第6話

 翌日。巧実は一人で朝の通学路を歩いていた。ラインが朝から書置きを残して先に出かけていたからだ。

 何でも出来るだけ多くの部活を見学するため、朝練から色々な所を回るらしい。言ってくれれば自分も付き合ったのにと思いながら、巧実は通学路を歩く。すると、前方に委員長、水瀬由美の姿を見つけた。

 由美は、何やら手元を見ながら歩いている。

 本でも読んでいるのだろうかと思いながら、少し歩くペースを速め由美に近づいた。

 そして声を掛けようとした時、突然静かな住宅街にクラクションが鳴り響く。

 とっさにそちらを振り向くと、民家の壁に車体をぶつけながら、乗用車が二人に向かって滑ってきていた。

 車が来ていることにすぐに気付いた巧実には、避ける余裕があった。だが、手元に集中していた由美は、ワンテンポ遅れる。

 このままでは轢かれる。そう感じた巧実は、とっさに由美へと手を伸ばしていた。


「委員長!」

「え! なに!? きゃっ!」


 巧実はとっさに水瀬を引き寄せ、抱きしめるようにしながら、横っ飛びで道路側へと倒れ込む。その足の数センチ先を車のタイヤが通り過ぎ、少し先の電柱に激突してようやく停車した。。

 突然の出来事に、見ていた周りの生徒やサラリーマンも固まっている。

 車から運転手が降りて来る様子はなく、ボンネットからは白い煙が登っていた。


「痛てて……委員長、大丈夫か?」

「わ、私は大丈夫。巧実君は!?」

「俺も大丈夫だ」


 起き上った巧実と水瀬は、自分に怪我が無い事を確かめて、自分たちを襲った車を見る。

 ちょうど、近くにいた大人たちが、運転手を車から引っ張り出しているところだ。電柱に激突したせいか、意識が無くぐったりとしている。


「とりあえず、警察と救急車だな」


 周りの人達が電話をかけていないことに気付き、巧実は携帯を取り出す。日頃から、父親に色々と言われているせいか、事故の時にどうすればいいかがすぐに分かった。


「あと、学校にも連絡したほうがいいんじゃない?」

「おっと、そうだな。一応当事者になっちゃったし、事情とか聞かれるのか。じゃあ、委員長は学校に連絡してもらっていいか?」

「分かった」


 それぞれに携帯から連絡し、事情を説明して到着を待つ。


「にしても危なかったな」

「あの、長瀬君ありがとう。長瀬君が助けてくれなかったら、私怪我じゃすまなかったかもしれない」


 乗用車が突っ込んだ電柱が、かなり折れ曲がっているのを見て、今更ながら由美は自身が死にかけたことに恐怖し体が震える。


「どういたしまして。つっても、とっさに体が動いただけだし。それより怪我、本当に大丈夫?」

「うん。長瀬君がかばってくれたから」


 水瀬は顔を赤らめながら、言葉を返す。


「そっか。なら良かった。もし怪我でもされてたら、俺が親父に殺されかねないからな」

「そんな、どうして?」


 巧実の言葉に水瀬が驚く。水瀬は学校でたびたび交通指導に来る巧実の父親を見ていた。その時の印象はとてもそのようなことをする人物には見えなかったのだ。


「親父なら目の前にいる女の子を助けれないとか、生きる価値無いだろって言うからな」


 その様子がありありと想像できて、背筋をブルッとさせる。


「そ、そうなんだ……でもありがとう。私、突然クラクションが鳴って、驚いて全く動けなかったから」

「やっぱりそうだったか。と、言うかなんで委員長が親父の事知ってるんだ?」

「なんでって、私も小学校と中学校、長瀬君と同じだよ? 一緒のクラスになったこともあるし、長瀬君のお父さんの交通指導も受けてたし」

「え? マジ!?」


 今のクラスメイトで、長瀬の父親が警官だと言うことを知らない者は少ない。しかし、性格まで知っている者は少ない。父の性格を知っている者は、小学校か中学校が長瀬と同じなのだ。


「知らなかったの?」


 水瀬から巧実へ、冷たい視線が飛ぶ。巧実はその頃から勉強に重点を置いてきた。しかも遊ぶのは大抵が男友達だったため、女子のクラスメイトなどほとんど覚えていなかったのだ。


