五、嶺南珠璣巷

 小春日和の昼下がり、短めの黒髪をあえて衆目にさらし、胡妃は臨安から脱出した。子を抱いた香苗と若党がひとりつき従うだけの軽微な旅立ちである。中秋節満月のころの豪快な海潮の逆流―海嘯かいしょうもおさまり、殺到した見物客が散じたあとの銭塘江せんとうこうみなとから黄貯萬の回船に搭乗した。運河伝いに長江へ出、鄱陽湖はようこをぬけて贛江かんこうをさかのぼるのである。

 穏やかな日がつづき、水量もじゅうぶんだったので、船曳ふなひきにひかれた回船はなにごともなく贛州にいたった。ここで支流が細くなる。小船に乗り移り、さらに南下する。大余県からは徒歩かちでゆく。行く手に立ちはだかる大庾嶺を越えれば目的地の南雄にたどりつける。

 ほぼ一ヶ月の行程である。大庾嶺は江西と広東を分ける五嶺山脈の最東端に位置する。いわば贛粤かんえつ(江西・広東)両省をまたぐ天然の障壁で、長江水系と珠江水系の分水嶺でもある。

 唐朝玄宗の時代、宰相張九齢が大庾嶺の難所である梅嶺を切り開き、梅関古道を築いていらい南北の交通が活発化した。陸のシルクロードの異名さえある。

 贛粤の境に関楼が古道をまたいで聳え立っている。アーチ型の門、拱門きょうもんである。楼面の北側に「南粤雄関」、南側に「嶺南第一関」と文言が刻まれるのは明代からであり、この時代にはまだない。「梅関」二文字の石碑が、分水嶺であることを明示するのみである。

 北宋末、蘇東坡そとうばが大庾嶺を越えている。梅関で作った詩に『贈嶺上梅』(嶺上の梅に贈る)の一首がある。


  梅花開尽百花開   梅花開きつくせば百花開く

  過尽行人君不来   行人こうじんりつくすに君来たらず

  不趁青梅嘗煮酒   青梅をおうて煮酒を嘗めず

  要看細雨熟黄梅   もし細雨を看れば黄梅熟す


 寒冬の臘月ろうげつ(陰暦十二月、新暦の一、二月)、梅関古道は満開の梅花で満たされる。梅花は紅梅・白梅・青梅・黄梅、さまざまな色をつける。

 大庾嶺の南方二十五キロさきに珠璣巷しゅきこうがある。珠璣巷からさらに十五キロ南に下ると南雄の県城につく。それぞれ一日、半日の道のりとみてよい。満開の梅花にはまだ早いが、芳しい芽を吹きはじめるころ、胡妃の一行は関楼をくぐり、梅関古道を下った。

 一行の面上に安堵の色が浮かぶ。

「ごくろうでした。ようやくおくつろぎいただけますぞ」

 黄貯萬が胡妃の耳元で苦労をねぎらった。

 胡妃は黙ってかぶりを振ってうなずいた。肉体的疲労もあるが、環境変化がもたらす精神的葛藤にさいなまれ、ことばを忘れたかのように、道中ほとんど口を開かなかった。かわって香苗が礼をいった。

「道中無事に、ここまで来られました。すべて、貯萬さまのおかげです。口にこそ出しませんが、胡妃さまも心そこ感謝しておいでです」

 香苗は籠にいれた赤子を背負っている。胡妃の数層倍は疲れていようが、気丈にも笑顔を絶やさない。いつもにこやかに、それでいてつねに周囲の気配に耳を澄まし、細心の注意を怠りない。その笠となり、楯となっているのが若党の黄準平である。みずからも荷をかつぎながら、ときに香苗にかわり赤子を抱くこともある。まだ若い。十九の胡妃をいくつか上回っているていどの若さである。

 ほとんどむずからない赤子であるが、香苗ですら手にあまる荒れ方をすることがある。乳を求めて泣くのである。か細い胡妃は道中の疲れもあり、ほとんど乳が出ない。途方にくれ、いまにも零れんばかりに涙をためた胡妃から赤子を奪い、準平が巧みにあやすと赤子は泣き止む。そのひまに香苗は近在を駆けまわり、乳を集めるのである。

