第12話
朝、ラインがいつもの時間に起きて来ると、台所で箒を動かしている巧実がいた。
「おはよう巧実。どうしたの?」
「ん、ああ、おはよう。ちょっとカップを落としてな」
巧実の足もとには、巧実が良く使っているマグカップの残骸が広がっていた。それを箒で集め、塵取りで取っていく。その表情はどこか暗かった。
「あらら、それお気に入りって言ってなかったかしら?」
「そうなんだよな。まあ、特に深い思い出がある訳でもないから買えばいいんだけど、小学生の時から使ってたやつだから、なんとなく愛着があったんだが。突然手の部分が割れたってことは、それだけ疲労してたんだろう」
塵取りで取った破片をゴミ袋に入れながら、巧実は小さくため息を吐いた。
「まあそう言うことなら仕方がないじゃない。今度新しいのでも探しましょうよ」
「そうだな。何だ、付き合ってくれるのか?」
「小物探しなら女の子にお任せよ。明日は土曜で休日だし、由美とかも誘って行かない?」
「良いけどそれだと俺が邪魔にならないか?」
由美の性癖を思い出しながら、巧実がにやにやと笑う。由美もラインから誘われれば飛んでくるだろうが、巧実が一緒だと顔には出さずとも残念に思うはずだからだ。
「由美と二人はちょっと……」
自分の妹の事を紹介して欲しいと詰め寄って来た時の、由美の真剣な目を思い出しながら、ラインは苦笑いを返す。
「あとは裕也とか彩音も誘ってみるか。来週からテスト週間に入るし、しばらくは遊べなくなるだろうからな」
「ああ、そう言えばそんなこと言ってたわね」
「ラインは勉強大丈夫なのか? 魔法は出来ても他がダメって、風の噂で聞こえてくるが」
「うっ……」
巧実の問いにラインが言葉を詰まらせる。その沈黙が全てを物語っていた。
「勉強会が必要だな」
にこやかに言う巧実に、座学の苦手なラインは何とか抵抗を試みる。
「ほら、私は今最終試験中だから……中間試験とかは二の次でいいんじゃないかしら?」
額にはうっすらと冷や汗を浮かばせながら、何とか笑顔を作って言うライン。しかし、巧実はその笑顔を消すために、残酷な現実を突きつける。
「最終試験受けるだけの能力があるなら、こっちの中間テストぐらい楽勝だろ? 一流企業に就職しても、高校生の問題も解けないような頭じゃ、すぐに追い出されるぞ?」
「くっ……痛いところを」
「まあ、明日遊んで発散したら、明後日からは頑張るんだな。俺も教えてやるから」
「うぅぅ、お願いします」
「素直でよろしい」
とぼとぼとリビングに戻っていくラインの背中を見て、巧実は途中だった朝食と弁当の準備に戻った。
◇
登校途中、ラインと歩きながら、巧実はラインの試験の事を考えていた。
「俺達がテスト期間に入っちまうと、ラインはもっと厳しくなるな。まあ、それはアーチも同じだろうけど」
テスト期間に入ってしまえば、部活は中止され、生徒たちは早いうちから帰宅してしまう。巧実は部活に入ってはいないためさほど影響は出ないが、テスト範囲の具体的は発表があれば、その後はそこを重点的に勉強するため部屋に篭りがちになってしまうのだ。
そうすると、そもそもイベントを起こすことが出来なくなってしまう。
ある意味、日曜日に行う予定の勉強会がラストチャンスになってしまうのだ。
「そうなのよね。なるべく日常自体は邪魔したくないから、ここらで一つビシッと決めてやりたいんだけど」
「特に何も案が無いと」
「そうなのよね。なんで巧実ってモテないの?」
「それは喧嘩を売っているのか?」
計画の破談後、ラインは巧実に気があり良そうな女子を片っ端から探している。クラス内に収めていたところを、隣のクラスも調べるようにし、さらには学年の壁すら超えて調べているのにもかかわらず、イマイチいい反応は帰ってこないのだ。