「まったく覚えてなかった……」

「はぁ……だから私の事、委員長としか呼ばなかったんだ。昔は名前で呼んでくれてたのに」

「そうだっけ?」

「うん。小学校の時だけどね。私も巧実君って呼んでたけど、なんか私だけ巧実君って呼ぶのも変かなって思って苗字呼びに変えたんだ」

「じゃあ今からでも由美って呼ぶか」

「じゃあ私も巧実君に戻すね。何だか懐かしい響き」


 由美がそう言ってクスクスと笑う。

 そして二人は、つい先ほど起こった事故のことなどすっかり忘れ、小学生のころの思い出話に花を咲かせるのだった。

 その影から、黒いマントととんがり帽子を着けた人物が覗いているのも気付かずに。


   ◇


 警察から簡単な事情聴取を受け、学校に行く途中で怪我もなかったからと、病院での検査は断った。

 それでも学校へ着いたのは、すでに一時間目が終わり休憩になったころになってしまった。


「無遅刻無欠席だったんだけどなぁ」


 ちょっと残念そうにする由美に、巧実は苦笑する。


「これは学校も見逃しててくれるんじゃないか? 俺たちが事故を起こしたわけでもないんだし」

「そうなんだけどね。けどちゃんと達成できなかったのは残念かなって」

「真面目だねぇ」


 廊下を進み教室へと入ると、クラスの視線が一斉に巧実たちに集まる。そしてすぐさま、ラインが駆け寄って来た。


「二人とも、事故にあったって聞いたけど、大丈夫だったの!?」


 心配そうに巧実の体をぺたぺたと触るが、特に怪我などが無いことに気付いて、ホッと息を吐く。


「もう、心配させないでよ」

「んなこと言われても、突っ込んでくる相手が悪い」

「巧実君、ラインさんは心配してくれたんだから」

「由美ちゃんはいい子ねぇ! なでなでしてあげるわ!」

「ちょっとラインちゃん!?」


 抱きしめながら頭を撫でるラインに、動揺を隠せない由美。その豊満な胸に顔を埋もれさせ顔を真っ赤にしながらもがいている。

 それを見た男子の中に数人が、席に座ったのは言うまでもない。


「とりあえず二人とも何ともなさそうで安心したわ。先生ったら、事故にあったから遅れるとしか言ってくれないんだもの! 酷いと思わない!?」

「先生も詳しいことを知らなかったんだろう。一応由美が大丈夫だって伝えてたけど、念のために病院に行く可能性もあったしな」


 直接引かれてはいないとはいえ、事故にあったのだから検査をする可能性もあったのだ。目立った怪我もなかったため、断ることが出来たが擦り傷でもあれば二人は今頃病院にいただろう。