「あやつ、どこで覚えたか」

 父親の黄貯萬ですら舌を巻く、隠し技である。

 もともと父にしたがって回漕の仕事をしていたが、胡妃をひとめ見て南遷の郎党を買って出た。赤子を伴っての長旅である。香苗ひとりではいかにも荷が重い。母子の身の回りの世話だけで手一杯で、身辺警護に隙がでる。

 商賈の子弟ながら黄準平には武術の心得がある。科挙の学問を嫌い、中途で放棄し武挙に転向した。武挙の郷試まで合格しているから武芸十八般には通じている。警護の隙間を埋めるに不足ないていどの修行はしている。

 嶺の急坂がゆるやかな坂になるあたりで、十人の道士が合流した。羅浮山の道士である。みな一様に錫杖しゃくじょうを手にしている。

「一真どのの手のものか」

 準平が尋ねると、なかのひとりが答えた。

「われらは尊師とお呼びしておる。尊師より、胡妃さまに合力いたせとの仰せで参上した。珠江ほとりまでお供つかまつる。わしは羅衛らえいじゃ。羅浮山で修行しておる」

 四十がらみのがっしりしたからだつきである。武人といったほうが似つかわしい。

「羅貴どののご一族か」

「伯父甥のあいだ柄だ。もっとも伯父といっても歳はそう離れておらぬが」

 率直なものいいである。準平は好感をもった。

「おれは商賈の倅だ。商いは知っていても、まだ武術の実戦を知らん。いくさ場での心得を教えてもらいたい」

「われらとて道士である。経文をそらんじ医薬を練るのが仕事で、武術は余技にすぎん」

 そういいながらも、羅衛は土を打って錫杖を鳴らし、その音に準平が気を取られた隙を狙って背後に回った。一瞬のことである。杖のさきが準平の首に触れている。

「音に気を取られ、背後から衝かれたらなんとする。なまじ武術をたよりにするから、さそいの虚偽に惑う。肩肘が張り、血行が滞るから、思考がにぶる。つねに平常心じゃ。五官をつねに平常に保ち、外界の異常にたいし冷静であれ。相手の動きに惑わされず、平常心でことにあたれ」

 呆然としている準平の右横に、さりげなく香苗が近寄り、武器を手渡した。

「準平さま、音には音を、まやかしにはまやかしでございます」

 球状にこねた小型の爆竹と発煙筒である。黒色火薬を混入してあり、衝撃で起動するから、相手めがけて投げつけるだけでよい。しかし羅衛はひと目で見破った。

「これはおそれいった。われらと同じ武器を持つとは、そなたも羅浮山ゆかりのものか」

「すべて一真さま手ずからのお教えにございます」

「ならばわれらは兄妹きょうだい弟子になる。準平どのは師姐あねでしと敬って師事されるがよい」

 それまで武術めいたことはおくびにも出さずにきた香苗にたいし、羅衛はかなりの手練れと見てとった。準平はまたしても、己が未熟さを痛感させられたことである。


 一行は日没まえに珠璣巷の入り口についた。牌楼はいろうの手前で里長の羅貴らが出迎えた。牌楼とは、通りの入り口に建てられた鳥居形の門(牌坊)に屋根が ついたものをいう。

 珠璣巷というこの古い街なみの発祥は唐代にさかのぼる。もとの名を敬宗巷といい、張昌の一族がこの地に祠堂を設け、先祖を祀ること七代におよんだ。その孝心がときの皇帝敬宗の知るところとなり、尊名をいただいた。のちに敬宗のいみなを避け、珠璣の名を賜ったのが命名のゆかりである。珠璣とは宝石のことで、丸いのを珠といい、それ以外を璣という。通りの長さは1500メートルで、幅五メートル。大きな通りではない。舗道には、いわゆる玉石であるが、水流にもまれ角がとれて円形になった鵞卵石が敷き詰めてある。

 道の両側に先祖の霊を祭った祠堂しどうがならんでいる。姓氏の異なる二十余軒の祠堂である。


 胡妃母子は黄貯萬の屋敷に招かれた。珠璣巷を囲むようにして田畑が広がっており、その広がりのなかに牛田坊五十八の村落が点在している。珠璣巷は居民九十七戸の珠璣そんの一部であり、村の一角に貯萬の屋敷がある。珠璣村は珠璣ともいい習わされている。