部活などをやっていれば、自然と後輩と触れ合う機会も増えるが、巧実は部活をやっていないためにそれも無い。かといって委員会なども日宮学園ではあまり活発でないため、接点が薄い。
そうなると、巧実に思いを寄せるどころか、その存在を知っている人すらかなり限られてくるのだ。
成績は良いので、校内の成績ランキングで時々名前が上がり、名前だけは知っているという人は多いが、その素顔は知らない。ある意味、存在感の薄い人物として立場が確立されていた。
「もうちょっとこう、前に出て皆を引っ張ろうとか思わないわけ?」
「ありえない。俺は後ろから準備したりする方が好きだ」
舞台では役者よりも、その後ろの木や村人の役。むしろ大道具や舞台設営なんかを担当したいと思う性分の巧実には、ラインの言葉は考えられないものだ。
「はぁ。もう少し巧実が目立つ子だったらなー」
「留学初日は大分目立ったけどな」
「あれをもう一度引き起こしたいのよね。そうすれば何か変わりそうな気がする」
「正式に転校でもしてくるのか?」
留学生が留学中に正式な転校に変われば、それはそれで盛り上がるだろう。それは一過性な物に過ぎないが、魔女試験中のことだけなのだから、それでもいいのかもしれない。
しかし、その意見は、ラインが首を横に振った。
「さすがにそれは難しいわ。時間が無さすぎるのよ。明日から休みに入っちゃうし、そうなると転校に出来たとしてももうテスト期間」
「最大の敵は時間だな」
「そうなのよねー」
どうしたものかとラインが頭を悩ませようとした時、不意に魔力の動きを感じた。
それは間違いなく魔法が発動された時に感じるものだ。
ラインはとっさに周囲を見回す。そして何に魔法が掛けられている可能性があるかを判別していく。
道路に車の影は無く、怪しい人物もいない。空は澄み渡っていて、はるか上空に飛行機雲がある程度。人は学生がほとんどで、僅かなサラリーマンと、門の前で水まきをしている腰が九十度に曲がったお婆さんが一人。
「魔法、どこに!?」
突然きょろきょろと回りを見始めるラインに、巧実が首を傾げながら問いかける。
「突然どうしたんだ?」
「魔法の発動を感じたわ。アーチが何か仕掛けてきたのかも」
「マジか!?」
ラインの言葉を聞いて、巧実も同じように見回す。そしてその直後、巧実の顔いっぱいに冷たい物が掛けられた。
「うぷっ!?」
「巧実!?」
別の方向を向いていたラインが、その声に驚いて振り返る。そこには頭からびしょ濡れになった巧実の姿があった。
「おや、すまんねぇ」
巧実の少し先には、先ほどから道路に水をまいていたお婆さんの姿がある。そしてそのお婆さんが持っているバケツの中身は空になっていた。つまり――
「つめてぇ」
「く……防げなかった」
悔しそうに唇を噛むライン。巧実に水を掛けたお婆さんは、なぜか特に気にした様子も無く家の中に戻って行ってしまった。そして周りの学生やサラリーマンも当たり前のように通り過ぎていく。
「これはあれか? 水を掛けられるのと、誰も気にしない感じの魔法かなんかか?」
「そうね。魔法に掛けられていると分かってるから、巧実もお婆さんに強くは言えない。ずいぶん悪質ね」
「悪質だがちっさいな。なんだかいじめをくらってる気分だ」
べっとりと張り付いた髪を手で掻き上げ、ブレザーの制服を脱ぐ。
ブレザーにはずいぶんと水が掛かっているが、中のシャツはそれほど濡れてはいなかった。
「とりあえず学校行くか」
「ほら、ハンカチ。髪ぐらい拭きなさいよ」
「サンキュー」
巧実は歩きながらラインから受け取ったハンカチを使い、顔と髪を拭いていった。
◇
