四、流転の王妃

 豪雨が胡妃こひの事件をもたらした。

 在位四十年で亡くなった理宗をついだ皇帝度宗たくそうが、咸淳八年(一二七二)、明堂で祭祀を催した。南宋朝廷の文武百官が出席する盛大な儀式である。進行自体に問題はなかった。

 ただ折からの大雨が、ときがたつにつれさらに激しさをくわえ、式典終了後も皇帝は太廟で足止めを食わされた。天子の乗る大きな玉輅ぎょくろ(御所車)では、豪雨のなか身動きが取れなかったのである。

「ならば、小較子こうし輿こし)に替えればよい」

 こらえ性のない度宗に深い考えはない。思いつきで発するひとことが周囲を翻弄する愚に気づかない。しかし、皇帝の発言は重い。

 典故の有無を調べたのが宮内帯器械乃職(車両係)胡顕祖、すなわち胡妃の父である。

「典例がございます。先々代寧宗の御世、やはり大雨で難儀したため、小較子にお乗換えあそばしました」

「師相に意見を問え」

 皇帝みずから宰相賈似道かじどうを師父として尊んでいる。

 ただし尊称とはうらはらに、短時間につづけて二度目の下問である。

 さきの下問では、早く出立したいが方法はないかと下手に探っている。ところが、

「止むまでお待ちいただくのがよい」

 と、賈似道はにべもない返事である。皇帝ひとり移動してすむはなしではない。ことは全体におよぶ。大雨を冒してまでむりに出立する必要はないと、暗にがまんを諭している。

「御意のままに(かってにされよ)」

 再度問われて賈似道は、不快感を隠さなかった。目を瞑ったまま鸚鵡返しにいった。

 豪雨のなか、度宗の乗る小較子は和寧門へ向かった。全身ずぶぬれの胡顕祖は必死の形相で先導している。居並ぶ百官は驚きのあまり声もない。

 ――これだけで、ことはすまぬぞ。

 訳知りの朋輩が胡顕祖の身を案じて、ひそかに思いやっていた。

 度宗一行が和寧門に入るのを待って、賈似道の使者が宰相辞任の意向を口頭で告げた。

「祭祀の取り仕切り責任者として重大な過失があり、陛下の御心に添えなかったことは万死に値する。請う陛下、臣の職を解き、田園に放たれたし」

 おのが進言を虚仮こけにされたことへの怒りが、ことばのうちにほとばしっている。

 口上を伝え聞いた度宗はたちまち顔面蒼白となり、わなわなと震えだした。

「たれかある。とめよ、宰相を引きとめよ。いまやめられては、国がなりたたぬ」

 モンゴルの南下を目前にして、老練な賈似道以外にだれが朝廷をとりしきれるというのか。非力な度宗は手も足も出ない。平謝りで慰留につとめた。

 罪を問われたのは胡顕祖である。職を解かれ、蟄居中に自害した。ついで貴妃の胡妃が宮廷を逐われ、尼寺に移された。父の罪に連座したのである。剃髪し、仏門に入る。

 思いもかけぬ展開に度宗はうろたえ、せめて胡妃に累がおよばぬよう、賈似道に再考をうながした。しかし職を賭すとまで不退転の決意を見せられては、なすすべがない。やむなく詔を下し、胡妃を手放した。

 もともと度宗は前帝理宗の弟の子、甥である。皇嗣を決めるにさいし、積極的に推したのが賈似道だったから弱みがある。さらに度宗が二十六歳で皇位についたとき賈似道は五十三歳、年齢差も大きい。煙たいというより、はなから勝負にならない関係といっていい。

