですよ。それより具合は大丈夫ですか?」
鹿野さんは心配そうに覗き込んで、枕元の洗面器で額に当ててくれていたタオルを絞り直してくれている。
「はい、大したことはないので・・・」
「そうですか。昨日自転車を見つけて、お届けしたことをお伝えしようとお手紙をポストに放り込んでおいたんですが、気づかれていなかったらと思ってもう一度お寄りしたんですよ」
あの手紙は鹿野さんだったのか。
「そうなんですね・・・ありがとうございました。スーパーで盗難にあって、あきらめていたところだったんです」
「やっぱり盗まれていたんですね・・・道端に捨てるように置いてあったので、おかしいなと思ったんですよ」
鹿野さんと会うのはもう10年ぶりくらいになるだろうか。よく見たらシワも増えていて、少し老けた感じがするがそれは私も同じだろう。
むしろ私の老け込み方のほうがひどいかもしれない。
「それより・・・なぜここが・・・」
「あっ、すみません。このマンションにひとみちゃんのおうちがあって・・・ひとみちゃんママからお伺いしてたんです。今はこちらに住んでおられるって。」
なんてことだ。知り合いのいなさそうな地域を選んでここに引っ越したはずだったのに、寄りによって知り合いに見つかっていたなんて。
ショックで言葉を失っていると、鹿野さんが切り出した。
「あんなことがあって・・・私もなんと言えばいいのかわからないまま、歳月ばかりが過ぎていってしまってました。それでもずっと気になっていたんです。10年も経ってしまいましたが、またお会いできて嬉しいです。」
やめて、やめて、やめて!!!
彼女の心の中はぐちゃぐちゃになっていた。
この10年、心の中でずっと閉じ込めてきた記憶たち。
何もかも忘れたくて、一人になりたくて、何も考えたくなくて今こうして暮らしていたのに。
何も考えないことで平穏に暮らしてきたつもりだったのに。
鹿野さんの声を聞いているだけで、思い出したくない過去が湧き水のように溢れてくる。そしてそれを私の心が必死に塞ごうとしている。
「す、すみません・・・自転車のことはほんとにありがとうございました。
でも、ごめんなさい、今日は帰ってください」
ちらっと鹿野さんを見た。なんとも言えない悲しそうな顔をしていた。
「そうですよね、伊藤さんのこと何も考えずに押しかけて来てしまってすみません。
でももし、もしもよかったら、また連絡していただけませんか?」
そういって鹿野さんは携帯電話の番号とメールアドレスが書かれた神を私に握らせた。
「押し付けかもしれませんが、ぜひまたお話したいんです。伊藤さんが大丈夫になったらで結構ですので・・・」
もうやめて、放っておいて。
さすがに面と向かってそうは言えず、黙り込んでいると鹿野さんはそっと帰っていった。
ずっと封印していた過去の記憶。鹿野さんと再会したことで沸々と思い出してきた。
忘れよう忘れようとして、ようやく忘れて生活していたこと。
塞ごうとしていた彼女の力もすでに及ばないほど、大量に押し寄せてきて彼女の心を流していった。
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