第2話

今日もまた目が覚める。

特に何をするためというわけでもなく。何か目標や仕事があればもっと張り合いもあったのかもしれないが、彼女にはそういったものは一つもなかった。


彼女は仕事をしていない。

会社、職場に行くためにという目的でもあればまだ少し事情が違ったのだろうが、彼女には今生きがいとするような仕事を持っていなかった。

それでも昔は仕事をしていたような気がする。少なくとも社会的常識くらいは持っていたはずだ。

昔のことを考えると彼女の脳の中はふんわり、ぼんやりする。

そしてまもなく昔のことを考えることをやめる。まるで彼女を守るように。


いつもと同じように朝食を済ませ、外を見る。灰色の空にじめっとした空気が漂っていた。今日はどうやら天気が悪いようだ。

「雨が降るかもねぇ・・・」ぽつりとつぶやいた。誰も聞いていないのに。

そして昨日の晩洗濯物を干しっぱなしにしていたことを思い出した。

慌ててベランダに出てみる。まだ雨は降っていないが湿度の高い空気が洗濯物がからっと気持ちよく乾いていないことを取り入れる前から感じさせる。

「やっぱり昨日の午前中に干していれば・・・」と、しても仕方のない後悔をする。

自分が忘れていたのだから自業自得だ。

そして洗濯物がからっと乾かないことくらい、死ぬような大げさな出来事ではない。

とりあえず洗濯物を全体的に手で触れ、湿っている部分がないことを確認して全部取り込む。


ふとベランダの外にある駐輪場を見た。

私の自転車があるように見える。

え?どうして?昨日盗られたのに?

極力外に出たくはないが、本当に自分の自転車なのか確かめたくて彼女は駐輪場に向かった。

そこにあったのはやはり自分の自転車だった。

このサビのひどい具合。防犯登録のシールももちろん貼っていない。

ただ違う点といえば、いつもかけているワイヤーロックがついていない。

昨日スーパーからの帰りには間違いなく自転車はなかった。だから仕方なく重い荷物を持って歩いて帰ってきたのだ。

それでも今ここに間違いなく自分の自転車がある。どうして?

誰かが私の自転車だと気づいてここに返してくれた?もしくは盗った犯人がこのマンションの住人だった?

・・・それ以上は考えてもわからなかった。というか、考えても仕方なかった。

とにかくここに自転車が返ってきた以上、また盗られないようにきちんと鍵をかけておかなければ。

どうせこのあとの予定もないことだし、彼女はしぶしぶ近くの自転車ショップにいくことにした。



幸い、ショップにつくまでにも雨は降らなかった。しかし帰りに降らないとも限らないので念のために雨具は持ってきた。

「いらっしゃいませー」

私より少し年上だろうか、少しだけ白髪が混じり始めたがっちりした男性が店の奥から出てきた。

なるべく他人と会話をしたくない私は店員と目を合わせることもなく、目的の鍵のコーナーに一目散に向かった。

やはり自転車に直接つけるタイプの鍵のほうがいいのか・・・でも鍵をなくすと使えないっていうのもちょっと不安なんだよなぁ。

ナンバー式のワイヤーロックにしたのも、ナンバーさえ覚えていれば鍵を持ち歩かなくて済むし、最悪忘れたところでワイヤーを切ってしまえば乗れるのだから、という理由だった。