 かく、皇帝ですら意のままにならぬ賈似道である。百官はいても諌言するものはいない。

 それが――、

「おかしいではないか。陛下の思し召しにしたがって誠心誠意つとめたものが罪を得るなど、あってはならぬことだ。ましてや胡妃さまになんのとががあるか」

 異を唱えるものがでたのである。

 進士の首席合格者を状元というが、事件の前年に行われた科挙の状元張鎮孫ちょうちんそんが、真っ向から賈似道に盾ついたとの噂がたった。

 張鎮孫は受験時三十二歳、南海(いまの佛山順徳)生まれで広州に居住する嶺南人である。ちなみに五嶺の南を嶺南というが、張鎮孫は宋代、嶺南籍で唯一の状元である。よほど珍しかったものか、当時住いのあった一角が「状元坊」として、いまに伝えられている。

 ちなみに五嶺とは江西・湖南と広東カントン広西カンシーを南北に分かつ五つの嶺、西から東に越城嶺えつじょうれい都龐嶺とほうれい萌渚嶺ほうしょれい騎田嶺きでんれい大嶺庾だいゆれいの総称である。嶺南とひとくくりにすれば、広東・広西・海南を含め、ときにベトナムの中北部をくわえることがある。

 いずれにせよ少し時代をさかのぼれば、嶺南は化外・南蛮・百越で示される未開の地である。そんな嶺南人状元、張鎮孫の発言の噂は、じきに賈似道の耳に届いた。

「世間知らずがなにをほざくか」

 とは、賈似道は思わない。

「ほう、わしに意見するか」

 あまりないことなので、ぎゃくに興味をもった。

「嶺南の出自とはおもしろい。その張鎮孫とやらにうてみたい」

 かえって面謁を求め、半閑亭に張鎮孫を招じ入れたのである。

 地元嶺南で面識のある羅浮山の道士一真が仲介し、伴った。


「おぬし書画のたぐいに嗜みはあるか」

 ベテラン宰相と、新たに登用された進士である。まるで格がちがう。

 緊張でひたいに汗をにじませ、ぎこちなく挨拶する張鎮孫をまえに、賈似道は書画に落とした目をついとあげた。あたかも人なきがごとく、張鎮孫を素通しにして、窓越しに西湖の対岸を見やったのである。美術品を値踏みするときの癖であるが、張鎮孫はじぶんが値踏みされていることに気づいていない。

「高価なものが多く、目にする機会が少のうござりましたゆえ、不調法にございます」

「さもあろう。文化果つる嶺南の地にあって、よくぞここまで精進なされた。で、みやこではなにを望まれる。学問のさらなる研鑽か、はたまた富貴か権勢か。わしが意にしたがい口を慎みおとなしう励めば、栄耀栄華は思いのままじゃが、いかなる存念か」

 科挙は官僚の登用試験である。進士はその最上位に属し、状元ともなれば高位高官に大抜擢される最短立身コースといっていい。それを決める側の頂点に、賈似道はいる。

 ――ぐずぐずいわず、速やかにわれにくみせよ。

 素直に見れば、ときの最高権力者・賈似道の恫喝に違いない。

 新人にたいする自派への露骨な勧誘であり、威嚇であろう。拒めば地方に飛ばされ、出世の道は鎖される。

 曲がりなりにも宋朝が繁栄をつづけている時代なら、それで良かった。しかし、国の存亡が問われているいま、そのような世迷言が、いつまで通用するか。

「――」

 張鎮孫は返事をためらっていた。ときがときだけに、宰相の意図がはかりかねていたのである。


「おぬし蒙古軍団の実力をなんとみる」

 ふいに賈似道は、張鎮孫にはなしを振った。よばれてなんどか半閑亭に通ううち、当初のぎこちなさはほぐれてきている。道士一真と嶺南珠璣しゅきこう里長さとおさ羅貴らきが同座していた。

「元軍は強く、あなどれぬ相手です。かれらの騎馬戦法をもってすれば軍団の移動は迅速で、いつこの臨安へ攻め込んでもおかしくない勢いです。さらに近年の襄陽攻めにおいてしきりに水軍を動かし、水戦の実用に力を入れている由。万にひとつ、船団をもって鄂州がくしゅう(湖北武漢)に集結、長江の流れに沿って艦隊を移動し、水陸同時に臨安を攻撃されては、もはや防御の手立てはございません。いそぎ都城の南遷を考慮すべきかと思われます」