「ほら、そろそろ由美を離してやれ。フラフラになってきてんぞ」


 由美は、ラインの胸に何度も揉まれ、最初赤かった顔を徐々に青白くしながらフラフラになっている。


「あら、ごめんなさい」

「い……いえ」


 ラインの胸から解放された由美は、大きく深呼吸しながら呼吸を整える。


「そう言えば、巧実も由美のこと名前で呼ぶようにしたのね」

「ん? まあ、昔に戻った感じだな」


 そう言って巧実が由美の方を見る。すると由美は恥ずかしそうにうっすらと頬を赤くしながら、俯いた状態で小さくうなずいた。


「昔、巧実君と一緒のクラスだったんだ。それで久しぶりに懐かしい話しが出来たの」

「そうだったの。巧実の過去って――何も無さそうよね」


 ニシシと笑いながら、ラインが流し目を送る。


「当たり前だ。普通の小学生以上の経験何ぞしない」

「警察の息子なんだから、殺人事件に出会っても良いと思うんだけどね」

「そんな物騒な事件、この町じゃなかなか起きないよ」


 休憩もそろそろ終わりそうな時間となり、巧実は二人から離れて自分の机へと向かう。そこで鞄を降ろし、ようやく息を吐いた。

 ラインが大げさに心配したおかげか、他のクラスメイトたちもおおよその事情を把握し、落ち着きを取り戻している。

 まさかラインがそれを狙っての行動だったとは思えないが、何となく気になってラインを見るが、ラインは由美や他の女子たちと何やら楽しそうに話していた。

 そこに、裕也と彩音がやってくる。


「おう巧実。なかなかかっこいいところ見せたらしいじゃねぇか」

「そんなんじゃないさ。とっさに体が動いただけだ」

「そんなことないと思うよ? 普通、轢かれそうになったらとっさに他人までかばてられないと思うし。私だったら、その場から動けなくなっちゃいそう」

「そうなったら俺が助けるさ。当然だろ?」

「裕也くん」

「彩音」

「お前ら、ラブコメやんなら、自分たちの席でやってくんね?」


 朝からのトラブルで疲れているのに、目の前でお熱い空間を展開されてはたまらないと、巧実は即座に水を差す。

 彩音は顔を真っ赤に染め、裕也は「悪い悪い」と簡単に流した。


「しかし、これで巧実も一躍有名人だな。他のクラスでも噂になってるぞ」

「噂って?」


 巧実が首を傾げると、彩音が裕也の言葉を繋ぐようにして説明してくれた。


「えっとね、登校中に通学路で事故があって、男の子が勇敢にも女の子を庇って轢かれたっていう噂」

「轢かれてないんだけど……」


 轢かれそうになったのは事実だが、実際には轢かれずに済んでいる。しかし、現場を見ていた生徒の一人が、巧実が女子生徒を庇って轢かれたと勘違いしたのだ。そして急いで学校に駆けつけその事を説明した。

 もちろん教師達は由美からの電話ですぐに事情を確認して、噂が嘘であることは把握している。そうでなければ、今頃巧実たちは教室ではなく職員室に呼び出されているはずだ。しかし、生徒たちには、その話が徹底されていない。そのため教師に知らせた生徒の噂がそのまま流れてしまったのだ。


「まあ、そう言う噂が流れてるだけだしな。先生たちが説明すれば誤解は解けるだろうよ。けど、お前が委員長を助けたのは事実なわけだな」

「まあそうだな。成り行きだったが」

「それでも凄いよ。やっぱりおじさんに鍛えられてるだけはあるね」

「あれは鍛えるじゃなくて虐待だろ……」


 巧実の父親の折檻を知っている二人は、ため息を吐く巧実に苦笑していた。

 やがてチャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。


「お前ら席に着け。授業始めるぞ」


 先生が来たことで、ラインと委員長も解放され、各々の席に着く。それを見て、教師は巧実の方を振り向いた。

 その視線を受けて巧実は首を傾げる。


「巧実。お前職員室でかなり有名になったぞ」


 にやにやとしながらそう言う教師。その言葉で教師の言いたいことはだいたい察した。


「何かご褒美でも貰えるんですかね?」

「どうだろうな。一部からはそんな声も出てるぞ」


 それを聞いた他の生徒たちがざわざわとし出す。しかし、次の言葉でそのざわつきは落胆に変わった。


「まあ、貰えたとしても学校がくれる物なんて、お前ら学生にはどうでもいいもんだろうけどな」

「それを教師が言っていいんですか……」


 生徒全員を代表するように巧実が言えば、教師は笑いながら事実だからなと返す。そしていつも通りの授業が始まった。

 そして終わり際。


「三時間目の歴史、加藤先生から世界地図を準備しておくように言われてる。委員長準備頼むぞ」


 教師は思い出したかのように委員長に雑用を申し付ける。


「あ、はい。分かりました」


 委員長が了承すると、まるで最初からそうすると決めていたかのように教師の視線が巧実へと向かう。


「巧実。委員長助けたついでに準備も手伝ってやれ」


 生徒たちがクスクスと笑い、由美は顔を真っ赤にして俯いてしまう。


「はいはい」


 巧実はそれを軽く受け流し、手だけ振っておいた。


   ◇


 二時間目の終了後、二人は言われた通り、世界地図を準備するために資料室に来ていた。

 世界地図は三脚に吊るすタイプの大きなもので、地図自体は資料室の棚の上に巻かれて置かれていた。委員長は元々その場所を知っていたようで、すぐに脚立を準備する。


「巧実君は三脚探しといてくれる? そこら辺の隅にあると思うから」

「了解」


 言われた通り、棚の隅を探せば、布に包まれたそれはすぐに見つかった。


「由美、こっちは見つかったぞ」

「うー!」


 よく分からない返事が返ってきたため、由美を見れば、脚立の上で背伸びをしている由美の姿があった。しかも、巧実は脚立を持つためしゃがんでいる。それはまるで、ラインとの出会いの再生だった。


「うわっ」


 ラインの時と違い、とっさに顔を下げる巧実。痴女には厳しいが、一般人に対しては普通の態度を取るのだ。しかしそれが不味かった。

 巧実の声に反応した由美が、地図を取るのをいったん止めて下を振り返る。


「巧実君どうしたの?」

「い、いや、なんでも……」


 顔を背け、適当に言い放つ巧実に違和感を覚え、由美は改めて自分の姿を考える。

 そしてすぐに、その理由に気が付いた。

 そして由美は、脚立の上ということも忘れ即座にスカートを押さえる。それはもはや反射レベルの動きだった。しかしバランスの悪いその場所で、その行動は明らかな間違いだった。案の定、由美はバランスを崩してゆらりと背中側へ倒れていく。


