丑子

第1話

カーテンから差し込む朝日。


彼女はまだ夢の中にいながら無理やり現実に引き戻される。

体内時計とはよくいったもので、朝日を浴びることで身体は勝手に目覚めてしまうが、彼女の脳はまだまだ眠っていたかった。

なんだか楽しそうな夢を見ていた気もするが、目を開けてしまった瞬間にすっかり忘れている。だいたい楽しい夢や心地よかった夢に限って毎回覚えてはおらず、むしろ気分が悪くなるような夢だけは目が覚めても鮮明に覚えている。


ぼんやりとした頭を無理やり起き上がらせ、服を着替える。

このあと特にどこに出かけるというわけでもないので、いつも着ているTシャツにスウェットのズボン。まだ30代の女性としては完全に「女を棄てている」格好であろうが、そんなことは彼女にとってはどうでもよかった。

身だしなみを整えるためのドレッサーの前で髪は梳かしたが、化粧品の類はもう何年も引き出しから出していない。

長い髪を後ろでひとつに束ね、朝食を作るためにキッチンに向かう。

カウンターキッチンからリモコンでテレビを点けると、朝のニュースキャスターが昨晩あったらしい殺人事件を報じている。

コーヒーを淹れながらトーストをセットし、コンロで目玉焼きを焼く。

ああ、そろそろ卵を買いにいかなければ。牛乳も切れそうだから一緒に買い足しておこう。

そんなことを考えているとトースターからパンが飛び出る。

コーヒーをマグカップに移し、焼き上がった目玉焼きとトーストを持ってテーブルに移動すると、テレビでは先日できたばかりだというアミューズメント施設の特集をやっている。


外は春らしい気持ちのいい天気だったが、彼女の心のなかはここ数年晴れたことはない。

こんな食べて寝るだけの生活をもう何年過ごしてきたのだろう。

この生活をいつまで続けるのだろうかと何度も疑問に思ったが、彼女の思考がそれ以上前に進むことはなく、また寝て起きる。

本当ならこんないい天気なら「どこかに出かけようかしら」なんて考えて、ちょっとおめかしして外出でもするのかな。

でもそういったことを考えることすらめんどくさい。

頭の中で服を選んでバッグを出してきて、化粧をして靴を選んでドアを開けるあたりまで想像して、彼女の思考は考えることをやめた。考えただけで満足したのだ。

ふと想像から戻ってきた彼女はやはりテーブルでTシャツにスウェットでトーストにかじりついている。


「今日は何をしようかな」


思ってもいないことを口に出してつぶやていみた。

それを聞いている人なんて周りには誰もいないけど、わざと口に出した。



そうこうしているうちに朝食を食べ終え、椅子の上で大きく伸びをしてみた。

別に身体が固まっているほど椅子に座っていたわけでもないけど、なんとなくわざと伸びをしたら背中が攣りそうになった。

「こんなところで動けなくなったら」と咄嗟に考え、あわてて体勢を戻して大きく溜息をつく。

ふっとベランダの外を見る。やっぱりいい天気だ。

とりあえず乾く時間帯のうちに洗濯をしなきゃ、と腰をあげて洗濯機にむかう。

とはいえ洗濯物なんて大した量はない。一人暮らしだから何人分も服があるわけでもないし、彼女が着る服は大抵Tシャツとスウェットだし、毎日洗濯しているので洗濯物が溜まらない。

昨日着たTシャツとスウェット、下着とバスタオルを洗濯機に放り込み、洗剤を入れてスイッチを押す。

ここまでほんの5分くらい。あとは洗濯機がピーピーと洗濯完了を告げるまでまた時間があいてしまった。次は何をしよう。


なんとなく向かったリビングで「掃除をしよう」と思い立ち、掃除機を持ってくる。

部屋には物が溢れていることもない。一人暮らしで趣味も特になく、買い物にもほとんど出ない彼女の部屋はがらんとしたものだし、それに毎日掃除しているので散らかることがない。