「遷都か、いずこが適当と考えるか」

「やはり、南しかありますまい。福州あるいは泉州。副都に広州を置けば万全です。いずれも外海に通じる大きな港湾なれば、大艦隊をもって不時に備えることができます。陸上で不覚を取っても、海上の決戦で、わが不滅の艦隊が元の水軍に遅れを取ることは、万にひとつもあり得ません」

 かつて中原の開封をすて臨安に遷都した。いままた臨安を南にうつせと張鎮孫はいう。

「わしもむかし、同じことを考えた。しかしいまは、無益と思う。元軍の動きは早い。都を遷し終えるまえに、臨安は攻略されよう。臨安は漢文化の象徴であり、百五十万の民が住む。さればこそ、都を戦場いくさばにしてはならぬのだ。いちにんたりと、臨安の民を殺させてはならぬ」

「なまじ軍をもつから力に頼り、戦にこだわる。頼りにならない弱い軍なら、なくてもよいのではありませぬか」

 賈似道の想念を破ったのは羅貴である。嶺南の入り口ともいうべき珠璣巷の里長を担っている。四十なかばの武張った男だが、実直そうな好印象をあたえる。里長とはいえ武人の血を引き、自身でも武術のたしなみがある。

「水賊野盗のたぐいには、それがしの郎党でことたります。国同士のいさかいは、戦によらずとも折り合いをつけられましょう。都を平穏無事に保つには、諸手もろてを挙げて敵を迎えるにしくはなし。武器に頼ってはなりませぬ。こと嶺南にかぎっていえば、軍なぞの世話にならずとも、活殺自在、人知れず立ちゆかせて見せましょう」

 官に払底した武人の魂が、民にあって息づいている。賈似道は羅貴に微笑んで見せた。

「よういった。嶺南の治安はおぬしに預けよう。向後、珠璣巷をとおり南遷する漢人は増えこそすれけっして減ることはない。南遷の道中、危難はかず知れず、内部のもめごとも少なくなかろう。うまく取り仕切るものが必要だ。またわし亡きあと、嶺南における蒙古いや元との周旋は張鎮孫、おぬしに託することになる。仔細は一真どのがすべてご承知だ」

 賈似道はすでに宋朝の命運を悟り、宰相としてのおのが引際ひきぎわを模索しはじめている。専権横暴と、後世に非難される強引さは影を潜めている。

「一真どの、やがてはおぬしにわれらが臨終を看取ってもらわねばならぬ」

 この時代、道士は思想家であり、医師である。政治家の主治医がブレーンを兼ねて矛盾はない。ことに一真は全真教羅浮道教の道士であり、チンギス・ハーンに敬天愛民戒殺の教えを説いた長春真人の高弟と目されている。賈似道とは宿縁で結ばれている。

「なんの、死なずともおのれを生かす道はあろう。ましてやおぬしは武人ではない。戦で切り死になど似合わぬ。宋は滅んでも、漢の文化は残さねばならぬ。書画美術に造詣の深いおぬしならではの仕事はいくらでもある」

「まさかこの老いぼれが、いまさらどの面下げて生きながらえようか」

 張鎮孫は黙ってふたりのやり取りを聞いていたが要領をえず、賈似道に詰め寄った。

「肝心なことがわかりかねます。手前にもぜひご存念をお明かしくだされ」

 この朴訥さを「好ましきもの」として賈似道は買い、新たな密命を下そうとしている。


 節度使から兵権を奪い軍閥を解体し、皇帝の権限を強めたのは宋朝建国の祖、太祖趙匡胤ちょうきょういんであるが、極端な文官優位体制をとったのは二代目の弟、太宗趙匡義ちょうきょうぎからである。前代の唐末五代十国いらい軍閥の割拠によって国を分裂させたことへの反省が武官の台頭をおさえ、剛直な軍人を政治の表舞台から追いやった。文官の登用には科挙の合格者をあてたので、文弱の受験者が殺到した。ことに高位高官は進士の及第者が占めたから、人はいっそう文に走り、武を顧みなかった。結果、国軍の総司令官も国境警備の守将も文官が担った。