「あっ、きゃっ!」

「由美!」


 由美の姿をちらちらと見ていた巧実の行動は早かった。

 バランスを崩し、脚立から落ちてくる由美の下に急いで滑り込む。

 ガシャンと大きな音を立てながら脚立が倒れ、棚の上に溜まっていた埃が舞い上がった。


「痛てて、由美大丈夫か?」

「う、うん……ありがとう」


 巧実はギリギリで由美の下に滑り込み、下敷きになることで由美が怪我するのを防いだ。しかし、由美を受け止めた際に、軽く頭を打ったのか、視界が若干ふわふわとしている。

 由美はすぐに起き上がると、後頭部を押さえる巧実を見て、慌てて近づいてくる。


「だ、大丈夫!? 頭ぶつけたの!?」


 由美は慌てながら、巧実が抑えていた手を退けると、そこを念入りに確認する。怪我などは無く、血が出ている様子もない。後で多少腫れるかもしれない程度のものだ。

 それにホッとする由美だが、逆に巧実は顔が熱くなっていた。


「だ、大丈夫だから」


 由美は怪我を確認するのに夢中で、二人の顔が目と鼻の先にあることに気付いていない。

 巧実は、ふわりと漂ってくる女の子の香に、思わず由美を押しのけた。


「なんか今日は助けられてばっかりだね」

「今のは俺が悪い。悪かった」

「ううん、私が巧実君に三脚を探すように言ったんだし、私のミスだよ」


 いや俺が私がと責任の奪い合いをしてしばらく。お互いが沈黙したところで、どちらかともなくプッと吹き出した。


「ハハ、もういいや。どっちも悪かったってことで」

「うん、そうしておこうか」

「じゃあ俺が地図取るから、脚立押さえといてくれよ」

「分かった。気を付けてね」

「大丈夫。俺はスカートじゃないからな」

「もう」


 若干恥ずかしがる由美をよそに、倒れた脚立を起き上がらせてその上に上る巧実。

 地図は棚の上、若干奥まった所にあった。

 それを、バランスを崩さないようにゆっくりと引き出していく。すると棚の上に積もっていた埃がパラパラと落ちてきて、軽くむせる。


「だ、大丈夫?」


 自分が落ちたことを考え、心配する由美。それに巧実は大丈夫と答え、一気に地図を引き出しにかかる。


「由美、埃が落ちると思うから、少し息を止めといてくれ」

「あ、わかった」


 由美が指示に従って息を止める。それと同時に巧実は地図を引き出した。

 予想通り大量の埃が舞い上がり、二人に掛かる。そんな中巧実は地図をしっかりとつかみ、ゆっくりと脚立を降りた。


「ふぅ。これでいいんだよな?」

「うん、これだと思う」


 地図の確認の意味も込めて、巧実は巻かれた地図を一度開いてみる。そこにはしっかりとヨーロッパを中心とした世界地図が描かれていた。


「物としても問題ないみたいだね」

「埃被ってたから、虫に食われててもおかしくないと思ったんだけどな」


 地図は若干日光で色あせていたが、虫食いの跡などは見つからなかった。

 二人はそれを持って資料室から出る。そこにはなぜかラインがいた。


「どうしたんだ? こんなところで」

「どうしたもこうしたも、御手洗いにいたら凄い音が聞こえたから見に来たのよ」

「そうだったんですか。すみません私が脚立から落ちちゃって」


 由美の説明に、ラインが顔を青くさせる。


「え!? ちょっと! 大丈夫だったの? ってこれ言うの二回目じゃない?」

「はい、また巧実君に助けてもらっちゃいました」


 由美は恥ずかしそう共嬉しそうとも取れる笑顔をする。それを見て、ラインは一安心したのかホッと息を吐くと、巧実を見た。


「まるで王子様ね」

「バカ言え、今回は俺にも原因があったからな。まあ、最終的にはおあいこってことになったが」


 巧実の発言に、由美もうなずいた。


「あら、その話あとで詳しく聞かせてもらおうかしら」


 二人の反応に何やら楽しそうな匂いのする話しだと、ラインは巧実と由美を交互に見る。

 その視線を由美は困ったように笑みを浮かべて受け流し、巧実は平然と無視する。


「そろそろ行かないと授業始まるぞ」

「あら、もうそんな時間?」

「じゃあ行きましょうか」


 巧実が地図を持ち、由美が三脚を持って資料室を出る。鍵をかけて開かないのを確認し、三人は教室に戻った。

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