何となく乾いた髪をいじりながら学校に到着する。グラウンドを横切って校舎に入ろうとした時、遠くから「危ない!」と言う声が聞こえてくる。
巧実がふとそちらを見れば、その視線のやや上の方向から、まっすぐに到来する白い球体。それは間違いなく野球ボールだ。
アーチは巧実に怪我をさせることは無いと言っていた。だから、この場から動かなければ何かしらの方法で現在直撃コースにある野球ボールは軌道を変えるか、誰かに受け止められるはずだ。しかし、目の前に迫ってくるボールを見てしまうと、アーチの言葉を信じ切ることが出来なかった。
巧実はとっさに受け止めることを選択する。しかし素手で受け止めるには少々危険なスピードだ。
「巧実!」
ラインの声が巧実の耳に聞こえる。ラインとボールはちょうど巧実を挟んで反対側にいるため、何もすることが出来なかった。
ボスンッと思い音がして、ボールが巧実の腹部へと吸い込まれる。
巧実はその場で、くの字に折れ曲がって座り込んだ。
「巧実、大丈夫!?」
ラインが心配そうに巧実に声を掛ける。周りで見ていた登校途中の生徒たちも、不安そうに巧実を見ていた。
野球部員が急いで駆け寄ってくる。
「すみません! 大丈夫ですか!?」
「見て分からないの! 大丈夫なわけ……」
ラインが巧実の代わりに声を荒げようとした時、そのラインの肩に巧実の手が乗せられた。それを感じてラインがとっさに巧実を見る。
「俺は大丈夫だ」
巧実は平然と立ち上がった。その光景に、ラインも周りの生徒も野球部員も驚いて硬直する。
確かに直撃したはずなのだ。しかもかなりのスピードで。なのに大丈夫と平然と立ち上がれることは、理解を超えていた。
「ほ、本当に大丈夫なの?」
「おう、もちろんだ。ほいこれ、気をつけろよ。俺じゃなかったら危なかったぞ」
巧実は野球部員にボールを渡し、何事も無かったかのように再び歩き出す。
野球部員はポカンとしたままボールを受け取ったが、すぐに深々と頭を下げて戻っていく。ラインは巧実の後を追いかけるように歩き出した。
「どうやったのよ!? あんな速度のボールを受け止めるなんて。手で受け止めても、良いところ打撲よ?」
「こいつだよ」
ラインの疑問に、巧実は自分の鞄を指差しながら答える。
「とっさに鞄で受け止めたんだ。テスト前で教科書詰め込んでたからな。かなり重い音がしたが、衝撃は全部吸収してくれた」
ラインがその鞄を見れば、側面には縫い目まで見えるほどくっきりとボールの跡が付いていた。そしてもし直撃していればとゾッとする。
「良くとっさに思いついたわね」
「まあ、親父からの指導で衝撃を受けることは多かったからな。受け流したり、受け止める方法は自然と身に着いちまってた。今回はラインがいたから避けられなかったしな」
ボールが飛んできたとき、もし巧実が避けていればラインに直撃していた可能性もあったのだ。
「そこはありがとうって言っておくわ。けど私も魔女だし、それぐらいなら簡単に対処出来るわ。今度は躊躇わずに避けちゃって大丈夫よ」
「そう言えばラインって魔女見習いだったな。魔法使わないからすっかり忘れてた」
ラインが巧実の前で使った魔法らしい魔法と言えば、出会った当日の空を飛ぶ魔法ぐらいなのだ。それ以降は、裏からこっそりと魔法を掛けたり、手品程度の魔法だったりとイマイチパッとしない魔法ばかりだった。そのため、巧実はラインが魔女であることをすっかり忘れていたのだ。
「失礼ね! 今だってバリバリ試験中よ!」
「そうだな。試験頑張れよ。応援程度ならしとくから」
「お願いだから少しは協力的になってよ……」
相変わらずのスタンスを保つ巧実に、ラインはがっくりと肩を落とした。
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