 さすがに緊張を解いた香苗が胡妃に付き添っている。香苗のかわりに緊張で金縛りにあったような顔つきの準平が背後に控えている。道士らはいつの間にか姿を消していた。

「里長の羅貴にございます。身命を賭して、胡妃さまをお守り致します」

 羅貴が名乗り出た。羅貴は牛田坊全体の里長であり、南遷者の守護を一身に負っている。

「胡妃でございます。もはや皇妃ではありませぬゆえ、胡菊珍とお呼びください」

 胡妃がみずから口頭で挨拶した。道中ではみせなかった威厳が備わっていた。

「この子ともども命を預けます。くれぐれもよろしくお願いいたします。つきましては、この子にはまだ名をつけておりませぬ。どうぞよき名をつけてやっていただけませぬか」

 羅貴は黄貯萬と顔を見合わせた。子の出自については聞かされていなかったが、皇子こうしではないかと推測していた。度宗の皇子にはすでに趙けん(頁とる)・趙・趙へい(丙の上に日)がいる。いずれものちの恭帝・端宗・帝昞である。母は違ってもそれに次ぐ皇子となる。 

 その場の即答ではいかにも安直すぎる。ひと晩おいて、いくの一字をあてた。 趙姓ははばかられるので胡姓を用い、胡昱と命名した。

 胡妃は香苗と手をとりあって喜び、交互に昱の名を呼んだ。

 準平は胡昱さま、胡昱さまと腹のなかでなんども叫び、「生涯かけてお守りいたします」と、おのれに強くいい聞かせていた。


 翌日から胡妃と香苗の入植生活がはじまった。黄貯萬が、所有する田の一部を分け与えたのである。実際にふたりが鋤くわを手にすることはなかったが、小作農が耕す田のかたわらにたたずみ、子をあやしながら農耕を見守る胡妃と香苗は、臨安のみやこを懐かしむ未練はかき消え、これから行く未知の大地に思いをはせていた。道中、倒れんばかりに葛藤し、過去と決別した胡妃には、もはや迷いも不安もなくなっていた。ときおり、ふと胡妃の口から歌が流れ出る余裕さえあった。変哲のない田園に、新たな希望を見出そうとするかのようだった。胡妃は嶺南の大地になじみはじめていた。

 準平に妹がいた。小梅シァオメイという。胡妃にかわらぬ痩せぎすの背格好で歳はひとつ下になる。父や兄にかわって母子の世話を焼いた。髪型をまね、揃いの衣装に身を包むと姉妹かと見紛うほど似て見えた。「梅姫さま」といって準平がからかった。

「おそれ多いことです。そのじつ雲と泥の差異があります」

 天と地の違いがあると、細い身をいっそう縮こめ兄をにらんだ。そのしぐさがおかしいと、見ていた胡妃が声に出して笑った。宮中では「はしたない」とされる笑声しょうせいである。

 ときに胡昱の熱が下がらず、途方にくれる胡妃にたいし香苗が励ました。

「どうしようもないときは遠慮せずにお泣きなさい。泣いているあいだに知恵が出ます」

 香苗には子を生み育てた経験がある。母の強さを知っている。

 数ヶ月が過ぎた。胡昱をはさんで三人の女が心を寄せ合った。花を摘み、鳥や蝶を追った。種をまき、草を抜いた。田に水を引き、苗を植えた。

 胡妃にはすべてが、はじめての経験だった。

 虚飾にみちた生活を捨てて、素のじぶんに出会った。人の豊かな本音に触れ、じぶんの心根の貧しさを思い知らされた。子を産み、育てる過程で、人の情けを全身に浴びた。

 胡妃の心に、ようやく変化がきざしていた。

 かたくなに閉じていた心の扉を、少しずつ開きはじめたのである。頬に赤みがさし、自然の笑顔が浮かんだ。じぶんの思いで、ことばが口をついで出た。

 稲を刈るころには、胡妃は巧まずして村人のなかに融けいっていた。


 宋代、南雄州は経済文化が勃興し、「嶺南第一州」と謳われ繁栄した。いまの広東韶関しょうかんの東、江西との省境にそびえる大庾嶺の南麓に位置する南雄市の前身である。

 華北は北方異民族の台頭で、南に移動する漢人があとを絶たなかった。戦乱を逃れた官吏や商人が一族をひきつれ、中原や江南から大挙して南下したのである。

 かれらは優れた文化と知識、さらに技術を伴った労働力と豊富な資金を携えて大庾嶺を越え、まず南雄に移住した。水利に恵まれた南雄で農田の開墾が進むにつれ、人々は、そこからさほど遠くない南に豊穣の大地のあることを知った。いまでいう珠江三角州である。