 平時ならまだしも、北方の脅威は深刻さを増している。弱将ひきいる弱卒に国境は守れない。異民族の国境侵犯を許し、大宋国(北宋)は契丹(遼)・女真(金)、そしてモンゴル(元)に侵奪される。西北方のチベット系タングート(西夏)の侵攻もその時代である。

 国土の北半を金、のちにモンゴルに奪われ、中原の経営が漢人の手を離れて久しい。そしていま豊饒の地・江南さえもが、モンゴル人の手に落ちようとしている。ならばこのさき漢人の逃げ場はどこにあるか。

 ――南にしかあるまい。たとえていえば、五嶺の南。

 南宋の崩壊を目前にして賈似道は、南遷する漢人に残された新たな処女地を、嶺南の珠江流域に想定していた。


「戦の気配が強まれば、北から南へ、大勢の人が動く。かれらの穏便な南遷を託したい」

 ようやく張鎮孫にも合点がいった。賈似道が企図する南遷は都ではなく、人だった。

「こたびの嶺南行きにはわしも同行するで、道々語って聞かせよう。ことはおぬしが郷里嶺南にかかわる大事だとのみ、いまは告げておく。戦火を逃れ南遷した人々を蒙古の刃と鉄蹄からいかに守るか。これからおぬしには、大いに働いてもらわねばならぬ。これでもわしは羅浮山の道士じゃ。嶺南のために動くは、わしの使命つとめでもある」

 賈似道にかわって口をはさんだのは一真である。賈似道同様、六十に手がとどく年回りのはずであったが、張鎮孫には一瞬、一真の顔が十歳とお二十歳にじゅうも若やいで見えた。


 勇将呂文徳戦死のあとを受けて奮戦する弟の守将呂文煥は、これまでの荒削りなモンゴル軍とは一線を画する整然とした戦法に、敵の水軍の変貌を実感している。

「大都(北京)を都に定め元朝を建てた世祖フビライは、明らかに中華の一統を狙っている。しかもその狙いは、これまでの一過性の収奪にはなく、長期的な統治をもくろんでいると思料される。だとすれば、いまここ漢水の線で抑えておかねばならない。長江の線まで南下されたら南宋は二分され、防御力も半減する」

 呂文煥は戦況を分析・報告し、賈似道に援軍を要請した。しかし范文虎ひきいる十万の機動部隊が撃退されてのちの賈似道は、だんまりを決め込んだきり動かなかった。いや正確には、動けなかったといっていい。軍糧も兵卒もすでに枯渇していたのである。


 ――モンゴル軍は、なにをためらっている。なぜ一気に攻めてこないのか。

 半閑亭で賈似道は、一真あいてに闘蟋とうしつを楽しむふうをよそおい、フビライが襄陽作戦にこめた意味を読み解こうとしている。

「どうやら元軍は、よほど水上艦隊にこだわりがあるようだ。騎馬攻撃を温存してまで、不慣れな水戦で挑んでいる。こと水戦にかけては南宋に一日の長がある。その南宋にあたかも学ぶかのように、元軍は多様な戦法を試み、時をかけて水軍を育てようとしている」

 ようやく賈似道は、元軍が一気呵成に襄陽を陥さない理由に思い当たった。

「それだけフビライが、南宋の水上艦隊を恐れているということだ。いや評価しているといっていい。フビライの真の狙いは、元軍に機能的な水上艦隊をもたせることにある」

 一真が、賈似道の読みを是認し、補足した。

「フビライは、早くも南宋攻略後の大元帝国の版図と経済運営に思いを凝らしている。世界の北と西は、すでにモンゴルの宗族が抑えている。残るは東と南だ。東は高麗と日本。そして南、南海諸国の制覇こそフビライの思い描く大元帝国の究極の目標だ。そして、それは、軍事による政略を意味しない。従属させずともよい。友好的な通商交易の対象として、各国に門戸を開かせ、自由に通行できる海上の交易路が確立できればよいのだ」


