無題
@cocce
第0話 プロローグ
男は、死を誰よりも恐れていた。人の前では、自分が死ぬなどと考えてもいないような飄々とした態度をとっている男は、その実、誰よりも己の死を恐怖していた。不老不死やあの世、死後世界について夢想した。しかし、男は死後の世界など信じてはいなかった。死ねば己は消え去り何も残らぬと真暗だとか何もないと感じる意識が消滅してしまうと思っていた。故に男は死後世界の存在を誰よりも願っていたし、誰よりもその存在を信じていなかった。だから男は震えて、生という儚いものにすがるしかなかった。平凡な日常において縮こまるしかなかった。
こんな男にも恋人、大切に思う人や夢だってあった。しかし、それらも時折揺らいでしまう。その揺らぎによって綻んだ男の心には死の恐怖が流れ込んでくる。その度に男は、
『死にたくない、死にたくない』と怯えた。
そんな男の願望とは裏腹に時は過ぎていく、刻一刻と進んでいく。男には、時が男を憐れむように、男を苦しめるように過ぎていくようにしか感じることができなかった。永久に続くようであっという間に過ぎていく時に抗うことなど、ただ怯える男には出来はしなかった。
男は、老い衰えた。もはや死は目前へと近づいていた。その死の足音が聞こえても男はただ怯えるだけしかできなかった。そして男の最後の瞬間が訪れた。その刹那、男はこの世が生者の監獄であるように感じられた。全ての生者はこの監獄に囚われた囚人であるとそう思った。そして、死はその囚人である我々に対する唯一の刑であるのだと思った。自ら死ぬもの、生をおうかし死を望むもの、自らのように死を恐れるものその他全てのものに与えられる刑なのだと。この刑から逃れるすべはおそらくないだろう。ああ、なんと無情なことか、平等なことか、理不尽なことか。許せぬ赦せぬ。しかし、もはや男には何もすることはできない。ただ死を受け入れるしか、刑の執行を受けるしかないのだから。男は最後に願った「願わくばこの牢獄から抜けれるように」と。そのすべは、この己自身を滅することのみと思いながら。
男の意識は、消えなかった。途切れたと思った次の瞬間には暗い世界を漂っていた。男は、死後の世界があったことに歓喜した反面、恐怖した。その世界で男は、ただ存在するしかなかったからだ。何もないこの空間において、男は意識のみを与えられた。それは、どんな拷問よりも残酷なものであった。どれほどの時間がたったのか、それ以前に時間というものが存在しているのか、確かに存在しているのは思考するこの意識だけであった。男の感情は徐々に薄れていき、男はまた縮こまるしかなかった。
ある時、突然に空間が動き出した。男は、どれほど時間が過ぎようとも変わらなかったこの空間の変化に恐怖よりも喜びを覚えた。狂いそうであったこの拷問から開放されるのだから。そこで、また男の意識は飛んだ。
男が次に目を覚ましたのは、白い世界だった。男はそこで、肉体の存在を感じた。苦しみを感じた。
なにやら音が聞こえる。大気を感じ、何かの感触を感じる。そこで男には感情の起伏が徐々に蘇ってきた。あの真暗な空間の中で消えかけた感情が再び蘇ってくることが感じられた。それは、大きな波となって一気に押し寄せ男にはそのコントローはできなかった。
「おぎゃあああああああああああああ!!」
感情の波は、男の口から叫びとして発せられた。この感情を発する言葉を男は持ち合わせていなかったし、例え持ちあわせていようとも叫んでいただろう。ひとしきり叫ぶと、なにかあたたかいものに包まれ男の意識はまた薄れていった。
目を覚ますと目前に女がいた。女は男を抱きかかえており、その表情には優しさと慈しみがありとても心地よいものだった。ここで、男は自らが赤子になったことを理解した。この女は母なのだろう。
父の気配も感じるが、目前にある母以外には焦点が定まらなかった。いずれ父の顔を拝めるであろうから男はそこで思うのをやめた。そこで、男には心地の良い眠気が再度訪れた。
次に目が覚めるとなにやら男女が語りかけている声が聞こえていた。おそらく母と父であろう。残念ながらなんと言っているか理解することは今の男には不可能であった。しかし、両親の喜びの感情が伝わってきて男はそれに従ってニコニコと笑った。両親にあやされてしばらくするとまた眠りに落ちた。
次に目覚めた時男の周りには誰の気配も感じられなかった。男はそれに耐え切れず泣いた。しばらくして女が来て、男を抱きかかえあやしてくれた。男はそれで安心した。お腹も空いたので女に母乳をもらい眠りについた。そこでなにやら、男は記憶が薄くなっているような気がしたが男の思考は強烈な眠気によって途切れた。そこに不安は感じられず、むしろ安心感を感じていた。
それから数年の時が過ぎ男の記憶は、薄れおぼろげになった。まるでデータを初期化しているようであり本来の男ならば恐怖するはずであるのに、そこにはなぜかやすらぎがあった。男の記憶は完全にここで埋没した。これが、本当の第二の生またはN回目の生の物語の始まりである。結局男は、生の牢獄へとまた繋がれることとなった。しかし、この今生は男の男だった者達の願いが叶う唯一のものとなる……。
無題 @cocce
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