 南雄は南遷の終着地ではない。北方から大庾嶺をこえて南遷してきた人々が、嶺南で最初に仮寓する移民の中継地という表現が適切であろう。

 多くの人々はこの南雄を足がかりとしてさらに南下する。いまの湞江から北江に入り、北江沿いに川を下ると、西江に出る。この西江の下流域が珠江である。北江・西江さらに東江をあわせ珠江水系と総称する。本支流の総延長一万一千キロ、長江・黄河につぐ中国第三の大河であり、その下流域に位置する嶺南最大の沖積平野が、珠江三角州である。

 代表的な城市・県鎮には、いまの地名で広州・南海・中山・順徳・番禺ばんぐう・新会・東莞とうかんなどがあげられる。北宋から元初にかけての二百年間に百三十余回に分けて、南雄からの南遷を受け入れた地といわれている。

 かかわりの由来でいえば、これらの地域に珠璣の名が残されているのである。新会に、かつて珠璣里と呼ばれる小さな通りがあった。広州に珠璣路、東莞に珠璣街、南海の九江に珠璣岡があり、広西の平南県にも珠璣街があった。

 珠璣巷歴代の集団南遷は、難民の逃避行ではない。各氏族とも一定の労力と資金を備えている。いってみれば生産力の大移動である。地方政府が直々に許可した地域ぐるみの大移住といいかえてもいい。

 各々の氏族が各自の家譜族譜のなかで、胡妃が災難を逃れ、それぞれの寄留地にたどりついた旨をいまに伝えている。

 たとえば、かく氏は南海に、そん氏は東莞の沙頭に、氏は香山(中山)の小榄しょうらんに、ろう氏は広州に、氏は広州から恩平に、しゅう氏は新会に、てい氏は古岡州に、せん氏は南海の扶南堡に、こう氏は南海の亨田郷に、氏は東州江口に、けん氏は連江水口に、ばく氏は広州に、氏は連州に、氏は高明・羅定・新会・南海・番禺に、それぞれの氏族が胡妃ともどもたどり着き、定着した足跡を伝えているのである。

 有力な氏族の名は、これに留まらない。こう氏は南海に、よう氏は新会に、しゅ氏は南海九江に、りゅう氏は香山・東莞・増城に、かん氏は南海九江に、ちん氏は南海・順徳・新会・香山・東莞その他に、氏は高要東南禄羅都の羅村(いまの禄村)に、名を残している。

 そのすべてに胡妃が関わっていたとは考えにくいが、南遷の過程で、なんらかの繋がりがあったことまでも否定する必要はない。それぞれの家譜族譜に伝え残すだけのえにしが、諸氏の心のうちにあったのだろう。南遷の象徴として、胡妃と珠璣巷は嶺南の歴史に、深く刻み込まれているのである。


 いにしえより嶺南は、南蛮煙瘴えんしょうの地として恐れられていた。山中や湿地に悪性のガスがただよい、いまでいうマラリアなど不治の熱病をおこすと誇大に喧伝されていた。宋代の書物に、鰐・象・虎など猛獣の棲息が記録されている。土地こそ広いが野生の猛獣がわがもの顔に闊歩する人跡まれな未開の蛮地と、北方ではイメージされていた。

 そのじつ百越の原住民は外来の漢族との交流に慣れており、排他的でない。秦の始皇帝が派兵した五十万の大軍が五嶺を越えていらい千年、漢越融合の歴史が実証している。南遷移民を受入れるにじゅうぶんな風土と環境があった。ことに広州は南海貿易の拠点として大いに栄えていた。外国商船が頻繁に来航し、中国船も遠洋に乗り出していた。広州は、海陸あわせたシルクロードの発着拠点といわれるまでに発展していたのである。


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