洗面所でいつもの雑巾を濡らして絞り、見えている家具から順番に拭いていく。

これも毎日やっているので別に埃が積もっているということもないが、やはり毎日生活はしているのでちらほらとほこりが乗っている。

慣れた手つきで雑巾がけを終えると掃除機をかける。これもまた特に大きなゴミが落ちていることもないが、上から落とした埃を吸い取る程度だ。

「どうせ時間はあるんだし」と、リビングが終わったらキッチン、寝室を同じように掃除していく。

キッチンはさすがに料理をしているだけあって他の部屋よりは少し汚れてはいるが、それでもやはり毎日掃除をしているので大した時間はかからない。

寝室では布団のシーツをはいで洗濯カゴに入れた。これも毎日やっていることだ。

最後に玄関を少し掃除して、彼女は掃除機を仕舞った。


ここまでやって時計を見た。時間はまだ11時だった。

つけっぱなしにしていたテレビではテレビショッピングをやっているが、ほしいと思える商品は今まで見たことがない。

少し休憩しようとリビングの椅子に座ってぼーっとする。こんな時にいつも考え事をするのだ。



またこうやって一日が過ぎていく。

この後昼食を食べて、やることもなくなんとなく昼寝をしたら夕方になっていて、仕方なく買い物に行き夕飯を作って食べて、風呂に入って寝るのだ。

そんな生活は考えなくてもわかりきっている。誰でもやっているといえばそうなんだけど、私にはそれ以外がない。

何のためにご飯を食べるの?何のために寝るの?何のために起きるの?

そうやって過ごす毎日にいったい何の意味があるの?

どうして私は生きているの?

そうして思考は止まる。私だってバカじゃない。考えたって仕方ないことだってわかっているから。

じゃあ死ねばいいのにって思ったことだってもちろんある。実際に死のうとしたことだってある。

でもそうしなかったのは、その後を考えたときに「自分が死んでも世界は何一つ変わらない」ということがわかっていたからだった。

私が死んだところで、朝日はまた登ってくるし、世界の人々はまた同じように生活をしているだけだし、私がいなくなったことで誰に何の影響もない。

生きていても死んでいても結果が同じなら、わざわざ死んでやることもない。どうせ生きていても生き物はいつか死ぬ。

それが私の考えた結果だった。

そう、それに何の意味が見つかっていなくても。



一通り思考が巡ったところでふと現実に戻り、時計を見るとそろそろ12時になるところだったので、彼女はまたキッチンに向かい昼食を作ることにした。

どうせ時間があるのだからちょっと手の込んだものでも作ってみようと思ったが、それはほんの一瞬のことで結局は卵と鶏肉のストックとタマネギを使ってかんたんに親子丼を作っただけだった。

さてこれで完全に卵を使いきってしまった。ここまで切羽詰まった状況にならないと「買い物に行かなきゃ」と思えないからむしろ好都合であった。

食べ終わったら買い物に行こう。外に出るのは何日ぶりだったかな。

こないだ買い物に行ったときはトイレットペーパーがなくなった時だったから3日前か。

別に外に出なくても生きていく上で必要なモノさえ揃っていれば生きていける。

彼女がそう悟ったのはたぶん10年前。そこからずっと一人でこのマンションの一室に篭っている。

篭もり始めるまでは、彼女も他の人たちと変わらない普通の社会生活を送っていたはずだったが、10年という年季が入ってくるともうそれまでどうやって過ごしていたのかすら思い出せない。


