第5話 トイレの個室にて 5

現在 藤城公園


入ったトイレの便座に腰掛けながら、本当に上手くいくのかと、おりつは自問していた。

あれから二人がしたことと言えば、数日の張り込みと、今おりつが籠っているトイレのちょっとした細工だけだ。

人一人捕まえるのに、本当にこれだけで大丈夫なのかと寧々に聞いても、大丈夫です。おりつさんなら心配ありません、そう答えるだけで、どうにもしっくりこない。

おりつとしては、仕掛けを作ったり、武器を用意したり、もっとそういう物々しい事を想像していたのだが。

ただ、一つだけ注意して欲しい事があります。寧々は前置きをすると、絶対に全ての釘を使わせないようにして下さい。という妙な注文を出した。

その人物が持っている釘は全部で五本、つまり五本全てを打ち付ける前に、藪から飛び出し、トイレへと誘導するという事になる。

寧々は余裕をもって、二本目、三本目あたりでどうでしょうとも言っていたが、結局おりつが飛び出したのは四本目の釘を打ち終えた所でだった。

それでも今のところ予定通りに男はおりつを追い、おりつは予定通りに便座に座っている。

そもそも、バイトとは程遠いであろう寧々が、よりによってこんなバイトを知っているのだろう。

その内容までは百歩譲ったとしても、なんで釘の数まで把握してるのだろうか。

とりとめもなく考えを巡らし、妙に得意げでいる寧々の顔を思い浮かべた時だった。


キィ・・・。


扉の開く音がした。

おりつの瞳は最大に丸くなり、耳は音のした方向へ自然に向けられる。

全く気が付かなかったが、いつの間にかあの男がやってきたようだ。

音の位置からして男が開いたのは入口に近い個室だろう。


キィ・・・。


暫く時間を置き、隣の個室のドアが開かれた。

おりつは男の動きを探ろうと全身を集中させたが、分かったのは当たり前だが隣の扉が閉まったという事だけだった。

個室の中に入ったのか、目の前の扉の前に立っているのか、それすらも分からない。

すぐ近くにいるはずなのに、足音はおろか、息遣いすらも聞こえず、耳に入ってくるのは蛍光管が発する振動音のみだ。

思ってもみなかった静寂がおりつを包み込む。

もしかすると、散歩でもしていた誰かが、急に催してトイレに駆け込んだだけだったのかもしれない。

しかし、まさかこんな夜中に、こんな場所まで散歩をしに来る物好きがいるわけはない。

あたしを除いてはな。と、おりつが顔を上げた時だった。

目と目があった。

トイレの仕切りと天井の隙間、そこから顔を出している男と。

音を立てずにどうやってと不思議に思ったが、そんなことよりもおりつは愉快でたまらなかった。

まさに寧々の言うとおりになっているからだ。

男は隣の個室から覗くわけでもなく、扉を無理やり開こうともしなかった。

間違いなく扉の上から顔を出します。それが分かっているのですから、私達はちょっぴり力を加えればいいだけです。

得意げに説明する寧々の顔が頭をよぎり、おりつの顔には微かに笑みが浮かぶ。


「この後、どうなるか知ってるか?」


男は思わず自分の耳を疑った。

この後、どうなるか知ってるか?確かにそう聞えた。この場所、このトイレで他に声を出す者がいるだろうか?