「そもそも南宋攻略は、北・南・西の三方面から南宋を包囲する壮大な作戦だった」

 一真が往時を振り返り、フビライの大構想の一端に触れた。

 この作戦で南に回ったウリャンハタイの軍団は、はじめ北ベトナムの安南に攻め入っている。そこから雲南・貴州・湖南を突破して北上、河北から河南を縦断して南下するフビライ軍団、さらに四川の合州(重慶)から東へ横断する憲宗モンケ・ハーンの本隊と鄂州がくしゅうで合流する手はずだったが、安南は遠すぎた。北上の途中で消息が途絶え、フビライは進退に窮したのである。このときの反省から、フビライは水軍の擁立を急がせた。

 結局、モンケ・ハーンの急死でこの作戦は中止となり、辛くも南宋は生き延びた。

「河川が縦横に交錯する南宋を攻略するには、陸路よりも水路を伝って移動する方が理にかなっている。南海諸国についても島嶼が多いから、内陸から長躯、陸上を南に突き進むよりも、海路遠征した方が効果的に動くことができる。機動性や大量輸送の便からみても、大艦隊の養成を急ぐべきだと、フビライが考えを改めてとうぜんだ。ところが襄陽で五年かけ、人の育成には時間がかかることを、フビライは思い知らされた。ならば海事に通達した専門人士を、集団で加入させようと目をつけたのが日本だった」

 この時代、日本の海人かいじんは操船が巧みで、朝鮮半島はもとより山東・江南へも頻繁に航海し、その技術力と勇猛さで抜群の評価を得ていた。後世、悪名高い「倭寇」が、高麗を襲いはじめる時期にあたる。対馬・壱岐の海人、肥前平戸の松浦まつら党、五島ごとうの宇久水軍、瀬戸内の熊野水軍らが三々五々、徒党を組みだしている。これら水軍は海上権益を保護し、輸送船を護衛するかたわら、ときに不埒な行為におよぶこともあり、警固けご衆・海賊衆ともよばれていたが、瀬戸内海や九州各地の海上交通の要衝に勢威を張った海上武装集団に違いなかった。

 フビライの構想を実現するには、またとない軍団といっていい。

 だから利で誘い、参加させようとフビライがもくろんだのではないかと、一真はいう。

多民族国家のモンゴル帝国に、国や民族の差異にこだわりはない。周辺国を見回したとき、通商艦隊を任せる相手として、まさに日本の海人は申し分ない。友好国として招き、協同して艦隊運営に当たらせたい。フビライは服属する高麗を通じ、三顧の礼をもって日本を誘うべしと、海事要員の招致を急がせた。

 一二五九年、憲宗が亡くなった年、高麗はモンゴルに服属したが、それまでの三十年余、モンゴルによって絶えず攻略されていた。かろうじて持ちこたえてきたのは、海中の孤島・江華島に王都を移し抵抗したからで、海戦ならばモンゴルに負けないという自負心があった。心ならずも抗争に敗れ服属した高麗にしてみれば、日本の誘致は屈辱に思える。日本が応じた場合、じぶんらの立場はなお弱くなる。倭寇ごときの下風に立てるか、の思いは否めない。

 本気で招致を考えれば、日本各地の水軍と個別に打診すべきであったが、しょせん他人事ひとごとにすぎない。高麗は元の委託に応じ、「日本国王」に宛て、一二六五年から一二七三年までの間に四回、「大蒙古国皇帝」の名でまともに国書を提出し、国家レベルでの友好交流を求めたのである。

 「いにしえより小国の君、講信修睦こうしんしゅうぼくとうとび務む(仲良くしてきた)。~聖人(じぶん)は四海をもって家となす。相通行せざるは、あに一家のことわりならんや。もって兵を用うるに至るは、それたれか好むところぞや」。