昼食を食べ終えたあとのそのそと着替えをし、鍵と財布だけ入った小さなバッグを手に持つとサンダルを履き彼女はドアを開けた。

温かい日差しと少しむっとする外気が一気に部屋に入り込んできたが、彼女はそれに向かっていくように少し眉間にしわを寄せながら一息で外に出る。

後ろ手でドアを閉めると鍵を閉める。”カチャン”という音がマンションの吹き抜けによく響き渡る。彼女はこの音が嫌いだった。


部屋が一階でよかった。上階だとエレベーターに乗らないといけないし、そうなると他の住民と顔を合わせる機会ができてしまう。めんどくさい。

自転車置場まで脇目もふらずに小走りに走りぬけ、ロックを解除して古びたママチャリにまたがる。

記憶が確かならまだ彼女が高校生のときに買ってもらった自転車だ。少し距離のある高校に通うことになったときに両親が買ってくれたもののはずだ。

自転車に直接つける鍵はもう数年前に壊れてしまい、それからはナンバー式のワイヤーロックで施錠しているが、今まで盗難にあったことはない。

きっとこんな古い自転車誰も欲しいと思わないんだろうな。部品だけ盗って捨てるにしてもサビもかなりあるし、ぱっと見てまず乗りたいと思わないだろう。

そんな安堵感から特に防犯登録などもしなかったが、彼女の思惑通り盗られることはなかったのだから、結果オーライというやつか。


目的のスーパーについて自転車を停め、あらかじめメモをしてきた買い物リストを出して目的のものを物色する。

卵と牛乳と・・・醤油も買っておこうかな、まだあるけどいくらあっても使うものだし、切れてからまた買いに来るのがめんどくさい。それにあって困るものでもなし。

醤油を買うなら砂糖もついでに買っておこう。

買い物リストのものはすでに買い物カゴに全部入っていたが、「また買い物にくる」というわずらわしさをなるべく解消させておくために思いついたものをカゴに買い足していく。

レジに並ぼうと見ると、いつもは3レーン開けているのに今日は2レーンしか開いていない。奥のレジはずっとこのスーパーで働いているベテランのパートの女性、手前のレジは見たことのない若い女性。手前のレジでは今バーコードを通されている人の後ろに3人並んでいて、奥のレジは4人並んでいた。

彼女は少し様子を眺め、他の人に並ばれるまえに奥のレジに並んだ。

こういうときに主婦の技が光るというのか、慣れが感覚を研ぎ澄まさせたというのか、レジの人の能力と並んでいる人たちのカゴの中身を見てどちらが早く進みそうかわかるのだ。

案の定ベテランのレジはスムーズに進み、手前のレジの3人目に待っていた人がバーコード読み取りを始められる前に彼女はレジを済ませることができた。

ちょっとだけ彼女は得意げになった。これくらいのことが何の自慢にもならないってことも、この少々の時間が人生に影響を及ぼすなんていうこともないってこともわかっているんだけど。


ささっとレジ袋に買ったものを入れた彼女は「早く家に帰りたい」と入り口に出ていたたいやき屋の屋台には目もくれず自転車置き場へ向かう。

・・・自転車がない。

いつも同じような場所(出口に近く、買い物が終わったらすぐ乗れる位置)に置いていて、今日も間違いなく同じところに置いたはずだ。

彼女は軽くパニックになった。頭の中では瞬時に「どうしよう自転車がなかったら買い物行くのめんどくさいじゃない。それに買い換えるってなったら自転車屋さんにも行かなきゃだし、その分余計なお金を使わなきゃいけない。自転車があるからと思って醤油やお砂糖の重いものも買ったのに歩いて帰らなきゃいけないの?」などと考えた。

盗難にあったのならまずは警察に、というのがセオリーだろう。

しかし彼女は警察には行かずそのままため息をつきながら徒歩で帰路についた。

もう古いからと防犯登録もしていなかったため、警察に行って番号を聞かれても答えられないのも情けないと思ったし、番号がなければ警察も探しようがない(見つかっても彼女のものだとわからない)と彼女はわかっていた。

盗難なんて犯罪なんだし、盗った犯人が悪いのは明白なのだが、100円で買った安いワイヤーロック程度ではなんとかしたら切れてしまうような物だったわけで、自分の怠慢が生んだ結果だったから泣き寝入りするしかない。