もちろんそれが今回盗難にあった原因であったのだが。


選ぶのに時間を取ってしまったのがいけなかったのか、私以外に客がおらずヒマをしていた店員が私の横に来た。

「鍵をお探しなんですか?」

話しかけられてしまった。できれば会話せずに店を出たかったのに。

「あ、はぁ・・・」

気のない返事をして、私は店員の顔を見ず鍵コーナーから視線を外さなかった。

「最近は盗難も多いですからね~この辺でもよくあるって聞きますし。

1番いいのは二重ロックですよ、これとこれをどちらも付けておくんです」

そういって、自転車に直接つけるタイプとU字になった鍵を棚から外して私に見せた。

よくみると、どちらもナンバータイプだ。これなら大丈夫かもしれない。

というよりも、これ以上店員と会話をしたくなかったので

「じゃ、じゃあそれを・・・」とだけ伝えた。

店員はこれ以上ないというくらい満面の営業スマイルで

「はい!ありがとうございます!」

と鍵2つを握りしめてレジに向かう。

これでしばらく盗難にあうことはないだろう。少しほっとした。

「自転車は持ってこられておられますか?お取り付け作業もいたしましょうか?」

この自転車ショップはいつものスーパーのすぐ側だったため、もちろん自転車に乗ってきている。

「あ、はい・・・」

自分では『自転車は持ってきている』というニュアンスで「はい」と言ったつもりで、鍵は帰ってから自分で取り付けるつもり(どうせ時間はある)だったが、必要以上の言葉を発しなかったため

「かしこまりました!どちらの自転車ですか?すぐにお取り付けいたしますね!」

と、取り付けまでお願いする形で伝わってしまった。

今更訂正するのもめんどくさいし、『自分でやります』なんて言ってあれこれ言われるのも嫌だと思ったので、もうこれはお願いしておこうと訂正することを諦めた。


鍵をつけ終わるまで10分ほどお待ちくださいね、と男性店員がレジ横の作業場で取り付け作業をはじめた。私はその間とてもヒマである。

お座りくださいと出された椅子におとなしく座ったものの、落ち着かない。

タバコでも吸っていればこの時間に外に出て一服でもできたんだろうが、私はタバコを吸わない。

店に並んでいるたくさんの自転車があるが、買い替えを考えていない私にはまったく無用のものたちだし、自転車カゴやタイヤの類なども必要がないので見たいとも思わない。

そわそわとしてるのもみっともないので、とりあえず外を眺める。やっぱり天気が悪い。

外に出る前よりも灰色が暗くなっているので、今日はきっと雨は降るに違いない。でもできることなら家に帰ってから降り始めてほしい。

せっかく外に出たのなら、ついでにスーパーで買い物をして帰ろうかな。でも昨日いろいろ買い込んでしまったから、特に必要なものはないな・・・

そんなことを考えていたら、店員の作業が終わった。

10分くらいお待ち下さいと言われた割に、5分ほどで作業は完了していた。

「お待たせしました。使い方を簡単に説明しておきますね」

そういって店員は丁寧に鍵のかけ方を教えてくれた。

自転車を受け取った私は早くここから離れたくて、すぐに家に向かってこぎはじめた。



玄関についてから「そういえばついでにスーパーに寄ろうとか思ってたんだっけ」と思い出したが、特に用事があったわけでもないのでそれ以上気にしないことにした。

靴を脱ごうとかがんだとき、ドアの郵便受けに何か入っているのが見えた。

「なんだろ?」

白い紙が半分に折ってあり、中に何か書いてある。


”お訪ねしましたがご不在でしたのでメモを残していきます。

 貴女の自転車らしき自転車を道端で見つけましたので

 マンションの駐輪場に置いておきました。

 鍵がありませんでしたので、お早めに取り付けされることをおすすめします。”


昨日訪ねてきた人が入れてくれたのであろう手紙には、名前が書いていなかった。

彼女は怖くなった。

自転車が返ってきたことは確かに嬉しかったのだが、あの自転車が私のものだと知っている人がいたということが怖かった。

それに、名前がないことも気持ち悪かった。

せめて知っている名前でも書かれていれば幾分安心もしたのだろうが、自分のことを知っている人が誰なのかもわからないなんて。

私があの自転車に乗っているところを、いったい誰が見ていたのだろう。

彼女は一気に自分が誰かにずっと見られているような錯覚に陥った。

実際はそんなことはないんだろうけれど、それくらい彼女には恐怖だったのだ。

無意識にドアの鍵を内側からかけた。

また彼女の嫌いな”カチャン”という音が響いた。

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