 冒頭から小国呼ばわりだが、四海一家の道理を盾に、善隣外交を呼びかけている。

案の定、いずれも漠然とした内容だったため、鎌倉幕府の執権北条時宗から無視され、返書は受取れなかった。

 一方、フビライにしてみれば、十年近くも辛抱して、じゅうぶん説得したつもりでいる。無回答を消極的抵抗とみたフビライは、満を持して海人狩りの実力行使に出た。

 一二七四年十月、「文永の役」を発動したのである。七年後の「弘安の役」ともども両度の日本遠征は、台風の襲来で水泡に帰した。それでも人狩りをあきらめきれず、再三再四、遠征を計画したが、そのつど国内外で事故や叛乱があり、結局、中止せざるを得なかった。ことほどさように、フビライは海事の即戦力を切望していた。

 

 南宋が繁栄した要素は、肥沃な江南農業の発達によるところも大きいが、南海貿易による利潤も大きい。宋代に発展した造船技術や羅針盤を駆使する航海法で、ジャワ・スマトラ・セイロンを経てペルシャ湾にいたる海上の道を、フビライが有効活用しない手はない。なによりペルシャ湾に入りイル・ハーン国につなげば、陸上とあわせ海上をもふくめた広大なユーラシア交易圏を大モンゴル帝国で、独占的に運用することができる。

 この時代、国際的にはアラビア(大食タージー)人が遠洋航海の第一人者だったが、南宋人も負けてはいない。南宋の遠洋航海技法は、けっしてかれらに引けを取らなかった。貿易港としては、広州がもっとも盛んで、大食商人蒲寿庚ほじゅこうがとり仕切る泉州がこれに次いだ。

 ――船・人・港、すべてを破壊してはならない。無傷で南宋の繁栄を引継ぐのだ。

 フビライは全軍に、「敬天愛民戒殺」の遵守を指示している。


 尼寺妙浄庵に入った胡妃は只管打坐しかんたざ、念仏三昧に明け暮れていた。

いやも応もない環境の激変である。度宗に挨拶するいとまも与えられず、父の死にも立ち会えなかった。胡妃はあらがわず、運命にしたがい、ただ黙っておのが意思を封じこめていた。

 春から冬へと季節が静かに移ろいだ。胡妃の身に動きが生じた。

 胡妃の侍女香苗かなえが賈似道直々に、とある一報をもたらした。香苗は賈似道が胡妃につけた探子たんし―間諜である。警備の浅い尼寺での護衛をかねている。

「で、いかがした。お生まれになったは公子か、はたまた公主か」

 半閑亭で賈似道は書画の目利きの手を休めず、香苗にたいしている。

「公子にございます。それは凛々しいお顔立ちで」

 香苗の表情がやわらいだ。賈似道の頬からも笑みがこぼれた。

「公子とあれば、かけがえのないお血筋である。ただし、ときがときだけに皇上うえさまにも秘匿せよ。ご出生のこと、外に洩れぬよう、かまえてこころいたせ」

 手にした掛軸から目を離し、窓越しに西湖の対岸をはるかに見やり、賈似道は黙考した。


 南宋の咸淳九年(一二七三年)は元の至元十年、国号を大元とさだめた翌々年にあたる。この年は宋元双方ともに忙しい。

 一月、元軍が回回砲ホィホィほうを投入、本格的に攻勢をかけてきた。回回砲は、火薬の爆発力を利用して大石をより遠方へ放り投げる新式投石機である。フビライの勅命を受けた降将劉整がウリャンハタイの子、モンゴル軍主将アジュと協同で襄樊両城を囲み、ここぞとばかりに大石を降らせ攻めたて、樊城を破った。二月、樊城に続き孤立無援の襄陽がついに陥落した。両城はあしかけ六年持ち堪えた。酷ないいかただが、じゅうぶん役目は果たしている。