それに何より、たとえ警察といえども他人と話をすることが嫌だった。

自宅から自転車で5分くらいの距離にあるスーパーだったから徒歩でも15分もあれば帰れるが、道中の彼女の心境では1時間くらい歩いたような感覚になった。



重い足を引きずってようやく家についた彼女は鍵を出してドアを開け、靴を脱いで買ってきたものをすべて所定の位置に片付けるとソファに倒れこんだ。

疲れた。

買い物袋が重かったからじゃない。自転車を盗られたからじゃない。久しぶりに外に出たからじゃない。

全部に疲れていた。

他人に介さずずっと一人で家に篭っている彼女にとって、外の世界に関わること全てが疲れて思えた。もちろん外の空気さえ。

もう何もしたくない。・・・とはいってもご飯を食べる以外に特に何もすることはないんだけど。

今日一日くらい夕飯抜いても平気か。

ふと時計を見ると14時を少し回ったところだった。買い物に出掛けて帰ってきても2時間も経っていなかったのに、もう一日分以上のエネルギーを使った気がする。

とりあえず寝よう。何も考えるのをやめよう。

そのままソファで何もかけずに彼女は眠ってしまった。


ふと目が覚めた。はっと時計を見ると19時になっていた。

最初に頭をよぎったのは「洗濯物を干すのを忘れていた」だった。

失敗した。確かに疲れて眠ってしまったのは覚えていたが、洗濯物を干してから出かけるはずが干す前に出かけてしまっていたのだ。

今更慌てても仕方ないのはわかっているが、洗濯機に向かって脱水が終わったまま放置されている洗濯物を取り出す。

このまま干しても数時間ほったらかしになっていた洗濯物は乾いても生臭い匂いがするのだが、どうせそれを嗅ぐのは自分一人しかいない。

もう一度この少ない量を洗濯機で回す手間と時間と洗剤や水道代を考えると、そのまま干すという選択肢で落ち着いた彼女は洗濯物を持ってベランダに向かった。

春でよかった。まだ外は温かい。今から干したら明日の朝には乾いているだろう。

ハンガーにTシャツをかけ、物干し竿に引っ掛けた時「ピンポーン」とチャイムが鳴った。

びくっとした。

私の家に訪ねてくる人なんていない。宅配便だって物を配送してもらうよう頼む買い物などはしないし、家賃だって水道代だってガス代だって全部振り込みにしている。

だとしたら勧誘の類?だったら居留守でいいな。

そう決め込み洗濯物の続きをしようとしたら「こんばんわー伊藤さん?」という男性の声とドンドンとドアを叩く音がした。

最近の勧誘はいろいろと手口が豊富だとテレビで見た。これは下手に居ることを知らせてしまうとめんどくさくなるに違いない。

そこまで考えてはっと気づいた。部屋の電気がついているので在宅がばれてしまうではないか。

このマンションは一部屋だけ通路側に面した部屋に小窓があり、中に灯りがついていたら外からみてわかる。

かといって今すぐ電気を消したところで、ついていた電気が消えるということは中に人がいるということを確信させてしまうだけである。

彼女が思いつく対策としては、今以上生活音をさせないことだけだった。

ベランダで身動きひとつせず、息を殺して玄関の前から人の気配が消えるまでじっとした。


しばらくして諦めて帰ったのか、ドアの前から人の気配が消えた。

まだ外にいるかもしれないので足音をさせないようにそっと玄関まで近づき、ドアスコープから外を見た。誰もいないようだ。

ほっとため息をついた。

人が訪ねて来られること自体久しぶりだったこともあり、何年かぶりにドキドキした。

だいたい店員さん以外に必要以上の会話をするようなことすらここ何年もない。

いったいさっきの人は何の用だったんだろう。宗教の勧誘にしては少し時間帯が遅い気がするが、仕事帰りじゃないと在宅していない人などを考えるとこんな時間帯に勧誘したほうが確率が上がるようになったんだろうか?

どのみち彼女には用事がないことには明らかだったので、それ以上考えるのはやめにした。

そしてそれと同時に、なんで他人が関わるだけでこんなに過敏になってしまったのかと自分を情けなく思う彼女がいた。

こういうのを「引き篭もり」って言うんだろうな。何も親がいる子供が部屋から出てこないっていうことだけを「引き篭もり」と言うわけじゃないと思う。私だって立派な引き篭もりだわ。

彼女はくすっと自嘲した。

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