随分無理な体勢ではあるが、顔だけを動かし周囲を伺ってみても他に誰もいない。いるはずがないのだ。

相変わらず、眼下の少女は目を逸らすことなく男の顔を見つめている。

この後どうなるか?そんな事決まっている。

深夜、逃げ惑う少女は決まって公衆トイレに逃げ込み、一番奥に隠れ、追う者は決まって一番手前から開けていく。

もし少女が1番手前に隠れていた場合、奥から開けていたら、その隙を突かれ逃げられてしまうかもしれない。

だから男は一番手前から開けたのだ。おそらく他の者も。

そもそも、なぜトイレに逃げ込むのか。

追っている者の目にも留まりやすい上に、なによりも一回入ってしまえば逃げ場がない。

その辺にある茂みにでも隠れたほうがよっぽど見つかりにくいはずなのに。

もしかすると、逃げる者に何か意図があってトイレを選んでいるのだろうか。

その意図と少女が浮かべた笑み。

そして、男は気が付いてしまった。男を見つめる黄金色の少女の目。

それは怯える者の目ではなく、自分の勝利を確信し、自信に満ち溢れている者の目だという事に。

追い詰められていたのは少女ではなく、自分自身だという事に。

男が持っていた根拠のない自信は、風に吹かれた燃えカスのように脆くも崩れ去った。



おりつは見逃さなかった。男の表情が変わった瞬間を。

このまま留まるのか、尻尾をまいて逃げるのか、男の葛藤が始まるのをおりつは待っていたのだ。

どちらかに心が決まってしまえば、自ずと体はその方向へと準備を始めてしまう。

その準備が始まる前に、男の虚を突けるうちに、おりつは迷わず飛んだ。

踏み台にされた便器のフタからは、不満に満ちた鈍い音が上がり、扉からは決して歓迎はしない、という抵抗の表れがおりつの肩に走る。

だが、蝶番を緩められていた扉に、全力で踏み切ったおりつを受け止める力があるはずもなく、無理な体勢をとっていた男にもまたその力はなかった。

男、扉、おりつというおかしなサンドウィッチは、そこそこの勢いで、床に向かって倒れこんでいった。

次の瞬間、おりつの耳に届いたのは重く鈍いズンッという音と、ぐぅっという男の短いうめき声だけだった。

もっとけたたましい音がするかと思っていたが、起き上がったおりつが扉を持ち上げて見ると、それもそのはずで男は見事に扉のクッションとなっていた。

そのおかげか扉には傷一つ付いておらず、元の場所に戻しておきさえすれば、誰にも何も言われる事はないだろう。

扉を持ち上げ、そっと立てかけていると、上手くいきましたねと寧々が姿を表した。

しかし、その表情はどこか険しい。


「おりつさん、何本目の時に飛び出したのです?」


倒れている男に目もくれず、寧々はおりつに詰め寄った。


「は?四本目だけど?五本目は打ってないはずだぜ?」


「そう・・・ですよね。私も近くの茂みで見ていましたが、おりつさんが飛び出したのはたしかに四本目の後でした。ですが、暫くしてから私があそこへ戻ったとき、藁人形には五本目の釘が打ち込まれていたんです。」


寧々の手には、写真が貼られた気味の悪い藁人形、そして、男が呪詛とともに打ち込んだであろう、鈍く光る5本の釘が握られていた。



どこからかやってきた警察に、ロープで縛り上げた男の引き渡しが終わった頃には、辺りは薄っすらとではあるが明るくなり始めていた。

さすがに緊張はしていたようで、ここにきてどっと疲れがでたようにおりつは感じていた。

それにしても、とおりつは思う。

前もって連絡したという寧々の手際の良さもさることながら、まさか警察が出てこようとは。

その上、特に不審な顔もせず、当たり前のように二人から話を聞き、未だ気を失ったままの男を車に押し込むと、何事もなかったかのように、さっさと行ってしまったのだ。


「一体このバイトってさ、なんなんだ?」


おりつは素直に疑問を口にする。


「なかなか一言では難しいですが、警察の手の届かない所を・・・要は警察のお手伝いみたいなものですね。昔で言う、岡っ引きみたいなものでしょうか」


自分の例えが可笑しかったのか、寧々はクスッと笑う。


「岡っ引きねぇ」


分かったような分からないような釈然としない気持ちではあったが、これで幾らか貰えるのであれば、なかなか割りのいいバイトではないだろうかと、おりつは思い始めていた。それにしょうもない万引きを捕まえるよりも、ずっとスリルもある。


「それでは手続きがあるので私は行きますが、おりつさんはどうします?」

「森林浴する趣味もないし、あたしは家に帰って布団に倒れ込むよ。まぁ三時間もすれば弟たちの騒ぎで起こされるんだろうけど」


こんな場所は早く立ち去るに越したことはないし、この所張り込み続きだったため、おりつは非常に布団が恋しかったのだ。


「それで・・・今回のコレで、どのくらい貰えるんだ?」


ちょっと下卑てはいるが、それを聞かないことには、今後の予定の立てようがないのだから仕方がない。


「そうですね。特に経費もかかっていませんし、恐らくこの位は・・・」


寧々はそう言うと指を五本とも立ててみせる。


「わお」


どうやら暫くは、お昼のメニューに悩む必要はなさそうだ。

寧々は嬉々としているおりつを尻目に、次第に明るくなっている空を見上げた。

その顔には、僅かではあるが嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

今や闇は影すら見当たらず、朝の訪れを告げる鳥たちの囀りで森は満たされていた。

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猫は、好奇心では死なない @omasa

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