 籠城していた兵士、市民ともども呂文煥は、涙を飲んで元に投降した。降伏を受け入れたフビライは、だれひとり罰せず、かえって不屈の勇気を称え、厚遇した。呂文煥を襄漢大都督とし、降伏した部隊ごと、漢水守護の任務を託したのである。見殺しにした南宋とくらべ、なんというありがたい待遇か。降軍の将兵は、全員うちそろって感涙にむせんだ。

 翌日からかれらは、勇猛果敢な元軍の尖兵となって、南宋討伐に当たることになる。


 襄陽陥落のあと、賈似道は股肱の臣である水師の夏貴と女婿の范文虎を葛嶺の自邸によんだ。襄陽の救援を託したが、両者とも敗退したことはすでに述べた。

「もうすまでもないが元軍の南下は必至だ。遠からず長江は制圧され、元の水陸両軍が臨安に押し寄せる。元が総攻撃をかけたとしよう。おぬしらどうでる。戦うか、投降するか」

「答えるまでもございません。微臣とはいえ、わしらも宋の朝臣。いつなりと皇帝陛下の御為に、戦って死ぬる覚悟はありもうす」

「これは尋ねたわしが悪かった。型どおりの答えしか、いいようはあるまい」

 興ざめた様子で、賈似道は苦笑した。

「十四年まえ、あのおりの戦で蒙古の憲宗が亡くなっておらねば、この宋朝はとうに滅んでおる。それ以後も蒙古の兵力は増えこそすれ、衰えてはおらぬゆえ、わが宋朝を潰そうと思えばいつでも潰せた。それがこんにちまで生き延びてこれたは、フビライが攻撃の時機を計っていただけにすぎぬ。われらに選ぶ道はない。そんな状況下、この漢土と漢人の行く末に思いをいたせば、いかに対処するのが後世のためになるのか、と問うておる」

「元朝に投降し、蒙古の世で生きながらえよといわれるか」

「人の数では漢人が圧倒的に多い。元朝にあっても漢人のために生き残るものがあっても許されよう。ましてや漢人の文化は傑出しており、これを継続維持し後世に引き継ぐことは、なにを措いても優先すべき仕事ではないか。けっして絶やしてはならぬと知れ」

 ふたりはようやく賈似道の考えに思いがいたった。伊達や酔狂で、書画の蒐集に興じていたわけではないらしい。

「われらにいかがせよとおおせでありましょうか」

「ふむ、そうよなあ―」

 賈似道は眼をそらし、天井の一角をにらんだ。鄂州本営の天井裏から一真があらわれてから、十四年たっている。フビライに、そのときの貸しがまだ残っている。

 賈似道はフビライ・ハーンへの提言に、ふたりを遣わそうと考えている。一真に仲介を頼むことになる。かつてフビライに貸した付けが、これで返れば上々と思わねばならない。決意を固めた賈似道は一真をよんで奇策を求めたが、あたりまえの返事しか返ってこなかった。

「奇策はない。信頼の厚いものを通じて、フビライ・ハーンに進言してもらうことだ」

「では、たれぞはなしあえる御仁に心当たりはないか。フビライ・ハーンに直接進言できるお立場の方といえば、どなたであろう」

「さすがのおぬしも蒙古は怖いか」

「怖い。ことに臨安のみやこが攻められて、無辜の民がみな殺しに遭うことなど、考えただけで怖気おぞけ立つ。たとえ全面降伏してでも、みな殺しだけは避けたい」

「おぬしの本心に相違ないな」

 一真が賈似道の顔をのぞきこんだ。

「ならば、劉秉忠りゅうへいちゅうがよかろう。フビライに進言できる、数少ない長老のひとりだ」

 世祖フビライに、「千軍万馬にあたるべし(匹敵する)」といわせた元朝開国の丞相である。邢州けいしゅう(河北邢台、邯鄲の北約50キロ)の人、五代いらいの名門望族、遼・金両朝で地方官をつとめた。父は録事(書記)として蒙古に仕えている。

「かれはかつて一万余の民戸で潤っていた郷里の邢州が、蒙古の支配下十五年たらずで数百戸にまで減少してしまった惨状を示し、フビライに対策を説いた。そして農民が逃散して荒地と化した農地を復旧し、人を呼び返したのだ。邢州はもともと交通の要衝だったから、人さえ戻れば回復は早い。数年のうちに租税収入をもたらすまでに発展した」

 これがフビライの漢地にたいする眼を開かせる契機となった。

「劉秉忠は、わしとは全真教の同門じゃ。もっともわしなど足元にもおよばぬ博学多識で、儒仏道から天文・数学・地理、はては財政・冶金・農事にいたるまで世事万般に通暁しておる。ことに語学の才能は群を抜いておったから、大理などフビライのゆくところならどこへでも扈従しておった。いまは大都で元朝の土台となる組織づくりに大童おおわらわのはずじゃ」

 賈似道は一真に深々と頭を下げた。

「まずさきに、わしの意志を劉秉忠どのに伝えてはくれぬか。なんとしても貴殿に周旋を頼みたい。いずれ時期が来たら、わしの名代としてこの両名を人質に遣わす」

 アッと声にならぬうめきを発して、名指された夏貴と范文虎が賈似道を睨みつけた。

「なにゆえの人質か、目的をお聞かせくだされ。でなければ、お役目は果たせませぬ」

「わしの意志のあかしとして、いずれ元軍に投降し、訴えてもらう。臨安は無条件降伏する。無用の殺戮はやめていただかなければならぬ。頼みの綱は劉秉忠どのだ」

「戦わずして投降とは、あまりなお役目――」

 ふたりはその場に突っ立ち、眼を剥いて歯噛みした。


「胡妃さまの出立は、いかがとりはからいましょう」

 香苗がひっしの面持ちで、賈似道に問いかけている。

「元との戦が逼迫しておる。もはや猶予はかなうまい」

「では、いつころがよろしゅうございますか」

「一年過ぎて髪ものびた。そろそろ還俗していただく。お子を伴うてのつらい旅になるが、いたしかたない。南遷の手はずは、このものにもうしつけてある。南雄なんゆう州保昌県牛田坊珠璣しゅきこう黄貯萬こうちょまん、見知りおくがよい」

 香苗のうしろで辞儀をかえした男がいる。恰幅のいい初老の男である。

「黄貯萬にございます。わたくしがお伴させていただきます。珠璣巷へは船と車を交互に乗り継ぎ、徒歩かちで大庾嶺を越えてまいります。珠璣巷よりさらに南へのお導きは、羅貴らきともうす里長が差配いたします」

 ちなみに坊は街区のことで、巷は街通りを意味する。黄貯萬はこの珠璣巷を本拠に、糧食の南北交易で財をなした回漕業者である。悪びれる風もなく悠然と室の片隅に控えている。同じ室内に一真と張鎮孫の姿はあるが、羅貴はいない。すでに珠璣巷へ戻っている。

「役者がそろった。胡妃さまに花道を踏んでもらわねばならぬ」

 賈似道が神妙な面持ちで、胡妃南遷の実行を告げた。一真と張鎮孫は先行して南下する。

 張鎮孫は文部官たる秘書省の微官・校書郎を拝命しているが、モンゴルの侵攻をまえに浮き足だっている朝廷の現状では、名のみの職でしかない。裏で賈似道の内命を受け、南海知県をつとめた経験を生かし、広州周辺で南遷者の受け皿づくりを手がけている。むろん、このたびの南下も内密の出張である。なにせ交戦相手が首都を攻略しようかという時期に不在となる。敵前逃亡と疑われても弁明はきかない。それこそ逃げるようにひっそりと、張鎮孫は出立した。そのあとを、見え隠れに一真が追った。

 この時期、襄陽が陥落し、守将呂文煥が元に投降したという噂が、都中で流れている。元軍の侵攻は必至である。みな殺しの連想に怯え、江南の人々は家をたたみはじめた。

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